第4話①

 スーパーから歩いて十分ほどの場所に彼女の家はあった。木造平屋建ての住宅で、数世代前に造られたような古めかしい雰囲気を感じる。小さな庭には、野菜と思しき植物が植えられたプランターがいくつも置いてあった。綺麗に整えられている印象だが、長年に渡って染み込んだ生活感がいたるところからにじみ出ている。田舎のおばあちゃんの家みたいだなと、初めて来る場所なのに妙な安心感を覚えた。


 家に入ると彼女は愛をキッチンのテーブルに座らせ、すぐさま昼食の準備に取り掛かった。へばったクッションがくっついている焦げ茶色の椅子を引くと、愛の腰あたりでギシリとうめき声が聞こえた。肘をついたテーブルには透明なマットが敷いてあり、その下にはデフォルメされたキャラクターのシールがいくつも貼ってある。


「浅葱さん、お昼ごはんどうする? 私と同じやつでいいなら一緒につくっちゃうけど」


「ありがとう、長江さん。お願いしちゃおっかな」


 愛がこの家に招かれてまず初めにしたことは、彼女の名前を調べることだった。玄関にはありがたいことに家族四人の名前が記された表札があり、愛は隙きを見て確認した。右側二人が両親で左端の男の名前が弟だとすると、その隣にあるのが彼女の名前だった。


 長江夕子。

 

 考えてみれば彼女の友人が「夕子」と呼んでいたような気がしなくもない。だが、答えを知ってもあまりピンとこなかったのが正直なところだった。本当に興味なかったんだなと、自分の薄情さに吹き出しそうになる。

 でもこれでやっと名前で呼べるようになった。「あなた」で突き通すにはもう限界が来ていたのだ。いくら料理だけの関係といえど、直接名前を聞くなんて最終手段を使うことにならなくてよかった。


 冷蔵庫のなかを眺めていた夕子が、なにか思いついたようにくるりと振り返る。


「オムライスでいいかな? 昨日のごはんがまだ残ってるからそれ使いたいんだよね」


「うん。なんでもいいよ」


 じゃあちょっと待っててね。そう優しく告げると、突然スイッチが入ったかのような俊敏さで夕子が動き出した。一切の迷いなく冷蔵庫から取り出された食材たちが、あっという間にキッチンに並べられていく。

 刀を抜くように奥から取り出された包丁が、玉ねぎとピーマン、ソーセージを一定のリズムで刻んでいく。そのすべてが小さな四角になったタイミングで、まるで図ったかのようにピーとレンジから単調な電子音が響いた。一番初めに入れておいた冷やごはんが温まったようだ。バターを敷いたフライパンに具材とごはんを入れ、ある程度炒めたところでケチャップが投入される。


 後ろから見ていた夕子の動きは本当に手際のいいものだった。悩んだり、待っていたりする無駄な時間がないあたり、次にするべき行動がすべて彼女にはわかっているのだろう。愛はその行動の意図を理解しようとするだけでも、知恵熱が出てきそうに思えた。


 愛のそれより大きな腕がフライパンをあおるたびに、ごはんの白がオレンジに色づいていく。焼けたケチャップの甘い香りが、愛の鼻孔いっぱいに広がる。食指が動かされゴクリと唾を飲み込むと、はっと愛は我に返った。肘を枕にして無意識のうちにだらけていた身体を、慌ててまっすぐに伸ばす。


 朗らかな雰囲気にあてられ、ついくつろいでしまった。夕子と親交を深めるために愛はここに来たわけじゃない。たまたま会ったのが彼女なだけで。軽く料理を教えてもらえればそれで十分なのだ。いままでと同じようにこれからもどうせ関わることはない。今日が終わればおしまいの関係。変に素の部分を見せて、情が湧かれても困る。


 それにしてもおかしな状況だなと、愛は卵を片手で割る夕子の背を見て思う。昨日の調理実習で初めて話した相手の家で昼食を食べることになるなんて、誰が想像しただろうか。でも、どうせ家にいても退屈なだけなのだ。ヒロに会うのは気が引けるし、彼との関係がいまみたいになってからはあまり仲間とも会いたくない。暇になったんだなと思われたくなかった。

