喪失と幸福

不可逆性FIG

喪失と幸福

 紫陽花が咲き始める蒸し暑い雨の日。

 その日は、俺のかつての同僚だった津崎の葬式は淡々と行われていった。

 受付で弔問客の欄に〈山野井〉と記帳し、塞ぎ込んだ親族の顔を横目に、遺影へと手を合わせた後はさっさと葬儀場を抜け出すことにした。死ぬにはまだ早すぎる……そう思いながら朗らかな笑顔の遺影が脳裏に浮かぶ。

 斎場から外に出ると蒸し暑い雨は未だ降り続いていた。傘を差し、駐車場までの道すがら津崎のことを俺はぼんやり思い出しながら歩く。俺より背が高いくせに猫背で頼りなく見え、普段は優柔不断なのに割りと美人な奥さんとスピード婚しやがったのだ。


 ────なのに。

 ありふれていて、くだらない死因だった。詳しくは訊いてないが津崎は交通事故に巻き込まれ、運転席がぺしゃんこだったらしい。

「お互いもう四十か。妻と娘を残して……馬鹿な男だよ、あいつは……」

 このときだけは、傘に当たる雨音だけがどこまでも無機質で優しかった。ぽつぽつと、穿つ音が感傷的になりそうな雑念を掻き消しているのだろう。さて、明日は仕事だ。ダメ元でもう一回、有給申請してみようか。いや、無駄だな。俺は大きなため息をつき、傘を畳んで運転席のドアを開けた。


 そして、紫陽花が満開になる頃、俺の人生は奇しくも大きく動くことになる。


*****


 外回りで疲れた身体と、茹だるような晴天には、ファミレスのクーラーがよく染み渡る。本日の最高気温は31度である。

「ふうん。臨死体験の質に変化あり、ねぇ」

 あまり褒められた趣味じゃないが、俺はオカルト系の与太話を乱読するのが好きである。その手の都市伝説はネットに腐るほど転がっているので、暇潰しには事欠かないのだ。

 なんでも、今までは美しい花畑と三途の川が定番だったが、ここ最近で臨死体験した人には違う景色が記憶されているらしい。しかし、肝心のオチであるその景色に関しては記載が無く、無駄に前置きの長いゴミ記事に思わずスマホに向かって舌打ち。

 思ったより音が大きかったのか、ちょうど横の通路を歩いていた女性が怪訝な顔を向ける。謝罪の意を込めて軽く会釈。すると、怪訝な顔のまま俺を何秒か見つめ、女性はこう呟いた。

「あー、思い出した。亡くなった津崎さんトコの人ですよね?」


 偶然だった。

 なんとなく立ち寄ったファミレスは昼休憩の看護師たちがよく利用する場所だったようで、入院していた津崎の担当だった彼女もここをたまに利用していたのだそう。お互い会計が終わり、レジ前の待合席で少し会話が生まれる。

「虫の息だった津崎の世話ありがとうございました」

「いえ、それも仕事ですから。でも、山野井さんも意識の無い彼に色々と呼びかけてくれてましたよね」

「ただの感傷みたいなもんです。あれは共通の趣味だった話をしてみただけですよ」

「というと?」

「なに、詰まらない趣味です。津崎と俺はオカルト系に興味がありまして──」


*****


 その週の日曜日、太陽が活発になる昼どき。

 結論から言うと、俺はよく知らない──正確には幼少期の頃なら知っている──女子高生の病室を訪れていた。有り体に言えば、お見舞いである。暇そうにベッドに座っている少女の首にコルセット、左足にはギプス。事故だけはしたくないな……と思わせてくれる痛々しい風貌。きっと向こうは憶えてないだろうから、まずは他人のふりをしていよう。

「こちら入院中のレイナちゃん。そして、あちらはレイナパパの友人の山野井さん」

 あの時の看護師が今日の仲介に入る。

「私、パパだなんて一度も言ってないし」

「……どうも、津崎には大変お世話になってました山野井と申します」

 事の経緯は、あの日のファミレスで看護師さんに臨死体験についての記事を語ったときである。

 彼女が「そういえば同乗してた娘さんも手術後、意識が戻った時おかしなこと言ってたかも」と零したのだ。多少、興味があるとはいえ、亡くなった友人の娘に会うおっさんというのは見栄えが良くない。断ろうとしたのだが、やや強引に話をまとめたがる彼女に押される形であれよあれよという間に、日程が決まっていた。

