第10話③
「私、夕子に謝らなきゃいけないことがあるの。私ね、前まで夕子のこと馬鹿にしてた。自分のものさしが正しいと思い込んで、それで勝手に他人を測って。雰囲気がどうとか、彼氏がいるいないとか、どんな趣味だとか、そういう浅いところでしか人のことを見てなかった。だから、ごめんなさい。急にこんなこと言い出すなんて、勝手だってわかってる。でも、どうしても言わなきゃって。言わずにこのままなに食わぬ顔で夕子の近くにいるのは、なんか騙してるみたいで……」
「急になに言うかと思ったらそんなことか。別に謝らなくたっていいのに」
「よくないよ。全然よくない。だって心のなかで馬鹿にしてたんだよ? さっきの男たちに対してもそう。なんでひどいやつのことをそうやって簡単に受け入れちゃうの? もっと怒ってよ。諦めたみたいに納得なんかしないでよ。私、夕子と一緒にいてわかったの。夕子は馬鹿にされるような人じゃない。カワイくて、料理が上手で、私なんかと仲よくしてくれるくらいやさしい人だって」
「それを言うなら私だって、最初は浅葱さんのこと怖かったよ。だからお互い様だよ」
「それは私がそう思わせるような高圧的な態度をとってたからでしょ。私が悪いの」
「そんなこと言われてもなー」
困ったように夕子は眉を垂らす。愛は彼女に迫るように距離を詰め、その身体に抱きついた。身体が密着するように腕を引き寄せ、夕子の肩に自身の顎を乗せる。こうして捕まえておかないと夕子の心はどこかに逃げてしまうような気がした。飛びつくように抱きついたせいで、夕子の手は愛の体重を支えるように後ろにつっかえている。
始めこそ夕子は驚いていたが、「どうしたの? 今日は甘えん坊さんだね」とすぐに余裕そうな軽口をたたいた。なんの手応えも感じない
「苦しいよ、浅葱さん」
「私、本当に馬鹿だった。自分がやったことが、こんなにもいまの自分を苦しめるなんて知らなかった。いますぐにでも過去に戻って、調子に乗ってた自分を殴りたい。大切な友達を馬鹿にするなって言いたい。だから、ごめんなさい。私、夕子に対してとりかえしのつかないことをしちゃった」
夕子の手が包み込むように愛の髪をなでつける。そのなだめるような手つきに、愛は自分が泣いていることに気がついた。勝手に震える喉が呼吸を妨げ、目の奥は炙られたように熱い。こらえようと瞼を強くつぶるとビー玉ほどの水の塊がはじき出され、頬の上を転がり落ちた。
泣かないようにしていたのに。絶対に泣いてはいけなかったのに。
悪いことをしたのは自分なのだ。糾弾されてもおかしくないことをしたのだ。それなのにこんな醜態を晒してしまったら、まるで被害者のようじゃないか。
夕子が愛の背中を、トントンと心地よいリズムで叩く。手のひらから伝わる包容力に愛の理性がぼろぼろと崩れていき、タガが外れたみたいに涙が湧き出してくる。
そんなにやさしくしないで。弱い部分を見せてしまうから。
愛は自ら弱者の位置に立つ人間が苦手だった。いままさに謝罪相手に身を委ねている自分を、愛はひどく卑怯だと思った。
「ねえ、夕子。私のことを思いっきりぶってよ」
急に謝りだしたかと思えば号泣し始めて。こんな暴走女、夕子の目からどう映っているのだろう。しかし、ここまで来てしまったらもう止まれるはずもなかった。
肩に両手を置いたまま向き合うと、彼女は「えっ、」と顔を引きつらせて苦笑いを浮かべた。突飛な発言に驚いたのか、それともぐちゃぐちゃになった愛の顔に引いたのか。それともその両方なのか、愛にはわからない。
「えー、いやだよ。ぶつなんてやったことないもん」
「私、夕子のことが好き。だからこんなこと言える立場じゃないのわかってるけど、ちゃんと罰を受けたい。そうでもしてくれないと、私の気が済まない」
「うーん、そんな物騒なことしたくないよ」
「じゃ、じゃあ」
