第7話 転落の真相
教授は意識はあるが、まだショックが残っているようで、念のためということで、一日だけ集中治療室で養生し、翌日から個室に移るということになったようだ。当然初日は面会謝絶なので、病院に行っても意味がないので、翌日行ってみることにした。
といっても、玲子はただ先生の講義を受けているだけの学生というだけなので、一人で行くのは無理なので、ゼミ生である友達がお見舞いにいく時に一緒に行くという形式を取った。
まさか、前の日に、彼女や喫茶店のマスターと教授の事故から派生し、予知夢の話になったなどということは言えなかった。それをいうためには、例のおかしな連中の会話、つまり、「殺人未遂までの犯罪」という話をしなければならない。
そうなってしまうと話が長くなってしまうし、教授の疲れを考えると、余計なことをまだいう段階ではないということだ。
病院は大学から少し離れたところにあり、教授の家からも決して近いわけではなかった。ではどうしてその病院になったのかというと、考えられることは二つある。
一つは、教授が転落した歩道橋に近い場所の病院に運ばれたということだ、現場から一番近い救急病院に搬送されたと考えるのが一番である。
もう一つは、近くの救急病院が受け入れできず、仕方なく、こちらに回されたという考え方だ。だが、すぐにその疑問は解消したのだが、こういう疑問を一つ一つ抱いて、どうでもいいことでも、何かヒントになることがあるというのが、玲子の考えで、気になったことは簡単にスルーすることはなかったのだ。
結論としては、前者の方で、教授が大学とも家とも違うところを歩いていて、そこで突き飛ばされたということであった。
だが、二人は教授に遭うまでは知らなかったことだったが、教授の部屋に入り、
「大丈夫ですか?」
と言った途端の、教授の顔を見た友達が急に固まってしまったのを見た玲子は、一瞬何が起こったのか分からないと感じた。
すると、友達が何とも言えない悲しそうな表情になるのを感じ、教授を振り返ると、教授はまったく表情を変えようとしていない。完全に虚空を見つめていて、何を考えているのか分からない感じだった。
玲子にもその理由が分かってきた気がした。
――ひょっとして、教授は記憶喪失なんじゃないかしら?
という思いだった。
頭に巻かれた痛々しいばかりの包帯を見ると、よくテレビで頭を打って記憶喪失になった人のシチュエーションに似ている。まるで判で押したようなイメージではないか。
そう思うと、玲子は教授を見て、自分までも情けない表情になるわけには行かないと思い、毅然とした表情を見せていたが、教授の何とも言えない無表情さに、何か果てしない不安が漲っているかのように思えて。
――ここからできるものなら、逃げ出したい――
と感じ、今まで何を勇んでここまでやってきたのか、その意義がまったく失われてしまったことに気がついた。
友達はまだ苦み走った顔をしている、その顔は気の毒だというよりも、まるでありえないとでも言わんばかりの恐怖が、何か見てはいけないものでも見たかのように、打ちひしがれてでもいるかのようだった。
「教授、もう警察の方の事情聴取は終わったんですか_」
といきなり友達が聴いた。
彼女は相変わらず唐突で、時として相手に気を遣うというころを忘れてしまう。しかし、彼女の唐突さは偶然なのか、今まで相手を怒らせたことはない。相手が怒らないと分かって唐突に聞いているようだった。それが彼女の特技なのか、本当に分かっているのかまでは分からなかった。
「ええ、終わりましたよ」
教授は、そう殊勝に答えた。
――おや?
