第9話①

 スーパーの通路を進む足取りが普段より軽いのは、期末テストから開放されたからかもしれない。大きく足を踏み出せば、サンダルの踵がコツンと軽快な音を鳴らした。白いTシャツからさらされた二の腕の表面を、野菜コーナーの冷気がするりとなでていく。


 梅雨が明け、七月に入ると一気に気温が高くなった。今日は特に日差しが強く、行き交う人の服装も夏めいたものになっている。

 ヒロに告白されたのも、今日のような夏の匂いが濃い日だった。昼休みになるとヒロは愛を屋上に連れていき、付き合ってくださいと思いを告げた。

 正直予感はあったから、驚きはしなかった。でも、夏祭りだとか水族館だとか、もっとロマンチックな場所で言われると思っていたから少し拍子抜けした。考えに考えたであろう告白の決め台詞も、逆に新鮮に感じるくらい普通なものだった。

 ただ、高い頭を目いっぱいに下げて握手を求めるその制服姿がかわいくて、つい笑ってしまったのを覚えている。なんだかんだ言って、そのすべてがヒロらしかった。

 付き合う前から、愚直なまでにヒロは素直な人だった。きっとおしゃれな場所も、キザな台詞も、ヒロには似合わなかったかもしれない。


「はい。よろしくお願いします」


 敬語なんて最初しか使ってなかったのに、ヒロに釣られて愛の言葉もかしこまったものになった。愛のもとへと差し出された手を、右手で幸せと一緒にギュッと握り込む。愛の手が彼にすっぽりと包まれる。直角に曲げた威勢のよい姿勢に反して、その指は怯えるように震えていた。バスケットボールを力強く打ち付けることのできる、骨ばった男の子の手。愛に触れるときはいつだって優しくて、柔らかかった。


――その手はもう、自分に伸ばされることはないのかもしれない。


 急に浮かび上がった弱音を、愛は慌てて頭を振って外に追い出した。気を取り直すように背筋を伸ばし、カゴを握る手に力を込める。

 感傷に浸ってる場合じゃない。ヒロとの関係は、たしかにあまり良好とは言えなくなっている。だけど、愛だって離れていく距離をただ黙って眺めていたわけじゃないのだ。来たる記念日に向けて、お弁当づくりを頑張ってきた。

 そしてその料理の練習もとうとう大詰め。今日は夕子の家で、実際に渡すものと同じお弁当をつくることになっている。


 髪を耳にかけ、前を見据える。あれだけ最初はビビっていたこのスーパーも、いまは我が物顔で歩けるようになった。思い描いた最短ルートを進み、無駄のない動きで食材を入れていく。

 熟練の主婦みたいな面持ちで会計を済ませると、外はすっきりとした晴天だった。頭上を覆う濃い青色が、大きく膨らました肺に染み込んでいく。この景色を水彩画にしたらいい絵になりそう。できもしない妄想が、愛の気分を愉快にする。


 道路の反対側にもさまざまなお店が並んでいて、普段より多くの人が歩いているように見えた。いかにもおでかけ日和といった陽光に、みんな急かされたのだろう。

 あっ、そうだ。せっかくお弁当をつくるなら、夕子と一緒に外で食べるのもいいかもしれない。場所は夕子に決めてもらって、ちょっとしたピクニックみたいなことをしたらきっと楽しい。


 浮かれ気分で夕子の家へと向かおうとすると、ふと反対側の歩道に見覚えのある姿が見えた。あれはたしか、バスケ部のマネージャーだ。駆け足気味にどこに向かっているんだろうと目で追うと、待ち合わせの相手らしき男の隣に立った。

 肩を叩かれ、背の高いその男がスマホから顔を上げる。


 息が止まった。

 半端に開いた口の奥で、小さな悲鳴が押しつぶされる。頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚え、倒れそうになりながらよろよろとガードレールに腰掛けた。急なめまいが愛を襲い、視界が縁から白くぼやけていく。遠のいていく意識のなかでも、バレないように顔を伏せる程度の冷静さだけは残っていた。


 あの女の隣にいたのは、ヒロだった。融通がきかない猫っ毛に、あの人懐っこい笑顔。いつも見ていたのだから見間違うわけがない。でも、あの笑顔を見たのは久しぶりだった。その理由は、自分に向けられることがなくなったからにほかならない。あのうれしげな視線の先にはもう別の女がいた。


 どうしても気になって後ろを振り向くと、彼らは映画館に入っていくところだった。その手が繋がれていないのがわかりほっとする。しかし安堵は一瞬で消え去り、愛は我に返った。

 彼らが付き合ってるのか、友達として遊んでいるだけなのか。それがわかったところでいったいなんだというのだ。道をたった一本隔てただけなのに、彼との距離はものすごく遠く感じた。

 今日は部活がないのだろう。前までは休みがあったらヒロは必ず愛に連絡してきた。綺麗な思い出を頭のなかでかき集めたところで、現実の前ではなんの気休めにもならなかった。


 そもそも告白してきたのはヒロのほうだ。私が好きだったわけじゃない。付き合うなんて所詮口約束でしかないのだから、好きな人がほかにできたのなら移り変えればいい。

 別れたらきっと愛は、周囲からいろんなことを言われるかもしれない。後ろ指だってさされる。そしたらまた別の男を捕まえて黙らせてやればいいだけの話だ。愛は自分の容姿が周囲より優れていることを知っている。男の扱いにも自信がある。それに必ずしも同じ高校の人間から彼氏を選ぶ必要なんてないのだ。次はもっと格好よくてヒロがくすんでしまうような大学生と付き合うのなんてのもいいかもしれない。


 じゃあなんで自分はこんなにも動揺しているのだろう。明るい未来を思い描いているはずなのに、心は一向に晴れてくれない。

 みにくよどみが身体の内側で渦巻き、吐く息には先ほどまであった高揚は一切感じられない。口からこぼれる空気はひどく重たく、足元に落ちていくのを愛はただ黙って見つめている。

 舌の上にせり上がってくる不快な苦味を、愛は唾と一緒にゴクリと呑み込んだ。口内に広がる感情の残滓ざんしは、悔しさや怒りとは違う味がした。それが自身のどんな感情を示しているのか、愛にはわかりそうもなかった。


 いったいどのくらいの時間、この場にとどまっていたのだろう。肌に汗がにじみ、照りつけられた頭皮は焼けるように熱い。腰をおろすにはガードレールの厚さは心許なく、背後を走る車の勢いにときどき身体が持っていかれそうになる。

 愛の前を通る人は、当然だがその歩みを止めるようなことはしなかった。ただ、たまに小さくなる歩幅に、愛は奇異の視線を感じた。それもそうだろう。長い髪をベールのように垂らした女が、食材でいっぱいのレジ袋を持って固まっているのだ。もしかしたら買い物帰りの貞子のように見えているのかもしれない。そんな馬鹿げた妄想に、ふっと乾いた吐息がもれた。


 ずっと袋を持っていたせいで指が痛くなっていた。紐のように縮まったビニールが関節に食い込み、指の先端が赤くにじんでいる。もう持ち変える気力もなかった。

 無気力に眺めていると、ふいに二足の靴が愛のほうを向いて止まった。趣味の悪いすかした靴だった。


 ねえキミ、なにしてるの? その鼻にかかった欲望まみれの声が頭上から落ちてきた瞬間、次に起こることが容易に予測できた。


「俺らとこれから遊ばない?」

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