第7話

 六月も中盤になり、ここ最近は晴れより雨の日が多くなっていた。時計の針は二十二時を周り、愛の耳には屋根を打つ雨粒の音しか届かない。電気が消えたリビングは夜の色と同化し、ひっそりと時間が止まっているみたいだ。

 そのなかで、愛が立つ調理スペースだけがぼんやりとした明かりに包まれていた。オレンジ色の成分が強いキッチンのライトが、侵食する闇を拒むように愛の手元を照らす。風呂上がりで軽くなった髪に指を滑らせ、愛は目前の卵をじっと睨みつけた。


 初めて夕子に料理を教わってから数週間が経とうとしていた。休日は夕子の家で一緒にお昼を食べながら料理を教わり、平日はときどきこうして自宅で練習するのが普段の流れになっている。

 つい先日も愛は夕子の家におじゃましてきた。お弁当のおかず用につくったポテトサラダを遊び半分でコロッケにアレンジしたら、おいしいと夕子は驚きの表情を見せていた。


 夕子のおかげでいまは一人でもそれなりに料理ができるようになるまで成長していた。ミニハンバーグや、ポテトサラダ。お弁当に入れるおかずも決まり始め、完成は着々と近づいている。

 ただ、卵焼きだけはいまだに上手くいかなかった。焼いて終わり、混ぜて終わりの料理と違って、綺麗に巻くのに繊細な技術が必要なのだ。

 卵焼きを入れなければいいんじゃないかと思ったこともあった。だけど、夕子は愛を乗せるのが上手だった。進捗を報告するたびに夕子は愛にうれしい言葉を送ってくれた。だからこそ彼女の期待に応えたいし、本音を言うともっと褒められたい。愛のモチベーションの矛先は、いまやほとんど夕子に向いていると言っても過言じゃなかった。


 菜箸で卵を切るように混ぜていく。こうすることで黄身と白身が一体化しやすいと夕子は言っていた。この作業が甘いと火の通りはバラバラで、焼き上がったあとにまだら模様ができてしまうらしい。

 熱が一気に入るのを防ぐため、フライパンに入れる始めの卵液は多め。できあがりの表面がでこぼこしないように、膨らんでくる部分はその都度箸で潰していく。

 夕子の教えを脳内で唱えながら、一つひとつの手順を慎重に進めていく。彼女は動きだけじゃなくその意図まで教えてくれるから、どこを意識すればいいかわかりやすかった。


 最後の卵液をフライパンへと流し込む。半熟になったところで折りたたむのがベストなのだが、ここが一番の難所だった。手前に転がればいいだけなのに、卵はなかなか愛の言うことを聞こうとしてくれない。だんだんイラついてきて強引にフライパンを振りだすころにはもうほぼ卵液が固まっている、というのがいつものオチだった。


「うーん、やっぱりまだ層になってる」


 できあがった卵焼きの断面を見て、昨日も見た光景だと愛は肩を落とした。火にかけてる時間が長くなったせいで、ただ薄い卵の膜が重なってるだけになってる。見た目だけはそれなりに綺麗なのにな、とひとくち食べるもやっぱり水分が抜けててパサついていた。


 夕子がつくったやつは噛んだ瞬間に出汁があふれてきて美味しかった。そう思いを馳せていると急に視界が明るくなった。眩しさに目をくらましていると、愛の背後から声が聞こえてきた。


「電気つけたら?」


 振り返ると、部屋の入口に母が立っていた。訝しげに頭を傾げ、愛を見ている。一瞬で湧き上がる不快感が外にこぼれ、顔がゆがんでいく。なに、と母に向けた言葉は無意識に強い口調になっていた。


「水を飲みに来ただけよ」


 そう言って、母はキッチンの傍らにあるウォーターサーバーにコップを入れた。

 シックな雰囲気の黒いパジャマを身にまとい、襟元には緩いパーマがかかった黒髪が垂れている。母は愛と同じくスタイルはいいほうで、服の上からでもその姿勢のよさはたしかだった。常に凛とした佇まいで、彼女がだらけている姿を見た覚えがない。目鼻立ちが整った母は知人に美人だとうらやましがられることもあったが、愛にはいい印象がなかった。切れ長の目からのぞく、すべてを見透かしたような視線が愛は苦手だった。

 コップに口をつけ、母はまるで刑事のような目つきで愛と調理後のキッチンを見渡した。


「最近夜になにかしてるなって思ってたけど、料理なんてしてたのね。めずらし。なんかゴミが増えてるなーって思ってたのよね」


「別にいいでしょ。材料は自分で買ってるし」


「悪いとは言ってないでしょ。それに材料なんてうちにあるのを使ったらいいのに」


 電気を消していたのも、家にある食材になるべく触れたくなかったのも、母の干渉を受けたくなかったからだ。会わない時間を狙っていたとはいえど、いつかはバレると覚悟していた。だが、いざこうしてはち合わせると途端に居心地が悪くなる。

 静かに細めたその瞳から見たこの光景は、きっと子どもがままごとをして遊んでいるようにしか映らないのだろう。抱いた妄想はひどく現実味があり、胸が締め付けられていく。

 母はいつも愛に自分の正しさを押し付けようとしてくる。食べ物だけじゃない、習い事に遊びに進路だってそうだ。そのなかでこのお弁当づくりは自分一人で決めたことだった。自分だけの選択に、母が介入してくるのだけはどうしても嫌だった。


「勉強はちゃんとやってるの?」


「出たよ、勉強勉強って。この前の中間テストの点数見せたでしょ? まだ不満なの?」


「そうじゃないけど、心配なのよ」


「心配って、世間体が崩れるのが心配なだけでしょ」


「またそんなこと言って」


 母は眉尻を下げると、なにか言いたげに唇をすぼめた。その視線がふと卵焼きへと移る。まずい。そう思ったときには、母はその断面をのぞき込んでいた。


「卵焼きをつくってたのね。でもこれじゃ層が重なってるだけだから水気がないでしょ。こうならないようにするにはね――」


「聞いてもないのに勝手に教えようとしてこないでよ。ほっといて、自分でやるから」


 愛の声が静かな夜の空気を切り裂いていく。しかし母は澄ました表情で、あらごめんなさいね、とつぶやいただけだった。どんなに怒りをぶつけたところで、子どもの反抗として流されてしまう。どこまでいっても母にとって私は、正しさを教育してあげるべき娘でしかないのだ。


「ちゃんと片付けといてね」


「……片付いてなかったことなんて一度もないでしょ」


 母が寝室へと向かう。一人残された空間は電気がついているはずなのに、母が来る前よりも暗く感じた。耳をつんざくような静寂が鼓膜へと突き刺さり、手を握りしめる。

 できあがった卵焼きを食べる気力はもうなかった。閉じ込めるようにラップで包み、冷蔵庫に入れる。スポンジに洗剤をつけ、脳内の黒い感情を消し去るように卵焼き器の汚れを落としていった。

 身体のなかで膨れ上がった熱が、吐く息を揺らしているのがわかる。その音は愛の耳に届く前に、蛇口の音に呑まれて泡と一緒に消えていった。


 明日は休日、夕子に会える。


 ただその事実だけが、いまの愛にとっての支えだった。

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