玲子は、教授の言葉を聞いて、何かが違っていることに気付いた。
明らかにいつもの教授と雰囲気が違っている。普段は高圧的と会で言わないまでも、もう少し威圧感のある上から目線のように見え、いかにも共助という雰囲気を醸し出しているのに、この日はまるで他人が来たかのような様子だった。
確かに、けがを負わされ、頭には痛々しい包帯が巻かれた状態で、昨日はいくら念のためとはいえ、集中治療室にいたのだから、このような様子も分からなくもないが、どこか目の視点が定まっていないように見え、その先は虚空を見つめているようでしょうがなかった。
――夢でも見ているというような表情に見える――
と、玲子は感じたが、一体どうしたというのだ。
玲子はすぐに何がどうしたのか、分からなかった。
「教授は、昨日どうしたんですか? 歩道橋から転落したという話だったんですが」
と友達は聞いた。
「ああ、そういうことらしいんだけど、何が一体どうなったのかがよく分からないんだ。ただ意識の中に、背中を押されたという記憶が残っているんだけど、落ちていく瞬間、まるでスローモーションのようにゆっくり落ちている感覚があったからなのか、普通のスピードで落ちていく自分の残像のようなものが見えていて、『自分もこのままあの後を追って落ちていくのか』と感じたんだよ。そのことだけは、今でもハッキリと覚えているんだ」
と教授は答えた。
「それを警察に話したんですね?」
「話した。メモを取っていたようだけど、私の話から何を感じたのかまでは分からなかった」
「ところで、教授はその場所はよく通る場所だったんですか?」
と聞かれた教授は、
「たぶん、時々通る場所だったと思うんだけど、私がその道を歩いていたというのは、意識が戻ってから教えられたものなんだ。つまり、今朝警察の人から初めて聞かされたと言ってもいいだろう」
「教授はどこに行こうと思っておられたんですか?」
「それがよく覚えていないんだ。誰かに遭いに行こうと思っていたことは確かだと思うんだけど、それが誰かの家なのか、それとも待ち合わせの場所なのかも分からない」
「でも、待ち合わせだったとすれば、教授がその場所に現れなかったのだから、相手から何か連絡が入っているかも知れませんよ」
と言われて、教授はスマホを取り出して見せた。
「そう思って私もスマホを確認したんだけど、スマホには何も送信がない。誰かと場所と時間を決めて会うという約束をしていたわけではないということなんだろうね」
さすが教授、記憶は曖昧だが、捉えるところはしっかり捉えている。
意識の方は実にしっかりしているということであろう。
教授は続けた。
「そこで私は考えたんだけど、私が目的の場所に行こうと思ったのは、自分の意志ではなく、誰かに呼び出されていたのではないかと思ったんだ。もし、そうであれば、呼び出された場所に来なかったことに対して相手が何もアクションを起こしていないのであれば、その呼び出した人間が私を突き落とすために、呼び出したんじゃないかとね」
という推理を立てているようだ。
ここまで聞いてくると、教授はどのあたりまで深刻なのか分からないが、明らかに記憶が欠如していることは間違いないようだ。しかし、普通の記憶喪失とは違っているような気がする。普通の記憶喪失であれば、過去のことを思い出そうとすると、多少なりとも頭痛を伴うおのだという意識が玲子にあったからだ。
それは、過去のことを想像するのも同じことで、想像は結果、記憶の呼び起こしと同じことになると考えたからだ。
「ちなみに、教授は誰かに突き飛ばされたとして、その心当たりはあるんですか?」
と、友達がまたしても、核心を突いた聞き方をした。
その都度、ドキッとしてしまい、胸の鼓動がハンパでなくなる玲子だったが、教授はそのことに怒りを示すこともなく、
「それがまったくないんだ」
と答えるだけだった。
――本当にこの人は、運がいいというべきなのか、今まで誰かに怒られたことなんか、なかったんじゃないか?
と感じるほどだった。
「でも、誰かに呼び出されたと考えるということは、何かそういう意識がないと出てこないですよね。煙のないところに火は起きませんからね」
とまたしてもズケズケという。
「呼び出されたというのは確かに君のいうとおり、普通なら感じないことなんだろうけど、今は記憶の方が曖昧な状態ではあるんだけど、不思議と意識はしっかりしているんだ。そのせいもあってか、冴えているというか、頭が回転してくれるようなんだ。だからきっと、誰かに呼び出されたのではないかと思い、その意識を頭の中で再現できるような気がしたんだね。そして、その意識に矛盾がなかったことから、呼び出されたというのも、かなり信憑性の高い発想ではないかと思ったんだ。そうじゃないと、私は確信に近いことでないと、そう簡単に口にはしない性格だったと思うので、自分の中にしまい込んでしまうのではないかと思うんだ」
と教授は言った。
確かに教授は、講義の最中でも、今のような話をよくしていた。
「私は、自分で確証を得たことでなければ、口にすることはないんだ。それが大学教授の性のようなものじゃないかと思っているんだけどね」
と言っていたものだ。
玲子が、佐藤教授の単位を貰えるか貰えないかの瀬戸際の時、できる限り講義には出ていたので、そのあたりのことは分かっているつもりでいた。
友達は教授の話を聞いて、どう思ったのだろう?
