溺愛を前に障害など無いも同然
カルメは自然が好きで、森も、川も、動物も、植物も、その全てが好きだ。
そして、その中でも特に好きなのが湖だ。
カルメは幼い頃、母親によって湖に投げ込まれ、捨てられている。
普通なら死んでしまうところだったが、カルメは幼い頃から魔法で器用に水を操ることができ、それによって捨てられた後、湖から陸地へと流れ着くことができた。
そしてその先で中年の男性に拾われ、三日間だけ面倒を見てもらった。
少し不思議な感じはするかもしれないが、こうした経験をしたカルメにとって湖とは自分を母のもとから他の場所へ連れ出し、死の運命にあった自分を救ったかけがえのない存在であった。
カルメにとって湖とはトラウマを彷彿とさせる恐ろしい存在ではなく、安心できる大切な場所なのだ。
だから、カルメは不安なことがあると湖に行った。
まだ、カルメが自分の中にある寂しさや恐怖を上手く言葉にすることができなかった頃、言いようのない不安を感じて胸がぽっかりと空いてしまったら、その度に湖を眺めた。
そのため、恐ろしい悩みを吐き出す場所が湖であるのは、ある種の必然だった。
カルメはどこまでも澄んだ湖の水を眺める。
この湖に比べれば自分の悩みなんてちっぽけなものさ、と思うことはできなかったけれど、気持ちは少し落ち着いた。
「ログの親って、どんな人なんだ?」
カルメは、ポツリと呟くように聞いた。
「俺の親ですか? えっと、普通の人ですよ」
「普通は、私にはわからない」
カルメがそう返すと、ログは眉間にしわを寄せて一生懸命、真面目に考え始めた。
「うーん、そう聞かれると、難しいですね。優しい……? 優しい、のか? 自分の身内って、こう、形容しがたいものが……愛情深い人たちだとは思いますけれど。そもそも、どうしてそんなことを?」
ログが頭を悩ませていると、カルメが涙目でログを見た。
「ログと、結婚したい」
「え!?」
ログはまさかそんな言葉がカルメから出てくるとは思わず、驚きで固まった。
それを見て、カルメはますます不安になる。
「嫌なのか? 好きでも、結婚はしたくないのか?」
じんわりとカルメの瞳に涙が溜まっていく。
それを見たログは大慌てで首を振った。
「い、いえいえ、違いますよ。意外だっただけです。カルメさん、結婚って言葉すら知らないんじゃないかと思ってましたし」
ログの中で、カルメはとにかく初心で世間知らず、というイメージがあった。
そのため、結婚を言い出したこと自体に驚いてしまったのだ。
「ログの中で私はどうなっているんだ。私だって結婚ぐらい知ってる」
ログの言葉に、カルメは一瞬不安を忘れてムッとした。
「まあ、そりゃあそうですよね。でも、どうしてそれが俺の親の話になるんですか?」
「私は、結婚は知っていても結婚の仕方は知らなかった。だから、先生に聞いたんだ。そしたら、両親との顔合わせがあるって。それって、私がログの親に挨拶に行くってことだろ?」
カルメの顔色は悪く、唇は微かに震えている。
ログがそっとカルメの手に自分の大きな手を重ねると、カルメはその中でギュッと手を握り締めた。
「私、私かわいくないだろ。しゃべり方だって、こんなだ。無愛想で、ログ以外、皆嫌いで。だから、だからきっと、ログの母親と父親にも、嫌われると思うんだ。お前なんかに息子はやらない、あっち行けって言われたらどうしようって。怖いんだ」
ログが口を開く前に、カルメは震える声で言葉を紡いだ。
「ログが、ログまで私を嫌いになったらどうしようって。やっぱり好きでも何でもないって、き、き、嫌い、だって、言われたらって。怖いんだ」
震える声は嗚咽になって消えていく。
もはや言葉ではない音が唇から漏れる。
ボロボロと、涙が頬を伝う。
それを、カルメはログに覆われていない方の腕で強引に拭った。
『涙なんて流れるな。止まってくれよ。困らせたくないんだよ』
カルメの祈りは届かない。
涙が、止まらない。
「どうして、俺がカルメさんを嫌いになると思うんですか?」
優しい声で、聞いた。
そこに非難がましさは無かった。
ただ純粋に、カルメの恐怖を聞いた。
カルメの根底には「血のつながった家族」から受ける愛を至上とするような価値観がある。
別に常日頃からそれを意識しているわけではないが、漠然とそんな意識があった。