 そして今に至る。

「──敬語いらないっすよ。確か、酔っ払ったあいつ抱えてよく家まで来てた……ましたよね」

「ああ、そんなこともあったなぁ。そっちこそ敬語は無しでいいよ。津崎さん、でいいかい?」

「なにそれ。おじさんにとっての津崎はあいつだから、レイナでいい」

 ぶっきらぼうに答えるのは、猫みたいな少女だった。津崎に似て少しつり目。年の割に小柄な体躯。そしてなによりも目を惹くのは、金髪と黒い地毛が混じるプリンなミディアムロング。それが後ろで一本にまとめられている。耳にはピアス穴がいくつか。 ……うん、レイナはヤンキーだ。間違いない。

「で? 何の用でここに?」

 面白くなさそうに視線を窓の外に移すレイナ。

「んもぅ、せっかくレイナちゃんを心配してる人連れてきたのに、その態度はダメでしょ!」

「はは、別に気にしてないですよ。嫌ですよね、父親と同じ年齢の男ですから」

「山野井さん、ちょっと」

 俺は看護師に手を引かれ、病室の外に出る。消毒液のような独特な匂い、リノリウムとスリッパの擦れる音、点滴を持った人に道を譲り、廊下の曲がり角まで行ったところで彼女は頭を下げながら、やっと口を開く。

「ごめんなさい、本当はもっと優しい子なんです。見た目は少しアレですけど……でも、悪い子じゃなくて、少し不器用なだけで、その」

「気にしないでください。色々あったばかりで、心が疲れているんでしょう。それに嫌味のひとつくらいで腹を立てるほど俺だって子供じゃないですよ」

 明らかに俺より年下の看護師さんに謝られていると、なんだか立つ瀬がなくなってしまう。少し居心地の悪い沈黙の後、言い淀むような声音で彼女はレイナについて語り始めた。

「レイナちゃん、ここ最近いつも窓の外をぼおっと眺めていて淋しそうだったんです」

「見舞い客は?」

「意識が戻った直後は友達がちゃんと。でも、些細なことで八つ当たりをしてしまって……それから訪ねて来るのはレイナママだけだと思います。当たり前ですけど、あの人も色々と大変そうですし、お見舞いも週に1回だけで……私、レイナちゃんがこのまま塞ぎ込んでいくの、見てるのつらくて……」

 次第に彼女の喉が涙で灼けて、震え出す声が湿っていく。俺はその先の言葉を止めるために、肩に手を置いた。彼女は優しい人なのだろう。そうまでして患者を想ってくれる人に対し、薄情な態度が誰にできるだろうか。

「まあ、なんていうか、構いませんよ。俺なんかでレイナの気が紛れるなら」


 看護師さんは感謝を告げて、本来の仕事があるため持ち場へと戻っていった。そして、俺は気を引き締めて病室へと向かうのだった。

「遅い」

「なんだ、待っててくれたのかい?」

「別に──待ってなんかない」

 警戒されてるなあ、と思いつつ距離を詰めるには、モノで釣る方法が一番だ。ちゃっかり、外で買っていたコーラをベッド脇に置く。その瞬間、レイナの瞳が輝いたのを見逃しはしない。

「病院食って少量で薄味だよなぁ。そうなると、高カロリーで濃い味のモノ、欲しくなったりしちゃうよな」

「そりゃあ、まあ」

「バレないようにな、それ」

「え、くれるの?」

「看護師さんに言いつけないって約束できるなら」

「できるできる!」

 言うは速いが早速ペットボトルの蓋を開け、コーラをぐびぐびと飲み出す。そして、案の定というか見た目通りというか、盛大なゲップを隠しもせずに大音量で部屋中に響かせる始末。あの頃の可愛いレイナが、こうなってしまうなんておじさん悲しいよ……という心の声は押し殺して、小さなため息だけを静かに零した。

