第1話①

 丁寧にセットしてきた前髪は、家庭科の先生の注意によって三角巾のなかに押し込まれていた。崩れるから嫌なんだけど。女子高生の主張はアラフォーのおばさんには通用せず、しぶしぶ浅葱あさぎあいは前髪をかき上げた。いつも早く起きて作り上げているお気に入りのカールも、いまや布の下でぐしゃぐしゃになっている。

 こんなことになるなら適当に整えてくるだけでよかった。時間の無駄。さらけ出されたおでこをそっと指でなぞり、愛はマスクの下で小さく舌打ちをする。


 エプロンを着た生徒が行き交う家庭科室は、愛の心を逆なでするかのように賑やかだった。

 今日は年に数回しか行われない調理実習の日。二年生最初の中間テストが先日終わったということもあり、どことなく教室全体が活気づいていた。座学ばかりの学生にとって一種のレクリエーションとも言えるこの授業。力の抜けた談笑が飛び交い、ザクザクと切られる野菜の音と混じり合う。心地よいものとされるまな板の音も、これだけ重なればただの雑音でしかなかった。


 一部の女子はここが勝負どころだと思っているらしい。ここぞとばかりに張り切ってるやつもいれば、これ幸いと男にくっついてるやつもいる。猫なで声が聞こえてくるほうに視線を向ければ、そこには大抵よそ行きの笑顔を貼り付けている女がいた。仕草の一つひとつからにじみ出てる甘ったるさに、愛は眉をひそめる。あなた、普段そんなに声高くなかったよね? その健気さは近くの男子にはよく映るのかもしれないが、遠くから見たらなんとも滑稽で笑いそうになってしまう。


 愛は目を閉じ、思考を落ち着かせるように大きく息を吐いた。胸元まで伸びる髪を撫でつける。

 さっきからどうも頭が熱い。湧き上がる苛立ちが血流を押し上げ、自身の思考をよりいっそう醜悪なものに変換していく。意図していない敵意に身体が蝕まれ、目に入るすべてのものに牙を剥いてしまいそうになる。

 これじゃあただの八つ当たりだ。三角巾の件も不愉快ではあったが、怒りの元凶はまったく別のところにあった。


 遠くの机で一緒に作業している男女は、無視できないほどにいいムードだった。


 視線の先で隣の女に人懐っこく笑いかけてる男は、愛の彼氏だった。白石しらいし貴裕たかひろ。彼がうれしげに喉を鳴らすたびに、その明るい猫っ毛が高い位置でひょこひょこと揺れるのが見える。周囲からヒロと呼ばれている彼はそのルックスのよさに加えて身長も百八十をゆうに超えているため、入学時から女子たちの注目の的だった。

 そんな彼に愛が告白されたのが、去年の夏休み前のことだった。愛は別に意識したことはなかったが、顔がよくて人気者だから悪くないなとすぐ交際することになった。


「愛と貴裕くん、まじでちょーお似合いだよね。学年、いや学校一の美男美女カップル成立だってそこらじゅうで噂になってるよ。愛もスタイルめっちゃいいし、一緒にいるとモデルが来たのかと思っちゃう」


 付き合い始めはとくに、愛は同じグループの女子に囃し立てられていた。そのたびに軽くあしらっていたが、正直満更でもなかった。

 二人でいるときに同級生から向けられる、絶対に届かないという嫉妬や羨望の眼差し。多くの女子の憧れの存在であるヒロに愛されてるという事実が、愛に甘い優越感を与えた。

 あれから愛たちはいろんな経験を重ね、学年がひとつ上がった。付き合ってそろそろ一年になろうとしている。忘れたらヒロが悲しむかなと手帳を買った日に真っ先に付けた交際記念日の丸は、あと二ヶ月後に迫っていた。


 しかし、最近はどうもうまくいっていない。なんだかヒロの態度がそっけないのだ。ヒロはバスケ部に所属しているため、帰宅部の愛はいつも部活が終わるまで教室で待っていた。別にヒロがそうしてくれと頼んだわけじゃない。彼女としてそうするべきだとただなんとなくそう思ったから愛は教室に残っていた。そして部活が終わるとヒロが迎えに来て、一緒に帰るというのが二人のルーティンだった。