 だからこそ、なんだかんだ言ったもののいい暇つぶしができてよかったのかもしれない。ここにいるのは我ながら不思議だが、まったく楽しんでいないと言ったら嘘になる。黙々と料理をしている夕子の姿にいつかの面影を見る。ぼんやりと浮かぶ過去の記憶はいったいいつのころのものだろう。過ぎる映像はおばあちゃんのものだったのか、それとも別の誰かのものだったのか。


 思い出に身体を委ねながら、愛は机のクリアマットに突き立てたネイルで線を引いた。爪のあとを追いかける小さな溝は、やがて生まれたところから元どおりになっていく。指の腹で叩くと、ペタペタと気の抜けた音が鳴った。


 指の下にある大きな青い瞳のヒーローのシールと目を合わせていると、ジュワーと卵が焼かれる音が耳朶を打った。

 夕子がフライパンの付け根にとんとんと手を当てる。すると、ケチャップライスがくるんと黄色い膜に包まれていった。テレビで見たことあるやつだ、とその光景に愛の胸が微かに躍った。夕子がすぐさま二つ目に取り掛かろうとしたので、愛は彼女の隣に並んだ。


「包むのすごく上手だね。ちょっとここで見ててもいい?」


「いいけど、そんな近くで見られてたら緊張しちゃうな」


 そう夕子は照れていたが、難なく二つ目も包んでいた。目の前で繰り広げられる奇妙だが格好いい動きに、愛の視線に高揚がにじんでいく。

 見事な曲線を描くオムライスを白い皿に滑らせると、夕子は愛へと手渡した。凹凸のない表面はつややかな光を跳ね返し、色ムラのない濃い黄色が絶妙な卵の厚さを物語っている。

 めっちゃ綺麗、プロみたい。愛の口からぽろっとこぼれた称賛は、心の底から出た純粋なものだった。一切の媚びを含まない声音に、「ありがとう」と目を伏せながら夕子は答える。

 その口角が控えめに持ち上がるのを見つけ、愛の心の奥にあるなにかがシャボン玉みたいに弾けた。コイツ、案外かわいいとこあるじゃん、と彼女の反応のくすぐったさに唇がむずむずする。


 スプーンを受け取りもといた席につくと、夕子が冷蔵庫からお茶を取り出した。ドアが締まる拍子に、磁石で止めてあった学校のプリントらしき紙が揺れる。下のほうに貼られてあるシールは、少し姿が違うようだがおそらく机にあるのと同じヒーローのものだった。

 食卓に同じ形をしたオムライスが並べられる。お茶を注いだコップをそれぞれの前に置くと、夕子は愛の正面に座った。


「あまりもので適当につくったやつだから、あんまり期待しないで。本当はもっと手の込んだものをごちそうしたかったんだけどね。ごめんね」


「ううん。そんなことないよ。ていうかもとはと言えば急に来た私が悪いんだし、気にしないでよ」


「ありがと。優しいんだね、浅葱さんって」


 長い睫毛で縁取られた無垢な瞳を、夕子はニコリと細める。「ありがとう」「優しい」。彼女の唇が紡いだ汚れのない言葉たちに、「やめてくれ!」と愛は心のなかで叫んだ。

 愛想だけの愛の言葉を、さっきからどうして彼女はこんなにも素直に受け取ってしまうのだ。これでは打算にまみれた愛が悪者みたいじゃないか。喉奥からこみ上げてくる苦い感情には、ほのかに罪悪感の味がした。押し込むように喉を上下し、スプーンを手に取る。


「ねえ、食べてもいい? つくるところ見てたらお腹空いちゃった」


「そうだね。食べて食べて」


 ケチャップのかかった部分にスプーンを入れると、なかから白い湯気とともにケチャップライスが現れた。固まったかと思っていた卵の膜は、なんと内側が半熟になっていた。一口サイズのサプライズに、愛の胃が大きく準備を始めたのがわかる。胸元まである長い髪を耳にかけ、口のなかへと運んだ。


「うまっ」

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