第4話 二人の憂鬱
事情聴取の次の相手は梅崎綾乃であった。彼女は事件があった時、スタッフルームを掃除していたはずなのだが、ちょうど水を汲みに行っていて、その現場を見ていない。彼女が帰ってきた時、放送ブース内から数人が飛び出してきたところだった。何が何かよく分からなかったはずだった。
それなのに、門倉刑事はそれを分かっていて、彼女を事情聴取しようというのだ。
「梅崎綾乃さんですね? 少しお話をお伺いしたいのですが」
と門倉刑事が警察手帳を提示しながらいうと、
「いいですよ。でも私あまりよく分かっていませんけどいいんですか?」
というので、
「ええ、それでもかまいません。その場におらずに、パニックになっている最中から顔を出したあなたの目に写ったものをお教えいただければと思ってですね」
と、最初から彼女の立場が分かっているかのように聞いた。
「それならいいんですが」
と綾乃も恐縮しながら言った。
「あなたは、実際にその場には入っていないんですよね?」
「ええ、だから皆が気持ち悪がって苦しんでいるのを見ていただけなんですが、何がどうなったのか、最後の方だけだったのでよく分からないんです。倒れこむように放送ブースから数人が飛び出してきて、皆、気持ち悪いと口々に言ってるんです。中には吐きそうにしている人もいたので、私が背中をさすってあげたんですが、すぐに楽になったようで、まわりを見ると、少しずつ顔色がよくなってきているようで、最初皆を見た時は。完全に土色をしていたようでした」
と綾乃は思い出しながら話した。
「何か臭いのようなものはしましたか?」
「気のせいかも知れませんが、何か温泉のような臭いがしました。普段でも気持ち悪く感じられる臭いなので、私は思わずハンカチで鼻や口を押えました。でも、それだと皆を助けられないと思って、襲る襲るハンカチを外すと、もう臭いはしなくなっていたんです。きっと一瞬だけだったのかも知れないと思っています」
「それは錯覚だったということですか?」
「そうだったのかも知れません。でも咄嗟に鼻と口を塞いだのは今でも正解だったと思います。実際に私は気持ち悪いとは思いましたが、皆のように苦しいという状態には陥っていませんからね」
と言った。
「表に飛び出してきたのは何人ですか?」
と聞かれて。
「確か四人だったと思います。元々の放送ブースにいた人、そして、助けようとして中に入ったんでしょうね、スタッフブースで掃除をしていた人も飛び出してきているようでしかたら」
「でも、結局は教授が中に取り残された形になったんですよね?」
「ええ、そうです。どうして教授だけが中に取り残されたのか分からないんですが、一人残った教授の苦しみ用は見ていて、まるで喉を締められているような感じでした。こっちまで苦しさが感じられるようでしたね」
「梅崎さんは、人の身になって考える方なんですか? つまり肉体的に苦しんでいる人を見ると、自分も苦しく感じるようなですね。いわゆる感情が伝染してしまうようなところですね」
「たぶん、あると思います。私は神経質でも几帳面ではありませんので、自分を管理することはできないんです。だから、ついつい人に感化されてしまうことが多くて、その人が何を考えているかなど、しょっちゅう考えてます」
「それはあなたに限らずなのでは?」
「そうかも知れませんが、私の場合は特殊だって言われたこともあったんですよ」
「それは誰からですか? 最初は加倉井さんからで、途中から福間さんからも言われるようになって、二人から言われるようになると、そのうちにまわりの皆がそういう目で私を見ているような気がしてきて、それは不思議な感覚でした」
