小さな勇気と優しさのルーツ

 ログの家は布や装飾品を扱う店を開いており、町の中でも真ん中か上位に食い込む程度の売り上げを誇っている。

 貧富の格差が激しいアリアーデの町ではかなり裕福な方で、ログの実家でもあるその店の建物はかなり大きい。

 カルメは圧倒されていた。

 相変わらずログにお姫様抱っこをされていたが、その顔は青ざめ、心臓がバクバクと鳴りやまない。

『食べたものを吐きそうだ。挨拶と一緒に吐いたらどうしよう』

 あまりの緊張で胃の中のものがせり上がってくるような感覚がする。

 ドコドコとやかましい心臓とは反対に脳は活発に動いて、グルグルと眩暈がするようだ。

 それでも、カルメは勇気を振り絞ってログの胸に手を当てた。

「ログ、下ろして。自分で歩く」

 メリッサの前だが、切羽詰まって敬語が取れてしまう。

 ログは心配そうにカルメの顔を覗き込んだ。

「でも、ちゃんと立てますか? 顔色がすごく悪いですよ」

「吐きそう。でも、ちゃんとしないと。こんなお嫁さんいらないって言われちゃう」

 もしも、を想像してカルメは涙目になった。

『やっぱり怖い。本当はここで震えていたいけれど、それじゃ駄目なんだ。立ち向かうって決めただろ!』

 心の中で自分を叱咤して、カルメは震える手でポンポンとログの腕を叩いた。

 仕方なく、ログはカルメを地面に下ろす。

 カルメはふらつきながらも立ち上がると、ギュウッ目を瞑った。

 ポケットの中に入った、ログの魔法陣入りの包帯を握り、空いている方の手で自分の髪と同じ色の髪飾りに触れた。

 この髪飾りは、以前にログにもらった紫の果実のような花を冷却して作った髪飾りだ。

 触るとひんやりと冷たいのだが、今のカルメの手はその髪飾りよりも冷たい。

「ねえ、ログ。今お嫁さんって言った?」

 カルメに気遣って、メリッサはログに耳打ちした。

 薄緑の瞳は期待に輝いている。

「そうだよ。俺はカルメさんと結婚するんだ。反対したら燃やすから」

「その物騒さはいったん隣に置いてくれないかしら。大体、あんな可愛い子との結婚を反対するわけないでしょ」

 二人でコソコソと話している内にカルメは覚悟を決めたらしく、パンッと両頬を軽く叩いた。

 涙目でログの方をキッと睨む。

「準備できた! 待たせてごめん、なさい」

 睨んだまま謝ると、カルメはカラン、カランと鈴の音を立てて店のドアを開けた。

 その後にログとメリッサが続く。

 店の中は薄暗く、様々な布やアクセサリーが並んでいる。

 カルメよりも背の高いそれらはまるで彼女を見下しせせら笑うようで、カルメは無意識に両手を握った。

 店のカウンターには、金色の目に青い髪の優しそうな男性が座って書類を眺めている。

「俺の兄さんですよ。ジャックといいます」

 ログがこっそりと耳打ちをした。

 カルメは緊張で青ざめながら、カチコチとジャックの元へと向かう。

 じっとりと、背中に汗を掻く。

 手足が冷たい。

「あれ? お客さんですか?」

 ログよりも少し低くて硬い声で、ジャックはそう問いかけた。

 カルメはビクッとして背筋を伸ばした。

「あ、あの。違います。わ、私は、カルメ、です……その、ログ! ログ……さんのお嫁さんです!!」

 お嫁さんです! のところだけ力を込めて言ってしまった。

 カルメはザァッと青ざめる。

「あ、ちが、あれ? ごめん、なさい。お嫁さんになる、なりたい、あれ?」

 カルメはますます混乱して、涙が出てきた。

 いつもよりもずっと高い声に、まとまらない言葉。

『まるでサニーみたいだ』

 心の中の妙に冷静な自分が、カルメを俯瞰する。

 現在、話しをしている自分と心の中の自分が繋がらない。

 全くの別人のようだ。

『泣くなよ。そんなに大変なことじゃないだろ』

 語りかけても震えが止まらない。

 心の一部の冷静さは、自分を冷淡に馬鹿にするだけで助けてはくれない。

 ジャックの困ったような、不審な視線が痛い。

 視界が滲んで、ぼやけていく。

「カルメさん」

 ログが優しく声をかけると、カルメを後ろから抱き締めた。

