第2話 「想像」と「創造」
その日の朝、目が覚めた時の玲子は普段と若干違っていた。
普段よりも身体がだるく、まるで熱でもあるかのような感じだった。その日は珍しく夢を見た。その夢が怖い夢であったので、その内容は断片的にであるが覚えている。
ただ、断片的にとはいえ、その記憶は結構しっかりとしたものであり、夢の中で感じたことはまるで夢ではなかったようなリアルさを感じさせるものだった、
ひょっとすると、その日の夢は、
「何度か目を覚ましたのではないか?」
と感じる夢で、なぜかというと、別々の夢が一つになったかのような気がしたからである。
それこそ、映画でいえば、短編集が重なったオムニバス形式とでもいうかのような夢であった。それでも一つの夢のような感じがするのは、シチュエーションの違いこそあれ、内容的には共通性のあるものに感じられたからだ、
最初に感じた夢であるが、夢の最初はどの夢も共通していて、まっくらな状態から始まる。まるで部隊の幕が上がり、そこにスポットライトが徐々に当たっていくように、まわりが分かってくるまでに少し時間が掛かるのだ、
最初の夢は分かっていると、感じたことは、
「自分が果てしなくたくさんいる」
というシチュエーションだった。
自分の姿は確認できるのだが、全部が同じ方向を向いているわけではなく、横を向いている自分、正面で六き合っている自分、そして、さらに後ろを向いている自分、すべて同じ大きさではなく、小さい自分もいるのが分かる。一番多くな自分であっても、絶対に自分よりも大きな人物はいなかった。
そこに写っているのは確かに自分なのだが、自分という感覚はおろか、人間としての感覚もないような冷たさしか感じなかった。
そこまで思えてくると、自分がどこにいるのかが分かってきた。
「ああ、これは夢なんだ」
と最初に感じた瞬間だった。
夢を見ている自分を最初に感じる時というのは、たいていは意識があるものだ、この日おmそうだったが、それはきっと自分が考えていることと夢の内容が一致したという、いわゆる「想像」ができるからであろう。しかし、夢だと最後まで意識できなかったものは、きっと自分の中での「創造」なのではないだろうか。
実際にどっちの「そうぞう」が多いのかというのは、分かるはずはない、なぜならば、「想像」というものは夢の中で理解できるものだが、「創造」は分かっていないものなのだ。しかも今回のように、一度の睡眠の中で何度も違うシチュエーションを夢として見ると、創造は複数のものである。だから分からないのではないだろうか。
今回の最初の夢が何か分かってくると、小学生の頃に行った、夏祭りを思い出した。
そう、今回の夢は、自分にまわりにたくさんの鏡が配置してあり、四方八方がすべて鏡であることから、無限に自分が写し出されたのだ。
「同じ方向ではない」
という事実が玲子をその「想像」の正体を理解させた。
まわりがすべて影だということを理解させると、今度は玲子は自分の頭を働かせてみた。一つの疑問が頭の中にあり、それを確かめたくて仕方がなかった。
玲子は自分の足元を見た。
「そこには鏡などないだろう」
という思いがあったからだ。
果たして足元を見ると、そこは、舗装もされていない土の地面だった。
「やっぱり:
と思ったが、その瞬間、「想像」という一つの壁を越えたかのようだった。
ただ、考えてみると、足元に鏡がなかったということは、果たしてどこまで信憑性があるだろうか。まわりの鏡に関しては分かっていたことであり、足元がどうかというのは、自分で今まで確かめたことがなかったのを思い出して、思わず足元を見たというのが本音だった。
だから、足元に関しては、まったく信憑性のないもので、これこそ、「創造」である。つまり「想像」と「創造」の違いは、かつて自分に経験があったかどうかということであり、信憑性という意味においては、
「完璧なことか、皆無なことか」
という、一種の、
「オール・オア・ナッシング」
だと言っていいだろう。
玲子は、その次にやってきた「想像」の世界は、やはり最初と同じように、真っ暗な世界にスポットライトが当たるもので、その世界では、まわりに何があるのかまったく分からなかった。
むしろ、何もないと言ってもいいのではないかと思うその場面は、玲子を少し恐怖に陥れるものであった。
最初のミラールームの恐怖は確かに自分でも経験したし、見たことがあるとハッキリ言えるものであったが、第二幕の世界は、経験したことがあるわけではないが、初めてではないという感覚だった。
「デジャブ現象」
と言ってもいいこの状態を感じさせるのは、やはり夢だったからではないだろうか。
今見ているのも夢であり、初めてではなかった前に見たのも、同じシチュエーションの夢だったと思う感覚、しかもその時も同じように、
