第6話

 翌日、愛はデニムにカーディガンという装いでスーパーに向かった。季節に合わせたラフな格好だ。店内に入ると、愛はカゴを手に取りまっさきに卵の場所へと向かった。昨日とは違い、目的があるだけでその足取りは軽くなっていた。


 一パックの卵をカゴに入れてレジに向かおうとすると、鮮魚コーナーに視線が吸い寄せられた。

 卵焼きに入れたら美味しいんじゃないか。

 電球が光ったように好奇心が浮かび上がり、それを止めるすべを愛は持ち合わせていなかった。いますぐにこのイメージを試してみたい。愛は気づいたら手を伸ばしていた。


「それで、卵と一緒にこれを買ってきたんだ」


 そう言って、夕子はレジ袋からしらすと刻み海苔を取り出した。夕子の家に着き、まず愛は彼女に買い物の成果を見せた。どうかな、と恐る恐る彼女の瞳をのぞき込む。


「え、めっちゃいいと思う。塩っ気もあるし、海鮮系の出汁も出るから絶対美味しくなると思うよ。なんかのレシピに書いてあったの?」


「ううん。なんとなく、直感で」


「へー、そうなんだ。じゃあ今日はそれで卵焼きつくってみよっか」


「おっけー」


 夕子の教えは一つひとつがとても細かくて丁寧だった。昨日言っていたとおり、動画などでちゃんとしたつくり方を一から調べてくれたらしい。なんで愛にそこまでしてくれるのかわからないが、その施しを素直に受け取った。


「じゃあまずは卵の割り方からね。殻が入っても取り出せばいいだけだから、慌てないようにね」


 台所の前に二人肩を並べて、まず初めに夕子が手本を見せる。そしてあとについていくように、愛もその動きを真似していった。味付けに、焼き方。夕子はやり方だけじゃなくその目的も教えてくれたから、なにもわからない愛にはすごく助かった。


「夕子の家族は、休日いつもいないの?」


 卵焼き器を上手に振りながら、夕子は卵を巻いている。愛もチャレンジしてみたが、「巻くのは無理!」と音を上げたので、彼女がつくっているのは自身のも含めて二つ目だった。ふつふつと卵液が焼かれていく音が、二人の背後に広がる静寂へと流れていく。


「いつもってわけじゃないけど、一人が多いかな。両親は共働きで休みは平日が多いし、弟は中学で部活やってるから」


「ヒーロー好きなの?」


 愛の隣にある冷蔵庫の下の段に、男の子が好きそうなキャラのシールが貼ってある。初めて来たときに見つけたものだが、意識して見渡してみると至るところに同じようなものがあった。

 愛の問いかけに、夕子はなぜか驚いたように身体を震わせた。卵を巻く瞬間だったらしく、わっと大きな声が漏れる


「えっ、なんで?」


「ほら、いろんなところにシールが貼ってあるから、弟さんはヒーロー好きなのかなって」


 愛が指をさすと、ほっと夕子は息を吐いた。そういうことね、とその唇が小さく言葉を紡ぐ。あんなにびっくりしていたのに、卵焼き器の上の黄色い塊はまったく崩れていなかった。


「仮面ライダーのシールだね。小さいころ弟が好きで、いろんなところに貼ったの。お母さんが剥がそうとしたけど、糊が残って逆に汚くなっちゃうから、もう諦めてそのままにしてる」


 そう語る夕子の表情は、だんだん姉のそれへと変化していった。きっと弟にとってもやさしい姉なのだろうと、ふと思う。一人っ子の愛にとって、その慈愛に満ちたまなざしは羨ましくもあり憧れでもあった。


「できたよ。食べよ、浅葱さん」


 話しているうちに愛の分の卵焼きが完成した。二人は自分の皿を持ち、各々の席に座る。

 最後の焼く工程を夕子がしてくれただけあって、愛の卵焼きは彼女のそれと同じ美しい形をしていた。箸を入れるとふっくらとした弾力があり、水分が保たれているからかその断面は光を塗ったように輝いている。こんなふうに巻けるようになるにはどれほど卵を消費することになるのだろうと、愛は少しだけ不安になった。

 でも、今日の台所は綺麗なままだった。ほんのちょっとだけかもしれないけれど、自身の成長に胸の奥でうれしさが小さく弾ける。まさか料理ができて喜ぶ日が来るなんて、昨日までは想像できなかった。


「ねえ、浅葱さん。食べてみた?」


 先にひとくち食べていた夕子が、捕らえるような鋭さで愛を見つめていた。大きく見開かれた瞳の奥には、パチパチと衝撃の光が瞬いている。その神妙な声音に、愛は思わず身を引いた。またなにかやらかしてしまったのだろうか。