「大丈夫ですから、深呼吸をしてください」

 背中が温かい。

 カルメは思いっきり息を吸い込むと、フーッと吐き出した。

 そして涙を拭い、キリッと前を睨む。

「驚かせてしまってごめんなさい。私はカルメです。ログさんとお付き合いをさせていただいています。今日は結婚のご挨拶に伺いました」

 言いたかった言葉がスラスラと出て妙に脱力した気分になったが、カルメは足を踏ん張って転びそうになるのを堪えた。

 カルメが挨拶を終えると、ログがそっと頭を撫でた。

「かっこよかったですよ。お疲れ様」

 ログは労わるように声をかけると、ジャックの方を向いた。

「兄さん。彼女が旅の果てに見つけた、俺の宝物だよ」

 うっとりと微笑み、甘い声で言った。

 ジャックは苦笑いを浮かべると、

「あー、そうだろうね。ログの顔を見ればわかるよ。えっと、結婚の挨拶に来たんだよね? 今、母さんたち上にいるから、いったん店は閉めて皆で上に行こうか」

 と言った。

 どうにも、突然の珍客を扱いかねているらしい。

 今までにない顔でデレデレとして恋人に構うログと、何があったのかと問いたくなるほどに自分に怯えるカルメ、カルメに手を伸ばしてログに叩き落とされているメリッサを、困惑の表情で眺めた。

「じゃあ、先に行って話を通しておくから、皆、後からおいで」

 そう言い残して、ジャックは二階へ上がった。

「ログ! さん! お姫様抱っこはもういいから! 階段危ない! です」

「危なくないですよ。さあ、行きましょう」

 一階から聞こえてくる、弟の甘い声に苦笑いを浮かべながら。


 一度盛大に失敗したからだろうか、あるいは隣に座るログが優しく手を握ってくれているからだろうか。

 カルメは、今度は失敗せずに挨拶をすることができた。

 先程よりは顔に生気も戻っている。

 ログの母親、サラはふくよかな顔を綻ばせてカルメを歓迎した。

 ログは母親に似ているようで、ログと同じ美しい流水のような青い髪と若葉のような薄緑の瞳をしている。

 穏やかに微笑む姿からはログが連想された。

『この人、雰囲気がログと似ている』

 そう思うと、カルメは少し落ち着くことができた。

 また、ログの父親、カールは無口な人のようだが、それでも一言、

「歓迎する」

 とだけ言ってくれた。

 カルメは初めそんなカールの態度に怯えたが、

「父さんはいつもこうなんです。怒っているわけじゃありませんよ」

 とログが耳打ちしたので、落ち着くことができた。

『よかった、嫌われてないみたいだ』

 やっと挨拶が済んでひと段落すると、カルメは力が抜けたようになった。

「しかし、ログがこんなに可愛い子を連れてくるなんてねえ。お母さん、ログは一生お家に帰ってこないと思っていたのに」

 のんびりとサラが言った。

「え? どういうつもりだよ、母さん」

「だって、ログが好きな人を見つけるなんて、想像できなかったんだもの。このままフラフラと旅を続けるんだと思ったわ」

 少し憤るログに、サラは平然と答えた。

 その隣でジャックやカールも頷いている。

「母さんたちの中で、俺はどうなっているんだ。俺だって、どうしても大切なものが見つからなかったら家に戻って来る気はあったよ」

 実際、ログはカルメと出会わなければ一度、家に帰るつもりだった。

 そこまで薄情ではないぞ、と不満げに顔をしかめるログの態度が新鮮で、カルメはこっそりと笑っていた。

「そうなの? まあ、いいじゃない。実際はこんなに可愛い子をお嫁さんにするんだから。それよりも、二人はどこで出会ったの?」

「あ! それ私も気になる!」

 お盆にお茶を乗せて運んで来ていたメリッサが、声を弾ませて台所の奥から現れた。

 カルメが何と説明しようかと焦っていると、代わりにログが説明してくれた。

「旅している途中に森で出会ったんだよ。魔物に襲われている俺を助けてくれたんだ。カルメさんは可愛い人だけれど、本当は強くて魔法を上手に使うんだ。カルメさん、村ではすごく頼りにされて大切にされてて、本当に凄い人なんだよ」

