第6話 教授の危惧

「やはりこの事件には何か奥にあるんでしょうね。私はこの事件が分かってみれば、何とも簡単なものであったということが気になって仕方がないんですよ。科学的なことは私や他の捜査員も知らなかったから、今まで誰も分からなかったというだけで、ここまで大胆な犯罪もないとある意味では言えますよね。本当に何のためにやったんでしょう。大きな被害は出ていないとはいえ、教授は救急車で運ばれる羽目になり、また、その場にいた皆が苦しい思いをしたわけでしょう。それなりの理由がなければ、ただの人騒がせなだけではないですか。それにも何らかの人を納得させられるだけの理由が必要。動機としてはあるかも知れませんが、こんな訳の分からない人騒がせな事件を引き起こした、納得できる理由になんか、なっていないんですよ」

 と門倉刑事は言った。

「もし、この事件のカギを握っている人がいるとすれば、君が誰だと思う?」

 と鎌倉探偵が言った。

「まずは、梅崎綾乃なんでしょうが、彼女というよりも、教授の方が何かを握っているような気がします。明日教授と会う約束をしているので、病院に行って来ようと思っているんですよ」

「まだ入院中なんですね?」

「ええ、そうです。退院までには少し時間が掛かるということです」

「妙ですね。音による副作用くらいでこんなに長く入院するというのは」

 と鎌倉探偵が疑念を呈すると、

「その副作用がさらに副作用を呼んだのか、元々問題のあった心臓が少し弱っているようなんです。別に他の病気を誘発しているわけではないので、すぐに何かの問題があるというわけではないですが、きっと年なんだろうと、教授は言っていました」

 と門倉刑事は説明した。

「犯人が、この教授の心臓が弱ることを予期していたとすれば、これはやはりターゲットは教授だったということになるでしょうね」

 と鎌倉探偵は話をして、門倉刑事はまたも考えてしまった。

「確かにその通りなんです。この犯人が何を考えているのか分からないから少し怖い。何しろ何かが起きると分かっていても、すでに警察では謎は残るが事件性はないという見解を示している。それを動かすには、それなりの理由が必要なんです。そんなところまで犯人は計算しているんでしょうか?」

「しているかも知れませんね。少なくとも今の状態では、犯人はいかにも動くことができる。しかし、警察の捜査能力にはおのずと限界があるうえに、さらに融通が利かない。納得させるためにいかに説得できるかが問題でしょうね」

 と鎌倉探偵がいうと、

「融通が利かないと言われるのは、その説得がほとんどうまく行かないからなんでしょうね。警察組織というものは基本団体で動く、単独で動くと捜査をミスリードしかねないし、数人で動く方が、一人の暴走に繋がらない。もっというと、警察が公務員であって、税金が使われているということで、市民が納得できるような税金の使われ方という意味で、少しでも捜査費用の削減が求められている。しかし、かといって犯罪が増えれば本末転倒である。何のために警察組織が作られたのかというところまで戻ってくるということになりかねない。そういう意味で余計に行動が制限される。警察官という公務員の仕事は実に気持ちと正反対の行動をしなければいけないかということでしょうね」

 と門倉刑事がいうと、

「管轄意識であったり、県警本部と現場との支店であったり本店であったりのそのあたりの感覚が、却って警察を悪い意味での閉鎖された特殊な職務のように一般市民から思われているとすれば、本当にやりきれないよね」

「その通りです。そのため身動きができなくなって、まるで座り込んだ少年が足を腕で抱えるようにして丸まっているかのような雰囲気になってしまうのでしょうね。そのしわ寄せが現場にくる。キャリア組は、少しでもノンキャリ組を分かってくれれば、もっと庶民と警察は近づけたのかも知れないですね」

 と門倉刑事がいうと、

「それをこれから実現していくのが、現役の警察官なんだろうね」

 その通りだと門倉は思った。

「まずは明日の教授との面談に掛かっているということかな?」

「そういうことでしょうね」

 と、鎌倉探偵が言った。

 それ以降はmもうこの話をすることもなく、歓談に勤しんだ。最近、また少し文章を書くということに目覚めてきたという鎌倉探偵の話を楽しく聴いていた。

「今まではプロだったということもあり、どうしも柵から抜けることができなかったけど、今では好き勝手に書けるというのが嬉しいよね。編集者も読者も関係ない。プロットがどうであろうが、最初にその内容を編集者に申し出て、それが却下されてしまえば、せっかく考えたことも世に出ることはないんだ。それを思うと私はいくら自分の作品とはいえ、どれほどのアイデアを殺してきたか。この間整理していると昔のそんなボツになったアイデアがたくさん出てきたんだ。懐かしくなって見ていたんだけど、今から見ると結構いいアイデアもあったような気がするんだ。そういう意味で考えると、いくら編集者と言っても相手は神様じゃない。私の作品に対して生殺与奪の権利が本当にあるのかと思うと、何だが、そんなやつにしたがっていた自分が情けなく思うよ。編集者には自分で書く力がないからこっちに振ってくるくせに、作品の生殺与奪の権利だけあるなんて、理不尽な気がするんだ」

