第8話 錯誤
この事件にもう一つの大きな特徴があるとすれば、それは、
「錯誤」
というものである。
錯覚と言ってもいいのだろうが、何か基準があってそのことに対して間違った感覚を持つのが、錯誤ではないかと思う。何も対象がなくて、漠然と頭が混乱している場合は錯覚というのだからと、清水刑事は考えていた。
辰巳刑事が映像を見ながら、あの日の事実を一つでもあぶり出そうと考えていた時、清水刑事は、
「事実よりも真実を探ろう」
と思っていた。
何が一体事実で、何が真実なのか、捜査をしていると混乱してくることがある。辰巳刑事よりも、最初に理論的な発想から入る清水刑事らしいのではないだろうか。
辰巳刑事が映像を元に事実を探しているのであれば、清水刑事は、聞き込みによる人間関係から、真実に行き着こうと考えていた。刑事としては一番オーソドックスな方法であるが、事実よりも真実を直接追い求めようとする考えのもとに行うのが、聞き込みだとずっと思ってきた。
この考えは、刑事としてはずっと受け継がれてきたものであり、頭で考えるというよりも、経験で習得したものでもある。実際に証言などから真実を浮き彫りにして、真相に辿り着くことが事件解決への一番の近道だと思っている。
清水刑事は、まず第一発見者の管理人を訪ねた。一度事情を聴いただけだったが、あの時はあくまでも自殺した人を発見したということでの聴取だったので、込み入ったことも聞かなかったが、今度は少し事情が違っている。ある程度、現場の保存期間も過ぎていたので、もう少しで解放されると思っていた管理人だったが、まさか、彼女が被害者であり、ここからまた最初に戻って捜査が行われるということを聞いた時、彼の性格からすれば、相当ガッカリしたのではないかと清水刑事は感じていた。
管理人は、別にこれと言って、変わった人というわけでもなく、
「どこにでもいるタイプの人間」
と言ってもいいだろう。
清水刑事は、管理人にわざとアポを取らずに突撃を敢行した。
「すみません。お忙しい中で誠に申し訳ありませんが、事情聴取にご協力ください」
と言って、清水刑事が訊ねてきた時、管理人は少なからず緊張していた。
分かっていただけに覚悟はしていたのだろうが、再度気持ちを盛り上げないといけないというタイプの人間である。あくまでも緊張が先に来て、その後に覚悟が伴う。よくありがちではあるが、それもこの男らしいと清水は感じた。
「あの事件、実は殺人事件だったんですって?」
と、まず管理人の方から聞いてきた。
「ええ、その可能性が事情に高くなったということです。我々は単純な自殺とは違うと見ています」
「そうですよね、遺書もなかったし、私が知っている限りの水島さんは、自殺をするようには見えなかったんですよ。実は自殺だと警察の方も言われていたし、私も死んだ人に追い打ちをかけるようなことは言いたくなかったので、あの時触れなかったんですが、彼女の部屋によく男性が訪れていたのは知っています。しかも、複数だったと思います。もし、あれが殺人だったとすれば、その中の誰かが殺したんでしょうか?」
と管理人は、この事件に興味津々のようだ、
それもそうであろう。自分が第一発見者であり、最初は自殺だと思われていたが、実際には殺人だったとなると、興味が湧いてくるのも当たり前というものだ。
「そのあたりを判断するのは我々警察の仕事なんですよ。ただ、その判断のために、少しでもたくさん、情報を集めて、その中から信憑性のありそうなものを篩いにかけて、真実をあぶり出すという作業を行って、真相にできる限り近づく。これが私たちの仕事なんです」
と清水刑事は言った。
「なるほど、私も実際に、彼女と一緒にエレベータで三階に降りる男性を何人か見ているので、その様子が、恋人同士のような感じだったことを思うと、何股か掛けていたということになるんでしょうね。それも、実に楽しそうにエレベーターに乗っていくんです。悪びれた様子はありませんでしたよ」
と、管理人は言った。
「まあ、不倫や浮気をする人の中には、まったく悪びれた仕草をしない人もいますからね。それが、彼女の性格だったと言えばそれまでなんでしょうね」
と、清水刑事が言ったが、今までの清水刑事であれば、ここまで自分の考えを他人に話すことはない。
――この男は、少しでも自分と考えが似ていると思うと、急に饒舌になるタイプではないだろうか?