 ログは唯一の宝を誇らしげに自慢した。

 メリッサとサラはフムフム、と頷きながら話を聞いている。

 その様子を見て、カルメはあからさまに安堵のため息を吐いた。

 もしもカルメとログの恋の話を詳細にしようとすれば、自ずとやさぐれていた自分の話をしなければならない。

 どう言えば過去の自分を隠すことができるのか、その点を意識しすぎたせいで、カルメは上手く話をすることができる気がしなかったのだ。

「どんな魔法を使うの?」

「え?」

 安心するあまりに気が抜けていたカルメを、突然の質問が襲う。

 顔を上げればメリッサがワクワクとこちらを見ていた。

「カルメちゃんの魔法を見てみたいなって」

 無邪気に笑っている。

「えっと……」

 カルメが使えるのは、己の身体能力を上昇させる身体強化の魔法と、水を完全に自分の支配下におく水の魔法、そして、水の魔法から派生して使えるようになった氷の魔法だ。

 加えて、炎を出現させる火の魔法や、効果は非常に弱いが治療の魔法も使える。

 どの魔法を使えばよいのかわからず、カルメは逡巡の後にチラリとログを見た。

 すると、ログはそっとカルメの髪に触れ、優しくその耳の上を彩る花を引き抜いた。

 それは、カルメがログからもらった花を凍らせて作った、即席のアクセサリーだった。

「これを見てみなよ、姉さん。これは俺がカルメさんにあげた花なんだけれどさ、カルメさんはこんな風に花を凍らせて、アクセサリーみたいにすることができるんだ。その他にも、氷で箱をつくったり、船をつくったりできるんだよ。水を扱うのだってすごく上手いんだ」

 ログが誇らしげにアクセサリーを見せると、メリッサが興味深げにそれを覗き込んだ。

「髪に同化してしまって気づかれないと思っていたけれど、ログは気が付いていたんだ、ですね」

 思わず普段通りに話をしそうになって、カルメは慌てて敬語に切り替えた。

 頬はほんのりと赤い。

「当たり前ですよ。これをあげたその日から、毎日身に着けていてくれたでしょう。でも。そんなに喜んでくれるのなら、もっと早くに言えばよかったですね」

 そう笑いながら、再びカルメの髪にアクセサリーを返した。

「へえ、その花、ログがあげたんだ。ロマンチックなことするね~。なんて花?」

「カルメ、だよ」

「カルメ?」

 メリッサが首を傾げると同時に、カルメも不思議そうに首を傾げた。

『そんな名前の花、あったっけ?』

 そもそも、ログがくれたその花自体がカルメにとって初めて見る存在だった。

 カルメは花が好きだが、だからと言ってこの世の全ての花を知っているわけではない。

 正式な名前が分からず、オリジナルの名前を付けている花も多い。

 そうであるから、ログがくれた花について多少の疑問はあったが特に気にすることもなかった。

 ログは、カルメの髪に再度手を伸ばした。

「俺、カルメさんにあげる花は自分で育ててるんだ。この花はそんな風に育ててきた花の中で、ある日突然に、ポコンと咲いてくれた花なんだよ。花屋さんに聞いてもこんな花は見たことがないって言うからさ、俺が新種の花として名前を付けたんだ」

