第5話 モスキート音

 学生には一応話を聴くことができた。

 後の数人にも話を聞いたが、新しい話を聴くことができたわけではなく、ここではそこに言及することはない。その後、肝心の教授の話を聴くため、教授が入院している病院へ赴くことにした。

 元々命に別状はないということだったので、医者からは、意識が戻って少しすれば、事情聴取もできるようになるだろうという話を聴いていたので、学生に一通りの事情聴取をすることができてから病院に確認してみると、

「明日の午後からならいいでしょう」

 ということであった。

 午前中にはだいたい大丈夫であったが、診察の時間もあるので、午後の方がゆっくりできるということで、午後になった。

 その間に門倉は別の事件の捜査をしていた。

 本当であれば、死者が出ているわけではないこの事件に、そんなに長い間、首を突っ込んでいるわけにもいかなかった。幸い他の事件が起きていないということと、事件が怪奇なままに終わってしまうと、謎だけが残ってしまう。せめて謎は解き明かしておかなければ、これが大きな事件への前触れであったりすれば、大きな事件を目の前にして、ヒントがありながら防げなかったということになると、悔やんでも悔やみきれないと考えたからだった。

 今のところは何も分かっていないので何とも言えないが、門倉刑事は、

「この事件には得体の知れないものを感じます。もう少し納得が行くまで捜査させてください」

 と、課長にお願いした。

「そうか、門倉君がそこまでいうのであれば、納得が行くように調べてみればいい。しかし、他に事件が起これば別なので、時間はないものだと思ってくれ」

 と言われた。

「ありがとうございます」

 と言って下げたが、その気持ちを今一度奮い起こすのにも課長のセリフはありがたかったのだ。

 ということで、事件に携わることができる人員は、自分ともう一人の刑事だけで、他の刑事を使ってはいけないとの言明があった。門倉刑事は昼過ぎより病院に行くことにして、その前日の夕方から、久しぶりに鎌倉探偵の下を訪れた。

 鎌倉探偵というのは、元作家をしていたという変わり種の探偵で、門倉刑事が刑事として頭角を現してきた時期とちょうど鎌倉探偵が、探偵として世間に知られるようになった時期が同じことだったのもあって、二人は実に気が合う仲間であった。

 鎌倉探偵は、警察署長や捜査課長とも昵懇なので、門倉刑事が、

「ちょっと鎌倉探偵のところに寄ってきます」

 というと、悪い顔をされることもなかった。

 今回も昼過ぎに事情聴取を終え、署に戻ってからその話を捜査課長に報告した後、鎌倉探偵にアポイントを取り、

「そうか、じゃあ、夕飯を用意して待っていよう」

 と言ってくれた。

 これは、鎌倉探偵事務所への招きではなく、鎌倉氏の家への招待だった。

 鎌倉探偵の家は、探偵事務所から歩いて十分ほどのマンションであり、一人暮らしをしているのに、部屋は三LDKという少し贅沢な部屋であったが、それは仕事関係の人を通すためのリビングと、自分の寝室。さらに来客用の部屋とが必要だったからだ。ダイニングキッチンと隣接したリビングは半分は鎌倉探偵の書斎となっていて、本がぎっしりと並べられていた。

 門倉刑事も今までに何度もこのマンションにやってきて、夜までずっと事件の話をしていて、そのまま来客用の部屋に泊まったことも何度もあった。門倉刑事にとって、仕事中ではありながら、まるで自分の部屋に帰ってきたかのように思えるその部屋は、憩いの場でもあったのだ。

 門倉刑事ほどの馴染みになると、仕事用のリビングだけではなく、書斎として使用している部屋で一緒に呑むということもあった。台所も近いこともちょうどよかったのだ。

 門倉刑事が訪ねた時、ちょうど鎌倉探偵も読書をしていたようで、それが一段落していたようだった。

「門倉君が来る時は、いつも何かをしていても、ちょうどキリがいいとこrに来てくれるからありがたいんだ」

 と鎌倉探偵は言ったが、

「そう言っていただけると幸いです。僕も必要以上に遠慮しなくてもいいですからね」

 と言って苦笑いをしていた。

 こんなことを平気で訪れた相手にいきなり言えるくらいに昵懇な二人はすでに気分はリラックスしていた。

 大きな事件が起こっているわけではないということは最初から分かっていたので、待っている方もそれなりに覚悟をする必要もない、ただ、何か気になることがあって、助言でも聞きたいということであろうから、そうであれば、鎌倉探偵にとっても刺激になってありがたかった。