という直感があったので、その思いに則って、清水刑事は、自分の考えを惜しげもなく管理人に話すのだった。
実は清水刑事も自分の意見を人に話すことで、その信憑性を自問自答していたのだ。管理人が何を感じているのかまでは分からなかったが、話をしている限りでは、
――何かを隠しているような気もするんだよな――
と感じていた。
こういう男は、強く言っては逆効果だ。結構考え込むタイプなので、考えすぎるくらいのところがある。そんな人間に強くいうというのは、追い詰めることになってしまい、まるで引きこもりのように、一度入り込んでしまうと、強固なバリケードを張り巡らし、決して相手に侵入を許そうとはしない。
清水刑事はそのことが分かっているので、どちらかというと、相手の話に少しずつ自分も興味を示しているかのように誘導し、ただ、そんな中でも主導権は決して相手に渡さないようにという意識を持つことが大切だった。
つまり、ところどころで自分が刑事であるということを匂わせながら、相手が次第にまるで友達と話しているような感覚になるのを、やんわりと制御しているかのような感じである。
制御することは、相手の感情をコントロールすることであり、そこが本当は一番難しいのだが、管理人のようなタイプに対しては、意外と簡単なことのように思える。
「ところで、おたくの辰巳さんという刑事さんに、うちで保存してあった防犯カメラの映像を提供したんですが、ごらんになりましたか?」
と管理人が聴いてきた。
「ええ、辰巳刑事から見せてもらいました。あの映像を見て、それがきっかけの一つとなって、この事件が殺人事件ではないかと思われたんです」
と清水刑事がいうと、
「そうですか。私は見ていないんですが、犯人が映っていたんでしょうかね?」
と管理人に訊かれて。
「いいえ、映っていたという報告は受けていません。ただ、怪しい三人組が映っているという話しはしていましたがね」
と、清水刑事は言った。
どうせ黙っていたとしても、元々ここの所有物なのだから、返してから見れば分かることだ。それに別に隠しておかなければいけないことでもないと思ったので、逆に相手の反応を見るのに使ってみるのもいいかと思ったのだ。
清水刑事が、
「三人組の男」
という言葉を発した時、管理人は一瞬、ビクッとなった。
何か感じたのだとうが、その時は分からなかったが、清水刑事には、この男が、三人組の男に反応したということが印象に残っていたのは、その後の捜査に影響があり、その刑事の勘は間違っていなかった。
「この間、清水さんがお話されていたように、やはり殺人だったんですね。私も、嫌な予感がしたので、辰巳刑事が防犯カメラの映像を持って行った時、清水さんが指示したのかなって思いました」
と管理人が呟いた。
「ん? 私は別にこの事件が殺人だなどと一言も言っていませんよ。辰巳刑事はそんなことを言っていたと思いましたが」
と清水刑事がいうと、管理人は照れ臭そうに、
「ああ、そうでしたね。すみません。私は相手が似ていたり、私から見て同じような立場の相手の人が言ったことであれば、中途半端に覚えてしまって、時々違って覚えてしまうことが結構あるんですよ。その都度、相手に指摘されて、謝ることが多いんですが、これも私の悪い性格の一つなんでしょうね」
と、言って、謝罪なのか、いいわけなのか分からない言い方を、管理人がしていた。
清水刑事は、このことに非常な違和感を覚えた。管理人の話では、たった数分しか経っていなくてもそれは同じようで、記憶していたことが曖昧になるわけではなく、最初から勘違いをしているのだから、それは数分経とうが、数日経とうが同じことだった。
――こんな性格の人間がいるんだ――
と思ったが、
「そういう性格だと、まるでまわりからは、すぐに忘れてしまうと思われがちなんじゃないですか?」
と清水刑事がいうと、
「ええ、まるで健忘症のように思われることがあります。まだ、若いのに、などと言われると、思わず力が抜けていきます。実際には健忘症でもなく、ただ、勘違いしているだけなので、ハッキリとした病気というわけではない。最初、正直神経内科に行ってみようかとも思ったくらいです。さすがに怖くて門を叩けませんでしたけどね」
と、さすがに管理人は意気消沈していた。
