第3話
自動ドアを通り抜けると、ひんやりとした空気の塊が愛を出迎えた。鼻孔に刺さる機械的な寒さは、決していい匂いだとは言えない。頭上に流れるポップなBGMは軽快ながらも、愛には焦燥感をかきたてるような圧を感じた。
どうして自分はこんなところに来てしまったのだろうと、過去の自分に文句を言いながら愛は買い物カゴを手に取った。
昨晩の悩みの答えは結局最後まで出なかった。だがさまざまな言い訳と正当化を繰り返しながら家を飛び出し、気づいたら愛は隣町のスーパーに来ていた。料理ができるかどうかは関係なしに、なにをするにもまずは食材が必要なのだ。わざわざ隣町に来たのは、ここなら知り合いに会うことはないと思ったからだ。
休日のスーパーは活気にあふれていた。慣れない空間におずおずと愛は足を踏み入れ、見よう見まねで周囲を観察する。カートを押す主婦や親子、一人暮らしをしていそうな学生。そして、仲睦まじげな男女。肩を寄せ合い野菜を手に取る光景に、愛は無意識に目をそらす。
視界に入り込んできた山積みのキャベツに愛は足を止めた。ひと玉がどれも大きく、鮮やかな色を放っている。なんだか美味しそう。思わず伸びた手を、愛は
家族がいる人に、料理ができる人。見渡す限りの食材たちは、一見すべての人を平等に受け入れているように見える。しかし、それを手に取ることができる人間はあらかじめ決まっていたのだと知る。あてもなければ技術もない愛には、それらを選ぶ権利すらないなかった。こんなにも無数の選択肢に囲まれているのに愛との間にある透明な壁は厚く、手が届きそうもない。
胸のなかで膨れ上がる感情から逃れるように、愛は足早にこの場を去る。パンプスの裏から弾かれた音が、愛の背を慌てたように追いかけてきた。
ひととおり店内を見回ったが、愛のカゴは空っぽのままだった。ほんと、なにしてんだろう。アイスのコーナーの縁に手をつき、愛は自分の身なりを見下ろす。フリルのついたオフショルダーに、膝上丈のスカート。スーパーと言えど人目に触れるのだからと化粧までしてきたが、対して周囲の装いはなんともラフなものだった。
スーパーになんてこれまであまり入ったことがなかった。だから、どんな雰囲気なのかも愛は知らなかった。普段なら友人やヒロに褒められる服装も、こんな日常の延長のような場所では浮いたものでしかない。これじゃわざわざ隣町に恥を晒しに来ただけじゃないか。強めに効いた冷気は愛にはもう過剰で、無様にさらされた素肌をこらえるようにさすった。
ふと脳裏に浮かんだのは、あのバスケ部のマネージャーの顔だった。きっと彼女だったら愛のようなヘマはしなかっただろう。部活着のままあの小さな身体で駆け回りながら、あっという間にカゴをいっぱいにしていくはずだ。過った光景は妄想のはずなのにひどく現実味があり、いまの自分との差が意図しないところで浮き彫りになる。
もう帰ろうかな。口裏で独りごちた言葉がずしりと染み込んでいく。さすがになにもしないで帰るのは癪なので、目の前のアイスを適当にカゴに入れた。
レジに向かおうと顔を上げる。すると、見覚えのある女と視線がかち合った。
「あっ、」
声を出したのはほぼ同時だった。愛と向き合ってる女は、昨日の調理実習で一緒だったあの真ん丸な女だった。驚きと気まずさを混ぜ込んだような感情が、見開いた瞳を小さく震わせている。
こんな惨めな姿、誰にも見られたくなかった。だけどこうしてお互いを認識してしまった以上、もう無視することはできない。いらぬ誤解を生んで、変な噂を広められたらたまったもんじゃない。自分がここにいる正当性を主張するべく、柔らかな声色を意識して愛は笑いかけた。
「奇遇だね。こんなところで会うなんて」
「う、うん。浅葱さんの地域ってこの近くじゃなかったよね。だからびっくりしちゃった」
痛いところを突かれ、うろたえそうになる。
彼女の私服は正直言ってダサかった。白いシャツにベージュのロングスカート。決して汚いわけじゃないが、気を使っているようにも見えない。まるで主婦の装いだ。だが、愛に比べてよっぽどこの場に馴染んでいた。きっと彼女にとってスーパーでの買い物は日常的なものなのだろう。
