第10話②
「する必要がないからかな」
一切のためらいなく夕子は答えた。吐いた台詞の冷たさに愛はごくりと唾を飲み込む。その口調は普段どおりのものだったが、だからこそ彼女の根幹を映しているような気がした。長い睫毛で縁取られた双眸を、彼女は静かに細める。触れたら壊れてしまいそうな、どこか諦めがにじむ儚い笑みだった。
夕子から目が離せないまま、愛は足の下のクッションを握りしめる。紅茶に触れた夕子の唇が、つややかに光を反射する。
「好きなものは、自分がそれを好きであることを理解してればそれで十分かなって。変にアピールして相手の好みじゃなかったら迷惑だと思うし、馬鹿にされたりしたら悲しいもん」
「馬鹿にされたことなんてあるの?」
「言っても、小学生のときだけどね。仮面ライダーのクリアファイル持っていったら、『女子なのに変なの』ってみんなに笑われちゃった」
悪いのは明らかに相手なのに、夕子はまるで自身の失敗談のように過去を語った。ニコリと張り付いた笑顔は、見せたくない感情を覆い隠しているようだった。
愚かだと思った。何年も前のことを夕子はいまだに引きずっている。こんな記憶、愛だったらすぐに忘れていただろう。環境もとっくに変わって誰もそんなこと知らないのに、気にしているなんてもったいない。
でも、愛と違って夕子は受け入れた。受け入れた結果、諦めることに慣れた。その選択に愛はじれったくなる。
「でも、お友達は悪口言うような人には見えないけど。仲よさそうだし」
「うん。みんなすごくいい子だよ。面白いアニメとかいっぱい知っててね、私に教えてくれるの。入学当初は私はあんまりアニメとか声優さんとか知らなかったけど、いまではちょっと詳しくなったんだよ」
「じゃあ、言ってもいいのに」
「うーん、でもやっぱりいいかな。みんなやさしいから受け入れてくれると思うよ。だけどね、受け入れようとしてくれるからこそ言わないほうがいいと思う。興味ないのに無理に気を遣わせちゃったら気まずいし、なによりそんな反応を見て自分のなかの『好き』が壊れるかもしれないのが怖い」
夕子がカップをテーブルに置く。カチャリと響いた陶器の音は、ほんの少しの衝撃でひび割れてしまうような繊細なつくりを感じさせた。穏やかな表情のまま夕子は目を伏せ、いたわるようにカーペットを指でなでつけた。女子高校生の部屋にあるものとしては派手な色合いで、その質感から幼いころから使っていたことがわかる。
星が散らばったカーテンに、小学生のころの工作でつくったようなペン立て。デスクチェアに掛けられたブランケットは何年も前のキャラクターのもので、夕子の領域だけ時間が止まったようだった。部屋に入った瞬間に感じた懐かしさの正体はきっとこれだ。物持ちがいいと言えば聞こえはいいが、過去に執着しているように愛には見えた。
夕子が再び紅茶に口をつける。両手を添えたそのカップは、いったいいつから使っているものなのだろう。
「でも楽しいよ、人の好きなものに触れるのって。みんな楽しそうに話してくれるし、おかげで知れたこともたくさんあったし、私はいまのままで十分かな」
たしかに夕子の言っていることは一理あるんだと思う。不特定多数の声を耳にすることが増えた現代だからこそ、個人の『好き』は他者によって簡単に惑わされてしまう。ブレない芯があればいいが、みんなが持っているわけじゃない。夕子のように誰とも共有しないでおくのは、『好き』を維持するための一つの正解なのかもしれない。夕子がそれで十分だと言うなら、愛にそれを否定する権利はない。
でも夕子のそのいつもどおりの穏やかな笑みが、愛の胸を無性に締め付けた。
