第10話④

「浅葱さん、そんなに罰を受けたいならとっておきのがあるよ」


 夕子は愛の身体を引き剥がすとそのまま部屋の外に出た。ドアの向こうから軽快な足音がこちらまで届く。

 夕子のぬくもりがぽっかりと愛の前から消え去る。触れていた部分が急激に冷たくなり、無性に心細くなった。このまま帰ってこなかったらどうしよう。そんな馬鹿げたことを本気で考えていたが、夕子はすぐに戻ってきた。その手のなかにはなにやら小さな箱が握られている。

 にやりといたずらっぽくつり上がった口角が目に入る。なにかを企んでいることは明らかだった


「浅葱さん、手出して」


 言われるままに手を差し出すと、夕子は箱から取り出したそれを二つそこに乗せた。半透明の包装に、黄土色の四角い物体が包まれている。


「これは――、キャラメル?」


「うん。キャラメルはキャラメルなんだけどね、これはジンギスカン味のキャラメル」


「じ、ジンギスカン?」


「親戚のおじさんがおみやげに買ってきてくれたんだけどね、これがそのー……、とにかくすごい味でさ。家族で一つずつ食べたんだけど、それ以降だれも食べようとしないんだよね。しかも、おじさん二箱も買ってきちゃったから、どうやって処理しようかずっと悩んでたの」


「それで私に?」


「そのとおり。罰がほしいって言ってたしちょうどいいなって。この物体を減らすために、浅葱さんにもぜひ協力してもらいたい」


 きっとその味の記憶が蘇ってきたのだろう。夕子は苦しそうな顔で話している。

 そんなこと言われても、一見ごく普通のキャラメルのように見えた。これは本当に夕子にこんな表情をさせるほどすごいものなのだろうか。

 ジロジロと観察していると、夕子がキャラメルを指差した。


「一つは浅葱さんの過去の清算の分で、もう一つは私の名前を覚えていなかった分ね」


「えっ!」


 反射的にキャラメルから夕子へと視線が向かうと、ふふっと夕子が笑みをこぼした。予想どおり。満足そうに皺が寄った彼女の顔には、でかでかとそう書いてあった。


「……バレてたの?」


「バレてたよ。だって浅葱さん、ずーっと「あなた」って言ってたから、あー名前わかんないんだろうなって薄々感じてた。でも急に名前で呼ぶようになったからどうしてだろうって考えてたんだけど、たぶんあれだね、表札見たんでしょ」


「う、うん。正解です。……ごめんなさい」


「ほら、やっぱりそうだった」


 ぱちん。夕子が指を鳴らし、クイズに正解したかのように喜んだ。その姿は直視するにはあまりに眩しく、再び過去の自分に刺された愛はバツが悪く顔を逸らす。しかし夕子は愛を追いかけるように回り込み、目の前でしゃがんだ。

 その澄ました双眸が、ジロジロと観察するように愛の顔の上を動き回る。大きな茶褐色の瞳を縁取る上向きの睫毛が、跳ねるように上下する。


「さっきも思ったけど、しおらしい浅葱さんもかわいいね。学校で見る強気な感じもいいけど」


「ねえ夕子ってさ、ときどきSっぽくなるよね」


「かわいい女の子にいたずらしたくなる男の子の気持ちがよくわかる」


 夕子の喉の奥から、鈴の音のようなかわいげのある音が鳴り響く。ずるい。こんなに満ち足りた反応を見せられたら、もうなにも言えないじゃないか。悔しさを目だけで訴え、愛は口をすぼめた。

 でも、この気取らないやり取りが心地よかった。湧き上がる楽しさが喉を揺らす。だけどそれを見せるのはなんだか癪で、愛は結んだ唇にグッと力を込めた。

 それすらも見透かしたように、夕子が微笑む。


「はい。それじゃあ一気にいってみよう!」


 包装を剥がし、キャラメルを二つ同時に口のなかに入れた。その瞬間、味を捉えようとした舌が拒絶するように動きを止めた。獣臭い醤油ベースのタレの味が口内に広がり、濃厚なミルクの甘さが舌の上にべたりと貼り付く。明らかにミスマッチなそれからは後悔の味が漂い、顔の至るところに苦痛の隆起をつくった。

 まさに求めていた光景だったのだろう。悶える愛を前に、夕子がくしゃりと相好を崩す。


「女の子の顔を見て笑うなんて失礼」


「だって、だってさ、浅葱さんのリアクションがよすぎて」


 きっといまの自分はだれにも見せてはいけないようなブサイクな表情をしているのだろう。でも、そんなことはまったく気にならなかった。

 夕子の声音が身体の奥に浸透していく。そのくすぐったさに愛はもう我慢することができなくなった。閉じていた唇が決壊し、あふれ出した感情の塊が喉を震わせた。


 静かな空間に、二人の笑い声が重なり合う。生理的に浮かんだ涙を拭い、肌を覆う温かさに愛は心をゆだねた。

 

 この先、どんなにつらいことが愛を待っていようと、夕子がいてくれたら乗り越えられる気がする。

 すぐ近くに迫る将来のことを思い、ふと愛はそんなことを考えた。

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