すがりつくように愛が言う。尻込みしそうになるのをこらえ、愛は覚悟を決めた。
「……おばけ屋敷に行く、とか」
「お、おばけ屋敷?」
唐突に飛び出たメルヘンチックな響きに、夕子の口角がぴくりと反応した。ぱちりと瞬いた瞳のなかで、きらびやかな光が点滅する。
本当は永遠に隠しておきたかったが、背に腹は代えられない。最終手段を告白する愛の声音は、自ずと真剣なものになった。
「いままで誰にも話したことなかったけどね、実は私、ホラー映画とか怖いのめっちゃ苦手なの。小さいころに家族とおばけ屋敷に入って以来、本当に無理」
「だから、おばけ屋敷に行くの?」
「……うん。夕子に許してもらえるなら、が、頑張る」
あの薄暗い陰湿な空間を想像してしまったせいで、言葉尻に動揺がにじんだ。
這い寄る恐怖をごくりと飲み込み夕子を伺うと、彼女は唇を噛み締めぷるぷると小刻みに震えていた。彼女が瞳に宿した光がどんどん大きくなる。その輝きの正体が愉悦だと理解した瞬間、夕子がぷはっと盛大に吹き出した。遠慮の一切ない大きな笑い声が、部屋中にこだまする。
「ちょ、なんで笑うの! 私、本気で言ってるのに!」
「いや、だって、いくらなんでもおばけ屋敷って。しかも浅葱さん、めっちゃ真剣な顔で言ってるんだもん。あー、お腹痛い」
慌てる愛をよそに、夕子は目に涙を浮かべながら喉を鳴らした。楽しさだけを詰め込んだ声を吐き出しては、苦しそうに息を吸うのを繰り返す。
こんなふうに笑う夕子を愛は初めて見た。いつもは柔らかく微笑む程度の彼女が、目の前でお腹を抱えながら声を響かせている。なにも取りつくろってない年相応な無邪気な姿が、いま自分だけに向けられている。その事実に、愛の自尊心が大きく弾んだのがわかった。
しかし、自分の思いが無下にされたことを思い出し、無理やり唇を尖らせた。
「もー、ずっと笑ってるじゃん! 本当は言いたくなかったんだよ? でも、夕子とちゃんと仲よくなるには言わなきゃと思って頑張ったのに、これじゃ私がやったこと清算できな――」
笑う夕子に抵抗するように身体を剥がそうとすると、背後にあった暖かな抵抗によって阻まれた。振り向くと、先ほどまで後ろで支えていた夕子の腕が愛の腰に回されていた。抱きつき返すように夕子が力を込めると、二人の距離は再び縮まった。
「清算なんてしなくていいよ。そもそも怒ってないし」
「いや、でも――」
「ううん。むしろ、うれしいの。たしかに浅葱さんはよくないことをしていたかもしれない。でもね、それを告白して清算したいって思うってことは、私とこれからも仲よくしたいって本気で思ってくれてるってことでしょ? 私は、浅葱さんのその気持ちがすっごくうれしいの。私も浅葱さんのこと大好きだから」
興奮ぎみに放った声は音量の調整が効いていないようで、愛の鼓膜を強く揺らした。跳ね上がる心臓が、沸騰した血液を身体中に押し流す。まっすぐすぎる言葉に、愛はとっさに夕子の肩に顔をうずめた。熱い。恥ずかしくて死んじゃいそう。脈を打つたびに感情の塊が顔の表面に押し込まれ、いまにも破裂してしまいそうだ。
愛の反応に夕子がまたしても声を上げて笑う。やっぱりコイツはSだ。いい子ちゃんぶって、とんでもない本性を隠していやがった。そう思い口を開いたが、愛は結局なにも言い返すことができなかった。
罪悪感と後悔が渦巻いていた身体のなかに致死量の幸福感が急に流れ込んできたせいで、その寒暖差に愛の思考回路はもう参っていた。「……もう」と苦し紛れに発した声はあまりにもか細く、愛の動揺を逆に強調する結果となった。
「あっ、いいのがあった」
愛の耳の隣で、夕子がなにかを思いついたように声を上げた。
「なに?」
「浅葱さん、そんなに罰を受けたいならとっておきのがあるよ」
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