第8話 マスターの思惑

「まるで大学に通うみたいね」

 と友達が言ったが、普段は早朝しか行かない店なので、夕方に顔を出すというのは何か違和感がある。

 そもそも、夕方から大学のある駅で降りるというのも、ほとんどないことなので、違和感だらけだった。

 その日の夕方は、昼間まで少し曇っていた天気もすっかり晴れていた。昼間まではヒンヤリしていた気がしたが、夕方になってくると、汗ばむくらいになっている。西日が暮れる前の最後の力を振り絞っているのか、日差しがつよく、自分の影がこれでもかと思わせるほどの長さを示していた。

 自分から見ると、自分の影には違和感はないのだが、人の影はどんなに近くにいても、歪な感じにしか見えてこない。友達の影も細長く、これ以上ないというくらいに歪に揺れ曲がっているようだった。

 その様子はまるで、

「メビウスの輪」

 を見ているように、捻じれた空間が、存在しているように思わせるという意味で、それこそ夢の世界を見ているかのような感じだった。

 店の中に入ると、店の中は今までに見たことのないコントラストを描き出していた。パステルカラーが滲み出ていて、ステンドグラスがついているかのような感覚に、

――以前にもどこかで?

 と思ったが、あれは、二年生の時に友達と一緒に行った長崎での修道院で見た光景と同じではなかったか。

 確かあの時も一緒にいたのが、今日も行動をともにしている彼女で、その時の様子を思い出していると、

――外人が多かったな――

 というイメージであった。

 長崎は貿易港でもあり、異人館などもあるので、外人が多いのも当然なのかも知れないが、横浜や神戸ほどでもないのに、それを感じるのは、都会というイメージが長崎にはなく、湾を中心に、山が聳えている限られた場所に人が住んでいるからであろう。

 考えてみれば、原爆の被害も、威力とすれば、広島方の一・五番だったというにも関わらず、被害人数は長崎の方が少なかったというのは、それだけ人口が少なく、山で遮られたというのがあったからかも知れないと思った。

 坂が多い長崎は、やはり他の街とはどこか違っていた。同じ九州でも、博多や熊本、鹿児島とはまったく違った趣があり、全国的にもイメージの違いを感じさせられた。

 この喫茶店の雰囲気に、大正ロマンを感じさせられたことがあったが、マスターが、

「大正時代当時のカフェを少しイメージした」

 と言っていたが、そもそも大正時代のカフェがどんなものなのか知らなかったこともあって、想像に絶するものであった。

 大正時代には、モガ、モボと呼ばれていた人がいるという。いわゆる、

「モダンガール」、「モダンボーイ」

 の略であるが、玲子のイメージは、白目のスーツにステッキを持って、ハットをかぶった口髭を生やした紳士が店の客としている雰囲気と、給仕をしている女性は、今でいうメイド服を着ているか、羽織袴姿の和風の雰囲気かというイメージが強い。

 洋食を嗜み、ステーキやハンバーグなどがテーブルの上を賑わせているというイメージが元々あったのだが、ほとんど初めてと言ってもいい夕方に来ると、そのイメージがシンクロしてくるのを感じたのだ。

 店の中はほとんどお客さんはいなかった。

「いらっしゃい」

 とカウンターの中からマスターの声が聞こえた。

 普段他の客さんがいる時は、そんな声を掛けることはない。お冷を出した時に、

「いらっしゃいませ」

 と静かにいうだけだった。

 考えてみれば、このお店に客がいない時入ったことはなかった。朝であれば、どんなに少なくとも常連と思しき客が数人はいたからである。

 大学生もこの時間はすでに講義もほとんどなく、皆帰宅したか、街に遊びに行っていることだろう。わざわざ大学の近くで夕飯を食べようと思ったとして、喫茶店に入ることはない。近くには中華料理の店やファミレスもあり、わざわざ喫茶店で食事を摂ろうという人もいないのだろう。