「そういえば、なんでさっき津崎さんなんて変な呼び方したの」

「ん、なにが?」

 動けないレイナはベッドの縁に腰掛け、俺はそばにあったパイプ椅子に座り、彼女の問いにすっとぼける。

「おじさん、私が子供の時はレイナちゃんって言ってたじゃん」

「なんだ、憶えてたのか。他人のふりして損した」

「憶えてますぅー。でも、あの頃よりもっとおじさんはおじさんっぽくなってるけど」

「俺はもう立派なおじさんだよ。それにレイナだって、俺が知ってる頃の見た目じゃないぞ」

 楽しそうに軽口を叩くレイナ。少し打ち解けてくれたのか、徐々に口数も増えてきて、俺は少し安堵する。なぜなら、この病室で見るレイナの、初めての笑顔だったからだ。

 憎らしいくらいに日はまだ高く、空は深く青い。どうせ帰るなら気温が下がってから、と考えて彼女の病室にもう少し居座ることに決めた。


*****


 それから俺は、レイナのお見舞いに週三ほどペースで通い続けた。さすがに頻度が高いかと思うのだが、あの看護師さんが回数を減らすことを許してくれないのである。一日中は居られないが、終業後は努めて早めに出向くようにしている。

 その甲斐あってか、今では俺の呼び名がおじさんから山さんに昇格していた。あと変化したことと言えば、俺が今どきの若者の流行りに明るくなったことくらいだが、これは別にどうでもいい。

 当初の目的だった臨死体験の記憶については、未だ聞けずにいる。まあ、当たり前だ。そこまでデリカシーの無い人間ではない。俺の目的など後回しでいい。まずは彼女の心が腐らず、紫陽花のように鮮やかで、向日葵のように健やかでいてくれたら──別にそれで。


「ねーねー、山さん。聞いてほしいことあるんだけど!」

「なんだぁ、藪から棒に」

 今日も今日とて、お見舞いである。

 人に逢うというルーティンが増えたことで、俺のほうにも日々に潤いが出来たような気がする。コンビニひとつにしても、レイナの好物について考えるようになった。娘がいたらこんな感じなのだろうか、という疑似体験は興味深く貴重なものである。

「私ね、やっとやーっと退院の許可が出そうになってる!」

「おお、本当か。良かったじゃないか」

「今、リハビリしてるんだけど、私って若いから骨の修復速度もそこそこ早いらしいよ? だから、先生がもう車椅子じゃなくて松葉杖だけで充分だろうってさ!」

 茜色に照らされたプリンな金髪がベッドの上で嬉しそうに跳ねる。

 あの看護師によると、最近は表情が豊かになったそうだ。それは俺が見てもわかる変化だった。よく話し、よく笑うようになったレイナ。 ──相変わらず、老化あるあるを俺に当てはめて小馬鹿にするのがツボらしいが、まあこれも別に構わない。

「若いっていいなあ。身体の芯から生命力が溢れてる感じで」

「なんかやらしー言いかた」

「どこがだアホか、素直に回復を喜んでるだけだろ」

 へへ、と舌を出しておどけてみせる。いつになく上機嫌だなと思った。そりゃそうか、やっと病院からオサラバできる機会が巡ってきたのだから。これからレイナは普段の日常に回帰していくのだろう。彼女を取り巻く環境は大きく変わってしまったが、きっと大丈夫なはずだ。あの明るい性格なら、すぐに休学のブランクは取り戻せるだろう。

 俺は珍しくテンションの高いレイナの話に相槌を打ちながら、そんなことをぼんやりと考える。

 ……あ、そうか。

 そんなことを考えていると、はっ、とひとつの結論に思い至ってしまう。どうしようもなく冷たく醒めた結論に。

 当然のことだが、退院すれば俺の役目は終わるのだ。寂しくないといえば嘘になる。しかし、あるべき日常に収束するだけ。そもそも、17と40に接点があるほうが歪だったのだ。

 これでいい。これでいいのだ。

 だから、今なら──。

「そうだ、俺からもレイナに訊きたいことがあったんだ」

「ん、なーに?」

 後から弁解するとしたら、魔が差したとしか言いようがない。それに打算もあった。

 もう心の傷もだいぶ癒えてきただろうと。だから俺は、俺がレイナに接触を試みた当初の目的を果たすことにしてしまう。

「事故があって、意識が戻ってくるまでの不思議な記憶があるって本当?」


*****


 帰り道は上の空だった。

 言うまでもなく、レイナの見てきた彼岸の光景をずっと反芻しながらぼんやりしている。彼女の口から出たのは、およそあの世には似つかわしくない光景。それは、薄暗くて果てしなく長いトンネルだというのだから。しかし、ネットで見た都市伝説の臨死体験も三途の川ではなかったと記載されてあった。ならば、もしかしてこれは真実だと言うのか? いや、まさか。

 そんな益体も無いことがぐるぐると頭の奥で渦巻いていると、目の前の現実が疎かになってしまうものだ。確かに俺は赤になった横断歩道で立ち止まり、青になったら歩き出した。そのはずなのに、確かに信号は青だったのに……青に変わったのに。

