第7話 急展開

 教授との話の中で改めて分かったということも、何か他の新たな発見があったわけでもなく、事実関係の確認程度に終わってしまったことは、門倉刑事を少し落胆された。しかし、これで教授自身がこの事件の首謀者ではないことは分かった気がする。ただ、犯人が他にいて、その動機という意味で教授がまったく関係ないところにいるということはないだろうと思われた。

――やはり教授は重要人物の一人――

 として考えなければいけない相手であった。

 教授の事情聴取というか、半分は世間話に終わったのだが、この時間はもっと長かったように思っていたが、実際には一時間も経っていなかった。普段からあまり重要なことが分かったわけではない時ほど、結構時間が長かったと思っていても、実際にはすぐだったということは結構頻繁に起こっていたことだった。

「じゃあ、そろそろお暇しましょうかね?」

 といって門倉刑事が腰をあげようとすると、

「何か思い出したことがあったら、今度はこちらから赴きますよ」

 と教授が言った。

 完全に打ち解けてしまっているからなのか、門倉刑事は他の人にいうような決まり文句をほとんど言わなかった。それだけ教授の立場も人間性も理解しているつもりになっていて、言わなくてもいいことは、言わないようにしていた。

 教授の方も門倉刑事が帰ろうとしているのが分かると寂しそうだった。

「いつも学生ばかりを相手にしていると、学生以外の人とも話をしたくなるものでね、新鮮な感じがするんですよ。どうしても学生というと、自分の子供のようにしか思えなくて、相手はそこまで思っていないかも知れないけど、こんなにたくさんの子供がいると思うと、変な気分になってくるもので、しかもそれが慣れてくると、当たり前のようになってきて、一番自分がいつも一番前で一番のトップだと思っていると、気が休まる感じもしないですよ。これって結構きついものですよ」

 と教授は言った。

 門倉刑事も下から慕われてはいるが、そんな時、いつも自分が矢面に立って、上からのパイプ役として君臨していることを無意識の疲れとして感じることがあるのを自覚していた。

 もっと上に上がればさらなる上と下からの板挟みに悩まされるに違いないと思うと、神経的な疲れが募ってくるのを感じた。

――しょうがないよな――

 と思っているが、どう咀嚼すればいいのだろう。

「ちょっと寂しいですよ」

 と、最後に教授は苦笑いをしながら呟くように言った。

 その言葉を聞いて、門倉はそれが冗談には聞こえなかったのだが、それは声のトーンが低かったからだ。

――私が知っている声のトーンで、このイメージで真剣でない人は今までにはいなかった――

 と感じていた。

 この寂しいという表現の裏には何があるのだろう? 事件のことでもっと話したいということなのか、それとも単純に世間話をしたいということが根底にあるのだろうか、それとも……。

 門倉刑事は、そんな思いを抱いていた。

 それでも教授の態度の奥底には、毅然とした態度があるため、他の人であればその心を看破できそうに思うのに、教授に関しては何を考えているのか、想像の世界でしかないということを思い知らされるかのようだった。

「またお話する機会は絶対にあるような気がするので、またその時にお話ししましょう」

 というと、教授は苦笑いを浮かべながら、何を考えているのか分からないという何とも言えない表情になった。

――これはどう解釈すればいいのだろう?

 本気なのか、それとも冗談なのか、さすがに社交辞令ではないことは分かっている。いまさら社交辞令などしてもしょうがないからだ。

 そう思いながらも、いつまでもいるわけにもいかず、

「では」

 と言って扉を開けて表に出た。

 扉は自動で閉まるのだが、閉まっている間に背中に浴びた教授の視線の熱さが、すぐには忘れることのできないものとなっていた。

 やっと扉が閉まってその思いを払拭できたと感じた時、不用意にも門倉刑事は溜息をついていた。

「フーッ」

 その声が中に聞こえるわけもなく、少し扉の前から足を踏み出すだけの気力がなかったが、それもあっという間のことだったのだろう、すぐに前に向かって歩き始めた。

 すると、こちらを覗き込んでいる一人の女性の姿が確認できた。

 その視線の先をたぐっていけば、

「あれ?」

 と思わず声に発してしまったのだが、そこにいるのは、この事件でも渦中の人である、梅崎綾乃、その人ではないか。

「これは刑事さん、教授のご様子はいかがですか?」

 と言って前に見た時の天真爛漫さそのものでこちらを見ている。

 まあ、教授のゼミ生であり、歴史サークルのメンバーなのだから彼女がここにいても不思議はないが、それでも何か違和感があったのは、彼女が一人だったからだ、

 彼女の方で教授とウワサがあることは知っているであろうが、そのウワサを刑事が知っているかどうか分からない場面で、一人でお見舞いに来るというところが違和感であった。何しろ不倫という意味で行けばいかにも渦中の二人、二人きりで会うというシチュエーションが出来上がるのは二人にとっていいことなのだろうか?