 アクセサリーを愛おしげに撫でて、微笑んだ。

「この花の色彩がカルメさんの瞳と髪の色に似ていたから。小ぶりで俯いて、優しく揺れているのがカルメさんみたいだと思ったから」

 ログの瞳が真直ぐカルメを捉えて、カルメは真っ赤になって俯いた。

 視界の端に映る、にやけるサラとメリッサ。

 困ったような複雑な表情のジャックと、二人から視線を逸らすカール。

 場面が場面だけに余計に恥ずかしくて、カルメは唇をかんだ。

『こんな時まで触れてくるなよ』

 いつ何時でも隙を見せれば愛を語るログに、そっと恨みを込めた。

「ログ、本当に変わったな」

 ポツリとジャックが言った。

 その表情は目の前でいちゃつかれて少し複雑そうではあるものの、弟の変化を喜ぶ優しいものだった。

「そうかな、俺はそんなに変わってないと思うけれど」

 ジャックの方を振り返ったログがそう言って笑った。

「いや、変わったよ。カルメさんおかげなんだろうな。目つきとか雰囲気が変わった。瞳の奥に、きちんと感情の色が宿っているのが、見えるんだ」

「そう、かな?」

 カルメが恋愛によって自分自身を大きく変化させたように、ログもまた自分自身を大きく変化させていた。

 例えばそれはいつも空いていた心の穴が満たされたような感覚であったり、日々の充実感を手に入れる、と言った事なのだが、そうした内面の変化に呼応するように表面的にも変化が起こっていた。

 それは、カルメへ見せる素直な愛情表現や情熱、大切なものを守るための少々物騒な発想であったりもするのだが、それ以外でも、目つきや雰囲気など、本人ですら気が付かないような些細な部分が変化していた。

 しかし、ログの変化の大部分は、カルメが直接関わらなければわかりにくい。

 ログはカルメ以上に、自分自身への変化に鈍感だった。

「本当に変わったと思うわよ。ログは」

 相も変わらず首を傾げるログを少し笑って、メリッサがポンと手を打った。

「そうだ、カルメちゃん! 昔のログを見てみたくない?」

「昔のログ、ですか?」

 ログと同じように、不思議そうに首を傾げた。

 仲睦まじい恋人たちの同じような格好が可愛らしくて、おかしくて、メリッサは吹き出しながら答えた。

「ふふっ、そうよ。ログの昔の姿。子供の時とか、ちょっと前のログとか、写真に残っているのよ」

「子供の頃のログ……」

 呟いて、未だに手を繋いだままの恋人を見た。

『カッコいいログ。小さい頃はどうだったんだ? 可愛いのか?』

 ログの小さな頃に興味が湧いて仕方がない。

「見たいです」

 この一言を言うのにも勇気が必要で、カルメはギュッと両手を握って答えた。

「いいわよ、決まりね! アルバムならログの部屋にあるから、一緒に行きましょう」

 そう言うと、メリッサはカルメの腕をとって引っ張った。

「あ、じゃあ俺もいくよ」

 そう言って立ち上がったログを、ジャックが制した。

「ログは少し俺と話そうよ。旅の話とか聞きたい。いいだろ、ログに旅を勧めてやったのは俺なんだから」

 そう言われると断りにくく、ログは苦笑いを浮かべながら頷いた。

「……分かった。カルメさん、兄さんと話が終わったらそっちに行きますから」

「うん。分かっりました。また後で」

 油断すればいつも通りに話をしてしまいそうになるのを抑えて、カルメは敬語を使った。

 そんなカルメを微笑ましく、そして寂しげに眺めて、ログはカルメを見送った。

 カルメとメリッサはログの部屋へ行き、ログとジャックは引き続きリビングで談話することとなった。


 メリッサに連れられて入ったログの部屋はよく言えば清潔でシンプル、悪く言えば殺風景だった。

 観葉植物や机、本やベッドにクローゼットくらいしか家具がない、診療所のログの部屋の方が豊かだと思えるほどに。

『この部屋も向こうの部屋も、物の量はそんなに変わらない。それなのに、どうしてここは、こんなに寂しい感じがするんだろう』

 まるで、寂寥が染みついてしまっているみたいだ。

「殺風景でしょ」

 メリッサの言葉に、大した意味合いは含まれていない。

 けれどカルメは心を見透かされた気がして、ドキリと心臓を鳴らした。

 ゆっくりと頷く。

「二人は、結婚したらどこに住む、とかって決まっているの?」

「えっと、私の家に住む予定、です」

 診療所は、明らかに二人で住むのには適さない。

 村人たちに改めて家を造ってもらう、ということも可能ではあるが、無駄に家を増やすくらいならカルメの家に住むので事足りるのだからそれでいいだろう、ということになっていた。