玲子の方では、これ以上教授からは新しい情報を得ることはできないと思っている。まさかいくらズケズケと質問する友達でも、マスターが聴いたというそんな怪しい話をいきなり病人にぶつけるようなことはしないだろう。
ただ、教授の記憶が欠落しているというのは、少し痛かった。だが、玲子もそのあたりに一抹の不信感は抱いていた。
――何かの理由があって、突き飛ばされたことには間違いないのだろうが、教授はその犯人を知っていて、庇っているという考えも成り立つ。そのために、記憶が曖昧なふりをしているとも考えられなくもないだろう――
と考えたのだ。
玲子と友達は、そこで目を合わせて、お互いにもう何も聞くことはないということを感じると、
「じゃあ、お大事になさってくださいね」
と言って、席を立ち、二人は病室を出て行った。
一人になった教授はまた表を見ているようだ。やはり記憶を失っているというのは、虚偽ではないのだろう。
ちょっと、医者に聴いていようか?
と言って、友達が医局に行って、主治医の先生に話を聞いてみることにした。
先生はちょうど患者を見まわった後だったらしく、面談を申し込むと、すぐに案内してもらえた。
「私たち、大学で教授のゼミで一緒に研究をさせていただいている学生なんですが、教授がけがをされたということでお見舞いに来たんです。先ほど、お見舞いを済ませたんですが、どうもいつもの教授とは雰囲気が違っているし、話をしていても、要領を得ないところが多いんです。この後、教授とどう接していいのかというのも含めて、教授が今どんな状態なのかというのを、お教えいただけませんか?」
と友達は言った。
こういう時の友達は実に頼もしい、このような理由であれば、教授の方も少しでも話しやすくなると思ったのだろう。
――彼女は人に気を遣っていないように見えて、ちゃんと捉えるところは捉えているんだな――
と思わせる瞬間だった。
「教授の怪我の方は、全治一か月くらいなんじゃないかと思います。最初はもう少し早いかと思ったんですが、頭の打ちどころが微妙だったので、大事を取って、二週間は入院が必要だと思います。ただ、その頭の打ちどころのせいなのかも知れませんが、記憶が欠落している部分があるようです。その欠落は繋がった部分の欠落ではなく、ところどころに穴が開いたような欠落の仕方なんですね。そういう意味では、重症ということではないと思います。記憶はいずれ戻ってくるものだと思いますし、そこまでは心配していませんが、警察の方は困っているようでした。肝心に被害者の記憶が曖昧だということは、そういうことなんでしょうね」
と言っていた。
「ところどころの記憶が曖昧だというのは、昨日のことだけではなく、その前の記憶からということでしょうか?」
「ええ、そうだと思います。ただ、昨日起こった事故が原因で記憶を失ったわけですから、昨日のことはトラウマになっていることは間違いないと思います。だから、あまりまわりの人もそのことで教授を責めたりはしないでいただきたい。もし記憶が自然と戻ってきているとしても、変な刺激を与えると、せっかく戻ってきた記憶が元に戻るかも知れないからですね。そしてもっと危惧するのは、元に戻るだけではなく、もう二度と思い出せないような結界を作ってしまわないかという懸念です。まるで病原菌に一度侵されると、次からは侵入されないように、身体の中に抗体を作っているというあんな感じでですね」
と医者は言った。
「なるほど、その可能性があるわけですね。私もそんな気がしていたので、そのあたりを先生にお聞きしたかったんです。先ほどは教授もよく分かっていなかったようなので、責められているという意識がなかったんでしょうね。私も気を付けるようにします。でも、警察の方はどうなんでしょうか? また事情聴取に来られるのでは?」
と友達が聞くと、
「それはちゃんと警察の人にも説明をしています。私は主治医として、事情聴取の許可も内容の検閲も前もってしていたつもりですからね」
と、先生は自分の立場を強調した。
「よく分かりました。私たちも気を付けるようにいたします。他に教授について何かありますか?」
と聞くと、
「患者さんの家族が誰も来ないんですが、あの患者さんはおひとりなんですかね?」
と聞かれて、
「ええ、確か独身で一人暮らしだと思いますけど」
というと、先生は少し怪訝な表情をした。
「どうしたんですか?」
と聞くと、
「いえね。時々ですね、急に寂しそうな表情になるんですよ。しかも唐突に、誰かを思い出しているんじゃないかと思ったんですが、家族ではないということですね?」
「ええ、そうだと思います」