まくられた袖からのぞく腕は、愛の倍あるんじゃないかと思うほど太い。ただ、肌の白さは調理実習で見たときのまま、アイスクリームのようなきめ細かさを見せていた。
「たまたま用事があってね、ついでになにか買って帰ろうかなって。あなたもお買い物?」
彼女はいかにも買い物の途中といった様子だった。生鮮食品などが入ったカゴのなかで、枠からはみ出た長ネギの緑に家庭的な印象を受ける。
そういえば料理が好きとか言っていた気がする。こうして自ら買い物に出向いているあたり、嘘ではないのだろう。
「そうなの。うちのご飯とか、学校のお弁当の用意しとかなきゃだから」
「お弁当?」
本当は適当にやり過ごしてさっさと帰るつもりだった。だが、彼女の言葉にどういうわけか愛は食いついてしまった。いっぱい詰まったカゴに、当たり前のように発せられた「お弁当」のひと言。愛にないものを平然と持ち合わせている彼女に、少しずつ心が引きつけられていく。
衝動を抑えきれず、愛は質問を重ねる。
「お弁当って、学校のお弁当自分でつくってるの?」
「そうだけど……」
彼女が不思議そうに喉を震わす。その首が訝しげに傾いたのは、おそらく愛の表情が急に真剣になったからだろう。駆け出すような勢いで、彼女に向かって大きく足を踏み出す。愛より十センチほど低い位置にある顔に、ぐいっと上から自身の顔を近づけた。緩やかにカーブを描く彼女の眉が、困ったように垂れ下がっていく。
「え、なになに。どうしたの浅葱さん」
「料理、好きって言ってたよね」
「う、うん」
「じゃあさ……」
アイスを元の棚に戻し、愛は大きく息を吸って呼吸を整える。どこからともなくやってきた緊張が、膨らもうとする肺を押さえつける。彼女のブラウンの瞳を一直線に捉え、愛は意を決して口を開いた。
「私に、料理教えてくれない?」
「へ?」
間抜けに飛び出た声が愛の頬にコツンとぶつかる。ぎこちなく吊り上がった口角が、パチパチと瞬く瞼が、愛の圧力に屈して反った背中が、そのすべてで彼女が心の底から驚いていることを訴えている。それもそのはずだ。言った本人が一番驚いているのだから。
なんでこんな頼みをしているのだろう。仲間にも言えないような悩みをこんなやつになんで。
でも、ここで手放してはいけないと本能が愛をそうさせた。ドキドキが漏れないように、唇を内側に引き結ぶ。左胸の奥が皮膚を突き破る勢いで跳ねているのがわかる。告白の返事を待っているみたいだ。呼吸が途切れる。陽気な店内のBGMが、鼓膜のすぐ近くで鳴り響いていた。
「わ、私、自分の弁当とかたまにうちのご飯作ってるだけだから、教えられるほど上手くないと思うよ」
「それだけでも充分すぎるよ。ていうか調理実習のときめっちゃ手際よかったじゃん」
「え、そんなの見てたの?」
「見てたもなにも昨日の調理実習同じ班だったでしょ。ネギのこととか詳しくてさ、すごいなって思ってたよ」
矢継ぎ早に愛は言い切る。はっとしたように口を開いていた彼女は、頬に手を添えてうーんと思案げな声を出した。ぱっちりとした瞳を縁取る二重瞼が細くなっていく。綺麗な二重だな、と愛は思った。彼女はアイプチなんかする人じゃなさそうだから、たぶん天然ものだ。
斜め下に向いていた視線が、ゆるりと愛を捉える。
「私でよかったら、いいよ」
「ほんと!?」
声を上げ、カゴを置いて彼女の手をとる。おずおずと彼女がうなずく。
「よくわかんないけど、いいよ。教えるにしてもここじゃあれだし、とりあえずうちに来る? ちょうど私以外誰もいないし……」
「行く」
愛が即答すると、彼女はこわばらせていた目尻をそっと緩めた。木漏れ日のような柔らかな眼差しに当てられ、身体を蝕んでいた惨めさがほろほろと崩れてく気がした。
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