「初めてではない」
と感じたような気がした。
つまり、玲子はこの夢を果たして何度、繰り返して見たことであろうか。
これをそれこそ、
「夢のスパイラル」
だとすれば、「創造」というものは、スパイラルとして、何度も見たことになるのではないだろうか。
夢だったので覚えていななかったのだが、見た瞬間、記憶の封印が解けたということであり、さらに今見ている夢もまた、記憶に封印されるんだろう。それが以前に見た夢の中に封印されてしまうのか、重複されることなく別々に封印されてしまうものなのかまでは分からなかった。
玲子は、今度の「創造」がどういうものか分かってくると、そこから一歩も動けなくなり、金縛りにでも遭ったかのように思えた。
金縛りは自分の身体の奥にある緊張を引っ張る出して、恐ろしさが極限に達した時、
「動いてはいけない」
という思いが強ければ強いほど、それが金縛りであるということを意識させるのであった。
玲子がどうしてこの場面にやってきたのかということは、分かる気がした。
「きっとさっき、足元を確かめてしまったからだわ」
足元に鏡がないということを再認識したことで、別の世界が開けてきた。
この世界は、足元を嫌というほど意識させるものであり、足元を見るのがとにかく怖いということを意識させるものであった。
その場所というのは、断崖絶壁の場所であり、自分はそのてっぺんにいるのだ。しかも真っ暗なので、足元がどれほど動けるスペースがあるかなどということすら分かっていない。
一歩でも動けば奈落の底なのか、それとも、少しは動けるスペースがあるのかということをである。
こういう場合というのは、最悪な場面しか考えてはいけないだろう。少しでも楽天的に考えてしまって、痺れを切らして動いてしまうと、あっという間に奈落の底だ。そうなると、
「夢なら早く覚めてほしい」
という神頼みの類しかないのは分かり切っていることだった。
だからといって、
「夢なんだから」
ということで軽率な行動をできないのも事実だった。
これこそが、
「ジレンマであり、自分の発想と想像の中の矛盾である」
と言えるのではないだろうか。
少しずつ考えていくと、そのうちに目が慣れてきて、その場所が断崖絶壁ではあるが、自分がまったく身動きできない場所ではないことに気付いてきた。
その場所は足元はしっかりとはしていない。少しでも動けばグラグラしているという、むしろ安定感のない場所であった。
だが、それだけに一歩も動けないわけではないことはすぐに分かった。その場所は吊り橋であり、そちらにでも進もうと思えば進めるのだ。
「でもどっちに進めばいいのか?」
と余計なことを考えた。
どちらかが出口なのだろうが、間違えて渡ってしまうと、先に進んでしまい、自分の世界である者との世界に戻ろうとしても、橋は渡った瞬間、綱が切れて、他の底に落ちてしまうという錯覚を覚えた。
しかし、この錯覚は夢であるがゆえに感じるもので、夢に逆らおうとするのは、危険であるということを示しているような気がした。
「夢が現実にまったく影響を及ぼさないなどという考えがどこにあるというのだろうか?」
と玲子は考えた。
夢と見るということは、
「潜在意識が見せるもの」
と言われているが、その潜在意識というものは、意識という言葉を使ってはいるが、実際には無意識のうちのいわゆる本能のようなものではないかと思っている。
だから夢の中では、夢を見ている自分とは別の自分が夢の中に存在していて、その自分は夢を見ている自分とは別の人間なのだ。
意識しているわけではなく、まるで幽霊にでもなったかのように、勝手に振る舞っている。
ただ勝手に振る舞っているように見えるだけで、その行動には一種の共通性があるはずだ。それが本能であり、潜在意識というものだとすれば、夢を見ている自分は何だというのだろう。
その自分の存在を、現実世界では意識したくないという意味を込めて、夢の世界を覚えていないことが多いのではないだろうか。
逆に覚えている夢というのは、
「夢を見た」
という言葉を意識させ、その中に夢を見ている自分の存在があったということは分かっていたとしても、その時に何を考えていたのかは、まったく覚えていないように記憶を書き換えているのかも知れない。だから、
「ただ、夢を見ただけ」
という意識のせいで、その夢を、「創造」だとしてしか思えないという構造になってしまうのだろう。
「吊り橋の夢を見た時、自分は結局どっちに行くことになるのだろう?」
と、この夢を思い出した時に、感じることであったが、その結論が出てくるということはないような気がした。
どちらかに進んでいるというのは分かっているが、いつも同じ方向だったという意識はない。それはきっと、毎回正解が同じ方向ではないだからであろう。