「いや、これは真剣に悩んでおられるんですね。あまり触れなかった方がよかったですかね?」
というと、管理人は、
「そうですね。私としては、自分の中で忌まわしい性格だと思っているので、この話になると、どうしてもテンションが落ちてしまいます。ですが、世の中には私のような性格の人間って、結構いるんですよ。まるでことわざにある『類は友を呼ぶ』とでも言いましょうか、私のまわりにも実はいたりしたんですよ」
と管理人がいうと、
「それはあるかも知れませんね。自分をそういう目で見ていると知らず知らずに、まわりにもいないかを探そうとするのかも知れません。そして他の人も同じように探していたりすると、その気持ちが共鳴するのか、お互いに相手の存在に気付くことになるんでしょうね。私も自分の中にあるあまり好きになれない性格を考えていた時、これは刑事になる前のことですが、あなたと同じように、まわりに目を向けたものです。その時、自分を顧みている目と同じ目をまわりに向けたんでしょうね。反応した人がいて、いろいろ話をすると、その人もどうやら私と同じことで悩んでいるようでした」
と、自分の話を始めた清水刑事だった。
真剣に悩んでいる管理人を慰めるつもりで言った清水刑事であったが、そうやって話ながらでも、違和感が抜けることはなかった。それはきっと、彼が言っていた性格という者が、管理人と話をしていて感じた性格とは少し違ったものに感じられたからであった。
普段なら事情聴取に来ているのに、こんな性格的な話で、事件とは関係のないような話を引っ張ることはないのに、
「どうしてなんだろう?」
と思っていると、そこに刑事としての勘のようなものが関係しているように思えてならなかった。
つまりは、この偶然分かったかのような管理人の性格が、ひょっとすると、今度の事件のどこかに関係しているのではないかと思えたからだ。
管理人がいうように、確かに類は友を呼ぶものだ。そして似たような性格の人間が集まったのも無理もないことだろう。
「ただですね」
と、管理人は思い出したように、ふっと口から出た言葉であったが、何かを言いたいという気はしていた。
それでいて、
「これを話していいものか?」
という思いが見え隠れしているようにも感じたのであった。
「どうしました?」
と聞くと、
「いえ、この性格というのは、決して悪い方にばかり影響するわけではないと思っているんですよ。こういう性格を見て、却ってその人のことが気になってしまったりすることもあるのではないかと思うんです。人それぞれですおね」
と言っていた。
管理人とはその後、少しだけ話ができたが、これ以上何も事件に関係することはおろか、彼の性格を浮き彫りにするような話は出てこなかったので、早々に切り上げて、次の事情聴取に向かった。
この事件では事情を聴けるだけの証言を得られる相手は実に少ないのも特徴だった。それも最初自殺だとして処理しようとしたことが大きく影響しているのだが、そのことは愚痴になってしまうので、口に出すことができないのは、ある意味でのストレスに繋がることであった。
次の事情聴取の相手は。今回の第一発見者のもう一人、被害者が勤めていたスナックのママさんのところであった。この事件が殺人事件の様相を呈してきたことから、第一発見者としての立場が微妙になってきたのだが、前に聴取した時とどれだけ違った印象を与えられるか、そのことを清水刑事は気にしていた。
場末のスナックと言った雰囲気そのままの店で、開店前というのは、下手をすれば、
「閉めた店ではないか」
という思いがしてくるほど、落ちぶれた店に感じられる。
角を曲がって、ネオンサインもついておらず、看板に火が世持っていないと、ここまで寂れて感じられるのかと思うほどの佇まいに、急に寒気を感じさせるほどだった。風が吹いているわけでもないのに感じるこの寒気は、まるで西部劇のゴーストタウンを感じさせた。
ゴーストタウンは道も広く、乾燥した雰囲気であるが、この場所はまるで粗大ごみの捨て場所ではないかと思うほど、その場にふさわしくないものが置いてあっても、その場所に同化して感じられるのは、それだけみすぼらしいという雰囲気の幅の広さを感じさせるのだった。
