第1話②

「あのー、浅葱さん?」


 友人とアイコンタクトをとっていると、ふいに肩を叩かれた。声のほうへと顔を向けると、同じ班の女が心配そうにのぞき込んでいた。

 あまり覚えていないが、こいつはたしか女オタクグループの一人だった気がする。

 彼女らはなにをするにも同じメンバーで固まっていて、どこか近寄りがたい空気をまとっていた。その光景に愛はスイミーみたいだなと、小さいころに読んだ絵本を思い出したことを覚えている。まあ、初めから彼女らに興味なんてなかったから、覚えようと思ったことは一度もなかったけれど。


 愛の身長は百六十半ばのため、十センチ以上低い彼女の目線は自ずと上目遣いになっていた。ぶくぶくと横に膨張した身体に、おたふくみたいな容姿。二つ結びにした黒髪を包む三角巾とエプロンは驚くほど彼女に馴染んでおり、給食のおばちゃんと言われても納得してしまいそうだ。真ん丸な輪郭の中央で、その瞳が怯えたように揺れている。


「なに」


「だ、大丈夫かなって。さっきから包丁握ったままじっとしてたから。いや、なんでもないんだったらいいんだけどね」


 そんなこといちいち聞いてくんな、と愛は口内で独りごちる。見下ろす愛の視線を、彼女の黒目が逃げるように泳いでいる。獲物として目をつけられた草食動物みたいに、その大きな身体を縮こまらせていた。


 こういう人間が愛は苦手だった。こちらがなにか悪いことをしたわけじゃないのに、彼女らはいつだって被害者のような目で愛たちを見る。そのせいでこちらが加害者になったかのような錯覚に陥るのだ。

 この世界は弱者の声に弱い。傷ついたと嘆く者がいれば、一方的にそれが正しいものとして扱われ弱者のために世界が動いてくれる。そういうぬるい場所に自らを位置づけしている人間を、愛は卑怯だと思う。

 だが、じっとしていたのは事実だった。いくら料理がめんどくさいといえど、なにも手伝わないほど愛は薄情ではない。


「あー、ごめんごめん。ぼーっとしてた。で、私はなにしたらいい?」


「そうだな。えー、浅葱さんにはネギを切ってもらおうかな。お味噌汁に入れる用の。一センチくらいの長さに切るだけでいいから、簡単だと思うし。あっ、根っこの部分は食べられないから捨ててね」


 簡単という単語をわざわざつけるあたり、彼女は愛が料理のできないやつだと思っているのだろう。まあ実際にそうだから否定はできないのだけれど。

 おっけー、と抑揚のない返事で答え、愛は再び包丁を握り直した。


 野菜を切るなんていつぶりだろう。すぐに思い出せないことから、たぶん中学生のときの調理実習が最後かもしれない。いまどきカットされた野菜もでき上がった料理もスーパーに行けば全部あるのに、なんで料理なんてしなきゃいけないんだろう。サプリも完全食だって充実してるのだから、はっきり言って無駄なんじゃないかと思う。

 時間は有限だ。やりたいことをぜんぶやるには、あまりにも時間が足りなすぎる。自分にとって必要なことだけを選択して、そっちに時間を使って生きていきたい。料理だけじゃない。受験で使うことのない授業。関わることがないクラスメイト。無駄なものにはなるべく触れたくない。

 でもこうして切ってみると意外にも快感だった。手のひらを伝う細かな振動や、切断されていく繊維の音が心地よい。まあやってる作業が単純だからっていうのが大きいのかもしれない。複雑だったり量が多かったりしたら、絶対にこんなことは思わなかった。


「あっ、ちょっと」


 切り落とされた根っこと先端の青い部分を捨てようとしていると、さっきの丸い女が声を上げた。衝動的だったのだろう。ごめんなさい、とその声の大きさに自分でも驚いているようだった。


「なに? 言われたとおりに食べられない部分は捨てようと思ったんだけど、ダメだった?」


「いや、ダメじゃないんだけど、その青い部分も捨てちゃうのかなって」


「え、だってここって食べられない部分でしょ?」


 平坦な口ぶりでさも当然のように言い切ると、彼女はきょとんとした顔で愛を見た。しまった、とその表情に無知を晒してしまったことに気づく。

 ただでさえ真ん丸な瞳が、さらに丸くなっている。カラコンもなにもつけていない黒目は、赤ん坊みたいに無垢で透明だった。茶褐色の円のなかに、愛の姿がくっきりと映り込む。彼女は気まずそうに顔を伏せると、ううんと首を横に振った。


「捨てちゃう人も多いんだけどね、本当はここもちゃんと食べられるんだよ。栄養価も高いし、料理に緑色が加わると彩りもよくなるし。だから、捨てたらもったいないかなって」


 まるで釈明のような彼女の言葉は、終わりに向けてだんだん小さくなっていった。気弱そうに見えて、案外したたかなんだなと愛は思った。

 一見こちらに選択が委ねられているように錯覚するが、彼女の主張はもう一つの選択肢を確実に消していた。これが意図的なのか無意識なのかは愛に判断はできない。だけど、きっと彼女にとってここは譲れないところなのだろう。愛にとっての彼氏や、周りからの視線と同じように。

 誘導されたのは癪だが、断る理由もないので言うとおりにする。


「へぇー、詳しいんだね。料理よくするんだ」


 包丁をまな板に押し付けながらつぶやく。捨てるはずだった緑の部分も白い部分と同じところに入れると、それだけなのに不思議と食材として見えてくる。たしかに緑があったほうが綺麗かもな、と愛は感心する。


「うん。よくってほどじゃないけどね。結構好きなんだ」


 コンロをのぞき込む彼女の目元が、ふわりとほころぶ。その表情に、愛はなぜだか無性に懐かしいような気持ちになった。自分をかわいく見せたいわけでも、相手の懐に潜り込むための笑顔でもない。ついあふれ出てしまったような、純粋な笑み。最後にそんなふうに笑ったのはいったいいつのことだっただろう。


 その表情をなんとなく見逃したくなくてじっと見つめていると、結構綺麗な肌をしてるんだなと気がついた。マスクで隠れていてもその白さは明らかで、つい顔をしかめそうになる。

 デブのくせに、嫌味ったらしい。無意識に浮かんだ感情は、柄にもなくずいぶんと子供じみたものだった。こんなやつ相手に、私はなにムキになっているんだろうか。もしかしたら嫉妬してるのかもしれない。いや、まさか。そんなわけないとすぐさま否定し、己の馬鹿馬鹿しさに愛は自分を鼻で笑った。

 やっぱり今日はどうも調子がおかしい。たぶんヒロに対しての怒りで、頭がのぼせている。


 愛の傍らで名前も知らない彼女が煮立たせた鍋を指差し、視線を寄越す。


「じゃあ次は、切ったネギを鍋に入れてもらおうかな」


 愛はネギが入ったザルを持ち上げると、はーい、と間延びした声で指示に従った。

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