「夕方というのは、こんなものなんですか?」

 と玲子が聞くと、

「ええ、そうですね。日が暮れてから数人の常連さんが来ることはありますが、それもサラリーマンの人ですね。大学生の人が来ることは、ほとんどないですね」

 と言った。

 玲子は先ほどせっかく大正ロマンの洋食屋を思い浮かべたのだから、イメージしたものにしようと思い、ハンバーグセットを注文したが、友達も同じものを注文した。

 客がいないので、マスターが奥に入り、手際よく料理を作っているようで、すぐに注文した料理が出来上がってきた。

「これはおいしい」

 とお世辞抜き緒おいしさに舌鼓を打っていたが、満足したマスターはニコニコしていたが、さっそく本題に触れてきた。

「教授の方はどうでした? お二人が家に帰らずわざわざ寄ってくれたということは、私に報告してくれようという思いがあったからなんでしょうね」

 と察しのいいマスターには分かっているようだった。

「ええ、昨日のお話があったものだから、マスタにはちゃんと報告しないといけないと思いましてね」

 と友達が言った。

「それはあわざわざありがとう。僕も気になっていてね。何しろ殺人未遂までだって話だったからね。もっとも、本当に彼らの犯罪だとすればの話なんだけど」

 とマスタは言った。

 ここで玲子は違和感を覚えた。

「教授はそんなにあの時の話と、教授の今回の事故を結び付けたいようですね」

 と思い切っていってみた。

「だって、あんな話を聞いたあとだからね、もし教授が助かったのであれば、その連中が何らかの関与をしたと考えてもいいのかなって思ったんだ」

 とマスターは言った。

「マスターの気持ちも分かるけど、でもあの時の話を聞いて、私はそんなに怪しい人たちではなかったような気がするんですよ」

 と玲子がいうと、

「確かにそうかも知れないね、私の思い過ごしであるなら、それはそれでもいいんだ。じゃあ、教授は誰かが殺そうとして突き飛ばしたということになるんだろうね」

「そうなのかも知れないし、そうじゃないかも知れない。教授は自分が突き飛ばされたと言っているようだけど、それも怪しいしね」

 と、今度は友達が言った。

「どういうことなんだい?」

 とマスターが聞き返す。

「教授は記憶がかなり欠落しているらしいの、すべてを忘れているわけではないらしいんだけど、相当過去のことが曖昧なんだって」

 と友達が言うと、その時マスターは何とも言えない不思議な表情をした。

 まっすぐに前を直視し、その先は虚空であることを確認しての直視に感じた。その表情には険しさがあり、次第に目が泳いでいるように思えた。明らかに何かに動揺しているかのようだった。

 玲子も友達も、マスターに話しかけることはできなかった。マスターが正気に戻るのを待つしかなかったが、いつ果てるとも知らぬマスターのこの表情は、いきなり元に戻ってきた。

 その間、数十秒くらいのものだったはずだが、玲子には十分近くに感じられた。それだけこの空間だけ違う空気が流れていたのではないだろうか。

「どうしたのマスター?」

 と、顔色が真っ青、いや、真っ白にすら感じられるマスターの顔を見るとまるで、

「心ここにあらず」

 と言ったイメージだった。

 実際に、見つめていた虚空の先に、誰かをイメージしていたように感じたのは、玲子だけだっただろうか。友達も同じことを考えていたとしたら、そこにいるのは一体誰だったのだろう。

 マスターは、だいぶ白くなりかかった髪の毛はさらに真っ白になったかのように見えて、昔、映画で見た狂気の博士の形相を思い出していた。

 映画の中の博士は、自分を失脚させた世間や学会連中への復讐のために、鬼となり、復讐兵器を製作するという映画であったが、博士の開発シーンが生々しく描かれているシーンでは、白衣を着た博士が、研究室で科学実験を行っていたが、その白髪はすべての毛は逆立っていて、顔はまるで能面の鬼のような形相であった。

 映画の演出で、薄暗い中、下から当てているライトに照らし出され、見るにも無残な思いを感じさせる形相は、見るに耐えられるものではなかった。

 さすがにそこまでひどい形相をしているわけではないマスターだったが、その表情の先に見えるものが何なのかを想像しないわけにはいかないと思わせるほどのものであった。

 そういえば、マスターの年齢はいくつくらいなんだろう? いつも無意識に考えていたのだが、聞いてみたことはなかった。ずっと、

「三十代後半くらいじゃないか?」

 と思っていたが、これだけ白髪が目立ってくると、ひょっとすると、もう五十歳近かったりするのではないかとも思えていた。

 考えてみれば、玲子の父親もまだ四十歳代だ。まだ前半だったかも知れない。そう思ってマスターを見ると、同年代くらいにも見えてきた。喫茶店のマスターというイメージで見ていたからか、父親ほどの年だと感じたくないという意識があるのか、どうしてもひいき目に見て、まだ三十代だなどという思いに駆られていたのかも知れない。