 最近はあまり大きな事件も起こっていないので、少し頭がなまっている感じだった。謎の含まれた相談であれば、こちらからお願いしたいくらいだと思っていた鎌倉探偵は、門倉刑事の来訪も待ち望み、その分、潰していた時間のちょうどキリのいいところで彼がやってきてくれたことは、鎌倉探偵の望むところでもあったのだ。

 その日はすでに寒さも次第に増してきたこともあって、暖かい鍋などがちょうどいいと思い、カセットコンロに鍋を掛けて、用意はできていた。自分はすでに風呂に入り、ある程度準備は整っていたので、やってきた門倉刑事を風呂に招いて、リラックスしている自分に追いついてもらおうと目論んでいた。

 これも、鎌倉探偵にとっての至福の時間だった。仕事上の付き合いが多い中で、お互いにそれ以上の仲である相手と、仕事未満の話をしながら、それを肴に酒が飲めるというのは感無量な気がしていた。これこそ至福の時間と言えるのではないだろうか。

 さっそくお風呂から上がってきた門倉刑事を待ち構えていたのは、いい匂いの鍋がちょうど煮詰まりかかった時だったことを示していて、それまでの一日の疲れを一気に感じた瞬間で、喉の渇きを最初に感じた。

「さあ、まずはビールで一杯」

 実はあまりアルコールが得意ではない門倉は、この時はビール一杯がちょうどよかった。したがって、二人でコップ一杯飲めるくらいのビールを冷えた状態で冷蔵庫から今出してきたのだろう。鎌倉探偵が注いでくれた。

「とりあえず乾杯だ」

 と言って、二人は半分くらいまで一気に飲んで、

「ブファー」

 と息を吐いたのだった。

「それにしても久しぶりだね」

「ええ、あれは以前の事件を解決してからのことなので、半年ぶりくらいでしょうか?」

 普段は、鎌倉探偵の手を煩わせるほどの大事件がそんなにしょっちゅう起こってくれるのも困ると思っていたので、一年に数回くらいがある意味ちょうどいいのかも知れない。不謹慎ではあるが、あまり大事件が起きないということになると、鎌倉探偵も仕事がなく、干上がってしまうというものだ。

「もう、半年にもなるんだね」

 と言って、腕を組んで考えていたが、この半年の間というと、警察とかかわりがあるような事件を引き受けることもなく、探偵業も適当にはあったのだが、普通に作業的な捜査くらいのものであった。

 作業的というのは、頭を使って臨機応変に立ち回るのではなく、いわゆる探偵のマニュアルのようなものを守ってさえいれば、彼の探偵術だけで賄えることなかりであった。そういう意味では楽ではあるが、楽しくはない、そういう意味で、本当に作業的だと言ってもいいだろう。

 二人は冬用の浴衣に着かえ、その上から和風のガウンのようなものを羽織り、すっかりリラックスしていた。たったコップ一杯であったが、少し酔いが回ってきた感じもあったので、空腹を満たすためにも、目の前ですでにできあがっている鍋をつついていた。この瞬間はどんなに大きな事件を抱えている時であっても、至福の瞬間として、その前に感じた時のことを思い出そうとする。それは習性のようなものであり、結構気分のいいものであった。

 ビールはそれくらいにして、テーブルの上には、ボウルの中に氷が入れられていて、その中に冷えた冷酒の瓶が入れられていた。

「冷酒は呑みやすいから、気を付けないと?みすぎてしまうので、大事件を抱えている時は呑めないです」

 と言っていたので、今日はそこまでの大事件ではないということで、冷酒が用意してあるのだろう。

 鎌倉探偵も決してアルコールが強いという方ではないが、門倉刑事に比べると呑める方ではないだろうか。

「まあ、今日はゆっくりと呑もうじゃないか」

 と鎌倉探偵は言ってくれたので、安心して呑める気がした。

 目の前にある瓶の一つを開けて、お猪口に注ぎ、ゆっくりと口に運んだ。甘みのあるコクの深さはさすがに冷酒のおいしさであった。

 鍋の中身は野菜と鶏肉、水炊きであった。鶏肉の大好きな門倉刑事にとってはありがたく、その出しがうまみを出している、彼の目の前に取り皿が二つ置かれているのは、門倉刑事の性格を知り尽くした鎌倉探偵の配慮で、