「なるほど、確かにそうかも知れませんね。生殺与奪の権利とはなかなか面白い発想をしますね。そういう意味でいけば、我々警察官には、勧善懲悪ができる権利があるのかどうかですよね」

「誰だって神様ではない。間違いもする。だから冤罪などの悲劇は繰り返される。それが恨みになって新たな犯罪を生むこともある。そうやって考えると、結構難しいところがあるんじゃないですか? でも、作家に対しての編集者が生殺与奪で、犯人に対しての警察官が勧善懲悪という言葉で表されると思うと、面白いですよね。そうやって考えるといろいろな関係にはそれぞれにお字熟語がついているのかも知れないと思いますね」

 と門倉がいうと、

「それが逆に四字熟語というものが、そういうすべてを網羅しているのだとすれば、昔の人はその発想力がすごかったということだよね。今の時代に生きていれば、どんなすごいものを生み出すか楽しみだ」

「でもですね。それぞれ昔の人は、その時代だったら、そういう発想ができたのかも知れませんよ。今だったら、四字熟語を作ろうなんて誰も発想しませんよ。さっき言ったようにすべての行為には四字熟語がついているかも知れないという発想で考えればですね」

 と門倉は返した。

「私も小説を書いていて、小説のテーマを、四字熟語から拾ってくることもあったんだよ。これは編集部ではあまり好まれないやり方だったようだけどね」

 と鎌倉氏がいうと、

「どうしてですか?」

「皆が考えることって結局同じところに来るんだよね。同じように四字熟語をテーマに小説を考えるとすると、皆似たような発想になってしまって、下手をすると盗作になりかねない。それは避けないといけないからね。そういう意味で、あまり四字熟語は好ましくなかった。でも、主題でなければいいんだ。枝道に四字熟語が潜んでいるという考えであれば、逆にいくらでも考えが浮かんできたかも知れないと、今になって思うくらいなんだよ」

 という。

「小説というのは、人間物語だと最初は思っていたんですが、本当にそうなんですかね?」

 と門倉刑事は聞いた。

「いや、そんなことはないと思うよ。私は基本的にノンフィクションは嫌いで、だからかも知れないが、人間物語というのはあまり好きじゃなかったんだ。どうしても小説家は誰か主人公を一人に決めると、その人の人生や、その人の人生を輪切りにした部分を描きたくなる。まわりの人間はただの脇役でしかないんだ。でも、小説なんだから、ただ、登場人物の一人が主人公だというだけで、見方を変えると別の人が主人公になる。極端な話、主人公が不在の小説であってもいいんじゃないかって思うくらいなんだ。実際にそんな小説を書いてみたいというと、やっぱり編集者の人から秒で却下されたけどね。もう少し聞いてくれてもよかったと思うよ」

 と笑いながら鎌倉氏は言った。

「じゃあ、それをこれからお書きになればいいじゃないですか。もう編集者なんか関係ないんだから、好きなように書けばいい。今はネットで無料投稿サイトなんかも結構あるようですから、投稿してみればいい」

 と門倉刑事がそういうと、

「そうだな。本名で出しても、私の小説を知っている人なんかいないだろうし、面白いカモ知れないな」

 と、鎌倉氏は楽しそうだった。

「ところで門倉君は、ネットで投稿サイトがあるなんてよく知っていたね」

 と鎌倉氏が聞いてきたので、

「ええ、私もネットで何かできないかって見ていたことがあったんですが、小説のサイトを見つけたんで、鎌倉さんにもいずれお話してみようと思っていたんです。いや、ひょっとすると、心のどこかで、自分でも書いてみたいという意識があったのかも知れないな」

 と門倉氏がいうと、ふと何かを思い出したように、少し考え込んだ。

「どうしたんだい? 門倉君」

 と言われて、ハッと思い出した門倉氏は、

「そうそう、さっき鎌倉さんから聞かされた『モスキート音』という話、どこかで聞いた言葉だと思ったんですが、その中に投稿されている小説の中で見たような気がしたんですよ」