 マスターが、時々、大学生の女の子を見る目が遠い目であるのを感じたことがあった。厭らしいという目ではなかったが、まるで父親が子供を見るようなそんな目だった。

 大学の近くで喫茶店を経営し、ずっと女子大生を見てきたことで、まるで親になったような気持ちになるという感情移入があったとしても、それは無理もないことだったのではないだろうか。

「ああ、ごめんごめん。記憶を失っているという話を聞いたことで、ちょっと考えることがあってね」

 とマスターが言い出した。

「どういうことなの?」

 と友達が言うと、

「実は二人には黙っていたことだったんだけど、私には娘が一人いるんだ。もう大学生なんだけど、実はこの大学に通っているんだ。でも、私はあの子はまだ小学生の時に離婚したものだから、一緒には住んでいない。一応定期的に会うことができるので、よく娘はこの店に遭いに来てくれていたんだよ」

 というではないか。

「そうだったんですね。マスターとはいろいろお話をすることもあったけど、マスターはあまり自分のことを言わないので、こっちも聴いちゃいけないのかって思っていたけど、それは正解だったのかも知れないわね」

 と友達がいうと、

「うん、聞かないでくれていたのは、本当に感謝したいくらいなんだ。実はその娘なんだけど、数か月前に自殺を図ったんだ。幸い命はとりとめたんだけっど、それから少しの間意識が戻らなくてね。医者からは、『もう少し待ってみて、意識が戻らなければ、このままかも知れない』と言われて愕然となったんだけど、何とかそれから少しして意識が戻った時には、本当に神様はいるんだって思ったよ。でもね、その娘は少しずつ回復していったんだけど、どうも記憶がないようで、私のことも、母親のことも思い出せなかったんだ。だから自殺をしようとした理由もハッキリと分からない。それを思うと、娘は生きているんだけど、本当に生きているのかが分からない、そんな感じになってしまったんだよ」

 と言って、うな垂れていた。

 玲子も友達もそんなマスターを見て、掻ける言葉が見つからない。下手な慰めはないに等しいのは分かっているからだ。二人はまたマスターが話し始めるのを待った。すると、それはそんなに時間が掛かるものではなかった。

「今の教授の記憶が欠落しているという話を聞いて、思わず娘を思い出してしまったんだ。私はここでは、なるべく娘のことは思い出さないようにしている。思い出してしまうと、仕事にならないのが分かっているからだ。私はいつもポーカーフェイスのように見えているかも知れないけど、実はこれでも結構無理をしているんだよ。だから教授の話が娘とリンクしてしまった瞬間、私は金縛りにでもあったかのようになってしまったんだ。せっかく教えてくれようとしてくれている二人には本当に申し訳ないと思っているんだよ」

 とマスターは言って、頭を下げている。

「何を言っているんですか。マスターは、いい父親なんですよ。だから、必死になって、店ではマスターを演じている。私たちがまったく何も気にすることがないくらいにね。でもマスターにもちゃんと感情がある。私たちは分かっているつもりではいたんだけど、マスターが無理をしてくれたおかげで、気にすることはなかった。でも、もういいんですよ、マスターは自分の感情を私たちの前で出してくれても、私たちがマスターの娘の変わりだなどというおこがましいことはいいませんが、もし、マスターが娘のように感じてくださるのなら、私はこんなに嬉しいことはない。遠慮はいりませんから、どんどんいろいろと話してください」

 と玲子は、友達も同じ気持ちだという確信があることで、マスターにそう話した。

 玲子の父親は、結構玲子には厳しかった。一緒に住んでいや頃は、これほど鬱陶しい人はいないとまで思っていた。

 特に中学生の頃の思春期の頃は、背伸びしたい年ごろの娘と、父親の間で起こる確執は、明らかに激しいものだった。マニュキュア一つで喧嘩になったり、服装も細かく指摘もされた。