「水炊きの出しは、ポン酢などを入れなくても、その出しだけで食べてもおいしかったりしますからね」

 とよく言っていることで、ポン酢用と、そのまま食べる用とで二つ用意してくれていたのだ。

「ところで、門倉君は今何を捜査しているのかな? 別に大きな事件が起こっているようには見えないが」

 と鎌倉探偵が切り出してきた。

「ええ、死者が出るような大事件ではないので、捜査本部というのも別に設けられているわけではないのですが、私が気になっている事件があるんです。お話を聞いていただけますか?」

 と門倉がいうと、

「ええ、もちろんですよ」

 と言って、ニッコリと笑って鎌倉探偵がこちらを向いている。

「あれは、数日前に、この近くにあるS大学の構内で起こった事件だったんですが、そこの大学の文学部の中に、歴史研究サークルというある教授のゼミがあり、サークルというのはそのゼミが活動する時に使っている言葉なんですが、彼らの活動の中に、ラジオ配信というのがあるそうなんです。研究してきた歴史の話題の紹介や、リスナーからの意見に答えてみたり、視聴者参加形式で、クイズのようなものが行われたりと、レトロな感じも盛り込みつつ、さすが歴史がテーマなだけに、面白いことを考えていると思いました」

 と門倉刑事は説明した。

「なるほど、ラジオ配信というのは、なかなか面白い趣向ですね。でも、今は誰でも簡単にユーチューブやSNSで何でも発信できるので、何もラジオのようにスタジオを必要としたりする時間や費用を要することをするというのも、結構大変ではないかと思うんだけど、どうなんでしょうね」

 と、鎌倉探偵はいった。

「そうなんですよね。でも、ゼミも中での活動ということで大学からは少しは出ているようで、そして学生が毎月少しtずつ出資することで賄えているようなんですが、放送自体はそれなりに人気のようです」

「それで?」

「放送自体に問題があったわけではないんですが、歴史サークルが使用している放送のスタジオが大学の放送室を借りていたんですが、ちょうど彼らが毎日掃除をする時間があるようで、いつものように手分けして掃除をしていたそうなんです」

「内訳は?」

「放送ブースや機械が置いてあるスタッフルーム、そして表の通路などを二人一組になって掃除をしているようです。部員はもっといるので、皆が皆毎日掃除をしなくてもよかったということなんです」

「じゃあ、事件はその時に起こったんだね?」

「ええ、その時、放送ブースの中で掃除をしていた二人が、何か気持ち悪い思いがしてきたということで、苦しみ出したんですが、その時はさほどのことはなかったようなんです。そのうちにスタッフルームからも放送ブースに入ってくると、入ってきた人も苦しみ出したということでした。そして極めつけはそこに教授も入ってきたんですが。最初教授はさほど気持ち悪いという感覚ではなく、皆が苦しんでいるのを不思議そうに思っていたようです。皆に早く放送ブースから出るように促している間に、また彼らの苦しみが少し深くなってきたことで、部員の一人が救援を呼ぶために非常ベルを鳴らしたそうなんです。するとさらに学生が苦しみ出したんですが、その時、一緒に教授も苦しみ出したということでした。学生の誰かが苦しみのあまり、ブースを閉めてしまったのですが、ブースはオートロックのようになっていて、中からしか開かないようになっているそうなんです。だから密室になった状態の中で、教授がのた打ち回るように苦しんでいて、そのまま泡を吹いて気絶したということでした。教授は救急車で搬送され、命に別状はないということでした。これが今回の事件のおおかたのあらましと言ったところですね」

 と、門倉刑事は淡々と、それでいて、なるべく漏れのないように話したつもりだった。

 それを聞いて、鎌倉探偵にはどこが重要な部分なのか分かるというのだろうか。門倉刑事は、話を聞いたうえで、腕を組んで自分の頭の中で話を再度組み立てなおしている鎌倉探偵をじっと見ていたのだ。

「うん、確かに奇妙な事件だね。誰かが故意に何かを企んだとも見えるし、偶然が重なっただけということも言える。この話だけでは何とも言えないね。でも、今の話を聞いて一つだけ、偶然が重なったのかどうかは分からないが、現象として考えられることはあるんだ」