 突如として空想の世界を引き裂いた、けたたましい警告音。俺を照らす強烈に眩しいヘッドライト。アスファルトを削っていくブレーキの絶叫。置き去りにされたのは俺の眼前に対する理解、ただそれだけ。

 よくわからないが、俺の身体が何かに弾かれる妙な感覚がした。



 ────。

 ──。

 微睡み。

 暖かな無色。

 浮遊と降下。

 喪失感と幸福感。

 ここは、どこに、辿り着くのだろう。


「おーい、目を開けていいぞー」

 聞き覚えのある声が俺の意識を呼び戻す。まるで熟睡した後のように安定しないぼやけた視界。

「ここは……?」

「ようこそ、ここはリバーオブサンズの入り口だよ」

「その声、津崎か?」

「ご明察」と肩を叩かれて、声の主へと振り向くとそこには、遺影よりも老けてはいるが長身で猫背で若干のつり目が特徴的な同い年のよく見知った顔の男が笑っていた。


*****


 信じがたいことだが、どうやら俺は死んだらしい。死は誰しも平等に降りかかるとはよく言ったもので、こんなにも呆気ないとパニックになることさえ馬鹿らしく思えてくるから困ったものだ。

 蛍のようにゆらゆらと立ち昇る光の粒と、儚げで美しい花が群生する大きな道を俺たちはのんびりと歩く。

「しかし、死んだのはしょうがないとしてさ、どうして津崎が一緒に歩いてるんだ? 普通、先に逝った人は川の向こう岸で手招きするもんじゃないのか?」

「それ待ちの故人がたくさん居て混雑してるから諦めたよ。というか、別件で三途の職員に却下されたけどさ」

 しばらく歩いていると、木製の大仰な門が俺たちの行く手を阻む。守衛のような存在に津崎は許可証を見せると、門がガラガラと両端まで開いた。

「さあ、行こう。悪趣味の同志として是非見せたいものがある」

「崇高な趣味と言ってほしいね」

 なんとも言えない美しい光景を進むと、まるで三流の観光地のように情緒のカケラもない大きな立て看板が唐突に視界に入る。書いてあるのは味気のない書体で〈三途の川〉と、ただそれだけ。確かに大きく透き通った綺麗な河川である。しかし、周りを見渡しても言い伝えられてるはずの渡し舟が一艘足りとも見つからなかった。

「……思ったより閑散としてるのな。いや、あの世っぽいと言えばそれっぽいが」

「普段はもっと賑わってるそうだよ。でも、俺達は運が悪かった。いや、良かったのかな? なんにせよ、ちょうど昨年から三途の川の護岸工事が始まったらしいんだ。趣ある見栄えと安全性の確保のためのメンテだってよ」

 津崎は腕組みをして、呆れたようなため息で苦笑する。

「なんだそれ、ネズミ王国のアトラクションかよ」

「実際そうらしいんだ。死を理解させるには、こういうパフォーマンスが一番効くみたいでさ。ちなみに欧州や欧米あたりだと、装飾の多い大きな扉の前でホログラム投影された神様が素晴らしい説教をしてるらしい」

「なんか思ってたのと違うんだが」

 死後の世界といえども、現実と地続きなんだなと感慨にふける俺。知ることは死ぬこと。夢は夢のままが一番美しいというやつか。いやはや、なんというか……。


 その後も俺は津崎と川沿いを歩きながら会話に花を咲かせていた。思い出話、新たに仕入れたオカルト話、それから残された家族のことも。やはり、同乗していたレイナのことがどうしても気がかりだったようだ。一通り、話し終えると安堵した表情で深呼吸したあとに朗らかな笑顔を貼り付ける津崎。

「あー、久しぶりに山野井と話せて良かった。これで僕も悔いなく逝けるってもんだ!」

「なんだよ縁起悪い。って、もう縁起も何も無いのか」

「さて、次に案内する所が最期になる。ある意味、激レアだぞ」

 彼岸はこちらと表記された矢印看板の通りに進むと、いかにも裏道といった風情の空間に出る。錆び付いたフェンスや、苔の生えた灯籠、朱色の鳥居を通り過ぎて見えてきたのは、最近どこかで聞いたことのあるまさかの光景だった。