「記憶が曖昧な人は、唐突に寂しそうな様子になることは結構あるんですが、そういう時というのは、誰かを頭の中に描いていて、その人のことが思い出せないということで寂しそうになるんです。唐突というのも、きっと唐突に頭の中に残像のような記憶がよみがえってくるからなんでしょうね。ただそれが中途半端なので、余計にストレスになってしまう。それが普段は見せることのない露骨な寂しい表情になって、こちらを見るんです。教授を見ていると、いかにもそんな雰囲気に感じられて仕方がありません」
この話を聞くと、
――教授は心の中に誰か決めた人でもいるのではないだろうか。もうすぐ誰か自分が結婚でもしようという覚悟を与えてくれるような女性の存在――
を意識したが、二人に分かるはずもなかった。
「ありがとうございました。何となくですが、気を付けることも分かってきたので、もしまた迷うようなことがあれば、先生に相談に参ります」
と言って、二人は先生の部屋から出て行った。
先生も友達のしっかりとした言い回しに感嘆を覚えたのか、結構話をしてくれたような気がする。
特に最後の話など、興味深いところであり、普通なら、ここまで誰にも話さないのではないかと思えることでも話してくれたのにはびっくりした。
二人は病院を出ると、表の庭のベンチに腰を掛け、
「さあ、これからどうしようか?」
ということになった。
玲子が一つ気になっていたのは。
「昨日の話なんだけど、例のマスターが聴いたという殺人未遂までという話のこと、警察に言わなくてもいいのかな? 実は同じ話を、私も聴いた気がしているのよ。私はずっとそれを夢の出来事だったんだって思っていたんだけどね」
と玲子は言った。
「夢の話だと思っていたということは、夢を見たという意識があったということですか? それとも夢から覚めて気が付いたんですか?」
と言われて、
「それがね、夢から覚めた時は、ベッドの中ではなかったんですよ。本当に夢だったのかと言われる、目が覚めた場所が喫茶店ではなかったので、夢だと思ったんだけど、眠っていたのかどうかも曖昧な感じですね。記憶を失うというのは、ああいう感じなのかも知れないって思ったくらいです」
最後の一言は自分でもビックリした。
意識して言ったつもりではなかったのだが、それがあたかも、教授が記憶喪失だということを仄めかしたような感じとなったことが気になったのだ。
「確かに夢の中では記憶が飛んだような気になるものですよね。時系列がハッキリしないのもそのせいなのかも知れないって思うんです。でも、夢というのは面白いもので、私が聞いたところによると、『どんなに長い夢であっても、目が覚める寸前の数秒くらいに見るものだ』って聞いたことがあります」
と友達がいうので、
「そうよね。私も同じ話を聞いたことがあるわ。私の中では、夢というのが潜在意識が見せるものだという認識があるんですよ。だからかも知れないけど、起きてから覚えている夢と覚えていない夢があるって認識しているんですよ。覚えている夢は怖い夢が多く、楽しくて、もう一度見たいと思う夢は得てして見ることはできないんじゃないかって思うんですよ」
と玲子がいうと、
「でも、私は少し違う考えがあるんですよ」
「どういうことですか?」
「夢というものは、睡眠中に必ず見ているもので、夢を見たということを意識させないほどの夢があって、その存在を分かっているのか分かっていないのか、それとも、それすら夢だと思っているのかも知れないです。笑う話のようですが、まるで『夢を見ているという夢を見た』というような感じですね」
と、友達は言った。
この考えは今までにあったわけではない。だが、友達の話を聞いていると、限りなく真実に近い話に思えてならなかった。
「ところで、さっきの話、やっぱり警察にいうのは、あまりにもなのかしら?」
と玲子がいうと、
「そうね。まず信じてもらえないわお。万が一そういう話を聞いたとしても、学生が話していたのだから、何か舞台か何かのストーリーだと思われて、それ以上はまともに聞いてもらえないわよ」
というので、
「そうね。私だって最初に聴いた時、耳を疑ったもの。それに、そういう話があったからと言って教授の事件との関連性を結び付けようとするのは、かなり強引なことよね」
「ええ、その通りですね」
「じゃあ、とりあえず、昨日の喫茶店に行きませんか? マスタも話に加わっていたんだから、話を聞く権利はあるんじゃないかしら?」
というので、二人はさっそく電車に乗って、行ってみることにした。
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