「人の身になって考えることができるというのは、まわりの人からはありがたいと思われるんでしょうが、当の本人は結構きついものがあったりするんじゃないですか? 私もそういう人を知っているのでよく分かりますが、結構後から後悔したりすることも少なくないと思うんですよ」
と、綾乃は言った。
人の身になって考えてしまう人は、人が苦しんでいるのを見ると、自分が本当は苦しくもないのに、その感情が移入してしまって、見ているだけで自分も呼吸困難に陥ってしまうこともえてしてあったりもする。そんな経験をしたことがある人は、読者の中にもいるのではないだろうか。
「人の苦しみが分かる」
というと聞こえはいいが。要するに、自分も人が苦しんでいるのを見ると辛くなってくるだけで、それは本能によるものだったり、潜在意識がもたらすものだったり、場合によっては、
――夢で見たことがあったような気がする――
という思いを抱くこともあるだろう。
そんな思いを感じていると、夢というものが、目が覚めるにしたがって忘れていくものだという意識はあるが、実際には忘れているのではなく、記憶の奥に封印されているだけだと思い、それがよみがえってくることで、デジャブのような意識を感じると考えると、デジャブというものの理屈を自分なりに理解しているような感覚になったりする。
実際に夢を見ることが自分にとって何を意味するのか分からないが、
「意味もなく見る夢なんかない」
といっている人がいたが、その言葉に裏付けられているような気がして仕方がない。
本当は普段からボンヤリしているつもりでも、実はいつも何かを考えているのが自分だと思っている綾乃は、だからこそ、普段はあまり何も考えていないようにまわりに見せたいという思いから、天真爛漫に振る舞っているのだ。実際に楽天的ではあるので違和感はないが、天真爛漫な姿に裏があるということを、果たしてどれだけの人が分かっているのか、そこまで考えてしまう綾乃だった。
一体何を考えているのか、その時々で違っていて、下手をすると、我に返るまで何を考えているか分からない時もある。したがって我に返ってしまってから、
「何を考えていたんだろう?」
と何かを考えているのは意識しているのだが、その肝心の内容を覚えていない。
――きっと夢と同じように、楽しいことを考えている時に限って、最後まで意識していないんだろうな――
と感じた。
夢と違って、何かを考えている時、思い出した時に怖いことを考えていたという意識がないので、何かを考えている時というのは、怖いことを考えていないのか、それとも我に返った時、覚えていない中に夢と違って、怖い内容まで入っていたりするのではないかが分からない。
人と話をしている時も、何かを考えていて上の空の時がある。それをまわりの人は、
「本当に綾乃ちゃんは天真爛漫なんだから」
と言って、いい方に取ってくれるのはありがたかった。
だが、中には天邪鬼のような人もいて、そんな風に贔屓目に見てくれている綾乃を嫉妬の目で見ている人もいる。その人の性格が怪しいだけなのだが、全面的に相手が悪いというわけでもないだろう。
綾乃は何を考えていたのか分からない時、考えていたこと自体を忘れるようにしていた。どうせ思い出せないのであれば、意識したとしても、それは別に無意味なことのように思えたからだ。
門倉刑事は話しかけてからすぐに、何かを考えている素振りになった綾乃に気付いていた。気付いていて必要以上に囃し立てるようなことをしないようにしようと思うと、
――他の友達は、彼女のこういう特殊な性格を分かっているのだろうか?