 しかも相手が警察である。もちろん、不倫をしていたとしても、今は姦通罪などというものもないので、何ら法律で罰することのできるものではないが、事件の後ということもあって、

「痛くもない腹を探られる」

 という言葉通りになってしまうのも癪ではないだろうか。

 特に彼女はどんな時であっても変わることのない天真爛漫さが、何を考えているのか分からないという思いを抱かせる。

「教授は普段どおりじゃないんですかね? 私は以前から面識があったわけではないのでよく分からなかったですが」

 と答えた。

 この答えは当然といえば当然の答え、表現に違いこそあったとしても、概ね答えは似たようなものになるだろう。

 もちろん、教授が最後に寂しがっていたなどという個人の感情を、信憑性もなく人にいうのもおかしなもの。そのあたりは伏せるとしても、こんなところに綾乃がいるというのも何かおかしな気がしていた。これこそ違和感であり、逆に隠れることもなく姿を堂々と見せていたことも、何か違和感だった。

「教授、いかがですか?お加減は」

 と言いながら、綾乃は病室に消えていった。

 そこは男と女の二人きりの部屋、そんな風に感じてしまった自分が恥ずかしくなるほどに見える二人のような気がした。

「やはり、不倫などというウワサは根も葉もないウワサに過ぎなかったんじゃないだろうか」

 と思わせた。

 だが、違和感がないはずのこの場面にくすぶっている違和感は何なのだろう?

 門倉は二人の爽やかさをそれぞれに思い浮かべていた。

 一人は天真爛漫で、一人はいかにも教授というオーラのある大人の男性、二人だけで一緒にいても、そこに何が起こるのか想像もできなかった。それでも無理やり想像したとして、そこにドロドロとした男女の陰湿な表裏のある顔が見えてくることはなかった。

「お似合いのカップル」

 に見えるかも知れない。

 年齢の行った男性に、若い女の子が恋をして結ばれるという話の中に、微笑ましい話が含まれているのも事実だ。何も年の差があるからと言って、不倫であり、社会的に攻撃されるべきものばかりだと決めつけるわけにはいかないだろう。

 二人だけの世界を門倉は想像すると、本当に親子を見ているように思えてくる。ひょっとすると、福間恵三も同じように想像して、見えてきた様子が同じように親子にしか見えなかったとすればどうであろう?

 そこで生まれてくる感情は、嫉妬に怒りだろうか?

 門倉の中では、憔悴と焦りではないかと思えていた。諦めの境地もどこかにはあるかも知れない。だが、一度落ち込んでしまって、我に返ると彼女を奪われることへの恐れで身体から妙な汗が滲み出てくるのではないかと思えるのだった。

 誰が見てもお似合いのカップルだと感じた福間は、二人が公然と不倫をしているよりも恐ろしいと思った。もし不倫であるなら、教授としての立場から身を守ろうとするので、どこかぎこちなくなり、墓穴を掘ることもありえる。

 あまりにもひどい醜態を晒すことで、一番見せてはいけない相手である綾乃の前で披露してしまい、盛り上がった気持ちを自ら水を差すことになり、自分だけが上った屋上には彼女が昇ってくることはなく、しかも階下に降りる手段をすべて壊してしまうというような行動に移るかも知れない。綾乃にはそれだけの感情の強さがあると思っていた。

 だから、どうせなら不倫であってほしいと思ったかも知れない。

 だが、実際には不倫でもなければ、男女の仲になるような素振りもなかった。そのことを福間は知っているのではないかと思ったのは、綾乃が教授の見舞いに来たことを分かっているのであれば、気が気ではない福間としては、ストーカーのごとく、綾乃の後を付け回していてもおかしくないと感じたからだ。