ということは、
「同じ夢であって、同じ夢ではない」
ということの証拠であり、
「創造も一つではないんだ」
ということでもあるのではないかと、思うのだ。
だが、それはあくまでも夢を見ている時に感じるものだ。現実世界では、岸壁に掛かっている吊り橋の上に自分がいるという意識を持ったことがない。あくまでも夢の中で、
「以前にも同じことを感じたものであり、初めてではない」
と感じるだけであった。
断崖絶壁の夢を見て。正解した時は、きっとそのまま夢が覚めるのだろうが、もし間違えた時、新たな夢を見るのではないかと思えた。
その日の夢はそれで終わりだったわけではなく、別の夢も見たようなような気がして、新しい夢が開けたその時に、
「さっきの選択が間違っていたんだ」
と感じたのを覚えていた。
だが、今度は、その夢が「想像」なのか、「創造」なのかが分からなかった。
「どちらでもないんじゃないか?」
という思いが強く、夢を見たという意識が次第に薄れてくるのを感じた。
もし夢を見たのだとすれば、それは、
「目を覚ますという夢だったんじゃないだろうか?」
というものである。
選択を間違えたことで目を覚ますために一度、
「目を覚ます」
という夢を見なければいけないという理屈になるのだが、滑稽な気がする発想であるが、辻褄は合っているように思う。
「夢なんてそんなものなんだ」
と、玲子は思うのだった。
そんなことを考えていると、頭の中で一つの夢が思い出された。その夢は今朝見た夢だったと思ったが、先ほどの夢とは別の種類のものだったと感じたことから、一度今夜、目を完全に覚ました時間があったのかも知れない。見た夢のどっちが先だったのかという意識もないほど、どちらの夢も覚えているくらいなので、却って、目を覚ましたという感覚の方が夢だったかのように思えた。
目を覚ましたというのは、あくまでもリアルに感じたことではなく、別々の夢を見たということから、一度睡眠が分断されたということから想像したものだった。
恐怖をリアルに感じさせる夢とは違い、
「リアルさが恐怖を煽る」
と言った具合の夢だった。
むしろ、夢というよりも、現実に意識が近く、現実にはできないことを夢の中で実現させたと言ってもいいだろう。その感覚は復讐であり、恨みのある人間に対して、夢のなかで抱負服することで、自分の中の留飲を下げていたというべきであろうか。
誰もが見る可能性のある夢である。誰に対しても恨みを持っていない人間など、そうはいないだろう。成人するまでに、ほとんどの人と言っていいほどの人が、誰か恨みを持つ人が一人くらいはいるものだ。
「私には誰も恨んでいる人がいない」
などという方が、ウソっぽく聞こえる。
逆にそんな人の方が自分の中に抑え込んでしまって、自分で処理できなくなって身体を壊すか、誰ともなく恨みをぶつけることで、精神的に病んでしまった自分を抑えることができなくなるか、そんな悲惨な運命が待ち受けているというものではないだろうか。
玲子がこの日見た夢というのは、実際に今起こっている夢ではなかった。
――ひょっとすると、これから起こることなのかも知れない――
という、
「予知夢」
に近いものだった。
予知夢という言葉は聞いたことがあり、今までに一度は見たことがあったような気がしていた。
ただ、予知夢というのは面白いもので、見ている時、
「これは予知夢なのかも知れない」
という夢の中で根拠はないが、そんな思いを抱いたという記憶が、夢から覚めて残っていることがある。
そして予知夢の特徴は、
「怖い夢だけではなく、楽しい夢であっても忘れることはない」
というものだった。
逆に覚えている夢の中で楽しい夢というのは、今までの経験からではなく、これから起こることの予言のようなものだと言えるのではないだろうか。
しかし、楽しい夢に対しての信憑性はかなり薄く、それが実現したという覚えはない。なぜなら、覚えていると言っても楽しい夢の現実世界での記憶は実に儚いもので、一日でももてばマシな方ではないだろうか。
「楽しい予知夢を覚えていた」
などという記憶すら、一日も経てばすっかり煙のように消え去っているのだった。
ただ、この日の予知夢は楽しい夢というわけではなく、恐ろしい夢というわけでもない。中間と言っていいだろう。
恨みを晴らしてスッキリしたという意味では、楽しかったという部類に属するであろうが、スッキリはしたが、それだけしか自分の中に残っておらず、それまでの自分の意識を犠牲にして得られたスッキリであることに気付くと、とたんにブルーな気分にさせられる。どちらも、それぞれの悪い意識を消してくれるわけではない。少なくとも一日はジレンマで追い詰められたような気分になって、その次の日にはすっかりと忘れてしまっているということを、最近では意識できるようになっていた。
