第4話②
「うまっ」
「ほんと?」
「ほんとほんと。すっごく美味しい」
「えへへ。うれしいなあ、そんなふうに言ってもらえるなんて」
口をついて出たのは、自分をいい人に見せたいとか、相手をおだてるといった利己的な言葉ではなかった。驚きで見開かれた愛の視界の中心で、夕子が浮かれたような吐息を漏らす。すぐさま二口目を口に入れると、愛は夢中になって咀嚼した。
夕子は適当につくったと言っていた。だが、その適当さこそが愛には新鮮だった。
専業主婦の愛の母は、いつも家族に料理をつくってくれた。食卓に並ぶのはいつだって手の込んでそうなオシャレなものばかり。愛の目から見ても母は料理上手で、美味しくないと思ったことはほとんどない。きっと他者から見たら羨ましがられるような食生活を送っているんだろうな、と愛はなんとなく自覚している。
だけど、愛にとって母のつくる料理は窮屈なものだった。中学に上がるまで、愛は外の食べ物をほとんど食べてこなかった。正確には、食べさせてもらえなかったのだ。健康や美容にとにかく厳しい母によって、愛の口に入れるものはほとんど管理されていたからだ。
母は特にジャンキーな食べ物が嫌いだった。小さいころ、愛は母にスナック菓子をねだったことがある。母はそんなものは身体に毒だと拒否し、お菓子は私が全部つくってあげると言った。マフィンやケーキ、クッキーなどは決して嫌ではなかったが、その味気なさには次第に辟易していったのを覚えている。
友達の家でポテチを食べたことを話すと、その次の日からは二日間ほどヘルシーに特化した夕食を出されたこともあった。そのあてつけのような主張に、小学生の愛は自分がとても悪いことを犯したんじゃないかと怖くなった。
自分で財布を持つようになり、学校帰りなどに友達となにか食べることが増え始めてからは、あまり母が口出しすることはなくなった。それは娘の食事の管理に限界が来たからなのか、ある程度成長したからなのかは愛にはわからない。ただ、いまでも母からの無言の主張を食卓で感じることがときどきある。
母の料理をひと言で表すならば、それは「美味しい」というより「正しい」のほうがふさわしい。彼女がつくるものにはいつだって、味のよさよりも栄養や自然といった情報がふんだんに詰まっていた。
だからこそ、夕子のオムライスに愛は感動を覚えた。
中身のごはんと上にかけたケチャップは、同じものを使っていながら違う味がする。甘みが強いごはんに対して、上のそれにはツンとしたトマトの酸味があった。そしてなめらかな卵が、その二つをしっかりと舌の上でまとめ上げている。刻んだピーマンは爽やかな香りを口内に広げるだけでなく、その鮮やかな緑が差し色となり食欲を一層掻き立てた。
産地や成分なんて気にしない、ただ美味しさだけを求めたこの料理に、愛のスプーンが止まることはなかった。
「ところで浅葱さんは、どうして料理を練習したいと思ったの?」
目前の黄色の塊で埋め尽くされていた脳に、正面から声が突如割り込んできた。一口ずつ味わってる愛に対して、夕子は平然と食べ進めている。お茶で喉を潤すと、愛はうーんと思案げな声を出した。別に隠す必要もないかと、明るい部分だけを切り取って言う。
「彼氏の胃袋を掴みたくてね」
「彼氏?」
「同じクラスにヒロ……、
「あー、あの背が高い。へえ、浅葱さんと白石くんって付き合ってたんだね。言われてみれば一緒にいるところ見たことあるかも」
「え、知らなかったの?」
「うん、初めて知った。……あれ、なんか悪かったかな?」
「いや……、ぜんぜん悪くないけど」
咄嗟に出た声はずいぶんと間の抜けたものだった。別に知っていてほしかったわけじゃない。でも、なんの手応えもない反応にほんの少しだけがっかりしている自分がいる。まさか同学年に愛たちが付き合ってることを知らないやつがいたなんて。同じ空間で日々過ごしていながら、まったく違う世界にいるんだなと改めて思う。
「それで、なにをつくろうと思ってるの?」
「お弁当にしようかなって。学校で食べられるし」
お弁当というアイデアは、ついさっきスーパーでの夕子との会話からひらめいたものだった。
「じゃあ、結構ガッツリ目なのがいいかもね」
「うん。そのほうが喜ぶと思う」
お弁当かー、なんか青春アニメみたい。頬杖をついた夕子は、まるで自分のことのようにうれしそうな表情をしていた。うっとりと瞼を細め、その薄い水の膜のなかでブラウン色の瞳が宙を泳いでいる。湧き上がるイメージに彼女は浸っているのだろう。
夕子は愛に優しいと言っていたが、真に優しいのは彼女のほうだ。あのとき偶然出会ったのが夕子でよかったといまなら思える。今日だけで終わる関係だと思うと、ちょっとだけ名残惜しくなったような気がした。
「ごはん食べ終わったらすぐに取り掛かろう」
夕子が愛を見据える。
このひとときを味わいながら、愛はうんとうなずいた。
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