第9話②

「俺らとこれから遊ばない?」


 声のほうへと顔を上げると二人の男が愛の前にいた。目が合うなり右の男が小さなうめきを上げて一歩後ずさりする。おそらくいまの愛の表情は、人様に見せてはいけないようなひどいものだったのだろう。それこそ本当に貞子みたいな。

 だけどその男は引きつった口角をすぐに弧にゆがめ、隣の男と一緒に誘い文句を並べ始めた。


 いかにもヤンキー映画のモブキャラみたいな二人だった。ビッグシルエットの服に、時間をかけてつくったであろう無造作ヘア。ジャラジャラと揺れるアクセサリーは目にうるさく、容姿への自信のなさが現れているようで滑稽だった。


 ヒロは相変わらず格好良かったな、と先ほどの光景を思い起こす。白いTシャツに、空と同じ色のデニム。洗練された装いは彼に似合っていて、偶然にも今日の愛のものとそっくりだった。

 ヒロはいつもネックレスくらいしか身に着けなかった。愛がピアスを勧めたことがあるが、痛そうだからと大きな身体を縮めて断られたことがあった。完璧な容姿を持っているのに、ヒロはファッションにあまり興味がないようだった。そのくせに自分の活かし方をちゃんと把握している、本当に器用な男だった。


 朦朧もうろうとした意識が、愛と男のあいだに透明な膜を張る。空間は切り離され、二人がなにを話しているか愛にはもうなにも聞こえなかった。

 膜の向こうから届く声はひどくぼやけていて、ハウリングに近い響きが不快でしかない。それでもその気味の悪い表情から、二人がなにを期待しているのかだけはわかった。


 目の前の二人は、ヒロの足元にも及ばないような男だった。

 

 ただ、この男たちはヒロと違って、いまの愛を求めていた。


 ヒロの視線が愛から離れたいま、愛を咎める人はどうせ誰もいないのだ。いっそのこと、こいつらに遊ばれてやってもいいのかもしれない。


 そんな考えが脳裏をよぎった瞬間だった。反応のない愛にしびれを切らしたのか、右の男が愛の二の腕に手を伸ばした。


「――っ!」


 手のひらと素肌が触れたところから、嫌悪感とともに一気に鳥肌が立っていく。指が食い込むほど握りしめられ、その痛みに愛は思わず顔をゆがめた。びくともしないほどの力の差に、愛は初めて男の人の力強さを知る。ヒロの優しい手つきは愛情によるものだったと気づくと同時に、この男にはそれがないことを理解した。


 怖い。

 たった一つだけ浮かんだ感情が全身を硬直させ、それ以外のすべて思考を脳から弾き飛ばした。


 男が笑顔を貼り付けたまま、愛の腕を引っ張る。声を上げようにも、愛の身体はもう愛のものではなくなっていた。意識と身体が乖離かいりしていて、コントロール下から離れたそれらをもうどうすることもできない。半端に開いた唇は怯えるように震えるだけで、どんな言葉もそこから出てきそうになかった。嫌だ。そう叫んだはずなのに、そのかすれた声は愛の鼓膜にすら届かない。


 こんなにも自分が弱い人間だとは思わなかった。周りからもてはやされて勘違いしていたが、自分はただの高校生でしかないのだ。ナンパをしてきた年上の男の腕を振り払う勇気もない。恐怖だけじゃなく、自身の無力さへの悔しさが目元に集まってくる。


 助けて。誰か助けて。


 強く瞳を閉じる。瞼から押し出された熱が、愛の頬を伝った。


「浅葱さん!」


 耳心地のいい聞き慣れた声が、愛の耳朶を打った。夕子だ、とその声色だけで愛はすぐに気づく。視線が重なった瞬間彼女はこちらに駆け出し、愛と男のあいだに半ば強引に身体を入れた。男の存在なんてお構いなしに愛の両肩に触れると、その瞳をぐっと愛の顔に近づけた。琥珀色の双眸は水分をいっぱいに含んでいて、反射した光が星みたいで綺麗だった。


 息を荒げながら、夕子は長い睫毛をぱちりと降ろした。それが再び上がったとき、心配だけを映していた黒目に怒りの色が混ざっていた。


「どうしたの浅葱さん。心配したんだよ」


「どうして……」


「いくら待っても来ないからなにかあったんじゃないかって。浅葱さん美人だし」


 大げさだな、お母さんかよ。そう言って笑ってやろうとした。だけど、固く閉ざされた唇に阻まれ、愛はなにも言えなかった。その声が、その眼差しが、愛のもとへと向けられるたびに、歯を食いしばる力が強くなっていく。


 言葉が出てこないのは、もう恐怖のせいじゃなかった。このまま会話を続けていたらきっと、愛のなにかが決壊してしまう気がして口を開くことができなかった。こみ上げる感情の熱が出口を求め、鼻から漏れる息を細かく揺らす。

 夕子の肩越しに、不機嫌そうに表情をゆがめた男の姿が視界に入った。急に話を妨げられておもしろくなかったのだろう。つくろった笑顔はところどころ剥がれ落ち、その隙間から心根を表したような嫌悪が垣間見えた。