「皆していることだから」

 という言い訳が玲子が感じている一番の正当性のある返事だったが、父親の神経を一番逆なでするものでもあった。

「皆がしていることしかできないなんて、お前には自分の考えがないのか?」

 とよく言われたが、今ではその思いが分かる気がした。

「他人と同じでは嫌だ」

 と玲子は常々思っていたが。これは父親と同じ考えだった。

 嫌で嫌でたまらない父親と考えが同じ、これほどいじましいと思う理屈もなかった。自分の中に生まれた矛盾でもあった。

「どうしてこんな」

 と、玲子は自分を呪ったりもしたくらいだ。

 これは後で離婚することになった両親だったが、後になって聴くと、どうやら、父親は自分の実の父ではなかったようだ。母親は一度離婚していて、その連れ子が自分だったという。

 父親が自分に辛く当たったのは、実際に血がつながっていなかったということもそうであるが、自分の母親に対して、

「離婚したバツイチ女をこの俺が貰ってやった」

 という意識があったのだろう。

 父親にしてみれば、母親はまるで自分の奴隷のようなもので、玲子はその「ついで」にすぎなかったのではないか。だから、玲子は父親に絶対服従でなければいけなかった。

 しかも、母親も最初こそ、義父に対して後ろめたさがあったからか、大人しくしていたようだが、そのうちに元々の性格がハッキリしたものだったことからなのか、次第に逆らい始めた。

 そうなってしまうと、家庭関係は酷いもので、玲子も母親ですら、嫌になってきた。

――お母さんが逆らうから、そのとばっちりが私のところに来るんだわ――

 と思っていた。

 そもそも、そんな男と結婚なんかするのが悪い。母親は甘んじて義父にしたがっていればいいんだと、ずっと思っていた。

 そんな両親が離婚して、玲子は家を出た。そんな家庭環境なのに、よく大学まで行けたものだと思えたが、勉強は嫌いではなく、持ち前の負けん気が強いことが、成績を押し上げてくれて、奨学金の話も出たことから玲子は晴れて大学生になれたのだ。

 そんな家庭海峡を誰にも話したことはなかったが、奨学金を貰っていることから、少しは察してくれている人もいたことだろう。

 だから、部活でバンドを組んでいたのは、バンドで楽器を弾けるようになり、バンドのアルバイトができるのではないかという思いからであった。さすがに、バンドでのバイト口はなかったが、コンビニでのアルバイトを続けながら、バンドも続けていたのだった。

 玲子が大学に入ってからの心の支えは、実はここのマスターのような人だった。最近は昼間に来ることが多くなったが、本当は早朝のマスターが好きだった。朝目覚めて最初に出会う男性の知り合い、それがマスターだとすれば、それが一番最高だった。

 今から思えば、マスターを慕っていたという気持ちが、どうして湧いてきたのかが分かってきた。マスターが自分をまるで娘を見るような目で見てくれていたからだ。

 実際の父親の目線というものをほとんど知らないと言ってもいい玲子には、マスターの視線がどういうものなのか分からなかったので、ただ、

「親切で暖かい人なんだ」

 と思うだけだった。

 マスターはあまり口数は多くないが、話をしていると、こちらが考えていることをすべて見透かされているかのようにズバリと的確な話をしてくれる。

「年上の頼りがいのある男性」

 という印象は、恋愛対象に十分だったのだが、男性を好きになったことがなかった玲子には、恋愛感情を誰かに持つということ自体、怖かったのだ。

 やはり父親の影響が大きかったに違いない。今は大人しくしていても、いつ何時相手の逆鱗に触れるか分からない。一度触れてしまうと、まるで開けてはいけない、

「パンドラの匣」

 を開けてしまったかのように感じてしまう。

 せっかくのプロメテウスの忠告も、ゼウスの陰謀には適わなかった。人間の欲望が我慢できない状況を作り出し、開けてはいけない箱を開けさせるのだった。

 マスターは、自分の娘のことをどう思っているのだろう。離婚しなければいけなくなった理由は分からないが、実際は好き合って結婚したことには違いない。お互いに楽しかった思い出だってあるはずだ。その思い出よりも、辛い思いの方が強いから、離婚ということになるのだろうが、