「血のつながった家族」から愛を得られなかった自分は欠陥品だ。
そんな風に感じて、カルメは生きてきた。
欠陥品の自分と「血のつながった家族」そのどちらかを選べと言われれば、ログは家族をとるのではないだろうか。
「血のつながった家族」に否定される自分を見て、ログが今まで見てこなかった自分の悪いところに、一気に気が付いてしまったらどうしよう。
そうして嫌われてしまったら……
そんな恐怖が、カルメを捉えて離さなかった。
近頃は温かくて、春が訪れていたはずのカルメの心臓が、冬を迎える。
久々に心臓が凍るような寒さを感じて、カルメはログに抱き着きたくて堪らなくなった。
けれど結局、カルメはログに抱き着かないままで、口を開いた。
「親と、私だったら、親をとると、思ったんだ」
ようやく吐き出した言葉は一言だけだったが、カルメの心情をよく表していた。
ログはしばらく黙りこくっていると、おもむろにカルメの手を引いて、カルメを自身の胸に倒れ込ませた。
片方の手でカルメの手を握って、もう片方の腕はしっかりと背中に回して抱き締める。
「ログ……?」
不安げな、けれどどこか期待に満ちた声だ。
瞳は潤んで縋るような色を持っているが、あまりの恐怖にログ表情を見ることはできない。
ただじっと、愛しい恋人の言葉を待った。
「カルメさん、カルメさんはどうしたら俺が、世界で一番カルメさんを愛している、って信じてくれますか?」
柔らかい声に惹かれてカルメが恐る恐る顔を上げると、穏やかに微笑むログと目が合った。
穏やかで、優しい、愛情に満ちた瞳がカルメの心に飛び込んでくる。
その瞳が温かくて安心するが、それでもすぐに恐怖がせり上がって来た。
「分からない」
不安と恐怖でゴチャ混ぜになって怯えるカルメは、しがみつくように手を握り返すと首を振った。
それを見たログは、仕方がないな、と愛おしむような笑みを浮かべた。
「じゃあ、してほしいことはありますか?」
相も変わらず、穏やかな声でカルメを慈しむ。
少しの沈黙の後、カルメはボソボソと答えた。
「もっと、抱き締めてほしい」
ログは今よりも強く、けれど決してカルメが痛くならないように抱き締めた。
ほんの少しカルメの緊張が解けて、カルメもログの背中におずおずと腕を回した。
「他には?」
「頭、撫でて」
ログは抱き締めていた方の手を使って、優しくカルメの頭を撫でた。
カルメは安堵のため息をつくと、握られた手をもぞもぞと動かして恋人つなぎにした。
「まだ、ありますか?」
「…………」
うっとりと自分を見つめる視線から顔を背けて、カルメは急に黙りこくった。
先程まで近くに来ていたカルメの心が急に離れてしまったように感じて、ログは不安を感じた。
心配がログを焦らせる前に、もう一度カルメの名前を呼ぶ。
「カルメさん?」
けれど、カルメから返事はない。
ログは余計に心配になったが、それでも繋ぎっぱなしの手からカルメの心が近くにあることを感じると、一度深呼吸をした。
「カルメ?」
間を置いてからログが優しく話しかけると、カルメが顔を上げた。
その頬には涙を流した跡が付いていて、今もなお瞳は濡れている。
目元や両頬は真っ赤だ。
瞳は何かを欲するように揺れて、口を開きかけては噤む。
キスをしてほしい、その一言が、どうしても言えなかった。
それで黙りこくっていたのだと、ログはすぐに気が付くことができた。
『まったく、カルメは可愛すぎる』
心の中で独り言をもらした。
「好きだよ、カルメ」
ログはそっとカルメに口づける。
カルメは一瞬大きく目を見開き、やがてそっと閉じた。
触れているところが温かい。
安心と、愛と、優しさが満ちてくるようだった。
心の寒い所が無くなっていく。
二人はそっと唇を離すと、互いに見つめ合った。
「ログ、ログ。その……」
「なに?」
ログは、トロリとカルメを見つめた。
視線からも愛を感じてほしい、カルメの心の寒いところが一つも無くなるように。
そんな想いの籠った瞳は、カルメに勇気を与えた。
恥ずかしくて、怖くて仕方がなくても、カルメは自分の思いを言葉にして伝える。
「その、いっぱい好きって言ってほしい。私、バカなんだ。だから、すぐに不安になるんだよ。こんな私、きっといつか見捨てられるって。いっぱい愛情もらってるのに、怖くなる」