 というではないか。

「ほう、どんな話だったんだい?」

「今回の事件とはあまり似ているわけではないんですが、短いお話で、ミニコンとのような話になるんでしょうか。そこでは聞き違いということがテーマになっていて、モスキート音というのが、同じ音という意味で、『モスキートーン』に聞こえたというんですよね。この勘違いというのは結構な人がしているようで、『音』と『トーン』が似ているでしょう? しかも、モスキートというよりも、モスキーの方が耳に慣れているような気がしませんか? そのことをテーマにしたショートストーリーだったんです。私もなるほどと感心したので、きっとそれで覚えていたんでしょうね。でもまさかそれが特殊な音だとは思っていなかったので、その時はわざわざ調べて見ようとはしませんでした」

 と門倉刑事は言った。

「確かに間違いやすいと思う中でもトップクラスのような感じがするね。でもこれはおもしろい現象なんだけど、こういう間違いやすいことって結構あったりするんだよね。聞き違いもあれば、何かちょっとした矛盾があって、その矛盾がどこから来るのかすぐに分からないというようなね。例えばの話、以前どこかの駅で、広告と一緒に啓発の文句が書かれていたんだけど、そこには、

「『違法なスカウト行為は許しません』と書かれていて、その下にも似たような文章で、『違法なスカウト行為は取り締まりの対象です』って書かれていたんだ。この文章を見れば、門倉君はどう感じるかな?」

 と聞かれて、

「別に可笑しなところはないと思いますが?」

 というと、鎌倉氏は笑って、

「私も最初はそのままスルー思想になったんだけど、よくよく考えると、ものすごい矛盾があると思うんだ。どこだと思う?」

 と鎌倉氏が聞くと、

「さあ、どこなんでしょう?」

「そうだね、やはり君は警察官だからピンとこないのかもしれないけど、この文章にはすごい矛盾があるんだ。問題は二つ目の文章なんだけど、最初に『違法な』と書かれているだろう? ということは、何も書かれていないわけでもm@違法と思われる』という曖昧な書き方をしているわけではないので、違法という言葉は確定的なんだよ。それなのに、最後で、取り締まりの対象ですっていう文章になっているだろう? 対象ですということは対象ではないものもあるということになるんだよ。つまりその広告を出しているのは、県の警察署なので、警察が出しているわけだよね。警察って、違法なものを取り締まるのが警察なんだよね。逆にいえば、違法であれば取り締まらなければいけないんだ。職務怠慢とか、税金泥棒なんて市民から言われても仕方がないだろう。そういう意味で、最初に、違法なことだと確定して言っているのに、最後にトーンダウンして、対象になりますなんて言ったら、それこそ矛盾になるんじゃないかって私は思ったんだよね。揚げ足を取っているようだけど、さっきの聞き違いも似たような発想で考えれば、誰もが聞き違いをする、でもそれが似たような意味になるから面白い。だから話として成立するんだという理論になるだろう? それを見て、犯人が利用したという考えも成り立つんじゃないかな? 動機や何かよりも、そっちの方がはるかに興味をそそられる。何しろさっきの話で、あらかた犯人は予想できたけど、そこから先が分からない。犯人も分かっていて動機も何となく分かる。だけど、実際にどうして犯罪を犯すに至ったのかということまではまったく分からない。こういう事件というのは稀ではあるけど、ひょっとすると事件にならないだけで、水面下でたくさん蠢いていることなのかも知れない。それを思うと、私は怖い気がしてくるんだ」

 と、鎌倉氏は話した。

 せっかくの世間話だったが、また事件の話に戻ってくるのは、やはり二人にとっては避けることのできない宿命のようなものなのかも知れない。

 そんな会話をしながら、次第に夜は更けていくのだった……。


 翌日になると、さすがに尽きなかった話をしたせいか、なかなかお互いに話題が残っているわけでもなく、ほとんど寡黙な時間が過ぎ去り、朝食を気だるさの中でいただくと、そのうちにお互い仕事モードへと精神状態をシフトしていき、門倉はいったん警察署に出勤した。門倉が鎌倉探偵を訪れた時というのはいつもこんな感じなので、別に二日目が異常だったわけではない。最初の頃は二日目の倦怠感がぎこちなかった二人だったが、慣れてしまうとそれも悪くはないという感覚になるから不思議だった。

 いったん署に出社した時、まだ警察署では大きな事件が起こっているわけでもなかったので、比較的刑事課はリラックスムードだった。

 門倉刑事は、少し事務的な仕事をすると、さっそく山下教授の入院しているという病院に赴いた。少し早いかと思ったが、実際に行ってみると、午前中の診察やリハビリも終了していたので、ゆっくり話を聴くことができそうだ。昨日の鎌倉探偵との話の中でいろいろと分かったような気になっている部分もあったので、そのあたりを中心に話を聞いてみようと思った。

――教授は、きっと何かを知っているのではないか?