そんな予知夢を見ることができるというような話を他人にしたことはない。もししようものなら、
「何をバカなことを言っているのよ。まるで子供みたい」
と言われるのがオチで、そう思われるのが嫌で、ずっと誰にも話さなかった。
それを言われて言い返すだけの自信も、理屈も想像できない。自分の気が弱いからなのか、それとも、他の人も同じことを考えているかも知れないということを知るのが怖いのか、やはり、自分の中で、
「他の人と同じと思っていることを嫌がっているくせに、同じであることに、どこかホッとする自分がいるという矛盾を感じていたくない」
という感情があるのだろう。
その予知夢というのは、
「佐藤教授に対しての恨み」
だったのだ。
佐藤教授とは、卒業のために必要とされる講義を受け持っている先生で、普段の授業風景は、いかにも、
「ダメ教授」
という雰囲気で、学生からバカにされているというか、誰も講義を聞いていないのに、とりあえず、自分だけで講義を進めているという、
「自己満足型の教授」
であった。
高校時代にも似たような先生が学校に少なくとも一人はいただろう。生徒がどんなに騒いでも、別に気にせず、ぼそぼそと口で呟きながら、時間を費やしているだけの男。本当のダメ教師というべき先生で、先生などという言葉を使うだけの資格もない人にしか見えなかった。
本当は、中には真面目に授業を聞こうとしている生徒もいたであろうに、すぐにそんな生徒からも愛想を尽かされ、自習時間という認識に捉われる。
いや、自習の方がまだいいだろう。騒がしくないからだ。この教授の授業は完全に授業妨害であって、やかましければやかましいほと効果があった。わざとやかましくしているのだから、自習時間のようなザワザワした雰囲気とはまったく違う。勉強を進めようとする人は最初こそ耳栓をしていたが、そんなものでは足りるわけもない。先生が最初に出席を取ってから、教室を堂々と出ていく生徒が一人出ると、従うように二人、三人と出てくる。そうなると、もう完全に授業は崩壊である。
玲子は、高校時代、そんなダメ教師の授業を、最初に出て行った生徒だった。
「こんなのやってられないわよ」
と言って、誰も出て行こうとしない教室から出たのだ。
出席さえしていれば、単位がもらえるので、皆そのつもりだったが、単位一つと一時間の勉強時間を比較すると、さすがに一時間を棒に振るほどバカバカしいことはないと思うのだった。
彼女が教室を出ていくと、他の真面目生徒も出ていくようになったが、玲子はそんな他の真面目生徒を毛嫌いしていた。
――人がしたことをマネすることしかできないなんて、情けないったらありゃしないわ――
と言いたいのだ。
生徒が数人出たくらいで、教室が静かになることはなかった。
他の教室からも、
「先生、もっと静かにさせてください」
と、文句が出てくるが、入ってくるなり、あまりにも異常な雰囲気に文句を言いに来た他の先生も閉口してしまって、何も言えなくなってしまうのだった。
そんな授業を覚えていたおかげで、大学でのダメ教師を、本当にダメだとは思えなかった。
中には本当にダメだと思える人もいるようだったが、佐藤教授はダメ教師に見える人の中でも少し違っているように感じた。
佐藤教授に関してはあまりいいウワサを聞いたことがない。
「男子生徒はともかく、女生徒に対してはかなりの贔屓があるようだよ」
というウワサで、
「えっ、じゃあ、一晩付き合えば、単位が簡単にもらえるとか?」
「うん、そういうウワサもあるよ。本当なら授業に出ているだけで単位がもらえる楽勝な科目なんだけど、中にはアルバイトや部活で、そうもいかない人もいるのよ。でも、あの先生の科目は、必須寡黙でしょう? 他の先生の授業は結構難しくて、毎回講義に出ていたとしても、単位の取得は難しいって言われるじゃない。そういう意味で、佐藤教授の単位は落とせないのよね。だからなのかしら、こんな変なウワサが立つというのは」
と言っていた。
友達の言っていることは、ほぼ間違ってはいなかった。
必須寡黙なので、この教授か、もう一人の教授の単位を落とすわけにはいかない。どちらも選択しておいて、何とか佐藤教授の授業の出席率で単位を貰うしかないのだろうが、部活やアルバイトをどうしてもしなければいけない人もいて、そういう学生を教授は、援助という名前の救済をしているのだとすれば、本当であれば、許すまじと思える行為であり、玲子も憤慨に値することであろう。だが、背に腹は代えられない。覚悟する女子生徒も多いという話だった。
なぜ、玲子が佐藤教授に復讐など企てるというのだろうか?