「キミ、こんなデブと知り合いなの? こんなやつと一緒にいるくらいなら、俺らと遊んだほうが絶対楽しいでしょ」


 ほら、はやく。焦ったように男は言うと、つかんだままだった愛の腕を強引に引こうとした。その瞬間、パシンと乾いた音が愛の視線の先で響いた。音と同時に拘束されていた愛の二の腕が軽くなる。

 夕子が男の手を弾いたのだ。急な反撃に男たちは一瞬の怯みを見せた。夕子は彼らのほうへと振り返ると、周囲に聞こえるような声量で微笑みかけた。


「ごめんなさい。彼女はこれから大事な用事があるんです。遊びならほかをあたってください。あっ、なんだったら私が行きましょうか? 未成年の女の子と遊びたいみたいですし」


 未成年という言葉を強調して、夕子はニコリと告げた。その声音は普段どおり優しいものだったけれど、相手に対しての強い感情が含まれていた。細められた瞼からのぞく眼光がギラリと鋭くなる。


 夕子の提案に、男たちは苦虫を噛み潰したような表情になった。隠そうともしない強烈な嫌悪に、愛の胸がグニャリと音を立ててひずむ。彼らはなにか言い返そうと口を開き、しかし周囲の目があってか結局ひとことも発さなかった。


 男たちが背を向ける。去り際につぶやいた「なんだあのブス。気持ち悪い」という捨て台詞は、鮮明に愛たちの鼓膜まで届いた。


「浅葱さん、大丈夫?」


 そう言って夕子は愛と同じ目線の高さまで腰をかがめた。その瞳は普段の柔らかなものに戻っている。この視線に愛はいつも心をすべて許してしまいそうになるのだ。

 真っ白な肌の中央に浮かぶその綺麗な双眸をずっと見ていたかったが、あふれ出した涙によって視界が遮られた。押し寄せる安堵に涙腺が壊れ、我慢していた感情が堰を切ったように愛の頬を濡らしていく。夕子は愛の指からレジ袋を受け取ると、「行こ」と手のひらを差し出した。


 すっかり憔悴しょうすいしきってしまい、愛は夕子の腕にしがみつきながらなんとか歩き出すことができた。彼女の肩に目元をうずめているせいで前がよく見えない。それでも、いまはそうしていたかった。

 あのさ。風に消えてしまうほどのか細い声を、夕子が受け取ってくれる。ん? と彼女の意識が、肩越しに愛に集まるのを感じた。


「……夕子はさ、カワイイよ」


 意図していない台詞だったのだろう。えっ! とくっついた肌から彼女の驚きの大きさが伝わった。いまだ震えている喉を無理やりこじ開けると、ちゃんと伝わるように愛はもう一度繰り返した。


「夕子はカワイイんだよ」


「あー、急になに言うかと思ったら、さっきの人たちのことね。別に気を遣わなくたっていいのに」


「気なんか遣ってない。ほんきで言ってるのに」


「ごめんごめん、ありがと。というか浅葱さん、いちばん最初になに言うかと思ったらそんなこと気にしてたんだね。もっと自分のこと心配したらいいのに」


 変なの、と夕子はクツクツと愉快げに喉を鳴らした。真剣に言ってるのになんだか子供扱いされてるみたいで、愛は思わず声を張り上げた。


「笑いごとじゃないよ。だいたい自分の心配ってさ、それはこっちの台詞だよ。なんであんなこと言っちゃったの」


「あんなこと?」


「アイツらに言ってたじゃん、『私が行く』って。どうするの、ほんとに連れて行かれたら。あんなこと言ったら絶対ダメだよ。危なすぎるよ。もっと自分を大事にしてよ。お願いだから」


 もしものことが思い浮かんで、愛は夕子の腕に絡みつく自身の腕の力を更に強めた。涙声に怒りが混ざっていき、自分でもなにを言ってるかわからなくなる。

 鼻をすする愛の隣で、夕子は危機感のない声音で言った。


「いやー、それは絶対にないと思うよ。あの人たちは浅葱さんがかわいかったから声かけたんだと思うし」


「夕子だってカワイイよ」


「優しいね、浅葱さんって」


「優しさで言ってないのに。ほんとなのに」


 助けてくれてありがとう。怖かった。格好よかった。伝えたいことはたくさんあったけれど、まっさきに出てきたのはその言葉だった。

 でも、夕子は軽く受け流すだけで、愛の言葉は彼女のなかにまで届いていないような気がした。


 夕子の家に近づくに連れて、周囲から人の気配が薄くなっていくのがわかる。泣き腫らした目を前へと向けると、急な明るさに視界のなかにカラフルな閃光が走った。

 愛の右頬を、夕子のおさげがさわさわと戯れにくすぐる。どうせ誰も見ていない。もう少しこのままでいたいと、愛は再び顔を夕子の肩に押し付けた。

 密着した夕子の身体は、愛が思っていたとおり柔らかくて気持ちのいいものだった。

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