「納得しての離婚などあるんだろうか?」

 と思っている玲子は、それだけ真面目な考えしか持てないのかも知れない。

「円満離婚というのがあるが、円満であれば、何も離婚する必要はない」

 というのが、言葉の扱い方ひとつの解釈であるということが分かっていないのだ。

 要するに単純な考え方しかできないことが、そう思わせるのだろうが、男女の間というのは、そんな単純なものではない。

「昨日まで、あれほど自分の気持ちを一番分かってくれているのが自分の伴侶だ」

 と思っていたはずなのに、気が付けば、一番一緒にいたくない人物になった。

 言葉を交わさないだけで、威圧感があり、一緒にいることが怖くなってくる。それは男であっても女であっても同じこと、そうなってしまうと、離婚しか方法はなくなってしまう。

 だからと言って、離婚が二人の共通の意志というわけではない。片方は頑なに離婚したいと思っているかも知れないが、もう一方は何とか修復できないものかと思うだろう。それでも、相手の気持ちが固いと離婚ということになるのだろうが、子供がいたりすると、さらに問題が複雑になってくる。

 親権の問題、養育費の問題、さらには、面会の問題と、いろいろな決め事があるだろう。たいていは母親の方に行くことになるのだが、もちろんそれも母親の経済的な自立能力があってのことだ。

 いくら本人同士で決めていたとしても、実際の養育能力がなければ、子供を育てることはできない。施設に相談してみたりするが、なかなかうまく行かないのも現状だ。

 そんな時、同じくらいの年齢の男性がフラッと目の前に現れると、寂しさや心細さからか、相手が頼もしく見えてきたりするものだ。

 玲子の義父がそうだったのだろう。

 しかし、実際に一緒になってみると、相手の男は自分の立場に気付き、何も相手に従うことはない。自分がすべて仕切って、やりたいことをすればいいという妄想に駆られたりもする。義父がどこまでの人だったのか分からないが、いずれは遅かれ早かれ別れることになるのだろうが、それを予知夢で見たというのも、その夢が本当に予知夢だったのかどうかは別にして、本当は自分の中の意識として最初から分かっていたことだったのかも知れない。

「ねえ、マスター、マスターはその子供さんと今も会っているの?」

 と聞くと、

「いや、娘は今入院中なんだ」

「どこかお悪いの?」

 と聞くと、マスターは一気に思いつめたような顔になって、

「ずっとボーっとしていて、私のことも思い出せないんだ」」

 というと、

「それは……」

 と言いかけて、友達はそれ以上を口にするのをやめた。

 分かり切っていることは言うまでもないことだというのは、まさにこのことではないだろうか。

 さすがに二人はそれ以上は聞けなかった。

 なるほど、教授の記憶が欠落しているということを話したものなので、マスターは娘さんのことを思い出したのだろう。

「私のことも、別れた女房のこともよく分からないらしい。でも身体には障害がないということなので、よかったというべきか。今はとにかく、娘の記憶が戻るように努力はしてみるが、戻らなければ戻らないで、これから娘がいかに生きていくべきなのかを、親としてしっかり考えてやりたいんだ」

 と、マスターは言った。

「本当にその通りなんでしょうね」

 と玲子がいうと、友達も頷いていた。

 すると、友達が何かを思い出そうとして考え込んでいるのが分かった、ここで一体何を考えているというのか、玲子も彼女の考えを模索してみた。

――そういえば、私たちのクラスに入院した人がいたというのを聞いたことがあったわ。確か自殺未遂で、しばらく入院を余儀なくされているという話で、しかも、どうやら何かの後遺症が残るというような話だった。それが記憶喪失だったのではないかと思うと、マスターは最初から自分たちの近くにいたということになるのだろう――

 と、玲子は考えていた。

 しかし、その娘がマスターの娘だったとすれば、どうして自殺などしたのだろう。あくまでウワサなのでハッキリとしたことは分からないし、その娘のことだって、玲子はほとんど記憶にない。

――もっと意識していればよかったな――

 と感じたが、後の祭りだった。

 マスターをかわいそうだという思いはあるが、果たしてそれだけであろうか。マスターが何か今回の事件で知っていることがあるのだとすると、話が変わってくる。例の、

「自殺未遂までのこと」

 と言っていた連中の存在が、信憑性を感じられなくなってきた。

 そもそも、玲子も同じ思いをしたことで、その信憑性はかなり高いものだったのだが、それは自分をまったく疑っていないという根拠から来ているものであった。

――教授とマスター、二人の関係は、どこにあるというのか、ここまで来て、まったく関係のないということはないだろう――

 と、玲子は感じていた。

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