 これまでは。


「愛さ、いつも待っててくれてるけど退屈じゃない? 一緒に帰れる距離もたいしてないし、日中も会えるんだからこれからは先に帰ってていいよ。大会近くなったら部活が長引くこともあるだろうし」


 桜がすっかり緑色に衣替えをし、春の華やかさが落ち着き始めた五月の初め。暇だからと中間テストの勉強をしていた愛の隣に立ち、ヒロはそう言った。

 熟れた夕日で満たされた教室には、もうほとんど人が残っていなかった。オレンジ色の影を落とす目元を緩ませ、彼は愛に微笑みかけた。人当たりのよさを詰め込んだ笑顔に、愛の喉がぐっと上下する。自分の魅力を全面に押し出した、相手の懐に潜り込むためのような表情。関わりのない女子だったらコロッといってしまうだろうが、一年も一緒にいた愛にはこの笑みが何を意味するのかわかっていた。

 きっと、彼は何かを隠したいのだ。自分がいい人のまま、穏便になにかを済ませたい。でも、はっきり言う度胸もない。

 優しげに緩んだ瞼からのぞくしたたかな意思に気づかないフリをして、愛は笑って答えた。


「うん。わかった。部活頑張ってね」


 明るさをつくろった声は、次第に夜の気配に溶けていった。その言葉に潜んだ愛の気持ちに彼が気づくことは、たぶんないだろう。


「ありがとう」


 気遣われたのは愛なのに、感謝を述べたのはなぜかヒロのほうだった。バスケットボールをつかめるほどの大きな手のひらで、彼が愛の頭を静かに撫でる。自分のこういう行為が人から喜ばれることを、彼は知っている。こんなふうに触れられるのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。


「へー、アヤって料理上手なんだね。意外」


「意外って失礼だなー。ていうかわたしが作ったおにぎりいつも部活で食べてるでしょ?」


「おにぎりなんて誰が作っても同じでしょ」


「わー、それ問題発言なんですけどー。もしや、あの一つひとつにどれだけわたしの知恵と工夫が詰まってるか知らないなー? あー、もうこれからはヒロの分だけ中身はちみつレモンとかにしちゃおっかな」


「ごめんごめん、冗談。でも料理ができるっていいよね。俺結婚するならさ、絶対料理上手の人がいいもん。アヤと結婚する旦那さんはさぞ幸せになるだろうね」


 騒がしさの障壁を飛び越えて、遠くの二人の会話は鮮明に愛の耳にまで届いてきた。後ろ姿からちらりと見えるその横顔だけでも、彼が浮ついていることが容易にわかる。


 だいたい彼女が近くにいるというのに、なぜアイツは平然とほかの女とイチャついているのだろうか。ほんとありえない。隣にいるアヤとかいう女もそうだ。ヒロの言葉を真に受けて、なに頬をピンクなんかに染めているのだ。愛とヒロが付き合っていることは、ほとんどの生徒が知っている。彼女も例外ではないはずだ。それなのにヒロとの空間をまるで自分だけのもののように味わっているのが、腹立たしい。


 たしか彼女はバスケ部のマネージャーだった。メリハリの効いた身体に、ウェーブがかかったロングヘアはふわふわと空気を纏っている。かわいいを凝縮したようないかにも男子が好きそうな見た目だ。ヒロのタイプではないはず。でも無性に胸がソワソワする。


 その触れ合った肩をいますぐにでも引き剥がしてやりたい。自分の隣にいるべき女が誰なのか思い知らせてやりたい。湧き上がった衝動を頭の中で叫ぶも、ここからでは二人に声が届くことはなかった。


 ヒロたちに冷たい視線を送っていると、愛の友人のサヤカが同じように彼らを睨みつけているのが目に入った。彼らと同じ班の彼女は愛に気づくと、汚いものを見るかのような顔でヒロを小さく指差した。マスクを外し、その尖らせた口が控えめにパクパクと動く。ここからではなにを言っているのか当然わからない。だが、おそらく愛が思っていることとさほど変わらないだろう。


「あのー、浅葱さん?」


 サヤカとアイコンタクトをとっていると、ふいに肩を叩かれた。

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