「いや、まだだけど」


「浅葱さんが買ってきたものを入れてみたんだけど、これすごく美味しいよ。浅葱さんも、早く食べてみてよ」


 眉を強張らせていた愛に、夕子は興奮気味に卵焼きを指差した。彼女が放つ言葉の一つひとつは、これまで聞いたことないくらいに嬉々として飛び跳ねている。窓から差し込む陽光に溶け込み、キラキラと眩しい。

 言われたとおりに、愛もひとくち頬張る。


「ほんとだ」


 思わず漏れた言葉は、間違いなく愛の本音だった。口内にはしらすのほどよい旨味が広がり、そのあとから海苔の風味が鼻を抜けていく。なによりそれらを邪魔しない夕子の味付けも絶妙だった。

 夕子の襟ぐりからのぞく白い喉が、満足そうに上下する。


「でしょ。浅葱さん、センスあるね」


「そうかな」


「そうだよ。今度自分でもつくってみようかな」


 真剣な表情で告げる夕子の言葉に、ふへ、と唇の隙間から感情の粒がこぼれた。口元が勝手にだらしなく緩んでいく。

 これが仲間やヒロに言われたのならここまでの反応を示さなかったかもしれない。だが、料理上手で心根が素直なあの夕子が褒めてくれたのだ。まだ名を知って間もないが、それほどまでに愛は夕子という人物に信頼を置いていた。なにせ初めて家に来たときあんなにも無様な姿を晒した愛を、夕子は全部受け止めてくれた。いまさら張れる見栄なんかもうほとんど残っていない。

 自分のスマホを手に取り、緊張をごまかしながら夕子の前に差し出す。


「夕子、ライン交換しとかない? 自分でも練習したいし、報告させて」


「そうだね。そうしよ」


「あっ、それと」


「ん?」


 顔を傾けると、後ろにくくられた二つの短いおさげがひょこっと揺れた。流れる黒髪の下に、丸みを帯びた白い耳が見える。年季の入った白熱電球の灯りでも、彼女のきめ細かな肌はパチパチと光を弾いていた。愛の二周りほど大きなその身体は、彼女の人柄同様にふわふわしていて柔らかそうだ。

 抱きついたら、気持ちいいんだろうな。無意識に抱いた願望に、なに考えてんだと愛は慌ててかき消した。

 下へと逃げそうになる視線をなんとか夕子に向け、愛は口を開いた。


「次の休みの日も、また来ていい?」


 夕子がはっと息を吸う。その表情にみるみるうちに広がっていったのは、明らかに喜びの色だった。


「うん! また来てよ。スマホ持ってくるからちょっと待ってて」


 扉の向こうに駆けて行く夕子の背を見て、くふふと笑みが漏れる。普段はクールな印象を持たれがちな人間とは思えないほど、なんとも幼い笑い声だった。いまの愛を学校の仲間が見たら、ギャップにさぞびっくりするだろう。

 夕子に出会ってから、愛は知らない自分を発見することが多くなった。だけど、そこに不快感は微塵もなく、むしろもっと知りたい気持ちがある。

 椅子から投げ出した足をぷらぷらと揺らしていると、スマホを持って帰ってきた夕子に名前を呼ばれた。


「お昼ごはんどうするの?」


「まだなんにも考えてないけど」


「じゃあさ、今日もウチで食べてかない?」


「いいの!」


 勢いよく立ち上がりすぎたせいで、椅子が倒れそうになった。実を言うとその願いは頭の片隅にずっとあったが、さすがにおこがましいかもと自重していたのだ。

 飛び跳ねんばかりの勢いで駆け寄る愛に、楽しげな音が夕子の喉奥から鳴り響く。


「今日は焼きそばにしよっか」


「いいね。私も手伝うよ」


「ありがとう。あっ、でもまた大惨事になったりして」


「ひどーい。もう大丈夫だって」


「うそうそ、冗談。こういうちょっとしたことでも上達していくからね。じゃあ浅葱さんはピーラーでにんじんの皮を剥いてもらおうかな」


 はーい、と愛の甘えた声が二人だけの空間を包み込む。身体中を巡る朗らかな暖かさに身をゆだね、愛は夕子の隣に肩を寄せた。

 大きく息を吸うと、前よりも濃くなった夏の匂いが愛の鼻を通り抜けた。

 春が終わり、新しい季節がもうすぐそこまで近づいていた。


   ***


 お風呂上がり、自分の部屋でストレッチをしていると愛のスマホが着信を伝えた。愛が送った今日の感謝を伝えるスタンプの下に、夕子のスタンプが連なっている。アニメのキャラクターらしき人が、グッと親指を立てているスタンプだ。

 愛にはそれがなんのキャラかまったくわからなかったが、そのカラフルで大きい主張になんだか懐かしい気持ちがこみ上げてきた。

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