第2話

『貴裕くん、やっぱりあのマネージャーと一緒に帰ってたよ』


 今日の放課後、愛は久しぶりに一緒に帰ろうとヒロを誘った。別にすぐ帰っても暇だし教室で待ってるよ。しかし、彼は部活のあとに用事があるんだよねと愛の提案を断った。一瞬だけ不自然につり上がった口角を愛は見逃さなかった。その跡は申し訳無さそうな愛嬌ある笑顔によって塗り替えられ、すぐに見えなくなった。


 どうせ用事なんかないのだろうと思っていたが、たったいま入ったサヤカからのタレコミによって疑念が真実となる。日課である入浴後のストレッチ中だった愛はベッドの縁に背中を預け、天を仰いだ。LEDの眩しさに目を細める。弛緩した喉の奥から出てきたのは、ずいぶんと重たいため息だった。


 なんで男ってすぐにバレるような嘘をつくんだろう。彼女に見られてないからといって、ほかの視線がなくなるわけじゃないのに。どうせつくなら誰にもバレないようにやってほしかった。彼がほかの女と一緒にいることは、つまり愛が捨てられたということを周囲に知らせているのと同義だ。実際は別れていないが、真偽はどうでもいい。そういうふうに思われることが問題なのだ。


 だが、この調子で行くと本当に別れてしまいそうな気がする。それだけは絶対に避けたい。愛とヒロが付き合っていることが周囲に知られている以上、振られたりなんかしたら一瞬で校内中の噂になるだろう。捨てられたというレッテルが卒業までつきまとうなんてあまりにも惨めすぎる。

 いつも一緒にいる同じグループの仲間たちは、おそらく慰めてくるだろう。だが、それを真に受けるほど愛は愚かではない。厚い同情で塗り固められた表情には、蔑むような嘲笑が潜んでいる。

 新学期からなんとなく同じレベルで集まっただけのグループだが、彼女らと愛は仲が悪いわけではなかった。ただ、女という生き物はそういうものなのだ。愛想のいいフリをして、人の不幸を見つけた途端にその甘い香りに喜んで群がる。愛から流れる蜜はさぞ美味しいものになるだろう。自分がそんな役になるなんて、なにがなんでも嫌だ。考えるだけでもお腹が痛くなる。


 開いたままだったサヤカとのトーク画面から一覧に戻り、いまや数段下にまで落ちているヒロのアイコンに触れる。昔はスタンプの応酬でカラフルだったヒロとのやり取りも、最近では短い文が繰り返されるだけになっていた。

 スタンプぐらいこちらからいくらでも送ってやればいい。それなのにいつも躊躇してしまい、愛の返信もなぜか彼に合わせたように質素なものになってしまう。

 いままでどんなふうに会話してたっけ。どんな言葉を送っていたっけ。まだ一年も経ってないのに、もう思い出せなくなっている。履歴に残ったスタンプにはまだ当時のまま、照れくさくなってしまうような言葉が並んでいた。


 こうしてトーク履歴を眺めていると、ふと空っぽの入力欄を満たしたくなった。距離を確かめるように文字を打ち込み、送信ボタンに親指をそっと乗せる。淡いピンクベージュのマニキュアが塗られた爪が、ぱちりと瞬く。


『スタメンに選ばれたらしいじゃん。おめでとう!』


 イケメン高身長であるヒロは、加えてバスケも得意だった。一年生のころからベンチ入りしていたが今年はなんとスタメンに抜擢された、という情報を愛は人づてに聞いた。本人から報告されるかなと待っていたが、結局今日までそんなことはなかった。

 別に愛はバスケ部の話にそこまで興味がなかったから、報告してこなくてもよかった。だけど聞いてもいないのに活躍を報告してきた去年を知っていると、つい比較してしまう。


 共に過ごすというのは、こういうことなのかもしれない。プラスな部分を知ったせいで、それまでなんとも思わなかったことでもマイナスとして捉えるようになってしまう。じゃあこれまでの日々はなかったほうが幸せだったんだろうか。


 スマホを後ろのベッドに投げ、愛はそのまま倒れるようにカーペットの上に横になった。その硬さが心地よく、愛はときどきこうしてフローリングに寝転がる。床と同じ視線の高さから見る自分の部屋はとても広く、子どもにでもなった気分だ。


 いったいどうすればヒロとの関係を修復できるのだろう。徐々にまどろんでいく思考のなかで、ふと今日の調理実習での彼の言葉を思い出した。


――料理ができるっていいよね。俺結婚するならさ、絶対料理上手の人がいいもん。


 胃袋をつかむなんて言葉があるくらいだから、やっぱり男の人は料理上手の人に弱いのだろうか。ヒロは愛が料理をしないのを知ってか、一回もそんなことを言ったりしなかった。それは彼の気遣いだったかもしれないし、ただ単に諦めてただけなのかもしれない。

 バレンタインの日、愛はヒロをスイーツで有名なカフェに誘った。味のクオリティは確かだし、素人の自作よりよっぽどいいと思った。だが、これがチョコの代わりだと知ったときのヒロの表情はなんとも言えないものだった。笑顔の奥から見え隠れしていたあの苦々しさの正体は、いま思えば手づくりへの期待だったのかもしれない。


 ヒロは料理上手な人が好き。それを知ったところで愛にはどうすることもできなかった。見上げた天井に手を伸ばすも当然触れることはできず、力の抜けた腕がだらりと地面に叩きつけられる。部屋の空気を目いっぱいに肺に取り込めば、気が遠くなってくような気配がした。


 いまから動画などで勉強するにしても、自分の腕では独学じゃどうにもならない気がする。仲間にもこんな悩みは言いづらい。料理を教えてほしいなんて急に聞きだしたら、なにを言われるかわかったもんじゃない。向こうが愛をどう思ってるかは知らないが、なんでも打ち明けるほど愛は彼女たちを信頼できていない。


 じゃあほかに誰に頼ればいいのだろうか。巡る思考のなかに浮かび上がってきた身近な顔に、愛は肺が重たくなるのを感じた。愛の母は料理が上手なほうだ。毎日の食卓はいろんな料理で埋め尽くされ、技術はあるんだなと感じる。だが、あの人にだけは絶対に頼りたくなかった。


 頭上のほうから着信音が聞こえてきた。地面に張り付いていた身体を急いで起こし、愛はベッドの上のスマホを手に取る。ヒロからさっきの返信が来たようだった。


『おう、ありがとう! 頑張るわ!』


 わかりきっていた文面に、愛は笑みを浮かべた。ゆがんだ唇から乾いた息が漏れる。吹き出し笑いにしては、ずいぶんと空虚な響きをはらんでいた。


 まだストレッチの途中だった。

 スマホをベッドに戻し、愛は長座の姿勢になる。伸ばした手でつま先をぎゅっと握り込む。すっかり身体は冷え切っていて、固まった筋に走った痛みに愛は下唇に歯を突き立てた。

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