粗大ごみの間から、野良猫か野良犬でも出てきそうな感じであったが、それらを通り越し目指す店に近づいて、扉を開けると、中でママが一人、薄暗い中、洗い物をしていた。
薄暗く感じられたのは、表の明るさに比べて暗いだけで、中にずっといると、そこまで暗く感じないのかも知れない。むしろ夜のこの店の調度と同じ明るさであるということに、中にいるとすぐに感じられてきた。
「あら? この間の刑事さんじゃないですか? 辰巳刑事さんでしたっけ?」
と言われて、清水刑事は照れ臭そうに、
「いいえ、清水です」
というと、
「これはごめんなさい。私、辰巳刑事というお名前の印象が深かったので、そう言ってしまいました。でも刑事さんという職業の方は普段から接することはないので、最初に一度会ったくらいだと、皆さん似たようなものにしか見えないので、どうしても印象の深かった人の名前を言ってしまったんですよ」
と、これも言い訳であった。
しかし、このいいわけには何か理路整然としたものが感じられた。
「いいんですよ、どうしても刑事というと、一般市民の方はどうしても緊張してしまいますもんね」
というと、
「そう言っていただけると助かります。そういえば、殺されたんだそうですね。かおりちゃん。ビックリしました」
とママさんが言った。
「ええ、それでもう一度事情を伺おうと思ってきてみたんです」
と清水がいうと、ママは、
「そうそう、かおりちゃんも今の私のようなところがありましたよ。相手が似た立場の人だったら、曖昧な記憶しか残らないという性格。やっぱり類は友を呼ぶんですかね?」
このママの話を聞いて、清水刑事はたった今管理人から聞いてきた内容がフィードバックされ、まるでデジャブのような感覚に陥っていた。
「それは本当ですか? 何か詳しくお話寝返ると助かるんですが」
と清水刑事がいうと、
「あらたまって聞かれると、そう思い当たることもないような気がするんだけども、よくお客さんから、そのことでからかわれていたわね。特に大久保さんなどは、かおりちゃんのそういう性格が気に入ったらしく、私にしきりに、『かわいいよね』って言って、まるで子供みたいにはしゃいでいたのを思い出したわ」
とママがいうと、
「じゃあ、大久保氏は、彼女のそういう性格を知っていたんだね?」
「ええ、知っていました。最初にその性格を指摘したのって、確か大久保さんだったと思うもの」
「ところでその大久保さんなんだけど、この店には最近来ているかい?」
と清水刑事が聞くと、
「いいえ、最近あまり来なくなったわね」
「それは、かおりさんが亡くなってからのこと? それとも亡くなる前のこと?」
「亡くなる前よ。かおりちゃんとの話の中で、『最近、大久保さん来ないわね』って話をよくしていたもの」
「それじゃあ、かおりさんは大久保さんが来てくれなくなったことを気にしていたということかな?」
「そうですね」
「ということは、大久保さんとかおりちゃんは、そこまで深い仲ではなかったということになるんですよね? もし深い仲だったら、お店に来なくなったことを自分で気にする必要などないですからね」
「私は、そうだと思っていましたよ。この間、かおりちゃんが一番仲のよかったお客さんということで大久保さんの名前を出しましたけど、あくまでも、それはこの店でということなので、プライベートに関しては、私もよく分かりません」
とママがそういうと、
「かおりさんから、相談とか受けていたんじゃないんですか?」
「いいえ、ストーカーの件はさすがに彼女も参っていたのか、普段はあまり人に相談するタイプには見えなかったんだけど、私には相談してくれましたからね。とにかく必要以上に怖がっているのを感じました。あの怖がり方は普通ではないという感じですね。まさかと思うけど、彼女には心当たりがあって、狙われるべくして狙われていると分かれば、相手の性格も分かるはずなので、そのうえで、とっても怖い思いをしているということだったんじゃないかしら?」
と、ママは言った。
「ストーカーの話ですが、かおりさんがストーカーに狙われているから、いつも怖がっていたのでしょうか? お店ではそんなことを顔に出して接客はしないでしょうが、一人になった時とか、ママといる時はどんな感じだったのでしょう?」
