第7話 ステルス事件
辰巳刑事は、事件の捜査に行き詰ると、いつも考えるのが、
「現場百回」
という言葉であった。
実際に今までにも何度か現場に足を踏み入れ、自殺だということである程度までは整理された部屋に赴いたが、新しい発見はできなかった。
そこで、だからと言って、藁をもすがるような気持ちであったわけではないが、不審に感じていた犯行当時の映像を確認してみることにした。
例の三人組が入っていくところは確認したが、考えてみると、出ていくところを確認まではしていなかった。そもそもこの映像解析は、被害者が本当は殺されたのだということを確認するために見たのであって、その後誰も見たものはいなかった。
映像はマンションから借りてきているので、本当は返す必要があるのだろうが、ことが殺人事件に発展したことで、これも証拠物件として、押収されることになったのだ。
例の三人が、エレベーターの中に消えてから、どれくらいの時間が経ったであろうか、ちょうど二十分くらいではないだろうか、またしてもエレベーターが開き、中から例の三人が出てきた。
「おや?」
彼らはシートを畳んで、普通の服装に着替えてからバラバラに帰ったのだと思っていた。入る時は皆で、顔を隠す必要があるが、帰りは別に変装する必要などなく、普通の姿で、人相も隠さず、自分であるということが分かったとしても、映像を見る限り、このマンションの住人なのか、それともどこかの部屋への訪問客なのか、別に怪しくなければ、誰も変には思わない。それに、三人で出てくる必要もないのだ。一人一人、時間の間隔をあけてしまえば、怪しまれることもないはずだった。
それなのに、何をわざわざ変装をしたままの三人の姿がそこにあるのか、それも三人が手に持っているシートが、まるで三十分前にエレベータの中に消えたその時の姿そのままに見えた。まるでエレベーターの中で、三十分ずっと潜んでいたのではないかと思えるほどで、シートの膨らみも、それほど大きさが違うわけではなかった。
「ということは、これも人間が入っていたということか?」
と思えた。
それにしても、三十分という時間は中途半端な感じがした。
殺されてから、偽装工作をするとしても、少しでも早くやらないと、誰に見られるか分からないというリスクがある。三人という人間がいるのだから、三人がかりであれば、偽装工作も半分以下の時間で済むだろう。
普通に考えれば、十分ほどで出てこれるのではないかと思った。実際にほとんど偽装工作を行われた形跡はない。何しろ、現場を自殺の後にしてしまえばいいだけだからである。
しかも睡眠薬を飲ませているのだから、抵抗されることもない。血が出たとしても、普通に自殺をした方が、出てくる血をどうすることもできない。せめて、洗面所か風呂場で水を流しっぱなしにして、噴き出す血を水道で流れ落とすしかないのだ。
実際に、水道の栓は開いていて、血液を十分に流し出してくれていた。
深沢が、
「犯行は他で行われた」
と言ったのも、水道が流れていたという事実を知っていたからだろう。
「だが、どうして知ったんだ? やつはその場にいたのか?」
と思ったが、ママに訊いたのかも知れない。
もし、それであれば、ママと深沢は、前から知り合いだったのだろうか? 二人の話からは、お互いの名前はほとんど出てこない。深沢の口から、水島かおりが、今では深沢のかわりに、ママが相談に乗ってくれていると聞かされただけのことであった。
それも、あくまでも他人事のような話しぶりだった。かおりから聞いたという事実だけを強調したかったのかも知れない。
そういう意味で、深沢とママの関係がどこかで繋がっているのではないかと辰巳は考えた。
だが、そこまで考えてくると、またもう一つおかしなことに気付き始めた。
「そういうことになると、大久保泰三という男も微妙な存在になるな。何しろ、ママさんからは、かおりと仲が良かった相手として紹介され、深沢からは、こともあろうに犯人ではないかという指摘さえあったくらいだ。ママと深沢が繋がっているとすれば、それぞれ対照的な証言をしたことに何かの意味があるというのだろうか?」
と辰巳刑事は考えた。
大久保という男は、少し背は低くて全体的に小さな感じがしたが、身体は引き締まっていることに辰巳刑事は気付いていた。筋肉の発達は、筋トレをしている人が発達する位置が、明らかに盛り上がっていた。筋トレが大久保という男の趣味なのかも知れない。
髪の毛はあまり長くはなく、五分刈りよりもさらに短く、
「いかにもスポーツマン」
という雰囲気の男性だった。
体操選手にでもいそうな雰囲気であったが、性格は見た目からは想像できないほどの小心者に思えたのだ。
