第11話

 朝の透きとおった空気に、卵の焼ける匂いがほんのり香りをつける。静謐せいひつが満ちる我が家はまだ寝息を立てているようで、フライパンの音だけが愛の耳をくすぐった。薄く青みがかった日差しが、キッチンの明度をささやかに持ち上げる。


 ヒロに告白されてからちょうど一年が経つ今日は、愛にとっての決戦の日だった。いつもより早い時間に起き、自分とヒロの分のお弁当をつくっていた。ジャンキーな味が好きなヒロのために、今日の卵焼きにはチーズと鰹節を入れた。手慣れた動きでフライパンの縁に菜箸を添わせる。


 愛は朝が好きだった。不安や葛藤にしがらみ。抱え続けるには重たい荷物を、朝は過去のものに変えてくれるから。澄んだ空気は生まれたてみたいに新鮮で、愛は目いっぱいに鼻腔を膨らませた。七月の下旬と言えど早朝はひんやりとしていて、なんだか身体が軽くなったような気がする。


「よっと」


 フライパンを振ると、その動きに素直に連動して卵焼きがクルリと手前に転がった。まな板の上で包丁を入れると、いつか見た夕子のそれと同じ仕上がりになっていた。

 出汁を閉じ込めた断面がギュウギュウに詰まっている。夕子と過ごした二ヶ月間が色濃く映るそれに、愛は満足げに鼻を鳴らした。


「あら、ずいぶん上手になったね」


 起きてきた母が、いつの間にか愛の背後に立っていた。隣で愛と同じように身をかがめ、じっとその断面を見つめている。


「まあね。一個食べてみる?」


 菜箸で一切れ分を持ち上げる。愛が「あーん」と言うと母はごく自然に口を開き、そのなかに入れてあげた。なんだか餌付けしているみたい。立場が逆転した奇妙な光景に、愛の心臓がそわそわとくすぐられる。


 愛にとって母親は絶対的な存在だった。従おうが反抗しようが、いつだって母の意見が基準だった。

 だが促されるままにぱくりと食いつくその姿に、この人も昔は幼い少女だったんだなとふとそんなことを思った。当然だが、愛が生まれてから母はずっと母親だった。だから気づかなかったけれど、彼女は母親である前に一人の人間なのだ。

 母にも親に「あーん」と食べさせてもらった時期や、私と同じ高校生の時期があったのだ。そう考えると不思議と親近感が湧いてくる。母とのあいだにつくっていた壁が、ほろほろと崩れていくような気がした。


「なにニヤニヤしてるの。ごきげんね」


「別にいいでしょ。で、どう?」


「うん。よくできてる」


「私だってやるときはやるんだよ」


「そうね」


 得意げに胸を張った愛に、母はぽつりと思案げに言った。真顔に近い穏やかな表情のなかに、ほんのわずかな寂しさがよぎる。

 腕を組みながら母は頬に手を当て、卵焼きを見ながらつぶやいた。


「なんでも私が教えてあげなきゃって思ってたけど、案外子どもって親の知らないところで勝手に成長していくものなのね」


「そうだよ。お母さんはちょっと過保護すぎる」


 母は愛を一瞥し、そしてまた卵焼きへと視線を移した。母にも思うところがあったのかもしれない。口をつぐみ、沈黙が流れていく。表情を変えたり、あからさまにため息を吐いたりするようなことはしないが、少し傷ついたように見えた。

 でもね、と愛は母に微笑みかける。


「私がこうやって料理ができるようになったのは、お母さんのおかげ。私に料理を教えてくれる友達がいてね、褒めてくれたの。『浅葱さんは料理のセンスがあるね』って。で、それはお母さんのおいしいごはんをいままでたくさん食べてきたから、そういう能力がいつの間にか培われてたんだって」


 隣で母がふっと鼻で笑った。横顔を見やると、その口端が控えめに釣り上がった。


「なまいきね。今日はやけに素直じゃない」


「うん。なんかお母さんと話したい気分だった」


 そよ風でぐらついてしまうようなところに、いまの愛の精神は立っていた。実を言うと、今日はあんまり眠れていなかった。

 だけど、母とほんの少し会話を交わしただけで、ぐっと気持ちが強くなった気がした。やはり母親という存在は偉大なのかもしれない。力を受け取り、迫る現実を前に愛は大きく深呼吸をする。

 まだ早い。こみ上げる感情を瞼の奥に押し込み、愛は卵焼き器の横の鍋に指を向けた。


「お弁当のあまりもので、お味噌汁つくっておいたから食べて」


 ネギとじゃがいものお味噌汁。そこには当然、ネギの緑色の部分も入っている。


「ありがと。あとでいただくわ」


 愛をまっすぐに捉えた拍子に、緩くカーブを描く母の髪がふわりとなびいた。髪の隙間から形のいい輪郭が浮かび上がる。静かな空間に散らばる陽光を吸収したその表情は、力の抜けた自然な笑顔だった。




「夏場はすぐに痛むから、ちゃんと保冷剤入れていきなさいよ」


 家を出る直前の愛に、キッチンに立つ母が忠告した。寝起きだった先ほどとは違い、エプロンを身に着けたその姿は見慣れた活気あるものだった。我が家もすっかり目覚めたようで、日常の歯車が動き出している。

 お弁当用のバッグを開け、愛は冷凍庫から保冷剤を取り込んでいく。


「保冷剤っていつも何個入れてたっけ」


「三個ぐらい入れてるけど」


 それならと、愛は二個多くバッグに入れた。

 これはきっと瞼を冷やすために使うことになる。

 

 よぎる予感に怖気づきそうになりながら、愛は玄関へと通じるドアを開けた。

 暗くなっちゃダメだと言い聞かせ、弱気な自分を振り切るように愛は声を上げた。


「じゃ、行ってきます」

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