第5話

「これは……」


 うつむいた愛の視界の端で、夕子が気まずそうに苦笑いを浮かべている。どんな顔をするべきか迷子になっているようで、その薄い唇が正解を求めてギクシャクと動いている。


「……ごめん」


 愛は自身を強気な性格だと自負しているが、この光景にはさすがに殊勝な態度にならざるを得なかった。


 夕子の提案で愛たちはまず、卵焼きをつくることになった。お弁当といえばの定番のおかずだ。張り切って愛は調理に挑んだ。

 しかしでき上がったのは、そぼろとも言い難いパサパサの物体だった。卵しか使っていないはずなのに、ところどころに黒が混じっている。菜箸ですくおうとすると、まるで愛を拒むかのように無情にもポロポロと下にこぼれ落ちていった。

 ちょっと料理をしただけなのに、なぜ自分は息を切らしているんだろう。肩が大きく上下する。重たい呼吸が足元に落ち、シンクに両手をついていないとそのまま膝から崩れてしまいそうだった。


 正直言って、舐めてた。隣で教えてもらいながらやれば、料理なんて簡単にできると甘く見積もっていた。

 料理中はとにかく大騒ぎだった。卵すらろくに割れず、台所には血痕のように黄色い飛沫が散っている。燃え上がるコンロに慌てた愛に夕子の声は届かず、とにかくパニックになっていたことしか覚えていない。卵焼きをつくると言っていたのに、まさか自分が高火力のフライパンに入れられるとは卵側も思っていなかっただろう。一瞬で固まった卵は、闇雲に動かされた菜箸によってすぐに小さな塊の集合体になった。窓の外には清々しい青空が広がっているのに、ここら一帯は嵐が通り過ぎたあとのように悲惨だった。


「み、見た目は独特だけどね、味は大丈夫だよ。きっと」


 精一杯の笑顔で愛を鼓舞し、夕子はスプーンで一口すくった。咀嚼している彼女を凝視していると、その唇の奥から「うっ」と小さな声が漏れた。なめらかな肌に、一瞬だけ皺が集まる。


「もしかして、殻入ってた?」


「……うん」


 自身へのいたたまれなさに、こくりとうなずく夕子から目を逸した。卵の殻が三角コーナーに捨てられている。そのありさまは割ったと表するにはあまりにもグシャグシャで、潰したという言葉が一番似合っていた。


「あのー、浅葱さんってぜんぜん料理したことない?」


「調理実習のときしか、やったことないかも」


「そっかー」


 夕子のなんとか気遣おうとする意思を肌で感じ、その表面が熱くなっていくのがわかる。顔が火照っていくのを抑え込むように、ぎゅっと拳を握りしめた。苦笑いを浮かべた口角が、上がったまま降りてこない。想像以上だった自分の腕前を目の当たりにし、気が遠くなっていく。惨めだった。


「最初はみんなこうだよ」


「そんなことないでしょ」


「ゆっくりやってけばいいと思うよ。ていうか、教えるならまず私が最初にするべきだったね。いまからつくるから、まずはちょっと見てて」


 子供っぽくすねる愛の隣で、夕子は卵焼きをつくり始めた。当然だが、さっき聞いた手順の通りスムーズに進んでいく。無駄な動きや汚れのない上品な手つきだった。自分でもやってみたからこそ、彼女の手際のよさがより明確にわかる。


 完成したそれは見事なものだった。愛と同じものをつくっていたはずなのに、黒鉛とダイヤモンドくらいの差がある。菜箸を手渡され、促されるままに愛はひとくち食べた。巻かれた卵には一体感があり、噛んだところからじわりと出汁が染み出してくる。


「本当に美味しい。すごいね」


「浅葱さんも練習すればすぐできるようになるよ」


「……自信ないんだけど」


 彼氏や仲間の前でも、愛が弱い部分を見せることはこれまでほとんどなかった。それなのに、なぜか弱音を吐いてしまった。あからさまに落ち込む愛を見かねて、夕子がそのまなじりをふわりと緩める。


「浅葱さんがよかったらでいいんだけどさ、明日も来てよ。どうせ私暇だし」


「いいの?」


 落ちていた視線をとっさに夕子に向けると、彼女は大きくうなずいた。


「いいよいいよ。いままではなんとなくでつくってたことが多いから、浅葱さんにちゃんと教えられるように、これを機に私も一からつくり方を調べておきたいし」


 今日だけの関係とか言っていたのはいったい誰だったか。都合がいいと自覚しているが、彼女から告げられた「明日」という言葉に愛は救われたような気がした。

 それに、と夕子が照れたように言う。


「久々に誰かと一緒にお昼を食べられてうれしかったし」


「それは私もだよ。オムライスすごく美味しかった。ほんとありがとね、長江さん」


「あっ、長江じゃなくて夕子でいいよ。私、普段夕子って呼ばれてるから、長江って言われるの慣れてないんだよね」


「じゃあ、ありがとう夕子。明日来るときは私が材料買ってくるね」


「そんなこと気にしなくていいのに。でもありがとう。お言葉に甘えて卵を一パック買ってきてもらおうかな」


 二人で片付けをしたのち、今日はお開きになった。買い物に来たはずなのに持ってきたカバンは空っぽのままだったが、満ち足りた一日だった。


 その日の夜、愛は一人で練習しようと思ったが、その考えはすぐに止めた。夕子が隣にいながらあの大惨事は起きたのだ。お手本を見たといえど、一人でキッチンに立ったら今度は台風では済まないかもしれない。

 それに明日も教えてもらうことになっているのだ。ヒロとの一周年までまだ時間はある。焦らなくていい。夕子は暇だと言っていたが、どうせ愛も暇なのだ。


 ベッドのなかで明日のことを思うと、身体の内側がぽかぽかしてくる。夕子との時間は案外無駄じゃなさそうだ。お弁当がつくれるようになるまでのあいだだけでも仲よくしておこうかな、と愛はすんなりと眠りについた。

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