「怖がっているのは間違いないですね。話をしていても、たまに上の空になったりしていましたし、接客中でもたまに心ここにあらずと言った感じになったのをお客さんに指摘されて、苦笑いなんてこともありました。お客さんは何も知らないから、好き勝手なことを言っていましたが、かおりちゃんにしてみれば、本当に怖かったんでしょうね。深沢さんという方が助けてくれていたんでしょう? 彼女にそういう方がそばにいてくれたことは私も安心でした」
とママがいうと、今度は清水刑事は少し話題を変えた。
「ところで、かおりさんのことを訪ねてくるお客さんか、お客さん以外でも誰かいましたか?」
と聞かれたママは、
「ええ、何人かいましたよ。サラリーマン風の人だったり、中には学生のような人もいたりして、数人いましたけど、ビックリしたのは、五十代くらいの年配の方もいたことでした。年配の人は、かおりちゃんが店に入っている時、何度かお店にお客としてきてくれたことがありましたが、ずっと無口で一人で飲んでいたんです。かおりちゃんはいつも他の客の相手をしていたのですが、どうも関わりたくないという空気が漂っていて、私の方としても、そんな一触即発のような空気の中に、かおりちゃんを飛び込ませるわけにもいかず、結局私が相手をすることになったんですけどね」
とママは言った。
「そのお客さんを見ているママはかおりさんとの関係をどう感じました?」
「不思議な感じですね。訪ねてきたわりには、お互いに話をしようともしない。他に客がおらず、仕方なくかおりちゃんが相手をしなければいけないようになっても、二人ともお互いに何も話そうとはしない。ピリピリした空気が漂っていました。男の人が下から見上げるように見ている視線が怖かった気がします」
「じゃあ、かおりさんは怯えていた感じだったんでしょうか?」
「怯えているというよりも、なるべく視線を合わさないようにはしているけど、怯えているわけでもなくて、むしろ何か開き直りのようなものを感じました。『何かを言いたいのなら、言えばいいじゃない』とばかりの上から目線ですね。二人の目の角度は、ちょうどその時の二人の関係性を示しているかのようで、それだけに不気味でした」
というのが、ママの分析だった。
さらにママは何かを思い出したのか、さらに続けた。
「そういえば、一度おかしなことをそのお客さんが呟いたことがあったわね」
というと、
「それはどういう言葉ですか?」
「確かあれば、『返すべきものは返さないとな』と呟いたんじゃないでしょうか? それを聞いてかおりちゃん、相当同様しているような気がしたわ」
「ということは、ひょっとするとかおりさんは、最初からそのお客さんの正体を知らなかったかも知れないということになるのかな?」
と清水刑事がいうと、
「そうそう、私もそう思ったんですよ。その男の人の呟くようなその言葉で、この男性がどういう人で、どういう目的を持って自分のところに現れたのかを知ったんじゃないかしら? そう思うと、その前後のかおりちゃんの態度が分かるような気がするのよ」
とママは話してくれた。
「帰すべきものというのは何なんでしょうね? パッと考えると、お金なのか、それとも何か返さなければいけないものを借りていて、不当に占有しているか何かの高価なものだったりするのかな?」
と清水刑事がいうと、
「お金というのなら分かるけど、そんな高価なもので占有と言われると、土地か建物を想像するけど、とてもそんなものを持っているとは思えなかったですよ。かおりちゃんは普通の女の子という雰囲気だったし、ただ、少し陰のある子で、雰囲気も暗めだったような気がするわ。賑やかなことが好きな人にはあまり人気がなかったけど、一人で寂しく飲んでいるような客とは、結構話が合ったようで、そういうお客さんには彼女は人気があったわ」
と、ママが言った。
「水島かおりって、どういう人だったんですか? ここにどうして入ってきたんでしょう?」
と清水は聞いた。