 福間のように猜疑心が強く、神経質な男が綾乃のことを気にしないわけがない。教授の見舞いにくるくらい分かっているだろう。そう思って門倉は病院の柱や影を見渡してみたが、どうやら福間の気配を感じることはできなかった。

 しかし、今回の事件に真犯人がいるとすれば、福間恵三しか考えられない。綾乃と教授のウワサに対しての感情が、動機ではないだろうか。

 福間がこの事件を考えたきっかけになったのが、教授のふとした世間話のような、

「モスキート音」

 という言葉への聞き違いからではないだろうか。

 誰かを傷つけるのが目的というよりも、ひょっとすると、恐怖を煽って、そして綾乃と教授の二人に罪悪感を与え、まわりからの視線を強烈にし、二人をそれぞれに追い詰めようという考えからだったのではないだろうか。

 やり方としては、誰も傷つけるつもりはないと言っても、実際に苦しんだ人がいるわけなので、犯罪を立証しにくいし、誰かが死んだわけでもないので、捜査はほとんど行われずに、事件性はないとして片づけられるだろうと思っているに違いない。

 実際に捜査本部も立ち上がることもなく、捜査はほぼ単独で行っている。それも、

「他に重大事件が起きてしまえば、そちらに移ってもらうよ。だからできるのは何もない今だけだ」

 と言われていた。

 そう考えると、これほどの完全犯罪はないかも知れない。もし犯人を警察が特定できなければ、大学内でも、すぐに忘れられていくことだろう。その場にいた当事者で苦しんだ人であっても、その後何もなければ、あの時の苦しみはすぐに忘れてしまう。

「人のウワサも七十五日」

 というが、実際にはもっと短いだろう。

 一週間もすれば、誰もが何もなかったかのように接している。その様子を見ていて、何だか言い知れぬ恐怖に駆られているのは、門倉刑事だった。

 犯人が福間だったとすれば、この事件は大成功だったと言ってもいいだろう。一番の復讐相手である教授を病院送りにすることができたからだ。だが、これは偶然の出来事であって、果たして最初から計画されていたことなのかどうか、分からない。

 だが、今門倉刑事は、

――やはり、これは偶然だったんだ――

 と思えてきた。

 なぜなら、福間が最初に計画していたことというのは、

「モスキート音を使って、皆を苦しめたのは教授だ」

 というシナリオを描いていた。

 そのシナリオは、

「モスキート音というものが、ある程度の年齢から上の人には聞こえない」

 という特徴を持っているからだ。

 ただ、問題は教授が犯人だとすれば、動機はどこにあるかということであるが、不倫のウワサが持ち上がって言う中で、それを皆に忘れさせたいという含みがあったのかも知れない。どこからともかく苦しみがやってきて、すぐにその苦しみから解放される。不気味な雰囲気はしばらくこのサークルを包み、その間に空気を一新させることで、自分への疑惑を逸らそうとする計画だ。

 これだったら、死人を出すなどという必要はない。皆に恐怖を煽るだけのことだからだ。ただ、誤算だったのは、自分が苦しみに遭遇してしまうことであったが、そのおかげで自分が犯人から外れてしまうのはよかったかも知れない。

 教授が苦しみ出したことは、福間にとっては計算外ではなかったか。あの時非常ベルを押したのが誰だったのか、結局は分からなかった。

 警察も非常ベルまでは調べなかった。なぜなら教授が苦しみ出した原因が非常ベルとの共鳴にあるのではないかということが何となくではあるが分かったのは、鑑識が帰ったあとだった。捜査本部があるわけでもない事件に、再度鑑識を出動させるのは、それなりに確定的な理由がいる。そんな理由はきっと事件が解決して真実が明らかになってからでも見つかるわけはないような気がする、

 非常ベルというのは、最初から誰も指紋がついているはずはない。つまりあの時点で非常ベルのボタンを調べていれば、非常ベルを誰が押したのか分かったはずだ。そしてそれがこの事件で重要な手掛かりになるということも分かったはずなのに、惜しいことをしたものだ。今は非常ベルも付け替えられていて、指紋採取は夢のまた夢になってしまっているのだった。