それは玲子が教授と関係を持ったことから始まる。玲子は最初、教授のウワサを信じ込んでいた。
「佐藤教授は、普段は頼りなさそうに振る舞いながら、単位を餌に女性を食い物にしているゲスのような男である」
という印象を持っていた。
玲子という女性は、思い込みの激しさに掛けては、誰にも負けないと言ってもいいかも知れない。しかも潔癖症なので、融通もまったく利かず、思い込んだら猪突猛進で、もしそれが誤解だったとしても、そこに気付くまでに被害は甚大になっている可能性もあるくらいだった。
そんな玲子は、どうしても、佐藤教授の授業を毎回受けることができなかった。彼女は部活において、バンドを組んでいたのだが、そのバンドのオーディションの日と、教授の講義の日とが重なったことで、一時間分の講義を受けることができなかった。
教授は天邪鬼で、数回授業に来なかった学生よりも、一度だけこれなかった学生の方の単位をくれないというウワサがあった。
「まさか、そんなことはない」
と思っていたが、実際にたった一度だけ出席できずに昨年、単位を取得できなかったという先輩の話を聞いたので、直接教授に話を聞いてみることにした。
友達からは、
「よしなさいよ、そんなことをして却って嫌われたら、単位がもらえなくなるわよ」
と言われたが、どうしても確かめたくて仕方のない衝動に駆られた玲子は、確かめにいった。
そのあたりが潔癖症なところであり、思い込みの激しさの裏証明のようでもあるが、実際には思い込みの激しさよりも、潔癖症の方が強いのだった。
「教授は自分の講義を一度でも欠席した人には単位を挙げないという話を以前していましたけど、数回欠席しても単位を貰える人がいるのに、どうして一度だけでは単位が貰えないんですか?」
明らかな直球の質問であった。
すると、教授は怒るどころか、ニコニコと笑って、
「そうか、君はそんなウワサを信じているのか?」
と言って、玲子の顔を見て笑ったが、それは玲子が言った質問に対しての笑いではなく、彼女の真面目で潔癖症な性格への微笑みだった。
佐藤教授は、直球過ぎる質問には少し閉口したようだったが、真面目過ぎる潔癖症には大いに興味を持ったようだ。
「私の知り合いには、君のような人は一人もいないよ。ここまで潔癖症な人もいるにはいるが、普通はその気持ちを人に知られないようにしているんだよ。君のように直球で相手に質問をぶつけるようなことはしない。それが潔癖症だというものだと私は思っていたが、その考えを変えなければいけないようだね」
という。
まるで子供に対する大人のような余裕を醸し出している教授に対して玲子はさらに対抗意識を燃やし、さらに食い下がっていくような表情を見せると、教授はさらに玲子に興味を持ち、
「そんなに私に興味があるんだね。大いに結構」
と、まるで臆するところがまったくない。
臆するところがないどころか、完全に子供と対しているかのような大人の余裕が溢れている。しかも、玲子にはそれがよく分かるだけに、自分の考えていたような相手ではないと教授のことを考え始めると、そこから先は、教授の言う通り、自分が教授に対して興味を持ってしまったことを感じないわけには行かなかった。
「言葉でどんなことを言われたとしても、毅然な態度に勝るものはない」
それを玲子は思い知ったのだった。
玲子は教授をじっと観察していた。まわりの変なウワサとはまったく違う教授しか、玲子の目には映らない。毎回の授業も相変わらずのダメ教師ぶりであるが、授業の様子を一番前でしっかり聞いてみると、これほど分かりやすい講義をしてくれる先生もいないような気がしてきた。
後ろで騒いでいる連中もいるのだが、前の方でしっかりノートを取っている学生もいた。いつも、どんな講義でも、一番前に陣取っている連中だが、彼らに聞くと、
「佐藤教授の講義って、結構分かりやすいし、興味をそそられる内容の話も織り交ぜてくれるから、結構面白いですよ」
と言っていた。
玲子も彼らに交じり、ノートを取ってみたが、なるほど、話も楽しいし、真面目に講義を受けてみると、
「さすが大学教授の講義だ」
と思えるような、ダイナミックさに包まれているような気がした。
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