カルメは唇を噛み締め、内心で自己嫌悪に陥った。
『私はログに、普段、好きなんてまともに言えてもいないのに。図々しいよな。だから嫌われるかもって思うんだ。もらうばっかりで、駄目な奴なんだよ』
涙をたたえたその瞳の奥には、自己への怒りと悔しさが込められている。
涙が出るのが余計に悔しくて、カルメはグシャグシャと顔面を擦った。
乱暴に目元を拭う腕を、ログがそっと触れて下ろさせる。
「カルメ、カルメの可愛い顔がボロボロになってしまうよ」
カルメは腕を下ろすと、ブンブンと首を振った。
目から涙を溢れさせるカルメを、ログは見透かすような温かい瞳で見つめた。
「カルメ、今、自分のこと嫌いだって思った?」
「……うん」
少し間があったものの、カルメは素直に頷いた。
その様子が可哀そうで、けれど可愛らしくて、ログは穏やかに微笑んだ。
「カルメ、カルメはバカなんかじゃないよ」
「……じゃあ、こんな救いようのない私は、なんていうんだよ」
涙声で問うカルメを、ログはジワリと愛を溶かした優しく甘い瞳で見つめた。
氷細工にでも触れるように、そっとカルメの頬に触れる。
「かわいいって、いうんだ」
そう言ってログはカルメの涙ごとかっさらうように、その目元にキスを落とした。
目を見開いて口をパクパクとさせるカルメに、ログは見せつけるようにして、ペロリと唇を舐める。
穏やかに細められた瞳は少し鋭くなっていて、甘い意地悪が滲んでいる。
カルメの嫌な気持ちは、ドロドロに溶かされてしまったみたいだ。
悪戯っぽく口を歪ませてカルメを見つめるその表情に、カルメは心と思考を奪われた。
カルメの顔が真っ赤になって茹だりそうになる。
恐怖ではなく羞恥と愛おしさで唇が震えて、体も小刻みに震えた。
恥ずかしいのにログから目を離せなくなり、自分でもどうかしているのではないか、と思うほど視線が甘くなって、唇の端が小刻みに震えた。
「今、どんな顔をしているのか、知らないだろ。とびきりかわいくて、とびきり俺のことを好きだって顔をしているんだ」
心底愛おしむように言った。
愛の溶けた瞳と柔らかい笑顔が、真直ぐにカルメへと向けられる。
「俺は何度でも愛情をかけたいよ、カルメ。カルメが可愛い顔をしてくれるから。カルメが辛い思いをするのが嫌だから。俺が愛情をかけた時、同じだけの愛情を示すカルメが心底愛おしいから。いくらでも愛情をかけたくなるんだ。いくらカルメに拒絶されても諦められなかった時みたいにさ。どうしようもなくカルメを甘やかしたくて堪らなくなる」
溶けた瞳は、カルメの心も溶かしていく。
低く柔らかい声は鼓膜を震わせて、直接脳に響いた。
「カルメが不安になるたび、いや、不安になんかならなくても、望まれなくても。俺はカルメのことを甘やかすよ。何度だって好きを言う。だから、カルメ。出来れば愛を受け入れてほしい」
どこまでも自分を甘やかしてくる恋人が愛おしくて、けれど恥ずかしくて、カルメはとうとうそっぽを向いた。
「……ログは、本当に私が好きだよな」
どんな言葉を返せばいいのかわからなくて、拗ねたような言い方をしてしまった。
『もっと可愛くしたいのに』
耳まで真っ赤にして、そんなことを思う。
その赤い耳に、ログはキスを落とした。
カルメが耳を抑え、真っ赤な目を見開いてログを見る。
「そうだよ。大好きだ。世界で一番愛している。何度言葉を尽くしても、足りない。出てくる言葉が凡庸で嫌になる。けれど、何千回と言えば頑固なカルメも分かってくれるかな?」
ニコリ、意地悪く言う。
ペロリと唇を舐める仕草が獲物を狙う肉食獣のようで、やけに色っぽい。
カルメは真っ赤になったまま、耳を押さえつけて口をパクパクとさせた。
頭が真っ白になって、言葉がまとまらない。
何か言ってやりたいのに、好きという感情だけが心を埋め尽くして思考を許さない。
心臓の音がうるさくて、今すぐにでも皮膚を突き破って飛んで行ってしまいそうだ。
「好きだ。好きで、好きで、仕方がない。こんなどうしようもない俺に、カルメは同じ言葉を返さなくてもいいんだ。ただ、側にいてほしい。この愛を受け入れてほしい。恥ずかしくてどこかへ隠れてしまっても、すぐに俺のところへ帰ってきてほしいんだ。俺のお願い、聞いてくれるか?」
カルメは、ボーッとした頭のまま、何度も首を縦に振った。