もっとも、見た目が筋肉質なので、余計に小心者と感じた性格が目立つのかも知れない。この事件が殺人事件の可能性が急浮上してきたことで、彼が重要容疑者の一人であることに違いはない。
どちらにしても、何度も彼に会うことになるだろう。辰巳刑事本人がいかなくても、他の刑事が事情を聴いたり、あるいは、出頭要請をすることも十分に考えられる。もっと言えば、逮捕拘留も十分に考えられるのだ。
大久保泰三のことはさておき、この映像をよく見ていると、中には誰か人が入っているような感じだった。
玄関からエレベータまでの入場の際には、中に人の気配は感じなかったが、表に出される時、つまりエレベータを出てから、玄関の自動ドアを抜けるまでの間には、人が潜んでいる感じが受け取れたのだ。
「どうしてなんだろう?」
と、この違いがどこから来るのかを考えてみた。
すると、分かったのは、入る時に気配を感じなかったのは、そのシートがまったく動く感じはなく、ただ、振動で揺れているだけだった。しかし、出ていく時には明らかに振動に逆らった動きが散見され、その様子が中に生き物がいるような気がしたからだ。
そうなると、中にいるのは人間でしかない。縛られているのか、動こうとするが、限界があるため、違和感だけを残して、持ち運びには支障がないようだった。
「誰かが入っているんだ」
と思い、時間的にも、そこに入っているのは水島かおりであるわけはない。
しかも、表に出ている運び手の三人は、雰囲気もすべてが最初の三人にしか思えなかった。そうなると、中に入っているのは、まったく未知の人物、しかも、かおりを部屋に返しているので、元から、その部屋にいた人物だということになる。
もちろん、それが事件に関係のある人物だということを前提に考えてのことであるのだふぁ、ここで、被害者は殺された状態で部屋に戻されたのか、それとも眠った状態で返されて、自殺を装うような状況にしたのかであるが、これはあまり迷うことはない。当然後者が考えられる。
まず一番の証拠としては、例のシートの中で、かおりの髪の毛はたくさん発見されたが、血液反応はなかったという。水道を流しっぱなしにしているのも、血液の噴き出しに備えるためなので、違和感はない。
だが、他で殺されたということになると、なぜわざわざ他で殺す必要がある。眠らせて無抵抗の人間の手首を切るだけで事は足りるであろう。
もう一つの疑問は、この三人と、深沢はどういう関係なのかということだ。
深沢は敢えて、これを殺しだといい、他で殺された可能性があると言及した。どうして彼がそのことを知っていたのか、まさかとは思うが、殺しだということを言いたくて、苦肉の策に、殺害現場が他ではないかなどという、捜査を混乱させる発言をしたのだとすれば、当てずっぽうに振り回されそうになったが、たまたまその通りだったということだっただけなのかも知れない。
しかも、自分の当てずっぽうをいかに正当性を与えるかということで、犯人があたかも大久保であるというような、確信めいた言い方をするしかなかったのではないだろうか。
だが、そうなると、彼がこの事件の犯人ではないとすれば、一体どこまで知っていて、どこまで関わっているというのだろう。あくまでも犯人ではないという仮説からの判断であるが、大久保を名指ししたのは、思いついた名前が大久保しかいなかったからではないだろうか。
考えてみればこの事件で犯人らしいと言える人間は大久保しかいない。あくまでも、
「犯人らしい」
というのは、かおりとの関係という意味で、その性格や風貌からではないことは、誰の目にも明らかなことだろう。
「この事件に真犯人なんているんだろうか?」
という、根拠のない当てずっぽうな考えが、頭をよぎった。
この場合の真犯人が誰を意味するかによって、事件の全貌が明らかになってくることだろう。あくまでも真犯人と、実行犯が同じ人物なのかどうか、怪しい三人の出現で、そんな雰囲気を感じていた辰巳刑事であった。
辰巳刑事は、入っていく場面と出ていく場面を入念に見てみた。すると、少し前と後で何かが違っていることに気が付いた。
まず気になったのが、三人の運び人の様子であった。
最初に運び込んだ時は冷静に、一糸乱れぬ雰囲気で、最初からの計画通りに動いているというイメージしかなかったのに、数十分してからエレベータから現れた三人は、どうも足並みが揃っていないように見えた。落ち着いている人もいれば、気が動転しているのか、自分で思っている以上に身体が動かないと思っている人、中で何をしたのか分からないが、疲労困憊なのだろう。さらには大げさな動きをしている人、この人は完全に気が動転しているようだ。
そんな風に三人を分析して見ていると、手に持っている袋の中身も、最初に持ち込んだものと明らかに違うことは分かった。