と感じた。
何かを考えている時に話しかけても、きっと彼女は上の空で、それでも返事をしなければいけないという義務感のようなものだけがあったとすれば、まわりとすれば、綾乃のことを失礼な人だとして感じてしまいかねない。そうなると、実に損な性格だと言えるのではないだろうか。
綾乃が我に返ると目の前には門倉刑事がいて、一瞬ビックリした。しかし、最後に彼が言った言葉を思い出し、そこから自分の世界に入ってしまったことを考えると、その間に何かを考えていたのだろうが、もし思い出すとすれば、会話の中でしかないような気がした。
「人の身になって考える」
という発想から、自分の世界に入ってしまった綾乃は、まだほとんど何も門倉刑事と話をしていないことを感じていた。
――このままのペースでいけば、どこまで時間が掛かるか分からない――
とまで感じていた。
最初と表情がまったく変わっていない門倉刑事だが、自分は随分といろいろな表情を見せてしまったのではないかと感じた綾乃は、恥ずかしさでいっぱいになっていた。
「ところで、山下教授というのは、どういう人なんですか?」
と唐突な門倉刑事の質問が飛んできた時、一瞬ハッとなった綾乃の表情には、明らかなt¥狼狽と恐怖が溢れていた。
それでもその気持ちを悟られないように、綾乃はできるだけ毅然とした態度を取る必要があった。
「教授は一口にいえば、面白い人というイメージですかね?」
「面白い人ですか?」
「ええ、さすがに教授というだけあって、歴史に関しての知識は本当にすごいものがあります。考え方も毅然としていて格好いいんですよ。でも、それ以外のことに関してはあまり詳しくなく、滑稽なほどの勘違いをしたり、まるで子供のようなんです。そんな教授を見ていると、やっぱり教授と言っても人間なんだなと思えるところがあって、可愛らしく感じられるくらいですね」
と言った。
それを聞いて門倉は一瞬唖然となったが、そこには理由があった。
「歴史サークルにいる梅崎綾乃さんね。彼女は同じサークルの福間恵三さんとお付き合をしているんだけど、これはウワサでしかないんだけど、山下教授とも付き合っているというウワサがあるんですよ。教授はもうすぐ五十歳になるという親と変わらないくらいの年齢で、しかも奥さんがちゃんといるわけだから、不倫ということね」
という話を聞いたからだった。
このウワサの出所を聞いてみたが、その人にもハッキリとは分からない様子だった。そのことを話してくれたのは他でもない、この前に事情聴取に応じてくれた加倉井裕子だった。
だから次の事情聴取の相手が急遽梅崎綾乃になったというわけである。このウワサは加倉井裕子がいうように、ハッキリしたことではない。あくまでもウワサのレベルでしかないのだが、火のないところに煙は立たないというではないか、自分の目で梅崎綾乃という女性を見ておく必要があった。
ウワサでは、天真爛漫で楽天的な性格だという。不倫にしても、後先考えずに軽い気持ちだとすれば、それは大きな罪である。もし今回のことがそんな彼女に対しての嫌がらせか何かであったとすれば、由々しき問題であることは確かである。
綾乃は、教授の名前が出た時は明らかに狼狽した。
――これは少し怪しい。ウワサ通りなのではないか?
と思った。
しかし、彼女の話を聞いていると、不倫相手の話題を、不倫をしていることなどまったく知らないと思われる相手、しかも警察官相手に平気な顔で、しかものろけにでも見える内容の話を、こうも簡単にぬけぬけと言えるだろうか。いくら天真爛漫とはいえ、これでは何も考えていないのと同じだ。
何も考えていないわりに、最初教授の名前を出した時にあのうろたえはどこからのものだったのだろう、しかも、彼女は結構頭の中でいろいろ考えているように思える。そんな女性がこんなに簡単に不倫している相手ののろけに聞こえるような話ができるはずもないではないか。
子供のように見えるのは、きっと綾乃の母性本能が、愛情表現と密接に結びついているからだろう。綾乃の愛情豹変は母性本能である。そう思うと、あの神経質な福間恵三の相手になる女性であろうか。この二人が付き合っているという方が不思議な気がしてくるくらいだった。
そもそも天真爛漫な女性と神経質な男性であれば、最初こそ物珍しさから相手を知りたいと思うかも知れないが、実際に付き合ってみると、まったく正反対の性格の違いに紛糾し、相手とだけではなく、自分の中での葛藤が生まれてくるのではないだろうか。そう思うと、彼女にとってどちらが本命なのか、難しくなる。二股問題がもし事実だとすると、今回の会事件にどう結びついてくるのか、問題はそこだった。
確かに誰も死んでいるわけではないが、不倫や浮気に対しての何かの憤りが原因だとすれば、何も関係のない人たちまで巻き込むというのは、いかんともしがたく思えてくるのだ。