 教授が救急車で運ばれて、入院してしまうと、犯人はいよいよ福間に絞られてくる。まわりの人もそんな目で福間を見ているのかと思っていたが、そんな雰囲気はまったくなかった。

 そもそも、福間という男、底知れぬ神経質さがあった。しかし小心者であるという意見も最初からあった。

 だから彼が犯人だということは誰もが感じていることだろうが、同時に、

「あいつには大それたことなどできるはずがない」

 という意見がまわりを占めるに違いない。

 それも福間の狙い通りだったのだろうか。

 福間は子供の頃、よく苛めれていたという。いじめられっ子の心境として、

「下手に反抗するのではなく、相手が苛め疲れるのを待つ」

 という戦法をいつも取っていた。

 それが本当にいい方法なのか分からなかったが。その方法を取ることで少なくとも計算ができると思っていた。自分の考えにないことをして、計算が立たないと、今自分がいる場所が分からないし、どっちにいっていいのか分からないという五里霧中の中に取り残される気分になることであろう。

 そんなことを思っていると、小心者には小心者の復讐であったり、相手を恐怖に陥れるという趣旨で、何でもできると思い込んでしまったのかも知れない。そこにヒントを与えてしまった教授は、ある意味タイムリーだったのかも知れないが、そのことを利用するという頭脳を、福間恵三という男は兼ね備えていたのであろう。

 教授を懲らしめること、そして歴史サークルに都市伝説のような恐怖を植え付けることで、教授と綾乃を精神的に追い詰めようと考えたのかも知れないが、本当にそれだけだったのだろうか?

 こうやって綾乃は堂々と教授の見舞いに来る。まわりはすでに恐怖を忘れて今まで通り、門倉が見えてきた情景は、一人罪悪感に駆られていて、そのくせ消えることのない猜疑心に苛まれながら、ずっとあのモスキート音の苦しみから逃れられないのは福間恵三一人だけだというものでしかなかった。

 綾乃が入院している教授の下でどんな話をしているか、門倉には分からなかったが、警察署に戻ってから少ししてから、門倉の下に教授がら連絡があった。大至急来てほしいというのだ。

「どういうことですか?」

 と聞くと、

「電話では話しにくいことでもあるし、まず君だけに聴いてもらいたいことがあるので、大至急ここまで来てくれるだろうか? 下手をすれば一人の人間の命に関わることになるかも知れない」

 ということだった。

 さすがに、人の命と言われてしまうと尋常ではないので、さっそく病院に赴いた。道も混んでいなかったので、三十分もかからずに病院に着いたが、すえに時間は夕方近くになっていた。診察時間も夕方のピークを迎えようとしていた。仕事や学校が終わってからの外来やお見舞いで人の往来もせわしなくなる。しかもちょうど五時くらいだったので、病院では夕食の配膳時間と重なり、かなりの人が右に左に往来している。