傷ついて諦めて、自分に何回も言い聞かせて納得して。その結果それが自身の常識として定着したあとのような、気持ちが凪いだ声音だった。揺るがない強固な自我を持とうとするのではなく、彼女は初めから自分の意志がないように振る舞う選択をした。
悲しい。ふと抱いたこの感情は、夕子があっけらかんとしているから愛が代わりに感じたものかもしれない。
自分になにかできないだろうか。いてもたってもいられなくなり、思わず愛は身を乗り出した。カーペット上の夕子の手に自身の手を重ね、彼女の視界から外れないように顔を近づける。
「あのさ、」
シャツの襟元からのぞく夕子の喉が、ごくりと上下する。唐突な行動に見開かれた彼女のまんまるな黒目に、愛の必死な顔が映り込んだ。彼女は過去に囚われている。おせっかいかもしれないが、愛は夕子に手を差し伸べたいと思った。
「なに? 浅葱さん」
ぱちりと瞬きが落ちると、瞳から驚きの色が消えた。小首を傾げた拍子に、彼女の額をなでるように前髪が揺れる。愛の話を聞いているときに彼女がよく見せる、力の抜けたやさしい笑顔だった。
夕子の意識が愛の口元に集まるのがわかる。しかし、あまりにも普段と変わらない夕子の顔に、愛はなにも言うことができなくなった。見慣れたこの表情が急に仮面に見えてくる。
喉までこみ上げてきた言葉が、なにかを察したように脳内へと引き返していく。半端に開いた歯の隙間から、声になりそこねた息が漏れた。強張った唇がはくはく空気を噛み、怖気づいたように夕子から目をそらした。
自分は、勘違いをしていたのかもしれない。
愛と夕子の距離は、ここ数ヶ月でグッと縮まった。それを愛は夕子が自分を受け入れてくれたからだと、そう思っていた。だけど、実際は夕子が愛に合わせてくれているだけなんじゃないか。それこそオタク友達に対してと同じように。
思えばこの関係だって、料理を教えてと愛が半ば強引に始めたものだった。仲よくなったと思っているのは自分だけなのかもしれないと、不安が肌を駆け上がる。
なら私に仮面ライダーの話を聞かせて。そう口に出せば、おそらく夕子は教えてくれるだろう。でもそれじゃダメなのだ。それだと結局、夕子は愛の発言に合わせようと従うだけ。夕子が自分の意思で話したいと思わなければ、なんの意味もない。
それに手を差し伸べるなんて、そんな資格が自分にあるのだろうか。
愛だってかつては夕子たちを見下していたはずだ。関わる必要のない人たちだと決めつけて、名前すら覚えていなかった。それは夕子のかつての同級生や先ほどの男たちが彼女に向けていたものと、なにも変わらない。親しくなったからといって過去の自分を棚に上げてヒーローを気取るのは、あまりにも虫がよすぎるんじゃないか。
ヒーローになるにはまず、悪役だったころの罪を告白して清算するべきなのではないか。
重ねた手を握り込むと、夕子の柔らかな肌が愛の指を優しく押し返した。夕子に触れているとこんなにも落ち着くことを、愛は知らなかった。知ろうとしてこなかった。緊張で固まった愛の喉が、ぎこちなく上下に揺れる。
本当は以前の自分のことを話したくないと思うのは、いまという時間が愛にとってあまりにも幸せだからだ。なにも打ち明けなければ、またいつもの二人に戻るだろう。でも、それでは夕子の心には近づけない。幻滅されるかもしれない。嫌われるかもしれない。それでも夕子の奥底にある陰りに触れるには、自分の醜い部分を正直に見せることが必要だと思った。
不自然に口をつぐんだ愛を、訝しげに夕子がのぞき込む。その視線の温かさに、愛はつい甘えたくなる。これはきっとエゴなんだろうな。そう自覚しながら、愛はゆっくりと鼻から息を吸った。逡巡してた声帯を空気でこじ開け、口を開いた。
「私、夕子に謝らなきゃいけないことがあるの」
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