「彼女が入ってくれるようになったのは、三年くらい前からだったかしら? 最初から暗めの女の子だったんだけど、何しろ若い子はこんな場末で勤めるようなことはないでしょう? だから理由ありでもそれは仕方がないと思っていたの。たとえば、失恋してすぐの傷心状態だったりね。一瞬迷ったんだけど、彼女なら集客に一役買ってくれると思って雇ったのね。それは間違いではなかったと思うわ。実際に彼女を目当てに来てくれる人も増えて、そんな人が常連になってくれたんだから、それだけでも十分に貢献してくれていると思ったわ。実際に彼女を好きになるというよりも、癒しを求めてきてくれる人が多くて、彼女と二人きりになるよりも、このお店で癒される方がいいというお客様も少なくなかったわ。私にとっては、これほどありがたいことはない。いい人を雇ったと思ったわ。それに暗いと言っても、そんな言葉が出ないほどの暗さではなく、影があるという雰囲気だけだったので、それが却って、男性には魅力的に見えたんでしょうね。女の私には分からないんだけど、そんなかおりちゃんは、すでにお店にとってはなくてはならない存在になったの」
とママがいうと、
「じゃあ、かおりちゃんが亡くなって、ママとしては経営の面でもきついでしょう?」
と清水に言われて。
「それがそんなことはないのよ。最近、お客さんが減ってきているの。それは、どうもかおりさんの性質にあるようで、性格ではないのね。それがさっき話題に出ていた、似た人が話したことが、曖昧な記憶としてしか残らないから、時々間違えてしまうということが原因で、お客さんが減ってきたの」
というママに対して、
「でも、それが原因だってどうして分かるの?」
「かおりちゃんが自分で言っていたんです。私のこんな曖昧なところがお客さんを白けさせてしまうんじゃないかってね。私は、そんなことはないと慰めてあげたんだけど、どうも慰めが効かないみたいで、でも、言われてみれば、彼女の言う通り、客が減ったのは、彼女のそんなところが原因だという話を、他のお客さんからも聞かれたの。客は客の気持ちが分かるということなのかしらね?」
とママは言った。
「あまり死んだ人の悪口などいいたくはないんだけど、このことが事件の真相に辿り着いてくれて、そして彼女の供養になるんだったら、私はそれでいいと思っているんですよね」
と、ママは続けた。
「まさしくその通りです。今度の事件は結構おかしなことが最初からあったと聞きました。考えてみれば、おかしなことというのは、犯人側からすれば、こんなに厄介なことはないんです。本当であれば、このまま自殺で片付いてくれればよかったものが、実は殺人だった。これが分かってしまったことは犯人にとっては、大きな計算外でしょうからね」
と清水刑事は言った。
「そうなのかしら?」
と、ママはおかしなことを言い出した。
「ごめんなさい。私、探偵小説を暇な時に結構読んでいるので、どうしても探偵小説のような考え方になるんだけど、これだけいろいろおかしなことだったり、すぐにバレそうなことを平気でする犯人は、実は頭がよくて、一つのことがうまく行かなくても、その先には二重、三重の罠が潜んでいるんじゃないかとも思えるんです。そう考えてくると、本当に犯人がこの事件を最初から殺人にせずに自殺に見せかけたというのも、何かの考えがあってのことではないでしょうかね?」
と、ママは突然探偵小説談義に入った。
「たとえば?」
「そうですね、最初自殺だと思っていたことが、実は殺人だったとして、最初から殺人だと思って捜査するのと、いきなり殺人だと言われて捜査するのとでは、何か違いませんか? たとえば、殺人捜査のいろはなどのマニュアルのようなものが皆さんの頭の中に入っているとすれば、調子が狂ってしまって、普段であれば基本中の基本として行っていることを怠ってしまったりするんじゃないですかね? それは人間だから仕方のないことですが、でも、これはあくまでも精神的なことなので、皆が皆どうだとは言いませんが、特にいろはを重視する人には陥りがちなミスに繋がるんじゃないかと思うのは私だけなんでしょうか?」
清水刑事は、このママの洞察力と同じで、冷静な分析力にもビックリしている。
いくら、探偵小説マニアとはいえ、こんな発想は聞いたこともなかった。だが、言われてみればもっともなところがある、実際に清水刑事は、この事件の犯人を甘く見ているところがあった。そもそも自殺に見せかけようとして、それがバレるなど、犯罪者としては、正直これほど間抜けなことはないとさえ感じたほどだった。
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