 それでも教授の病室は個室なので、それほど大変なことはない。

「失礼します」

 と言って、病室入ると、一人でいるとばかり思っていた教授の前に一人座って、こちらに背中を向けている。

 誰なんだろうと思ってみると、男性であることは間違いない。

「福間君じゃないか?」

 と門倉刑事もさすがにこの二人のツーショットを見ることになるなど思ってもみなかったので、かなり意外な気がした。

「やあ、お呼び立てして申し訳ない。さっそくのお話というのは、ここにいる福間君にも大いに関係があることなので、同席してもらうことにした。よろしいでしょうか?」

 と教授は丁寧に話した。

「ええ、おちろんです。教授が設けてくださった席ですから、主導権は教授にありますからね」

 というと、

「ありがとう。そう言ってくれると助かるよ。ただ、これからの話は彼がいないと成立しないということもあるので、そのつもりで話を聞いていただきたい」

 と教授がいうので、

「はい、分かりました」

 と門倉はそう言って、座っている福間氏を見ると、まるで借りてきたネコのように巨樹の前に鎮座していた。

 以前事情聴取をした時とはまったく雰囲気に少し戸惑ったが、その様子は、

――いかにも福間氏らしいな――

 と感じさせるものだった。

 神経質な性格というのは分かっていたので、ネコのように背筋を丸めていると、本当に身体全体が小さくなってしまったのではないかと思うほどであった。

「こちらへいらしてください。こっちにあなたが座る椅子を用意していますので」

 と言って、福間と正対する位置に椅子が用意してあるようだ。

 ちょうどこちらから椅子が見えるわけではなく、その場所は窓のそばであり、ちょうど三人が正三角形を形成しているかのように感じられた。

「まずは私から話をさせてもらおうかな?」

 と教授は、門倉が座るか否かの瞬間から口火を切って話し始めた。

「ええ、どうぞ」

 と言って、椅子に座ると、いかにも委縮している福間を目の前にした。

 考えてみれば、右前には大学で尊敬している教授と、目の前には、国家権力の象徴とも言える警察がいるのだから、それは何もなかったとしても、緊張してしかるべきだろう。さすがに当事者ということもあって、彼は額から汗が滲んでいるようで、呼吸困難に今にも陥りそうになっている。まさに、あの時の再現とでもいわんばかりであった。

「君に来てもらったのは、今回の事件の真相をお話しようと思ってな。ただ、前もって言っておきたいのだが、これは真相究明をするという意味で、本当の真実なのかどうか分からない。真実がどこにあるのかも分からないまま、私は真相だけを究明しようかと思っているんだが、そこはご容赦願いたい」

 と教授が言った。

 それを聞いて、ビクッとしたのは福間だった。ただ、教授の話が進むにつれて、その表情は何かを悟ったようにも見え、意を決しているかのようにも感じられた。

「まずは、あの時、毒ガスや匂い系のものでもないのに、皆が気持ち悪くなったというのは、その原因は音にある。音と言っても、普通であれば、別に誰も気分が悪くなるというものではない。一種の異音というべきか、超高周波の耳につきにくい音だったんだ。 だから皆、音に気付く前に気分が悪くなり、何が起こっているのか、自分でも分からない。まわりに助けを求めようにも皆苦しんでいる。ひょっとするとやはり毒を飲まされたのかとも思ったが、皆が一緒に飲んだり食べたりしたものはない。考えられるのは、空気中にあるものしかないという結論になるんだよな」

「ええ、そうでしょうね」

「でも、皆あの苦しい瞬間にそこまでどうして思えたのかというと、たぶん、後で思い返してそう感じたというのもあるんだろうが、あの瞬間、ものすごいスピードで頭が回ったとも考えられる。そこでわしは、そういう研究がどこかで行われていないのかをいろいろ調べてみたんじゃ。そこで秘密裏に研究されているものの中に、『モスキートーン』という『モスキート音』と聞き間違えた言葉を目にした。調べてみると、それは人間の感覚を一時期マヒさせる効果があり、その間に洗脳できる何かを研究していたようなのだが、その副産物として、このような人を少しの間苦しめることができるが、そこに後遺症や、副作用がないという証明がされている製品ができたということなんだ。それを極秘に販売し、実際の研究費用の足しにしようというのが、ネットの中にあった。この犯人はこの『モスキートーン』の副産物を手に入れて、これに使った。そもそもモスキートーンに気が付いたのも私の聞き違いの話からだったというから、実に皮肉なことだ。そしてこれを考えたのが、ここにいる福間君なんだよ」

 と教授が言いきると、さすがに頭を垂れてまっすぐに前を見ることが福間にはできなくなっていた。

「犯人が誰かということ、そして、この音の正体がモスキート音であるということは私もそう想像はしていました。といっても私の推理というか、信頼すべき私立探偵に私の知り合いがいて、話をしているうちに、そうではないかと教えてくれました。その人はまず犯人と特定するというよりも、音の正体を見抜くことで、犯人が誰なのかということを見抜いたようです。ただ、これは私もなぜだか分からないんですが、その探偵がいうには。この事件に、もし犯人がいれば、などという謂い方をしていたことが特徴だったんです。事実、人が苦しみ出す。そして最後には教授が泡を噴いて倒れ、病院に担ぎ込まれるという、一歩間違えればテロではないかと思わせるような事件です。実際に被害は大したことはなかったので、それほど大きな事件にはなりませんでしたが、捨ててはおけない事件です。それなのに、犯人がもしいたらなどというその探偵が何を考えているか分かりませんでした」

 と門倉がいうと、教授は少し黙って考えていた。

「その探偵さんは本当にするどい感性をお持ちだ。実際に現場を見たわけでもなく、人から話を聞いただけでよくそこまで思いついたものですね。ただ、事件そのものに関していえば。この苦しみ出した正体がモスキート音だということが分かれば、自然と分かってくるものなんでしょうね」