 と思うのは勝手な妄想であろうか。

 部屋に入ると、教授は窓の外を見ながら佇んでいた。訪問してくる見舞客もおらず、個室に一人でいる教授を見ると、まるで黄昏れているように見えるのは気のせいであろうか?

 門倉の中には、大学教授というイメージは孤独なものだという個人的な感覚があった。だから表を見ながら一人佇んでいる姿もまんざら想像できなかったものでもない。むしろ想像通りの姿に、しばし声を掛けることができなかったと言ってもいいくらいだった。それでも、すぐに意を決してこの場の雰囲気を断ち切る選択をするまで、それほど時間が掛かったわけではない。

「山下教授、体調の方がいかがですか?」

 と、挨拶がてらに、まずは体調を聞いてみた。

 体調次第によって、話を繰り上げなければいけないタイミングもあるというもので、そのことが最初に門倉の頭にあった。

「ええ、おかげさまで大丈夫です」

 という、教授はすっかり落ち着いているようだ。

 教授が密室に倒れこんだ時、泡を吹いていたという話を聴いていたので、気絶したのは確かであっただろう。何がそんなに今がおちつぃているが目の前にいる人を苦しめたというのか、門倉刑事は恐る恐る聞いていくことにした。

「大変だったですよね。すでに関係者のお話は聞いていますので、教授があの時どのような状態だったのかということは、客観的にですが分かっているつもりです。それを元に少しお話を伺いたいと思うのですが」

 と門倉がいうと、

「そうですか、ただ何分私はあの時、気絶してしまいましたので、記憶と言ってもほとんど何もないかも知れません」

「ええ、了解しています。だから、教授は緊張なさることなく、こちらの質問にただ答えるだけでいいという軽い気持ちでいてくれればそれでいいんです。何も問題がなければ、素直にお答えいただくだけで、すぐ済むことですよ」

 と言って門倉は教授を見た目、安心させるように言ったが、その言葉には棘があった。

 何しろ、

「何も問題がなければ」

 と、いう条件付きの会話であり、それ自体がすでに問題だったはずで、教授がそれを聞いてどう感じたか。そのあたりを門倉刑事は探ろうとしていた。

「まずですね。教授はあの時、異変に気付いて放送ブースに入ってこられたんですか?」

 と門倉刑事が聞くと、

「いえ、そうじゃないんです。放送ブースに入ったのは偶然でした。サークルメンバーの一人である福間恵三君に渡したい資料があったので、福間君を探していたんですよ。ちょうどあの時間、放送室の掃除の時間帯に当たることは分かっていたので、それであの場所に行ったんです」

 と教授は言った。

「福間君は教授がそのつもりだったことをご存じだったんでしょうかね?」

「ええ、知っていたんじゃないですか? そもそもその資料を見たいと言い出したのは彼だったし、資料を見つけたら一刻も早く渡したいと思う私の性格も分かっていたはずですからね」

「なるほど、福間氏はそれで見つかりましたか?」

「スタッフルームに入ると、皆何らかの形で苦しんでいる。臭いをあまり感じなかったので、毒ガスのようなものでないことは分かりました。でも、私にはその苦しんでいる理由がすぐには分かりませんでした。その証拠に同じ部屋にいて皆が苦しんでいるのに、その理由が分からないだけではなく、私自身が苦しいという感覚がありませんでしたからね。何がどうなっているのか、冷静に状況を把握しようと思ったのですが、どうしても分かりません。でもこのまま放っておくわけにもいかず、まず密閉された放送ブースに入ったんです」

「その時、放送ブースの扉は開いていたんですか」

「ええ、確か開いていたと思います。そうですね、そうなると今言った密閉されたという言葉は矛盾してきますね。すみません訂正します。放送ブースは介抱状態にありましたね」