綾乃は教授のことを、
「楽しい人」
という謂い方をした。
もし、この表現が綾乃以外の女性から聴かれたのなら、微笑ましいような気がするが、いくら天津爛漫であってもこのような立場の綾乃であれば、白けた感じがしたとしても無理もないだろう。
実際の教授がどんな人なのか、想像するのが難しくなってきた門倉だった。
「梅崎さんは、福間さんとお付き合いされていると伺いましたが、どうなんでしょうか?」
と、教授との話を中途半端にして福間との話に切り替えた。
ここに何か含みがあるのか、それとも教授との話は聞いたとしても、綾乃がまともには答えないだろうという思いを持ってのことなのか、分からなかった。
「ええ、お付き合いしていますよ。彼は本当に真面目な人で、見習うところはたくさんあります。特に私のようにいい加減でちゃらんぼらんな人間には、彼のような人がそばにいてくれていろいろアドバイスしてくれた方がいいと思ったんです」
と、これはまたかなりへりくだった言葉になっていた。
「いやいや、そこまで自分を卑下することはないんじゃないですか? そこがあなたの魅力なのかも知れないし」
というと、彼女は少しあざとい笑いを浮かべた。
――なるほど、思った以上に計算高い女なのかも知れないな――
と、そのあざとさにその時の顔をを見た時、気付いたのだった。
ひょっとすると、福間という男の神経質な部分が鼻についてしまって、もうある程度我慢できないところまで来ているのではないかと思うと、この三角関係もまんざらウワサだけの世界で収まりそうもないような気がしてきた。
火のないところには、やはり煙なんか立つわけはないのだ。ウワサが本当であれば、それまでなのだが、本当でないのにこれだけのウワサが立つということは、本人に隙があるからに違いない。
教授に隙があるのかどうなのかはまだ話もしていないので分からないが、少なくとも現状見ているだけでは、綾乃には結構隙だらけというイメージが付きまとっている。まさか自分からそんな風に思わせるようなことはしないだろう。する意味もないし、現実的に女性側からというのは、金銭でも絡んでいない限りは考えられない。
「福間さんとは昨日お話をいたしましたが、彼はどういう感じなんでしょうね。私などが見ていると、結構勉強熱心で、いろいろなことを知っているようにお見受けしましたけど」
と門倉は言った。
門倉の考えとしては、勉強熱心というのは、それだけ理屈っぽくて。物知りというだけに、その知識をひけらかそうとすることで、上から目線に見えていたのを、隠して話したつもりだったが、綾乃には、どこまで気付かれたことだろう。
「福間君は、お勉強熱心なのは私も尊敬するところです。でも、難しいことを話している時の彼のどや顔を見ていると、分からないと言えない雰囲気になってしまうんですよ。それを彼は上から目線で胸を張って話すので、こちらはやりにくいですね。何と言っても、分からないという一言が、どうしても言えないんですよ」
というではないか。
――どうやら、彼女の方でもかなりのストレスを抱えているようだな――
と感じた。
ストレスを感じているということを、きっと他の人にも分かってほしいと思ってはいるのだろうが、彼との仲を疑われるのは困るような雰囲気だ。その間に生まれてジレンマを彼女はどのように解消させようと思っているのだろうか?
――そうか、そういうことか――
と、門倉刑事は自分の閃きに驚いていた。
彼女は自分のストレスがジレンマとなってきていることに気付いていた。天真爛漫だとか言われているが、こういう落ち込んだ時には、彼女は冷静になれるのかも知れない。そしてその冷静さの裏には的確な判断が備わっていることが裏付けられている。
彼女にとってのトラウマは、明らかに福間に対してであった。福間という男が嫌いではないが、ウザく感じられるようになった。嫌いではないだけに、この思いがジレンマとなって自分を圧し潰そうとする。
――嫌いになれれば楽なのに――
と思ったところで彼女は閃いた。
自分に誰か他に男がいるような様子を福間に見せればどうなるだろう> 彼はこちらの思惑通りに冷静になってくれるだろうか。いや、融通を利かせてくれるだろうか。そう思った彼女の白羽の矢が教授に当たった。
教授には気の毒であったが、一番効き目のあるのは教授だった。教授であれば、本気ではなく浮気であるという理由にもなるし、その方が綾乃には都合がよかった。ただ、これは綾乃側の都合というだけで、教授側の都合はまったく考えていなかった。
教授はこの噂を知っていたのだろうが、反論はしなかった。それに増長して綾乃はウワサをそのまま放置したが、次第に福間が気にするようになってきた。
そんな教授を見て綾乃がどう思ったのか、気の毒だと同情したのか、それとも、愛情が芽生えたのか、どうだったのだろう?