もっとも、最初に持ち込まれたのが、被害者の水島かおりだとすれば、出てくる時は、本当であれば、中身は空のはずである。それなのに、何か重たいものを抱えているというのは、彼らの計算にあったことだろうか。三人目の気が動転している男性の様子を見ていると、やはり何かがあると思わざる負えなかった。
出てきた時の袋の中身は、最初持ち込んだ時に比べて、却って大きくなっているように思えた。二人目の男性が疲労困憊しているのは、上での作業だけではなく、この中身の重たさに必死に耐えて持っているのではないかと思えたのだ。
「そうだ、中身は人間が入っていたのではないだろうか。これも微動だにしない。睡眠薬で眠らされているのか、それとも、殺害されたのか」
あまり考えたくはない突飛すぎる発想ではあったが、十分に考えられるものであった。
だが、そのわりに、髪の毛は被害者のものしか落ちていなくて、袋を調べたところ、もう一人の痕跡は残っていないような話だった。もっとも、睡眠屋のようなもので眠らされ、動けなくされて、最初の被害者を運び込んだと思われる状況で運び出したとすれば、不可能なことではない。
この時、辰巳刑事は気付いていなかったが、二人目の男性が疲労困憊しながら、必死になって運んでいるのだが、最初に入ってきた時は、まったくそんな素振りをこの男は見せていない。いくら中でいろいろ細工を行ったとはいえ、ここまで疲労困憊しているのに、最初はあんなに平然としていられるのが、不自然だということ。帰りの様子があまりにも三人が違いすぎたので、そこまで気付かなかったようだ。
それにしても、この三人は一体何なのだろう? まるで芝居に出てくる黒子のようではないか。決して目立つことをせず、むしろ観客に意識させてはいけない存在で、芝居を成立させるためには必須であり、欠かすことのできない存在、それが黒子というものではないだろうか。
もちろん、彼らの存在を意識されてはいけないのだが、実際には見えているので、いかに意識させないかというのは、一種のテクニックである。まるで忍者のように気配を消すことが要求される。最初に入ってきた時は、いかにも黒子のように一糸乱れず、呼吸もしているのかどうか分からないほど、その分、動きは目立つものではなかった。防犯カメラに収められたということで、その場にあまりにもふさわしくないので目立って見えるのだが、その場ではたぶん気配は消されていたに違いない。
誰にも会わなかったのは偶然だったのか、それともしっかり、エレベータの動きを見計らってのことなのか、きっとここまで落ち着いて行動していた黒子連中を見ていると、最初の計画では一糸乱れぬものがあったのだろう。ひょっとすると、彼ら三人はただのアルバイトではなく、どの道に当たるのか分からないが、
「その道のエキスパート」
と呼ばれる人たちだったのではないだろうか。
彼ら三人が、三階に上がってから、降りてくるまでに何かがあったのだろう。
これもちなみにであるが、辰巳刑事は気付いていなかったことであるが、彼らが最初にエレベータで降りた階は確かに、被害者の部屋がある三階だった。しかし、今度降りてきた時に彼らが何階から乗ってきたのかというと四階だった。四階にしばらく止まっていて、四階から下に降りてきた。その時途中で三階に止まるということはなかったので、明らかに四階から乗ってきたということは間違いないのだ。
しかし、彼らを発見し、その手に持たれた袋に何かが入っていると感じた時、どこの階から乗ってきたのかということ、そんなところまで目が行かなかったのは無理もないことだ。これは清水刑事であっても、門倉刑事であっても同じことだったかも知れないが、このことが事件に大きな影響を与えたということは確かであった。
この三人組に関しては、清水刑事が調べるということになっていたが、辰巳刑事も彼らが何者なのか、実際には気になっていた。ただ、直接事件に関係しているのかどうか、そのあたりがハッキリとしない。この事件に共犯はいるのかも知れないが、三人というのは、ちょっと考えにくい。
「共犯者というのは、犯行を確実にするために、必要な場合もあるが、共犯を持つということは、それだけ犯人にとってリスクの大きなものであることは、間違いのない事実である」
というのが、辰巳刑事の考え方だ。