「──レイナはここに来てたのか」

「そうだよ、僕と一緒にこのトンネルを眺めてた。で、レイナだけは身体の外傷が少なかったから黄泉返りの権利を得たんだ。死んだのが僕だけで良かった。本当に……良かった」

 深く、深い吸い込まれそうなほど長い階段とトンネルがぽっかりと口を開けている。上の方から低く響く風の音が、いっそう物悲しい。

「レイナは順調に回復してたよ、安心しな。 ──んじゃまあ、俺たちもそろそろ行くか。三途の川が護岸工事じゃ仕方ないしな。この心臓破りの長い階段も登り切ったら極楽浄土でサライでも流れてくれりゃあいいんだけど」

 津崎と一緒なら俺も心強い。寂しさも無いというものだ。悔いはあるけども。

 しかし、津崎は俺の腕を掴み複雑そうな表情で果てしないトンネルを仰ぐ。そして、意を決した力強い瞳で俺を真っ直ぐに捉えて、静かにこう語りだした。

「いや、ここから先は僕だけだ。山野井はもと来た道を戻れ」

「何言って……俺たちは死んだんだろ。だったら」

「違う。お前はまだ死んでない。突っ込んできたあの自動車な、ギリギリでハンドルを大きく切って、そんなに山野井を轢かなかったみたいだ。だから、外傷は多少あるものの致命傷にはならなかったそうだよ」

 津崎は優しく全てを達観したような声音で真実を告げる。

「じゃあ、俺……」

「そう、黄泉返りの権利があるんだよ。はあー、僕はラッキーだなぁ。こんなにも短い間に、二人も見送れることができるなんて!」

 そんなことを言うもんだから、俺は年甲斐もなく視界が涙でぼやけてしまう。熱く迫る何かに喉が塞がれて声が張り付き、思うように言葉にならない。何度拭っても頬を伝う雫。津崎が俺の肩に手を置き、困ったように笑う。それがまた、ひどく儚げで──俺はまた涙が溢れてしまうのだった。


「あのさ、山野井」

「なんだよ、津崎」

「ん、いや……なんでもない」

「そうか」

「ああ、そうだ」

 もうこれが本当に最期なんだと、魂が確信する。きっと現世に戻ったらここの記憶は曖昧に薄れるのだろう。それでも、津崎のことは忘れたくない。心からそう思えた。

「じゃあな、山野井。レイナのことよろしく頼む」

「馬鹿言え、それは俺の役目じゃねえよ」

「ははは、まあ、そういうことにしとくよ」


 その会話を最期に俺の存在は光の中に吸い込まれて、質量を持った器に流し込まれる感覚がまとわりついた。


*****


 ────。

 ──。

 目が覚めると、ぼやけた視界には白い天井。それと心電図の音が頭の左上で鳴っていた。

 窓の外は明るく、柔らかで穏やかな晴天とマシュマロのような雲がぷかりと浮かんでいた。起き上がろうとして、足に力を込めると激痛が走った。慌てて確認すると、見たこともないような分厚いギプスと包帯が右足に巻かれ、がっちりと固定されていることに気付く。

「そうか、俺……生きてるのか……」

 独り呟く。意識を失っている間、何かを知った気がする。しかし、頭の奥がまだヒリヒリして、それが夢なのかどうかすらわからない。それと、大切な何かを喪失してしまった気もする。わからないことばかりで、考えることも億劫になる。


「あッ! 起きた! よかった……山さんおはよー。やっと起きたね?」

 声のするほうを振り向くと、松葉杖を携えたプリンな金髪の少女が笑っていた。彼女の目元が真っ赤に充血しているような気がした。その瞬間、俺はここがどうしようもなく現実なんだと理解して、何故か涙が零れそうになる。理由はわからない。レイナの声がする、それだけで嬉しかった。

「──レイナの言ってたこと、本当だったよ」

「ん、何が? まあ、別にいいけど。それよりさ、今度は私がお見舞いに来てあげる番じゃない? 私たち、お見舞いし合うとかマジウケるわー!」

 レイナの元気な声が病室に響いた。

 きっともう紫陽花の季節は終わったのだろう。梅雨の気配は空の遥か彼方に消えて、眩しい夏が来る。そんな予感が窓の外にジリジリと迫ってきている、そんな気がしている。生命力に溢れた瑞々しい夏が、もうすぐそこに。



 ……そして、レイナの小賢しい計らいによって何故か津崎の奥さんと独り身の俺がデートすることになったのは、また別の話である。



〈了〉

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