教授は偉い地位にありながら、そのことをひけらかすこともなく、まわりに気を遣っているという普通の良識のある「大人」であった。
他の教授とを比較すると、やはりどこかが違っている。自分が教授であるということを露骨に学生に対して示すことで自分の地位を確認しようとしている人や、テストでは自分の書作本の印紙を貼ることで、単位がもらえるという見え見えなことをする人もいる、
「それが大学教授という人種さ」
ということを皆が認識しているところが、大学というところなのだ。
それがいいのか悪いのかよくは分からないが、そんな教授ばかりではないということが分かっただけでもよかったと思う。
それは歴史サークルの皆、同じ思いだったに違いない。しかし、変なウワサが、その感情に乱れを生じさせた。福間恵三は、教授に対して不信感を持っているのは誰もが感じていることであった。
ただ、神経質な彼は、それをまわりに知られたくないという思いから、なるべく人の顔を見なくなった。それが却ってまわりに対しても彼への不信感を募らせ、
「あいつは猜疑心の塊りにでもなったんじゃないか?」
と思わせるくらいであった。
微妙な立場は教授だった。それでも学生を前にして、余計なことは口にしないようにして、福間に対しても、他の学生同様の扱いをしてきた。
だが、それが却って福間を頑なにさせる。次第に福間はサークルから孤立していくことになった。
だが、彼がサークルを辞めることはなかった。教授を今まで通り尊敬できないのは仕方がないとして、渦中の人である綾乃のことを忘れられないでいた。
――あんな女、どうでもいい――
と思えればこれほど楽なことはないはずなのに。なぜか、いまだにいとおしいとしか思えない。
福間はそんな自分がいじらしく思えてきた。女に裏切られていて、教授からも嘲笑われていると思っているであろうに、そのことで自分が悲劇の主人公にでもなったかのような気持ちになっていた。
まるで女の腐ったような状況だが、そんな自分を疎ましいとも思っていた。
疎ましさと、悲劇の主人公である自分の立場の悲しさのジレンマで、身動きが取れなくなってしまったのだ。
まったく何も見えない真っ暗な場所、どこにいるのか分からない。ひょっとすると一歩足を踏み出せばそこは断崖絶壁かも知れない。左右だって真後ろだって分からない。そんな状態で一歩でも動けるはずもなく、疲れ果てて、どこかの方向に身体が靡いていくのを待つばかりだった。
「いっそのこと、どちらかに足を踏み出せばいい」
と思うのだが、お子生きることができない。
自分が意気地なしであることは分かっている。意気地なしだから、潔癖症であり、神経質なのだ。
だからと言って開き直りがないわけではない。しかもいずれは力尽きることは分かっている。自然の力に運を天に任せるのがいいのか、そんなのは納得がいかないとして自分から足を踏み出すのがいいのか、迷っている。
次第に身体のバランスが崩れていき、どちらに身体が倒れていくのかということも、次第に分かってくるような気がする。
そんなことを思っていると、また何かを考え始めた。神経質な自分が考えるのは、規則正しく並んだ数字の羅列である。その羅列の中にこそ、答えが隠されているのだが、それを計算でもって求めようというのだ。
目を瞑って計算していると、計算機の音が聞こえてくる。
「カチッカチッ。キー、ガシャッ」
この音は、どこかで聞いたことがあった。何か懐かしい音だった。
最初はタイプライターの音かと思ったが、少し違う。今思い出すとすればタイプライターの音ではないはずで、何だろうと思っていると、思い浮かんできたのは、レジスターの音だった。
以前はスーパーなどにあったレジスター、今ではバーコードリーダーの普及で、レジスター自体が見なくなった。それこそ、公園などの青空でイベントとして催されている、
「フリーマーケット」
などで見かけるくらいであろうか。
もうすでに骨董品扱いになってしまった感じがするが、確かに記憶の中には存在している。
「いつの間に見なくなったんだろう?」
という思いが強く。レジスターの機械は、目を瞑ると、なぜかさらに古いタイプライターとこんがらがってしまうのはなぜであろう?