 と教授が言った。

「ええ、モスキート音というのを恥ずかしながら私は知りませんでしたので、偉そうなことは言えませんが、この音はある特殊な高周波なので、特定の人には聞こえないという特徴がある。つまり、ある一定の年齢を超えると、そこから先は聞こえないという漢字ですね。もちろん、個人差はありますが」

「ええ、私も実は知らなかったんですよ。でも、聞き違いをしたおかげで、印象深いものになり、私なりに前少し調べてみたりしたんですよね。そして学生には私が聞き違えてことを話もしました。だから、ここにいる福間君も一緒に聴いていたんです。そこで、このような計画を立てたんですが、それは彼のような小心者ならではの計画でした。皆が少しは苦しむかも知れないけど、すぐに効果は薄れる。そして、その時に私一人がその音に気付かずに苦しんでいないのを見ると、皆が犯人を私ではないかと思う。そして、その時に立場的に危うくなった梅崎綾乃君を苦しめることもできるとね。彼は私と綾乃君が不倫をしているのではないかと疑っていたんです。その腹いせにこんな計画を立てたというのですが、計画自体は幼稚で陳腐だと思います。もし、これで誰かに何かあったらということを考えなかったんでしょうね。私がまさか泡を噴いて倒れるなど思ってもいなかったでしょうから。何しろ犯人を私にしたかったわけですからね」

 と教授は一気にまくし立てた。

 だが、興奮しての話であったが、それは犯人と思しき福間に対しての恨みではない。どちらかというと、上から目線で、福間に対して哀れみの表情を表しているかのように見えるのだった。

 福間はやはり一言も言葉を発することはできないでいた。完全に針の筵に座らされている感じである。

 目の前にいるのは閻魔大王であろうか。その後ろに見えるのは、血の池地獄が針の山なのか、どちらにしても地獄からは逃れられないという顔だった。

 門倉は一つ不思議に感じていた。

――今回のこの演出は、何なのだろう?

 教授が用意したこの席、何の意味があるというのか、もし事件のことを知っているとすれば、こっそりと門倉に教えればいいだけのこと。何も福間氏を針の筵に座らせて、公開処刑のようなマネをする必要はないだろう。

 確かにこれで警察に捕まるということはないかも知れない。拘留はされても、起訴はないだろう。あくまでも状況証拠だけなところが難しい。証拠不自由分での釈放になることだろう。

 薬品購入もネットでの購入なので、届ける場所を自宅以外にしておけば、実際に使ったと思われる「モスキートーン」の購入事実も証明できない。そうなると、証拠不自由分での釈放になるだろう。

 しかし、こんな形で教授が学生を警察に売ったということになると、教授の立場は難しくなるのではないか。この時は神妙にお縄についたとしても、そのうちほとぼりが冷めてくると、教授は福間氏の仇として、恨みの対象になるかも知れない。

 そもそも、こんな陳腐な犯罪を犯すほどの小心者。今度は何を考えるか分からない。小心者と言っても、一度は実際に犯罪を犯しているのだから、次はどんな心境でくるか分からない。そうなると、教授の身が危険に晒されることになるのではないだろうか。

 教授がそこまで考えていないとは思えない。そう思うと教授は何のためにこのような場を設けたというのだろう?

 教授はそれ以上は何も言わなかった。もちろん、福間氏も何も言わない。凍り付いてしまったこの場面で門倉はどうすればいいのか少し考えていたが、さすがに何かを言わなければいけないと感じた。

「福間君、この教授の言ったことは、細かいところは別にして、概ね間違いないということでいいのかね?」

 と今度は福間に訊ねてみた。

「ええ、概ねはそれで合っています。僕がこの計画を思いついたのも、教授がモスキート音とモスキートーンを聞き間違えたという話を聞いて実際にネットで探してみたんです。すると試しにモスキートーンで調べてみると、何やら裏サイトのようなものがあって、それを見ているうちに計画を立てました」

