第8話②
「夕子はお母さんと仲がいいんだね」
「そうだね。仲いいほうだと思うよ。お母さんが家にいるときは、一緒にごはんつくったりするし」
夕子と彼女のお母さんが一緒にキッチンに立っている姿は、なんとなく想像できる。テキパキと手を動かしながらも、学校のことなど他愛もない話を肩を並べてしているんだろうなと思う。浅葱家にはない光景だ。
昨日は長江親子と同じく、愛と母は二人でキッチンにいた。しかしそこに漂っていた空気は、彼女らと正反対のものだったに違いない。
「へえー、なんかうらやましい」
するりと漏れた本音が、夢見がちにふわふわ宙へ浮かぶ。愛は夕子へと視線を戻すと、彼女はニヤリといたずらっぽい微笑を唇に乗せた。
「なんか、聞いてほしそうだね」
まんまと図星を突かれる。愛は素直にコクリとうなずくと、どうしたの? と夕子は台詞じみた口調で問いかけた。
夕子が愛をじっと見つめる。睫毛に縁取られたその双眸は、日向のような暖かさで満たされていた。ぬるいお湯に浸かってるみたいだ。優しくて柔和な雰囲気にほだされ、愛のなかの硬いものがじわりとほぐれていく。
昨日の夜のこと、母とのこれまでの関係のこと。誰にも言うことなく溜まっていた愚痴が、決壊したようにすらすらと愛の口から吐き出されていく。
話に熱が入っていくうちに、夕子の表情は深刻になるどころかどんどん綻んでいった。それが自分の口調が子どもっぽくなっていってるせいだと気づいたが、愛は振り切るように続けた。
ひとしきり言い切ると、夕子は静かにそのまなじりを下ろした。
「心配なんだよ、きっと」
「そうかもしれないけどさー」
いくら愚痴を並べても、夕子が他人の悪口に同調することはないとわかっていた。こういう棘のないおおらかな視点は、夕子のいいところだと思う。だけど、正直物足りない。その大人な反応になんだか距離を感じて、愛は不満げに唇をすぼめた。
そんなことないよ。浅葱さんが正しいよ。そんな都合のいい言葉を待っていた自分はやはり、面倒くさい女なのかもしれない。
夕子の前だと、つい愛は甘えた態度を取ってしまう。夕子の性質がそうさせているのか、それとも愛が弱くなったからなのか。そんな二択が頭を過るも、愛にはわかりそうもなかった。
夕子は席を立つと、冷蔵庫からお茶を取り出した。空になった自分のコップに注ぐと、ついでに愛のコップにも注いでくれた。いっぱい話したせいで喉が渇いていたから助かった。お礼を告げると、夕子は「喋り疲れたでしょ」と労りの笑顔を見せた。反射的に「そんなことないけど」と愛は見栄を張ってしまう。
「浅葱さんのお母さんって、料理上手でしょ」
「えっ。ま、まあ、そうかも」
会話はてっきり終わったとばかり思っていた。だから、夕子の唐突な母の話に、愛は虚を突かれたようにテキストから顔を上げた。黙っていたんじゃなく、夕子は愛の言葉について考えてくれていたのかもしれない。
「毎晩毎晩飽きずにいろんなのつくってるね。私はあんまり好きじゃないけど。というか、なんで断定?」
「私ね、料理についての持論があるの」
疑問を全面に押し出す愛をお構いなしに、夕子は話を進める。
夕子は意外とこういうところがある。近くにいることが多くなってわかったが、彼女はときどき強引だったりSっ気のある態度を見せた。か弱いイメージだった最初に比べてだいぶ印象は変わったが、いまの夕子を愛は好意的に捉えている。
「料理が上手になるために必要なことって、技術はもちろんそうなんだけど、いちばんは美味しいごはんをたくさん食べることだと思うの」
「う、うん」
「浅葱さん料理は初心者なのに、なんでこんなに味付けとかアイデアのセンスがあるんだろうって考えてたんだけど、」
「いや、センスなんてないと思うけど」
気づいたら愛は夕子の台詞を遮っていた。夕子は何度も愛に対してそういう評価をしてくれたが、やっぱり過剰だと思う。
しかし、すぐさま夕子は首を横に振った。