 と鎌倉探偵は言った。

「それはどういうことですか?」

 と門倉刑事が聞くと、

「この事件では、音が何かを暗示しているように思うんだけど、さっき門倉君が言った中で、教授が最初は皆がどうして気持ち悪くなっているのかということが分からないと言っただろう。それなのに、途中で誰かが非常ベルを鳴らすと、皆ももっと不快に感じたんだろうけど、それまで何ともなかった教授が今度は一番苦しみ始めたってね。これは事実とすて非常ベルの音が直接影響していることは誰にでも分かることだよね。でも非常ベルの音くらいでは、そこまでひどいものではない。だけど、何か他の音と共鳴したと考えればどうだろう? 教授にとってその共鳴が他の人よりひどいものだった。だから泡を吹くまでになったんじゃないかな?」

 と鎌倉探偵は言った。

 門倉刑事も音がこの事件で怪奇な現象の原因だとは思ったが、それを科学的に説明するのは難しかった。実際に音を感じたと言っても、再現することはできないし、もし再現することができたとしても、それを実践することは、皆が気持ち悪くなる可能性が高いだけに、簡単にできるものではない。

「なるほど、じゃあ、オートロックになるのを分かっていてカギを閉めたのは、苦しみのあまりなのかと思いましたけど、教授を密室に閉じ込めるためだったとも言えるかも知れませんね」

 と門倉刑事がいうと、

「そうなんだ。そこが分からないところではあるが、結果として教授を意識不明に陥れ、救急車で搬送させることになったんだよね。だから、もしこれが故意に行われたということであれば、殺害の意志まではないんだけど、苦しめるだけ苦しめたいという思いがあったのは確かなんでしょうね。でも、そのために自分はおろか、他の人まで巻き沿いにするというのは、感心はしないけどね」

 と鎌倉探偵は言った。

「でも、皆を巻き込んだことで、もし故意に誰かがやったとしても、その人の特定は難しいでしょう。だから、わざと皆を巻き込むことにしたという考えも成り立つ気がするんですよ」

 と門倉刑事がいうと、

「となると、犯人がいるとして、その犯人は自分さえよければまわりはどうでもいいというような利己主義的な人物の可能性は高いと思うんだけど、そういう人物は話を聞いてみていたかね?」

「いないわけではないです。心当たりはあります。もし教授が狙われたのであれば、かなり高い確率でその人が怪しいと言えると思います」

 と言って、門倉刑事は、鎌倉探偵に、昨日の事情聴取の話をした。

「なるほど、今の話を聞く限りでは、犯人がいるとすれば。それは福間恵三だろうね。でも、いくら彼でもここまでみえみえな犯行を犯すだろうか? そうなるとあの不快な音は自分の犯行をごまかそうなどという意思ではなく、その状況を作り出すためには必要不可欠な状態だったということだろうね。ところで、皆はその時の音をどんな音だと言っているんだね?」

 鎌倉探偵はある程度見切ったかのように話し始めたが、ただ首を傾げるところが何度かあったのを門倉刑事は見逃さなかった。

「私も鎌倉さんとほとんど意見は一緒なんですが、こうやって二人の意見が一致すれば、今までの経験から、それはほとんど事実に近いと思っているんだけど、でも実際にはどこまで事実に近づいているのか、今回は少し疑問なんです。どこかに何か忘れているものがありそうな気がして、そういう意味ですぐに回答できないものがあるんですよね」

 と門倉刑事がいうと、

「そうなんだよ。いきなり一つに意見がまとまりそうになるんだけど、その結論を見出すのが何か怖い気がするんだ。違っているわけではないんだけど、何かが足りない気がしてね。この違いが実は真実と事実の違いなんじゃないかと思うと、話がややこしくなるんだ。そういう意味で、謎解きと犯人捜しは別の次元でしなければいけないんじゃないかと思うんだよ。ひょっとすると、この謎が解かれた時、犯人が仕掛けた罠に陥ってしまうのではないかという思いがある。これは探偵としての勘なので、本当の意味での信憑性はないんだけど、科学的なことの解明は私にはできると思っている。とりあえず、その可能性について考えてみようじゃないか」

 と、鎌倉探偵は言った。

「というt、鎌倉さんには何かこの事件の科学的な部分に心当たりでもあるんですか?」

 と門倉刑事が聞くと、

「うん、あるんだよ。君の話では、途中から教授が入ってきて、その時には何も聞こえないという話だったんだろう?」

「ええ、そうです。これは皆の意見をそれぞれに聴いて共通した話だったので、ウソはないと思います。教授は入ってきて最初、皆が苦しんでいるのを見て、何があったのか分からずにきょとんとしているというような話でした。それなのに途中から苦しみ出したのが変だということでした」