「中に入られたんですね?」

「ええ、中に入ると、そこには二人の学生が苦しんでいました。スタッフブースにいたふぃたりよりも強く苦しんでいるように見えたんですが、よく見ると、皆耳を塞ごうとしている動作の共通点に気が付いたんです。その時、この状況の原因が音にあると直感しました」

「それで?」

 と門倉刑事がさらに促すと、

「そうと分かっても、私にはその音が聞こえませんでした。どうしてなのかと思っていると、一つのキーワードを思い出したんです」

「キーワード?」

「ええ、あれは今から少し前のことでしたが、興味深い話を聞いたことがあったんですが、刑事さんは『モスキート音』というのをご存じですか?」

 と聞かれて、門倉刑事は、

「そら来た」

 と感じた。

 話の流れでここまでくれば、モスキート音というものが教授の口から出てくることは明らかだった。分かっていてその言葉が出てくるのを待っているというのは、少し緊張感を伴うもので、それでも嫌なものではなかった。

「ええ、これは事件が起こった時までは知らなかったんですが、偶然事件とまったく関係のない方からちょうどそのお話を聞いたんですが、何でも超高周波のことのようですね?」

 と聞くと、

「ええ、そうなんです。私はすぐにピンときました。私もこのモスキート音という言葉には少し面白い経験をしたものでですね」

「というと?」

 と、門倉は何となく何を言うかが分かっていたうえで、言葉を促した。

「これは、アメリカで開発された、蚊が飛ぶときの音に似ていることから名づけられた技術のようなものらしいのですが、この言葉は文字にするのではなく声の発音だけで聴けば実に紛らわしいものなんです。私もしばらくの間、間違って覚えていました。それは、本当は、モスキートで切って、最後は、音という漢字を書くんですが、初めて聞いた人は発音だけで普通に聞くと、モスキーで切って、その後ろをトーンだと思うようなんですよね。と言っても私もそう思っていたので、人のことは言えませんが」

 と言って、教授は笑った。

「それは無理もないことですよね。私はそれを笑い話のように歴史サークルの連中は話したことがあったんですが、皆笑って聴いていましたね」

「ということは、歴史サークルの人は皆モスキート音のことは知っていたんですか?」

「ええ、知っていると思いますよ。でも、その音の特徴まではその時話さなかったような気がする。気になった人は調べてくれたんじゃないかと思いますよ」

「そのモスキート音ですが?」

 と、話を本題に戻すと、

「ああ、そのモスキート音というのは、特徴を持った音なんですね。そもそも開発された音なので、何かの目的がなければ開発はしませんよね。その特徴というのが、『モスキート音は非常に聞き取りにくい音であって、特に年齢を重ねるごとに、つまりある一定の年齢から上の人には聞こえないもの』らしいんです。いわゆる超音波の類ですから、聞こえる年齢層の連中であっても、他に騒音があったりすると、聴き取れなかったりするのではないでしょうか?」

 と教授は説明した。

「なるほど、じゃあ、あの時教授が聞いたのは、そのモスキート音だったというわけですか?」

「そうだと思います。そう考えれば辻褄が合うんですよ。私の耳にだけ聞こえなかったという理屈がですね。でも、モスキート音だけであんなに苦しむものなのかが疑問でした。ひょっとすると放送ブースやスタッフルームという環境下、あるいはスタッフルームにおいてある数々の機械に反応したのかなのでしょうが、ただ部屋は密閉されていたわけではないので、そのあたりの疑問は残ります。ただ、それ以上に最大の疑問は、一体あの場面の中でなぜモスキート音が発生したかということですよね? そもそも開発された音なんだから、自然発生するものでもない。蚊が大量にいたのであれば分かりますが、この時期に蚊がいるとも思えないし、しかも普段は密閉されたところなので、余計にそれは考えられません。すると誰かが故意にあの音を発生させたということでしょうから、必ず犯人はいるはずです。ただ、犯人の目的が分からないというのもありますし、何よりも私が救急車で運ばれたというだけで、他の人がそれ以上被害に遭ったというわけでもないのでしょう? あれだけであれば、迷惑行為として厳重注意、あるいは、大学の内規に照らしての処罰があるくらいで、刑事事件にはなりませんよね。刑事さんは、事実を知りたいということなんでしょうか?」

 と教授がいうと、

「そうですね。今のところ事件性は考えにくいですが、理屈や理由が分からないと、それもハッキリとは言えませんからね」

「じゃあ、刑事さんは、まだこの後にまた別の事件が起ころと思っておいでなんでしょうか?」

「それは分かりません。でも、何か分かっていないと、判断はできないと思っているんですよ。だからなるべく、真実に近づきたいんです」

「分かりました。私もなるべくご協力しましょうね」

 と教授は言ってくれた。

「早速ですが、それまでまったくモスキート音を感じていなかったはずのあなたが、どうして急に苦しみ出したのですか?」

 と門倉が聞くと、

「それが私にも分からないんですよ。何かモスキート音を感じたような気がした。でもその瞬間、何が起こったのか、急に吐き気と呼吸困難に襲われたんですよ。確か私が学生たちを表に出そうと躍起になっていた時です」

「学生たちは動くことはできたんですね?」

「ええ、きつそうにはしていましたが、普通に身体を動かしたり、私のいうことを理解して素直に行動していました。それでもつらそうな身体を引きづるようにして表に出た学生を見届けた瞬間でした。急に貧血でも起こしたのではないかと思うような吐き気と息苦しさが襲ってきたんです。これは今から思えばですが、モスキート音で苦しんでいる学生とは種類の違うものではないかと思ったんです。急に鼻を突くような強い匂いを感じたんです。硫黄のような毒の匂いではありませんでした。まるでアンモニアのようなどちらかというと、花を刺激する匂いです。その臭いが頭に伝わっていくのが分かりました。でも、私が意識できたのはそこまでです。まっすぐに前を向いていたんですが、今度は身体が動かなくなって、前にも後ろにも進めなくなったんです。何かにしがみついた気もしましたが、しがみついたとしても力が入らないので、そのまま倒れこみました。そこからの記憶はまったくありません。気が付けば病院のベッドで目が覚めたというわけです。どうやら集中治療室にいたようで、口や鼻には、酸素マスクが取り付けられ、腕には細菌シールドに覆われた実に仰々しい雰囲気の中で目を覚ましたんです。すぐに先生がやってきて、脈を図ったり瞳孔を見たりしていて、『よし、もう大丈夫だ』と言っていたのを聞いて、私が結構危ないところにいたのではないかということを悟った次第です。だから、それから少しして普通の個室に戻ってから、やっと事件について他の学生や大学関係者の方からお話が伺えたというわけです」

 と教授は大まかな話をしてくれた。

 これが教授の知っていることを時系列で並べた状況なのではないかと思った門倉は、

「本当に大変だったんですね。お察しいたします」

 と言った。

 入院しているとは聞いていたが、ここまで大変なことだったとは思ってもいなかったので、正直ショックでもある。

 逆にそういう意味で、この事件をいくら死者が出ていないとはいえ、単純な事件としてうやむやにしてはいけないと思った。教授の場合は一歩間違えれば死んでいたかも知れないし、何よりも教授以外でも、直接音を使って脳に刺激を与えるなどという犯罪は。一歩間違えると、死人はおろか、植物状態の人間を作り出してしまうという危険性もある。植物状態はまわりの人の人生を奪ってしまうほとのもので、殺人などよりも、よほど重罪ではないかと思った。やはりこの事件が犯罪であれば、黙って見過ごすわけにはいかないと門倉刑事は考えた。

「ところで先生は先ほど話していた聞き違いの話をネットか何かに掲載されたことはありましたか?」

「いいえ、そんなことはしませんが。何か類似の記事でもあったんですか?」

「ええ、その話題が記事になっていました。でも、よく考えてみると、同じような聞き違いは結構な人がしているのだろうから、教授以外にも同じことを感じて、ネットに書き込んだ人がいたとしても不思議はありませんからね」

「そうですね。私も生徒たちの前で一つの話題提供として話をしたくらいですから、人によっては自分だけで収めておくことに我慢ができなくなった人がいても、別に不思議ではありません」

 と言って教授は笑った。

「でも……」

 と教授は少し訝しがるように、

「あの時の言葉が犯人に何かのヒントを与えたのだとすれば、責任を感じないわけにはいきませんね」

 と教授がいうと。

「いえ、それは仕方がないことだと思います。教授がそのことで気を病んでおられるとすれば、他にももっと反省しないといけない人はたくさんいるでしょう。もちろん、このことに限らずにですけどね」

 と門倉刑事は教授を庇うように言った。

 しかし、教授の危惧はまったくのでたらめでもないだろう。この事件に何らかの犯人がいるとして、モスキート音を利用したのだとすれば、かなりの高い確率でこの時の教授の言葉が利用されたと言っても過言ではないだろう。そう思うと、門倉刑事も、

――人のことは言えないものだ――

 と感じた。

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