「ううん、絶対あるって。だって浅葱さん、どれをどのくらい入れたらどんな濃さになるとか、これとこれを組み合わせたらどんな味になるとか、ごく自然にイメージしてるでしょ? これって浅葱さんからしてみたら普通のことかもしれないけど、なんの経験もなしにできるのは結構すごいことだと思うんだよね」
「そ、そうかな」
まっすぐな称賛がむず痒く、内臓が上のほうにキュッと縮まっていく。そんなことないと否定したかった。だが、夕子の熱意に押され、口から出たのは別の言葉だった。
それに夕子の指摘にまったく心当たりがないと言えば嘘になる。たしかに味付けの量も料理のアイデアも、彼女の言うとおり愛はなぜかそれなりにできていた。
いつからか夕子は愛に味付けを任せ始めた。彼女に分量を尋ねるたびに、「適量で」「浅葱さんの好みで」と曖昧な答えしか言わなかったが、もしかしたら愛を試していたのかもしれない。そう考えると、目の前の少女はなかなか食えないやつだと思った。
「で、お母さんが料理上手って言うから、やっぱり! って思った。浅葱さんが持ってるその味付けの感覚やアイデアの豊富さは、お母さんがつくった美味しい料理をこれまでたくさん食べてきたからこそのセンスなんだなってようやくわかった。まあ、浅葱さんがお母さんの料理にあまりいい印象を持っていなかったのは、ちょっと予想外だったけど。仲がいいと思ってたから」
持論が確証に近づいてうれしいのか、夕子は満足そうに笑みをたたえている。
たしかにいい印象はない。それはついさっき愛が夕子に説明したことだ。でも、愛はうなずけなくなっていた。否定も肯定もなぜかできず、引き結ぶ唇に迷いが表れる。
でもこれだけはわかる。そう夕子は愛の目を見て言った。
「浅葱さんのお母さんは、浅葱さんのことを愛してるんだなって。浅葱さんのつくる料理を食べればわかる。それがうまく伝わってないのは、浅葱さんのお母さんも、その正しさってやつを迷ってるからなんじゃないかな」
喋りすぎたと思ったのだろう。「まあ、あまり人様の家庭についてとやかく言うもんじゃないけど」と、夕子は肩を縮めた。揺れる黒髪の隙間からわずかに見える口角が、恥ずかしそうに弧を描いている。
さあ、どうだろ。そう答えた口調は平然としたものだった。だが、皮膚の下を巡る血液は、妙にざわざわと震えていた。
バリエーション豊かな料理が毎晩食卓に出てくることを、愛は当たり前だと思っていた。だから、いままで物足りないとか好みじゃないとか好き勝手言えた。でも、なんとなく気づき始めていたのだ。自分でも料理をするようになったからこそ、あの大変さが想像できる。
母は自分の料理に、健康や美容といった正しさを押し込める。
じゃあ母は、なぜ正しさなんてものに執着しているのだろうか。
その目的はどこに、もしくはだれに向いているのだろうか。
「人生ってなにが自分の糧になるのかわかんないよね。無駄だと思ってたことも、後々役に立つことだってあるし」
世間話をするおばさんのような呑気さで、夕子は頬杖をつきながら高校生らしくないことを言う。愛になにか訴えたいわけじゃない、ただふいに思いついた言葉がそのまま口に出たような口調だった。
意味もなく、愛は自身の黒髪を指に巻き付ける。強張った頬を無理やり動かして、微笑みに見える表情をつくろった。黙ったままでいるのも不自然だと思い、「たしかにね」と当たり障りのない言葉でうなずいた。
解きかけだったテキストの問題が、早く空欄を埋めてくれと愛にせがんでいる。
『臆病な自尊心と尊大な羞恥心とは、どのような心理を表しているのか』
拾い上げたシャーペンが、なぜだかさっきよりも重たく感じた。教科書をめくると、パラパラと音を立てながら弱い風が愛の手を掠める。
問題を解くために本文を読み直すも、同じ文章を何度も読んでしまう。羅列した文字は愛の瞳の表面を横切っていくだけで、なにも理解できそうになかった。集中力が切れただけなのか、それとも別の理由なのか。
いずれにせよ、愛の脳内にはもうほかのことを考えられるような余地は残っていなかった。
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