 と門倉刑事がいうと、鎌倉探偵は、

「うんうん」

 と頷きながら話をした。

「門倉君は、その時の他の人が聴いた音がどんな音だったのか訊ねてみたかね?」

「ええ、もちろんです」

「じゃあ、その時の皆の意見が、超高周波で、まるで蚊が飛んでいるような嫌な音だったと言ってなかったかい?」

「ええ、確かにその通りです。よくお分かりになりましたね」

「教授が教えてくれたのさ。しかも、聞こえなかったのは教授だけで、他の学生には皆聞こえたということだろう? 何が違うのかな?」

 と鎌倉探偵がいうので、門倉刑事は素直に答えた。

「学生は皆若いけど、教授だけは五十歳近いというくらいですかね?」

 と門倉刑事がいうのを聞いて。

「そこまで分かっていて音の正体が分からないということは、本当に知らないんだね。この音は『モスキート音』というものなんだ。この音の特徴はさっきも言ったように、高周波で蚊が泣くような音で、すぐには認識できない音なんだよ。しかも、この音は聞こえる人と聞こえない人の差がハッキリしていて、特にある程度の年齢を超えると聞こえないという特徴があるんだ。元々はアメリカで開発されたものらしくて、今言った年齢によって聞こえないという特徴を生かして利用されるようになり、実験的に設置された例もある。セキュリティや、若者による施設破壊などの防止を目的にね。逆に、若者としては、教室で携帯電話の着信音をモスキートにしておけば、年配の先生には着信音が聞こえないということで、教室で使用しているという例もあるというんだ」

 という鎌倉探偵の熱弁を聞いていて、感心したように聴き入っていた門倉刑事だったが、

「そんなのがあったんですね。私も勉強不足でした。でも、こんなことは知っている人が考えればすぐに思いつきそうなことですよね。それなのに、よく計画したものだと思いますよ」

「それがあるから、故意なのか偶然なのかが分からないと言ったんですが、急にいきなりモスキート音が流れてきたり、しかもそれが放送室というのも、いかにもですよね。そこにかぶせるように非常ベルの音。これを偶然が重なったと考えるのは難しいですおね。特にモスキート音は何かの作為がなければ、聞こえてくるものではないですからね。特に今のような冬の時期に、蚊が飛んでいるとは思えないし、しかも放送室のような場所にいるとは思えないですよね」

 と鎌倉探偵はあくまでも故意を主張する。

 さすがにここまで音をモスキート音と確定してしまうと、その時点で偶然の可能性は皆無に近いと言ってもいいのではないだろうか。

「モスキート音というのは、すごい効果だったんですね。それだけ聞こえにくいものだったら、他の音と共鳴した時、余計に耳に残ってしまう可能性もないわけではないですよね。特に非常ベルなどは共鳴しやすいような気がします。ただ、この時の非常ベルが故意なのか偶然なのか、この部分は疑問が残る気がします。非常ベルはあくまでも苦しんでいる人が無意識に押しただけですからね」

 と門倉刑事がそういうと、

「果たしてそうだろうか? 犯人はそこまで予期していなかったと本当に言えるだろうか。自分も一緒に苦しんでいるんだから、その苦しみを思えば、非常ベルは想像できそうだ。それにしても、放送室というのは、本当にすごいんですね。そこまで皆が皆気持ち悪く感じるだけの防音設備なんだろうから、空気も相当薄いと考えてもいいかも知れないな」

 と鎌倉単体は腕組みをしながら考えていた。

「それにしても、共鳴和音というのは恐ろしいものですね。これは数学というよりも、やはり化学なんでしょうね。一足す一が、三にも四にもなる。それを思うと、科学的な話を簡単にバカにできなくなるような気がします」