「あら、そうなのね。ふふ、やっぱりあの子は帰ってこないのか」

「すみません」

 暗に「お前がウチの弟を盗ったんだ」と言われた気がして、カルメは頭を下げた。

 その姿を見て、メリッサは慌てて両手を右往左往させる。

「待って、待って! 別に怒ってないのよ。むしろ予想通りだなって思っただけなの」

 カルメにとってログの家族は温かく、絵本に出てくるような理想の家族に見えた。

 その家族から離れたがることなどあるのだろうか、とカルメは首を傾げた。

「そうなんですか?」

 不思議そうな顔をするカルメにメリッサは一つ頷くと、少し寂しそうな表情を浮かべた。

「ええ。ログは、家を出たがっていたから」

 メリッサの言葉に、カルメは既視感を覚えた。

『そう言えば、前にそんなことを言っていたな』

 カルメが自分語りをした日、ログも少しだけカルメに弱みを見せてくれた。

 あの日、ログは、かつての自分には虚無が溢れていたのだと言っていた。

 そして、その虚無を消し去ってくれたのは、他ならぬカルメ自身なのだと語っていた。

「私はね、家が、家族が好き。アクセサリーを作ったり、綺麗な布を見たりするのが好きなの。だから、今も家の仕事を手伝いながら、この家で暮らしているの。お年頃には好きな人もできて、恋人も作ったわ」

 過去を懐かしむその顔には幸福が満ちている。

「お姉さんは、結婚をしているんですか?」

「お義姉ちゃんでいいわよ。そう、私は結婚しているの。ジャック兄さんもそう。兄さんは経営に興味があって、小さなころから家を手伝っていた。お年頃には彼女ができて、やっぱり、結婚しているわ」

 そう言いながら、メリッサは古びた机の引き出しをゴソゴソと漁る。

 ほとんどの引き出しには何も入っていない。

 偶にペンが一、二本、転がっているだけだ。

 そのペンがカラコロと音を立てるのを聞くと、かえって寂しさが掻き立てられた。

「あの子はね、好きな事も、人も、何にもないみたいだった。大体のことはソツなくこなしたわ。頭も要領もよかった。人に好かれる性格で、あの子の周りには笑顔が溢れていた。でも、何も好きじゃないんだなって言うのが、傍目から見ていて分かった。嫌いなわけでもないみたいだった。興味なく日々を消費する。あれを、なんていうのかしらね」

「虚無」

 ポツリ、口をついて言葉が出た。

「そうね、虚無なのかもしれない。何も嫌いじゃないけれど何も好きじゃない。そんなあの子を、両親は酷く心配したわ。貴方は何がしたいの? 何が好きなの? ことあるごとにそう尋ねたわ。きっとあの子の口から夢を語らせて、安心したかったのね。そして、ログはそれに気が付いていた」

 メリッサは一際大きい引き出しを開けた。

 中には表紙の分厚い本が入っていて、その大きさは引き出しに比べればさほどでない。

 しかし、引き出しの空いたスペースには何も入っていなかった。

「外面の良いあの子は、笑って答えたの。『家業の手伝いだよ』って。でも、家族は皆、ログが嘘をついているって事に気がついていたの」

 カルメの前に、古びた本を置く。

 よく見ると、本の表紙には『ログ』と書かれていた。

「あの子の嘘には気が付いていたけれど、でも、それを指摘してもしょうがないじゃない? 『じゃあ俺は何て言えばいいんだ。あんた等は俺がなんて言えば納得してくれるんだよ!』そんな風にログが感じるのは、目に見えて分かっていたから。私達も、あの子になんて言ってほしいのか見当がついていなかったのよ」

