第8話①
土曜日になり、愛は夕子の家にいた。期末テストが近いということで、二人で食卓に教材を広げて勉強をしていた。だんだん集中力がなくなり眠くなってきたのは、きっとお昼に食べたものの消化が始まったからだろう。
今日のお昼ごはんはお弁当の練習を兼ねたハンバーグと、枝豆のペーストだった。
「枝豆が大量に送られてきて、どうしようか悩んでるんだよね。茹でてそのまま食べたり使ったりするのもいいけど、それだけだと飽きちゃうし。浅葱さん、なんかいいアイデアない?」
それなりに料理ができるようになってからは、愛は夕子と一緒にお昼ごはんをつくるようになっていた。夕子が言うには、愛は料理のセンスがあるらしい。愛にはまったく自覚がないのだが、今日のように彼女は味付けやアレンジなどのアイデアを愛に求めることが多かった。
「枝豆ねえー」
自分がなにを秘めているのかはわからないが、傍らで楽しげに待っている夕子を見るとまんざらでもなかった。期待に応えたい。拳を下唇に当て、連想ゲームのように目前の枝豆からイメージを膨らましていく。焼く、煮る、揚げる、混ぜる。様々な選択肢が頭を過ぎていくなかで、愛はふと昔の記憶にぶつかった。
「潰してみたらいいんじゃないかな」
思い出したのは、母の料理だった。以前愛は自宅で、母がつくった豆のペーストを食べたことがあった。少し酸味の効いたなめらかでコクのあるペーストは、パンやスティック野菜によく合ったのを覚えている。
そのときの豆はクリーム色でたしかひよこの形をした豆だったが、枝豆も広く見れば同じ豆なのだ。似たようなことをしても、失敗するということはおそらくないだろう。
「よし! じゃあそれにしよう」
夕子の言葉ですぐに調理は始まった。
茹でた枝豆を、さやから一粒ずつボウルへと出していく。なかなか根気がいりそうな作業だと、その量の多さに尻込みしてしまいそうだった。だけど、夕子と話しながらの作業は楽しくて、気づいたら終わっていた。もっと話せるように、枝豆の量を倍にしてもよかったかもしれない。
フードプロセッサーでなめらかになるまで
にんにくと爽やかな枝豆の香りが鼻の奥まで広がり、鮮やかな新緑の色に食欲がそそられる。愛と夕子はせーので口に入れると、想像以上のできに思わず顔を見合わせた。二人の瞼は限界近くまで見開かれ、スプーンを咥えたままの口から声にならない声が漏れた。
食後に調べてみたら、愛たちがつくったのはフムスという料理らしい。母がそうしたように本当はひよこ豆という豆を使うらしく、レシピを見ると材料などだいぶ違うところがあった。
でも、これも正解なのだ。美味しかったし、なにより楽しかった。
外の天気は朝から相変わらずの雨模様だった。灰色の空から落ちてきた雨粒が窓にぶつかり、みじめったらしくへばりついている。ここからだといつもは芝が敷かれた庭がよく見えるのだが、今日はぼんやりとした緑しか見えない。
頬杖で支えていた顔の向きを窓から手元の教材へと移す。広げられた現代文のテキストには、プライドをこじらせて虎になってしまった男の物語が書いてあった。
小さいころ、人間が虎ではなく、虎がバターになる絵本を読んだことがあった。ホットケーキに塗られた黄金色のそれがとても美味しそうで強く印象に残っている。
そう思いを馳せる愛の意識は、少し前から勉強から離れていた。
今日は家に帰りたくないな。ふと名残惜しげにそんなことを思ったのは、あきらかにこの時間に対しての未練だった。幸せなこの空間にいればいるほど、別れを拒みたくなるのは当然のことだ。それに昨日の今日だ。なるべく愛は母と顔を合わせたくなかった。
「ねー、夕子。今日泊まってもいい?」
「うーん、いいよっていいたいところだけど、浅葱さんを泊められるスペースがないんだよね。前にも言ったことあるけど、私の部屋は弟と共同だし」
いまだに姉弟で部屋が一緒だと聞いて、ウソでしょ、と驚いたのは先週のことだった。夕子いわくもはやそれが当たり前になってしまい、いまさら苦に感じないそうだ。男の弟はそうじゃないんじゃないか。そう口をはさみそうになったが、人の家のことだからと言葉を呑み込んだ。顔も知らないが、弟さんに愛は少し同情した。
「じゃあ、明日また来るよ」
こればかりはしょうがない。がっかりしたように愛が告げると、あっ、と夕子が口を開いた。嫌な予感がした。ごめん。その薄桃色の唇がいちばん聞きたくなかった三文字を紡ぎ、思わず愛は硬直してしまった。
「明日はお母さんが休みだから、一緒に買い物に行く予定なんだよね。だから次は来週かな」
ショックを受ける愛に反して、夕子の声音はあっさりとしたものだった。ノートにペンを走らせる片手間に、夕子はごく平然と答える。その態度に、愛の喉が動揺で震えた。途端に体内から熱がするりと抜けていく。指からこぼれ落ちたシャーペンが、檻のような罫線の上を力なく転がっていった。
明日会えないんだよ。私よりお母さんを優先するの? なんでそんなに平気な顔でいられるの?
水槽にヒビが入ったみたいに、彼女をつなぎとめようとする言葉が勢いよくあふれ出してくる。
それが口から飛び出てくる寸前のところで、理性が愛の気道を塞いだ。我に返ると同時に身体がじわじわと熱くなっていく。自身の感情の暴走が恥ずかしく、愛はノートに視線を落とすフリをして顔を伏せた。
いったい自分はなにを考えているのだろう。これじゃまるで面倒くさい女みたいじゃないか。言葉にしなくて本当によかった。大きく深呼吸すると、気を取り直すようにコップのお茶を一気にあおった。
「夕子はお母さんと仲がいいんだね」
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