 と福間は言った。

「でもよくこのサイトから購入できたね?」

「ええ、元々モスキートーンだけではほとんど効果がないんです。他に音を噛ませることでその効果を発揮させるこtができるんですが、このモスキートーンに対しては、普通のモスキート音を重ねることで、今回のような事故を起こすことができるということでした。しかも、二つを重ねると、次第に音が消えていくようで、少しの間頭痛や吐き気を催すけど、すぐに慣れてきて収まってくるということだったんですね。モスキートーンもモスキート音と同じで、年齢が増していくと聞こえなくなるという特徴があって、だから、何か分からないけど、ちょっとの間苦しむというだけのはずだったんです。だからまさか、教授が倒れて、救急車で運ばれ、警察まで出動してくるという騒ぎになるなど思ってもいなかったんですよ」

 と言った。

「でも、教授が倒れなくても、これだけ大変な事態になれば、警察を呼ぶことだってあっただろう?」

「その時は、皆にモスキート音の話をしようと思っていました。中には他の音に共鳴すると、気分が悪くなるのがあるんだよって言えば、皆納得するかと思ってですね。何しろ教授だけが音を認識できないということで、モスキート音が原因であることは間違いないので、自分がそれを間違ってはいるけど解説をすることで、説得することはできると思ったんです。それなりの原稿も用意していました」

 と、福間氏は言った。

「なるほど、そうやって犯人を教授に仕立てようとしたわけだ。目的は教授の信用の失墜にあったのかな?」

 と聞くと、

「ええ、私は教授と自分の彼女である埋め財綾乃が不倫の関係にあるというウワサを耳にしました。実際に二人だけで会っているところも何度も見ています。彼女が教授の部屋を訪れたことも何度もありました。教授は彼女とのために、別に部屋まで用意していたようなんです。それを見た時、僕は頭に血が上りました。完全にウワサは本当のことであり、教授と綾乃に裏切られてしまった自分が情けなくなり、しばらく自己嫌悪から逃れられませんでした。僕は元々が暗いので、まわりからは僕のそういうジレンマのようなものがどこから来ているのか想像もつかなったでしょう。そもそも僕が悩んでいたなどと誰も気づいていなかったのかも知れない」

 と福間が言ったが、

「そんなことはない。君のその悩んでいる様子は、綾乃君はちゃんと分かっていたんだ。君のそのそもそもの間違いは、そのことに気付いてあげられなかったことではないかな?」

 と教授は言った。

 教授の言い方を聞いていると、自分を卑下しがちで、しかもそのことが自分を追い詰め、孤独に苛まれているように見える福間氏に対しての説教であり、叱咤激励でもあるように聞こえた。

 教授がここで彼を晒す気持ちになったのは、そのあたりにあったのかも知れない。

 もし、教授が誰にも言わずに犯人を門倉刑事にだけ指摘したとしても、福間氏が反省するとは思えない。犯罪者として警察に捕まったというだけで、彼の性格はさらにねじ曲がってしまうかも知れない。

 しかも、犯人を自分に仕立てようとした計画も失敗し、警察が介入してくるような事態を招いたのは自分のミスによるものだ。こんな事件を引き起こしておいて、まったく得るもののない福間氏を考えると、今後彼と何をどうして接していいのかを窮した教授は、敢えてここで彼を晒し、門倉刑事だけにでもその心境を分かってもらえたという意識を持って逮捕されることになる方がよほどいいと考えたのかも知れない。

 それは教授としての親心なのだろうが、犯人である福間氏がどれほど分かっているのかということが重要である。

「門倉さんは、今までのお話を聞いて、どう感じましたか?」

 と教授は話を門倉に振った。

「今回の事件はある意味誤解から始まって、しかもその途中で計画が崩れたこともあって、本人も反省しているんじゃないかと思いました。福間君は犯罪者としては計画がずさんだったと言えなくもないと思いますが、人間的には正直で素直なんだと思います。こうやって教授が私にだけ、こういう場を設けてくれた主旨を理解して、この事件の処理をしていこうと思っています」

 と言った。

「とりあえず、福間君はお渡しいたします。そして、私はこの被った被害を、代償してほしいなどとは思っておりません。福間君が反省をしてくれればそれでいいと思っておりますので、門倉さんの方でも、そのおつもりで対処願えればと思っています」

 と言った。

「分かりました。教授のお気持ちは私の方で察するようにいたしましょう」

「よろしくお願いいたします」

 と教授は深々と頭を下げた。

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