いあ、辰巳刑事だけではなく、犯罪捜査に携わっている人皆が感じていることだろう。特に探偵小説などでは、結構な割合で共犯者というものが出てくる。その共犯者というのは、実際に手を下すわけではなく、犯罪の片棒を担ぐという程度のものから、主犯が犯罪の計画を立てるが、実行犯は共犯が行う。つまり、主犯には絶対のアリバイを作っておいて、共犯が実行することで主犯は容疑から外されるが、共犯にも殺害の動機がないという理由から、捜査線上に浮かぶことはなく、安全だということなのだが、実際に捜査していくうちに、犯人と共犯者の関係が分かってきて、共犯者が、犯人に弱みを握られていて、犯罪に手を染まざる負えなくなってしまうというパターンもある。
そんな時の主犯は、本当の悪党なのだろう。実行犯を自分の脅迫相手にやらせて、自分は蚊帳の外に置く。共犯はまったくの自分の手足、下手をすれば、共犯がどうなろうとも目的が達成されて、自分が無事であれば、それで何ら問題はないという考えだ。
そうなると、実行犯が犯罪を実行してくれれば、その後は完全な邪魔者でしかない。いくら脅迫をしていたと言っても、実行犯として働いてくれたのだから、それなりの報酬は与えただろう。そうして、自分がただの駒でしかないという考えを少しでも薄くして、相手を油断させる。自分のことを、少しでも味方だと思わせてことで、犯罪の後始末、いや、最終計画へと向かいやすくする。
つまりは、最終計画というのが、共犯者の処分であった。
なるべく、この事件とはまったく関係ないところで、この男が死体となって発見される。自殺を装うのでもいい。何しろ、脅迫されるだけの弱みを持っているのだ。主犯との共謀を疑われる証拠さえ残さなければ、共犯が自殺したことを怪しむことはないだろう。
まるでこの事件のような、
「自殺に見せかけた殺人」
ではないだろうか。
辰巳刑事はそんなことを考えていたが、ここでもこの考えはあくまでも想像上のこととして、考えてきた流れで生じた発想というだけでスルーしてしまった。もう少し深く考えていればと思うのだが、さすがにそれを期待するのは無理というものだ。
辰巳刑事は、まだいろいろ考えていたが、その中に実際、事件の真相に近づくような発想もあっただろうが、さすがに先ほどの発想のような重要な話があったわけではない。
辰巳刑事にとって、今回の事件はある意味特別な感情があった。
今度の事件は、自分が刑事になって最初に捜査した事件と似ているところが多かったからだ。
あの時も、被害者は最初、自殺をしたと思われていたが、これも先輩刑事の機転で、実は殺人であったということが分かった。その刑事と一緒に捜査に加わっていた辰巳刑事は、その事件において、先輩刑事がいろいろと新たな発見をすることで、急転直下の勢いで犯罪が暴露されていくことにショックを覚えた。
――こんなにすごい刑事がいるなんて――
と思い、その人と一緒に捜査に当たれることに対して、嬉しくて仕方がなかった。
感動に値するもので、
――このような、鮮やかな捜査ができるなんて、やはり刑事は持って生まれた素質と、経験がものを言うんだな――
と感じた。
ただ。その人は、
「俺には、持って生まれた刑事としての素質なんかないと思っているんだ。ただ経験が今の俺を支えているのさ」
と言っていた。
そして、事件の様相があらかた分かってきた頃になって先輩刑事が辰巳刑事に話したことがあった。
「辰巳君はたぶん、私がどんどん新たな発想を元に、事件を一気に解決したことで、ビックリしているんじゃないかない?」
と言われたので、
「ええ、すごいですよ。まるで名探偵が出てきて、次から次へ謎を解き明かしていくという鮮やかさに感動しています」
というと、その先輩刑事は苦笑いを浮かべ、
「それは、そう見えるだけだよ」
「どういうことですか?」
「実際には、君が思っているように、事件が最短距離で解決したわけではないんだ。僕が考えていた事件の解決イメージと、実際に今経穴に向かっている事実とでは、かなりの開きがある。君はきっと、私が的確な判断の下に、次から次に真実を明らかにしていったのだと思っているだろう? でも実際には、事実を見つける前に、その数倍の事実を見逃しているんだよ。たくさん見つけてきた中にどれだけの事実があるか。それをしっかりの見極めるのが刑事の仕事なんだろうが、そうすべて真実を見極められるなどということは、神様でもないんだからできるはずもない。そう思うといくら刑事とはいえ、事実を真実に変えるだけの力がそんなにあるわけではないんだよ」
というのだ。
その話を聞いた時、辰巳刑事は目からウロコが落ちた気がした。
先輩の話は、自分自身に言い聞かせているということでもあるのだろうが、後輩である自分にも捜査をしていて、行き詰った時に、少しでも思い出してほしい言葉として言ってくれたのだろう。
もちろん、刑事というものは、人から言われて、その通りにするものでもなければ、できるものでもない。そのことは、捜査をするうちに分かってくる。しかし、自分の経験が豊富になってくるうちに、忘れてしまう感覚もあるというものだ。その感覚を思い出すための起爆剤が、この時の先輩の一言になるのだろう。