 メリッサは目を伏せた。

「家族なのに、あの子の心が分からなかった。皆、焦っていた」

 メリッサが本のページをめくる。

 そこには、古びた写真があった。

 ニコニコと微笑む幼いログが、両手をベタベタにしながら肉を頬張っている。

「かわいい」

 思わず言葉を溢した。

 カルメは写真に写るログ以上に、ニコニコと笑って幼いログを眺めている。

「ふふ、可愛いでしょう、これは、お誕生日の写真ね」

 ページをめくって、次に出てきたのは膝を抱えて大泣きしているログだ。

「かわいそう。でも、可愛いですね」

 そう言って、カルメは写真の中のログを撫でた。

「これはログが転んで怪我した時の写真ね。私も、ログほどじゃないけれど治療の魔法は使えるから、怪我を治してあげたのよ? それでも、いたい、いたいって泣いて大変だったわ。ほら、これ見て」

 メリッサは隣の写真を指差す。

 まだ目が赤いままで、それでも嬉しそうにアイスを頬張るログが映っている。

「結局、兄さんが買ってあげたアイスで機嫌を直したのよ。現金な奴ね」

 メリッサは写真の解説をしながら次々にページをめくっていく。

 どれも温かい写真で、エピソードはいつだって愛に溢れている。

 カルメは食い入るように写真を見て、熱心に解説を聞いた。

『ログを育てた人たちが、温かい人たちでよかった。ログが大切にされていて、よかった』

 聞きながら、そんなことを思った。

 そんなカルメをメリッサは微笑ましく眺めて、偶に頭を撫でた。

「あれ? ログが急に大きい?」

 独り言のように疑問をもらした。

 幼いログの写真が十二歳くらいの写真を最後に途切れ、次の写真では現在とそう変わらない年齢のログになっていた。

『でもこのログは、ログだけどちょっと違う』

 カルメが見たのは、どこか遠くを見るログだった。

 その表情はどこまでも穏やかで、カルメが好きでたまらないログと同じはずなのに、やはり違和感がある。

『そうか、目が違うんだ』

 ログの薄緑の瞳はどこまでも遠くを眺めている。

 どこまでも透明で、どこも見つめていない瞳。

 硝子なんてものではない。

 まるで、存在していないかのような透明な瞳だ。

『虚無の瞳。これがそうなのかもな』

 いつかのログの言葉を思い出した。

「……」

 カルメは無言で、写真に写るログの頬を撫でた。

 その表情は愛おしさというよりも痛ましさに満ちていて、ココにはいない過去のログを慰めるようだった。

 メリッサは、そんなカルメを穏やかに見守っている。

「これはね、ログが旅に出る前にこっそり私が撮った写真なの。十二、三歳くらいを境に、ログは写真を撮られることを酷く嫌がるようになったから。私たち家族は、あの子は二度と帰ってこないんだって思ってた。だから、最後に、って写真を撮ったのよ」

 ポン、とカルメの頭に手を置く。

 その仕草が、ログと重なった。

「きっとあの子が帰ってきたのは、カルメちゃん、あなたがいたからだわ。ログは帰ってくるつもりだったなんて言ってたけど、きっとここに来る途中で気を変えて、どこかに行ってしまっていたと思うもの」