 と門倉刑事がいうと、

「科学をバカにすると、自然に逆らうような気がするんですよ。科学と自然は決して正反対ではなく、自然があるから科学が育まれるということだと思うよ」

 と鎌倉探偵は言った。

「そうですね、なかなか難しいですね」

「社会というのは、文明があり、その上に成り立っていると言えます。文明というものがなければ、秩序を保つ意味もないし、ルールは本能によるものだけで十分です。つまり社会というのは、文明あってこそのものであって、保たなければいけない秩序があるということはその裏には必ず何かが潜んでいるということですね。社会のルールというのはそんな中で確立されてきたもの。文明という人間だけが持つものだからこそ、ルールを持った社会が存在する。その裏の世界とは、戦いであったり、陰謀や欲望、そんなものが渦巻いているからそれを統率するためのルールが必要になるんです。法律しかり、それを守らせるための警察組織、そしてさらには国家機能など、そういう機関だと言えますよね。そんな時代を生きているから、私利私欲のために人は殺人を犯す。自分が生きるために仕方なく殺人を犯すというわけではなく、ただ単に自分の欲望を満たしたいというだけで簡単に人を殺す輩が出てくる。これが文明の垢の部分なんだよ。そういう意味では文明というものはいい部分ばかりではないということ。世の中には表があれば少なくとも同じ大きさの裏があるということなんだろうね」

「犯罪では、自分が助かるためには仕方なくというのもあれば、本当に自分の欲望のためだけに人を殺す人もいる。小説の中だけなのかも知れないが、犯罪を芸術に模して、その芸術を達成するためと称して人を殺すやつもいる。もしそうであれば、何ともやり切れないですよね。頭で考えての殺人だと言わせたくはないですよね:

 と鎌倉探偵の話に門倉刑事も補足するかのように言った。

「ここに出てきたモスキート音などというのは、セキュリティーやあるいは戦争の道具として開発されたものなのかも知れないけど、小さなところでも些細なことに使われていますよね。ということは、犯罪に使われないと誰が言えるでしょうか? これほどいくらでも使えそうな道具もないものだ。どうやって使うか、そしていかに実用化したものを手に入れられるかというところもあるんでしょうが、そもそもいくらでも使い道があり、一見便利に見えるこのアイテムは、謎を巻き起こすには十分です。ある意味、悪戯に過ぎなければいいんですが、これが何かの犯罪の前兆であり、予告のようなものであれば、怖いですよね。動機が復讐のようなものであれば、特にそうでしょう。まだ何も起こっていないからと言って油断はできないと思いますよ。ただ少なくともいきなり誰かが殺されるわけではなく、この状態を引き起こしたことで、何かの前兆だと思わせるには十分なので、ちゃんとヒントは貰っているということでしょう」

 と鎌倉探偵は言った。

――鎌倉探偵は。今回の事件を、ゲームのように感じているのかも知れない――

 もっとも、死者が出ているわけではないので、事件というにほどのものではなく、捜査本部も置かれていないこの状態では、捜査させてもらうだけでもありがたいほどの事件なのだから、鎌倉探偵が事件というよりもゲームとして見ているのであれば、決して不謹慎でもなんでもない。

 逆にこんな時こそ、少し遊び心を出さないと、いつもいつも緊張して捜査に当たるというのも精神的にはきついものがある。

 門倉刑事も鎌倉探偵のところに相談に来たというよりも、息抜きに来たと言った方がいいような感じだった。久しぶりに呑んだ酒もうまかったし、鍋も味わって食べることができた。

 事件と言えば事件だが、事件解決のためというよりも、この怪奇現象を解明してほしいという意味で訪れたのであって、あらかたその目的は達せられた。そう思うとかなり肩の荷も下りた気がしたが、鎌倉探偵の中では、

「まだ事件は終わっていないのかも知れない」

 という含みがあり、今度のことがまさかただの前兆のようなものであるとすれば、この上場に誰か、怯えている人がいなければいけない。

 少なくとも今までに事情聴取した人の中には怯えを持っている人はいなかった。逆に挑戦的な感じがしたのが福間だった。

 鎌倉探偵の話によれば、犯人は福間ではないかという。なるほど彼には動機もあれば、話をしている間に出てきた犯人像も彼を指し示しているかのようだ。

――プロファイリングをでもすれば、彼の犯人の可能性は限りなく高いのではないだろうか――

 と思わせた。

 福間という男がどれほどこの事件に大きな存在を持っているのかは、誰もが分かっていることであるが、今の鎌倉探偵の話を聞くと、このまま黙っておくのは危険な気もした。最初は事件の真相さえ分かればそれで納得できると思っていたが、見逃せるものなのかどうか、真相を究明し、さらにそこで考えなければならない。そういう意味では凶悪犯よりも難しい相手だと言えるのではないだろうか。

 凶悪犯でないと思うと、そこまで強く相手を感じることができないのは、犯罪捜査に携わる人間の性のようなものなのかも知れない。

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