つまり、基礎的なことを、基礎として解釈できなくなると、目指す者を見失ってしまうという観点から、
「原点に戻ることの大切さ」
というものを思い出すことができるかというのが大きな問題になってくる。
それが、この時の先輩の言葉となるのだろう。
辰巳刑事はその時の刑事の言葉を今でも胸に抱いていた。その刑事はしばらくしてから県警本部に呼ばれて、今では警部補として活躍しているという話だった。
「きっと、今でも初心を忘れることなく、捜査に勤しんでいて、後輩に対して、俺にしてくれたような話をしているんだろうな」
と、いう思いを馳せていた。
「刑事というのは、一筋縄でいくものではない。確かに経験は必要だけど、経験だけに頼ってしまうと、見失いがちになるものがある。それが一種の自信過剰ということになるのだろうが、経験はある意味自信に繋がるものではあるが、一歩間違えると過信にも繋がりかねない。それを忘れてはいけない」
というセリフは、清水刑事からの指摘であったが、清水刑事を見ていると、辰巳刑事は県警本部に呼ばれた先輩のことを思い出していた。
「君は、猪突猛進なところがあるが、しっかりと自分の状況を把握することもできると思っているんだ。だから、私は君に期待しているんだよ」
というのも、いつぞやの清水刑事のセリフだった。
辰巳刑事はこの署の刑事課に配属になって、コンビはほとんど清水刑事が相手だった。そろそろ配属になって三年が経とうとしているが、さすがにもう新人ではないが、中堅というところまでは言っていない。いわゆる一般企業でいえば、最前線での仕事をバリバリしているという年齢であろうか。まだ、上司が抱えているような悩みを考える必要のないレベルであった。
もちろん、清水刑事はそんな立場にいる彼だからこそ、彼の持っている本来の力が発揮できると思っていた。
彼の一番の特徴は。
「勧善懲悪」
という考え方だった。
しかし、一番いいところは、勧善懲悪でありながら、決して前のめりにならず、何が真実なのかをしっかり見極めるというところであった。
「事実の積み重ねが真実なのだが、真実がすべて事実だとは限らない」
という言葉も把握していて、それを自覚できることで、彼が刑事としてここまでやってこれた、そしてこれからの活躍も約束されているかのように感じさせるのだ。
清水刑事もそのあたりの考えを辰巳刑事の年齢の頃にはしっかりと思っていた。そんな清水刑事を買っていたのが、門倉刑事だったのだ。
ただ、清水刑事には、辰巳刑事のような、
「勧善懲悪」
の考え方が欠如していた。
むしろ、
「勧善懲悪を表に出してしまうと、冷静な判断で捜査ができなくなってしまう」
という考えを持っていた。
この考えの方が、本当は正しいのかも知れない。だが、清水刑事はその二つを兼ね備えている辰巳刑事が羨ましくて仕方がなくなっていたのだった。
辰巳刑事は、今自分の中で何かモヤモヤしたものを感じていた。それが何なのかすぐには分からなかったが。その正体が見えないところから、
「ステルス事件」
と命名した。
何か表に出てきている事実以外に、他に何か、事実が隠されているように思えてならない。それが別の犯罪のような気がして仕方がない。もっとも、それは今までに読んだ探偵小説の影響が大きいのかも知れないが、時々、他の人なら笑われるような発想を口にして、そのことが実際に的中することが多かった辰巳刑事にとって、この時に感じた。
「ステルス犯罪」
なるものが、実際には違う意味で表現されることが隠されていたのだが、まんざらそんなに遠いものでもない。
このことを恥ずかしさからか、思いついてはいたが、清水刑事にも門倉刑事にも話さなかった。それは、思いついた時が発想の絶頂であり、他に考えを巡らせていると、その発想が次第に色褪せてきたからだった。
今回の発想を、減算法にしてしまわなければ、ひょっとすると、辰巳刑事の発想が事件解決を急転直下させていたかも知れない。辰巳刑事は事件が解決してから、思わず
「ちくしょう」
と叫ぶことになるのだが。どうして辰巳刑事がそう思ったのか、誰にも分からなかった。そういう意味では、
「探偵小説というのもバカにはできない」
と言えるのではないだろうか。
清水刑事も門倉刑事も探偵小説をあまり読んでいない。熱心に読んだ時期があるのは辰巳刑事だった。その時の感情が、今の彼の骨子である「勧善懲悪」という感情を作り出しているに違いない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます