川口晴、ゾンビになる。
「す、すごいわ……!」
晴は自分の顔面を見て感嘆していた。鏡に映っているのは、紛れもない晴の顔だが、肌色はブルーベリー色に変色し、目を覆いたくなるような生々しい傷、目は死んだ生物のように白濁し、口からは獰猛な肉食獣のような牙が生えている。今の特殊メイクにかかれば、グロテスクなゾンビなんてすぐにできてしまう。あまりの出来の良さに自分の顔面をジロジロと観察していた。ちなみにゾンビメイクをした人が晴がいるメイク室にわんさかいて、談笑している様がとても変で可笑しい。
久々の演技ということもあって、晴は緊張していた。他の人が談笑している中、晴だけは誰とも話さず座っているだけだった。オーディションから一週間、ゾンビの演技を学ぶため、ゾンビ映画やゲームでゾンビの動きを学んだ。寝る間も惜しんで練習した晴だったが、自信よりも緊張が上回って膝が震えている。徹夜のせいで体調もよろしくなかったが、ゾンビメイクのせいで見分けがつかないので誰も気づかない。この場から逃げ出して、横になりたい気分だったがここにいる全員に迷惑をかけてしまう。どうしようか考えていると、心配そうな顔で覗く人物が横から現れた。
「あのー大丈夫ですか? 体調悪そうですけど?」
花のようないい匂いが鼻腔をくすぐる。顔を上げるとセーラー服姿の女性が晴の背中をさすりながら隣へ座った。
「たしかあなたは……?」
「初めまして、私は七瀬凛。あなたはもしかしてですけど……川口晴ですか?」
「ええ、そうですけど」
晴がこくりと頷くと、凛は目を輝かせ両手を握った。
「やっぱり! 私、あなたに憧れてこの世界にはいったんだ! すごい! 本物だ~!」
七瀬凛。ゾンビメイクをしていない彼女が、晴の受けたオーディションで主役を勝ち取った新人女優でこれが初演技らしいが、全く緊張した素振りはなかった。
「てっきり引退したと思っていたから、一緒に演技出来て本当に嬉しい! あって数分で図々しいと思うけど、晴ちゃんって呼んでいい? 私の事は凛でいいからさ!」
「え、ええ……よろしくね、凛」
凛は興奮ぎみにスマホを取り出すと、連絡先を交換するようにせがんできた。断る理由が特になかった晴はそれに応じて交換した。それからしばらく談笑した。好きな映画は?食べ物は?趣味は?みたいな本当に他愛もない会話をしていた。基本的に凛が積極的に話しかけてきたので、物静かな晴との間に沈黙が訪れる事はなかった。そして、本番が始まる頃には晴の体調は良くなっていた。
「あ、もう本番か~。緊張してきた!」
「まあ、ぼちぼち頑張ればいいんじゃない」
「さすが先輩、落ち着いてるね!」
「凛とさほど変わらないわよ。ほんのちょっとだけ経験値が多いだけの素人よ」
「ぷぷっ……あはははは!」
冗談交じりに笑う晴を見て、いきなり噴き出して顔がくしゃくしゃになるほど笑い始めた。晴もいきなりの事で困惑している。
「ご、ごめん! ゾンビ顔でアドバイスしている晴ちゃんみたら笑いが……!」
「本気で噛みつくわよ」
「きゃー! ゾンビだー! 逃げろぉ!」
獰猛な牙を見せつけると、凛は子供みたくはしゃいで逃げ始めた。普段なら何もアクションを起こさない晴だが、気分が上がっていたのか同じくはしゃぎながら凛を追いかけた。数秒鬼ごっこをしていたら、二人ともスタッフに注意をされた。高校生にもなって、何やってんだろと我に返った二人は恥ずかしそうに笑い合った。
程なくして撮影が始まった。出番がくるまで大分時間があったため、晴は凛の演技を見学することにした。凛が演じる主人公の女子高生が目を覚まし、階段を降りると母親が父親を食い殺しているところを目撃してしまったシーンから始まった。食い殺しているシーンは生々しい音も相まって、胃酸がこみあがってきた。しかし、それ以上に注目するのは、凛の演技だった。
「い……嫌ややああああ!! 母さん!うぅ……おえええ!」
演技未経験者とは思えない演技力、晴は自然と唇を嚙んでいた。あれだけ必死に努力した自分よりも遙かに上手い。もし、自分が同じ、もしくはそれ以上の演技を求められても、晴には到底無理だと感じた。これから、どんどん経験を積んでいけば間違いなく凛は誰からも認められる女優になるだろう。粗削りだが磨けば間違いなく目を引く程のダイヤモンドになるだろう。それに比べれば宝石並みに光るだけのただの石に過ぎないと分からせられた気分になった。嫉妬という黒い感情が晴の内側で増殖を始める。こんなに努力しているのにどうして?どうして私ばかりこんな目に?頭も痛くなってどうにかなってしまいそうな気分になっていた。
今すぐ家に帰りたい気分になっていた晴だった。しかし、その感情が浅はかで愚かだとすぐに気付かされることになった。一旦休憩を挟んでの撮影、まだ晴の出番はなく今度は主人公の女子高生がゾンビになり果てた母親を殺すシーンの撮影が始まった。パンデミックが起き荒れ果てた道路に転がっていた日本刀を拾う主人公、そこに執拗に追いかけてくる母親が現れ、涙を流しながら居合を構えてる。
「ごめん……ごめん! 母さん、ごめんなさい!」
次の刹那、彼女の目に鬼が宿る。実の母親を殺さなければいけない悲しみ、パンデミックを起こした顔も知らない奴に対する憎しみ、何も救えない自分の無力さに対する怒り。色々な感情が入り混じった目。その目に全員息を呑んでいた。演技未経験の女子高生が到底出来る目ではなかった。この瞬間、凛を天才だと強制的に理解させられた。
あまりの凄みに晴の黒い感情は消えていた。カットがかかった瞬間、拍手が響き渡った。
「疲れたー! あ、晴ちゃんお疲れ!」
撮影を終えた晴が控え室へ戻ると、壁際に置かれたパイプ椅子に糸が切れた人形のように、だらしなく椅子に座る凛がいた。本当に疲れていたのか晴がきても、起き上がることなく顔だけを晴に向けている。ちなみに晴の出番はパンデミックが起きて逃げ惑う人を襲うシーンだけで、正直大して疲れていなかった。すでにメイクを落としていた晴はパイプ椅子を移動させると、隣へ腰かけた。
「初めての撮影はどうだった?」
「正直、疲れたの一言に尽きるよ。晴ちゃんは余裕そうだね」
「そりゃワンシーンしかないし、疲れる訳ないじゃない」
当然よとクスッと笑う。凛は「それでもすごいよ」と晴を見て微笑むと、大きくあくびをして体を伸ばし姿勢を正した。
「そうだ! 最近出来た銭湯にいかない? 色々な風呂があって楽しいんだって!」
こういう誘いはあまり得意な方ではなかった。適当な理由をつけて帰ろうとした晴だったが、それを見越しての行動なのか凛は晴の胸をめがけて抱き着いてきた。急なことに晴は一瞬、反応が遅れる。その隙に凛は二つの膨らみを優しく揉みだした。
「ちょ!? 何してんの?!」
「今日は絶対に付き合ってもらいますからね~! ほれほれ!」
妙に手つきがいやらしくて抗おうとするも、上手く力が入らず体をくねらせることしかできない。
根負けした晴は赤面しながら、凛の提案を首を振って受け入れるしかなかった。
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