 ふわりふわりと、優しく頭を撫でる。

『あたたかい』

 素直にそう思った。

「カルメちゃんのご両親は、どんな方なのかしらね」

 穏やかに言ったその言葉に、カルメはドキリと心臓を揺らした。

 見る見るうちに顔色が青ざめる。

「カルメちゃん?」

 心配そうにメリッサがカルメを覗き込むが、カルメは首を振った。

「大丈夫、です」

「そう……」

 メリッサはそれ以上カルメに話を聞かずに、カルメの頭を撫で続けた。

『優しいな。優しいログの家族は優しい人だ』

 ログがちょっぴり羨ましくて、自分にも優しくしてくれるメリッサが温かい。

『ログの家族は、嫌な感じがしない』

 ここに来る前、カルメには不安なことが二つあった。

 一つは、ログの家族にカルメが受け入れてもらえないことで、もう一つはログの家族をカルメ自身が受け入れられないことだった。

 もし優しくしてもらえても、ログの愛が怖くて拒絶した時のようにログの家族を拒否してしまったらどうしよう。

 そこに溢れている優しさが羨ましくて、妬ましくて、卑屈になってしまったらどうしよう。

 そんなことを考えては怯えた。

『この人たちが好きだ。温かくて、優しくて。でも、何よりもログのことを大切にしてくれるから、好きだ』

 結局、ログが好きだからログのことを大切にする彼らが好きなのだ。

 それに気が付くと、カルメは自分自身を少し嗤った。

『結局、私が大好きなのはログか』

 なんてことを思いながら。

 すると、頭を撫でていたメリッサの右手が、悪戯っぽくカルメの頬をつまんだ。

「こーら、なんて笑い方をするの」

 そう言って、ムニムニとカルメの頬をつまむ。

「お、お姉さん」

 優しい怒り方にカルメは狼狽えてしまう。

「カルメちゃんは可愛いんだから、そんな卑屈な笑い方しちゃ駄目よ」

 メリッサはふふふ、と悪戯っぽく笑ってスベスベなカルメの頬をムニムニと摘まむ。

「あら、随分仲良しになったわね」

 どうすればいいのか分からず、困っていたカルメに助け舟を出したのは、サラだった。

 サラは両腕に純白の布の塊を抱えている。

「これ、私やメリッサが着たウェディングドレスなのよ。見てみない?」

 そう言って、サラはウェディングドレスをテーブルの上に乗せた。

 それは丁寧に扱われてきたことが一目でわかる美しい白のドレスで、流行のものではなかったが繊細なレースが所々で使われおり、シンプルながらも寂しいものではなかった。

 その美しさに、カルメは一目で心を奪われた。

「ねえ、カルメちゃん。カルメちゃんのウェディングドレスは、もう決まってしまっているかしら?」

「いえ」

 カルメは首を横に振った。

 実は、カルメとログの結婚式で問題になっていたのがウェディングドレスだった。

 カルメ達の村では、親から子へウェディングドレスが引き継がれることが一般的だ。

 一応、事情があって用意をできない恋人たちのためのドレスが一着だけ用意されているのだが、やはりカルメとしても特別な式のための特別な衣装には憧れがあった。

「それなら、このドレスを着ない? きっとカルメちゃんによく似合うと思うわ」

 そう言って、サラはカルメにドレスを当てる。

「わ~! カルメちゃん可愛い! 私や母さんより似合っているんじゃない?」

「そうね、とっても可愛いわ」

 二人は照れて俯くカルメを、可愛い可愛いと褒めた。

 実際、シンプルで美しいドレスはカルメによく似合っていて、この場にログがいればサラやメリッサ以上の熱量でカルメを褒め称えたことだろう。

『は、恥ずかしい……』

 羞恥で赤くなって俯くカルメは初々しく、余計に可愛らしく映った。

 メリッサは、今からカルメ達の結婚式が楽しみになってはしゃいだ。

「カルメちゃん、結婚式には呼んでね。ログが嫉妬するからって無視しちゃ嫌よ。呼んでくれたら、カルメちゃんの髪の毛をキレイに結ってあげるんだから」

「そうね。それに、カルメちゃんのご両親にもあってみたいわ」

 何の悪気もなく、サラが言った。

 サラにとって家族を愛することは当然で、カルメも親に愛されていて当然だと思い込んでいたから。

 きっと、ログの家族は皆、幸せなのだろう。

 身近に不幸な人間なんておらず、結婚式に呼ばれない家族などというものは存在しなかったのだから。

「カルメちゃん?」

 イノセントの残酷さで、カルメに触れた。

 ビクリ、カルメの肩が跳ねる。

「母さん」

 尋常ではない気配を察して、メリッサがサラの肩を叩くが、それ以上サラやメリッサが何かを言う前に、カルメが口を開いた。

「サラさんは、母親に捨てられたお嫁さんは嫌ですか?」

 決して大きな言葉ではないがその言葉そのものは明確で、ほんの少し震えた音がサラとメリッサを貫いた。

 見聞きしたこともないような不幸に、二人は何も言えなかった。

 それでも、カルメは口を噤まなかった。

 言うつもりのなかった言葉がスラスラと出てくる。

「私は、小さい頃に母親に捨てられています。理由は多分、邪魔になったから。捨てられる前も、愛情をかけられたことはありませんでした。ログが私を好きだというまで、私を好きになる人はいませんでした。私も、皆嫌いでした」