タイプライターの音は、ドラマや映画、アニメでも時々使われている。以前のアニメにはタイプライター形式でタイトルが流れたものもあった。それを思い出すからであろう。レジスターよりも古いにも関わらず、意識が近く感じられるのだった。
レジスターも一種の計算機のようなものだ。
「ちょっと大きな電卓」
と言ってもいいだろう。
タイプライターの進化がパソコンであるなら、レジスターの進化は何であろうか? バーコードリーダーとは主旨は同じなのだろうが、見えないところで自動計算しているので、この二つを比較対象にするのは、少し無理があるような気がした。
綾乃は、自分が嫌いなはずではないのに、嫌いになりたいと思っている福間が、どのように苦しんでいるのか分かっているつもりだった。なぜならやはり綾乃も彼が好きだった。
実際には何とか福間に変わってほしいと思っていろいろ画策をしているのだが、そのどれもがうまくいかない。
教授とのウワサを流したのは、やりすぎだったと思ったが、いまさら、
「あれはウソだった」
とも言い切れない。
それを言ってしまうと、福間だけではなく、教授も裏切ってしまうことになり、大切な二人を失うことになってしまうと、綾乃はこのまま大学生活を続けていくことはできないと思うようになった。
――このことは、墓場まで持っていくしかないのかしら?
と、まるで十字架を背負ってしまったかのような自分を、恨めしくも可哀そうにも感じた。
もうその頃には、綾乃は自分のことを客観的にしか見えなくなっていた。彼女が天真爛漫で楽天的と見られることが、誰の目から見ても明らかになったのは、この頃からだったのだ。
さっきの真っ暗なシチュエーションは、綾乃が夢の中で、自分が福間になって登場しているシーンであった。
これは夢であるが、途中から現実味を帯びてくる。
――これは現実だ――
と思って見ていると、そのうちに、ベッドで目が覚める。
「夢だったんだ。でもどこからか、やけにリアルだったわ。まるで夢から現実に変わるという夢を見ていたという感覚なんじゃないかしら」
と感じた。
それがどういう感覚なのか分からなかったが、夢を忘れていないということは、楽しい夢ではなかったことは確かである。しかし、自分がいくら苦しいという夢であったとしても、夢の中の福間に自分が入ることができたことで、彼の本心が分かってくるのではないかと思うと、どこかに安心できる部分もありそうだった。
綾乃がそんなことを感じているなど、福間は考えているだろうか。福間の中では、
「しょせん、綾乃はオンナなんだ。男がちやほやしてくれば、そっちに靡くというものだ。それだけ俺がバカみたいじゃないか」
と思っていた。
捻くれているだけなのだが、男というものは、窮地に追い込まれるとどうしても自分の殻に閉じこもってしまう。
女性の場合は、そこからいい方に向けて考えることもできるのだが、男の場合、一度飲み込まれてしまうと、そこから逃れるには、自分を変えるしかなくなってしまう。
だが、男はなかなか自分を変えられない。それはプライドなどというものによるものではなく、わがままな性格が強く影響しているのではないだろうか。
子供の頃に母親から受けた愛情を、違った意識で捉えてしまっていたりすると、わがままな性格は、そう簡単には抜けてくれない。
女性はそんな男性を見ると、普通であれば、情けないと思うのだろうが、中には母性本能を擽るようで、女が男を立ち直らせようという構図が出来上がることがある。そのほとんどはあまり成功するとは思えないが、中にはうまく行くこともあるだろう。
男の嫉妬と女の嫉妬、それがお互いに噛み合えば、ひょっとすると相乗効果が生まれ、マイナスとマイナスを掛けて、プラスになるという現象を作り出せるのかも知れない。
だがそれはあまりにも稀なことなので、誰が信じるというのだろう。
「しょせん、男は女のヒモになるだけだ」
と思われて終わりである。
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