心の中に愛が満ちて、とうとう溢れ出す。
「よかった」
破顔して抱き着くログを、カルメはゆるりと抱き返した。
『包み込むみたいに甘やかしたと思ったら、意地悪に甘やかしてきて、最後はおねだりなんて……そんなの反則だよな』
甘やかしのバリエーションを増やしてカルメの心を翻弄するログに、カルメは内心苦笑いを浮かべた。
『でも、私も大好きだ。一生離れたくないよ、ログ……』
カルメは心の中でログに言った。
どうか伝わってくれ、とログを抱く腕に力を籠める。
二人はしばらくそうしてから、手だけ繋いだまま、ゆったりと離れた。
「別に、無理に俺の親に挨拶することもないんですよ」
敬語に戻ったログが、優しく言った。
けれど、カルメは首を横に振った。
「いや、それは駄目だ。何かから逃げたまま、甘やかされるわけにはいかないんだ」
俯いたまま、カルメが言う。
「俺は、カルメさんから全ての恐怖を取っ払って、甘やかしてやりたいと思っていますよ?」
「私も、だ。私だってログを甘やかしたい。だから、弱いままじゃダメなんだ」
ログの気持ちはもちろん嬉しいが、カルメは甘やかされるだけ、というのも守られるだけ、というのも嫌だった。
『強くなりたい。いつかログが私みたいな転び方をしても、助け起こせるように。ログに見合う人間になりたい。例えそれを、ログが望まなくても』
甘やかされたいけれど、甘やかしたい。
弱さを受け入れてほしい、そして、相手の弱さを受け入れたい。
対等な立場で、胸を張って隣に立ちたい。
カルメはそれを、心の底から強く望んだ。
望めるだけの勇気をログからもらったから。
「ログ、立ち向かわせてくれ。強くなりたいんだ。ログに比べれば不器用でカッコつかないから、無茶だって言われるかもしれないけどさ。私だって本当は、ログを思いっきり甘やかしてみたいんだよ。ログがくれるような言葉を言ってみたい」
強い意志の宿った瞳で、じっとログを見つめた。
そこに先程までのような不安はなく、決意に満ちている。
それを見たログは、仕方がないな、と笑った。
「分かりました。じゃあ、俺の両親に挨拶に行きましょうか」
「うん。なあ、ログ。でも、その、もしも無理だったら」
カルメが上目遣いになってモジモジとした。
それに対し、ログはふんわり微笑んで答える。
「その時は親と縁を切って、腹いせに火でも放って帰ってきますか」
穏やかな笑顔でサラリと物騒なことを言うログに、カルメは目を丸くした。
そして、慌ててログの言葉を否定する。
「違う! そんなこと言ってない! ダメだって言われても結婚して、それと、その、傷つくと思うから、その、いっぱい、甘やかしてほしい、なんて、その……」
言葉は段々勢いを失い、萎んでいく。
真っ赤になってボソボソと言うカルメが愛らしくて、ログは目を細めた。
「そんなの、当たり前じゃないですか。でも、いいんですよ? うちの店で扱ってる布を滅茶苦茶にして大損害を与えてやっても。カルメさんを傷つけた報いにしては随分軽いですが、そこは親子ですから、情けをかけてやるということで」
まだ何もされていないのに、ログの瞳は暗く燃えている。
カルメはますます慌てて、ペシペシと軽くログの腕を叩いた。
「ろ、ログ!? 帰ってこい! そんなことしなくていいから。ログが、その、ログが、甘やかしてくれたら十分だから!!」
勢いのままに、今度は最後まではっきりと言葉にする。
焦りと羞恥で赤い顔は、どうしようもなく慌てている。
「だって、カルメさんに酷いことされたら俺、正気でいられる自信ないですよ?」
ほんの少し光を取り戻した目でログはにっこり笑った。
「ログって、結構危ないやつだよな。最近、特にそう思う」
もしかしたら自分以上に物騒かもしれない恋人に、カルメは遠い目をして湖を眺めた。
「そうですか? そんな俺は嫌いですか?」
「き、嫌いじゃない。嫌いじゃないけど、本当に、そんなことしなくていいからな。な?」
カルメが念を押すと、ログは渋々頷いた。
「もしも仕返ししてやりたくなったら、言ってくださいね。ね?」
「わ、分かった」
ログも念を押してきたので、カルメは仕方なく頷いた。
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