 両手を、血が出てしまうのではないかと思えるほどに握って、カルメは言葉を続ける。

「愛情が理解できなかった。言葉遣いだって、本当は悪いんです。可愛げだってなくて、他人と自分を嘲笑って生きてきた。そんなお嫁さんは、やっぱり嫌ですか?」

 カルメは二人を真直ぐ見つめる。

 青ざめた二人の考えていることは、カルメには分からない。

『可愛いお嫁さんが化け物にでもなってしまった、と嘆いているのかもな』

 腹の底で嘲笑って逃げてしまいたい。

 けれど、カルメは逃げなかった。

 ログにもらった勇気で、一番のメッセージを伝える。

「もし、ログの家族が私みたいなお嫁さんはいらないって言っても、私はログと結婚します。ログが、そうしてくれると言ったから。私の人生には、ログが必要だから」

 言い終わって、じっとサラの顔を見つめる。

 それは睨むようでもあり、願うようでもあった。

 不意に、サラが手を上げるのが見えた。

 殴られる。

 咄嗟にカルメは両手で頭を守り、身をかがめた。

 けれど数秒後、ふんわりと温かさがカルメの身を包み込む。

 もう何度も覚えのある温かさだ。

 温かい水がカルメの頬に落ちてきた。

「サラさん?」

 サラは、ログによく似た薄緑の目を涙で濡らして、優しく泣いていた。

 ふんわり、メリッサも抱き着いてきた。

 二人とも、優しい涙を流している。

「ごめんなさい。ごめんなさいね、カルメちゃん」

 サラがポロポロと、言葉と水を流す。

 雨みたいに降り注ぐ二人の涙は皮膚を通り抜けて、カルメの心の中にゆっくりと染み込んでいくようだ。

 ログに抱きしめられた時の、ドキドキと安心が混ざった感覚とも違う。

 ただひたすらに温かくて、ぷかぷかと湖に浮いていた時のような穏やかな感覚がしていた。

『これが、お母さんなのかもな……お姉ちゃん、も』

 なんとなく、カルメは二人の家族になれた気がした。

『あったかいな……』

 ポロリ、ポロリとカルメの瞳からも涙が溢れる。

 ログの愛を受け入れたカルメは涙脆くなった。

 羞恥、安堵、嬉しさ、悲しさ、怒り、色々な感情に呼応して表情が動くようになり、それとともに涙も出るようになった。

 たくさん泣くようになったことを、過去のカルメならば弱くなったと評することだろう。

 こんなどうでもいい、よくある感動物語みたいなことでボロボロ泣いてバカらしい。

 弱っちいバカだと嗤っただろう。

『でも、違う』

 強くなったんだと、カルメは思った。

 感情を溜め込んで誰にも見せずに心臓が血を流すことを、今のカルメは強さと呼ばない。

 それは逃避で、弱さだ。

 泣くことには勇気がいる。

 感情を出すことには勇気がいる。

 自分の弱さに向き合わなければならないからだ。

 カルメが泣くとき、そこにはそれを受け止める相手がいるからだ。

 受け入れてもらうための行動を、それをしようと思えるようになった自分を、今のカルメはバカだとは思わない。

『そういうの、全部教えてくれたのはログだ』

 そしてきっと、それをログに教えたのはログの家族たちなのだろう。

 そう思えば、カルメはログの家族が大切に思えた、ログの次に。

「おかあさんって、呼んでくれるかしら」

 独り言のような声が聞こえた。

 カルメは頷く。

「うん、おかあさん。ありがとう。おねえちゃんも、ありがとう」

 ぽつりぽつり、言葉を出す。

 二人が抱き締める力を強める。

 カルメも抱き返す。

 穏やかな時が流れた。

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