第3話 坂口刑事の過去
その日の捜査会議では、それ以上の詳しい話は出なかった。その日の会議はそこで終了となったわけだが、翌日になり、いよいよ容疑者の一人として浮上してきた川崎晶子の証言を得るため、坂口刑事はもう一人の刑事を連れて、署を出た。
今のところ、明確な殺意を抱いている人間がいるとすれば、川崎晶子だけなのだが、それも本人に聞いたわけでもなく、まわりのウワサによるもので、
「明確な」
という表現は、
「ハッキリしている」
という意味ではなく、
「他の人に殺意らしい殺意が見つからない中で、一番表に現れている殺意を持っているのが川崎晶子だ」
というだけのことだった。
彼女が付き合っていた彼が、被害者の行っていた詐欺に引っかかって自殺をしたということが事実であれば、それは明らかに殺意となりうるだろう。しかし、川崎晶子と彼がどれほどの関係にあり、さらに、どうして誰も知らないはずの詐欺行為を彼女が知り得たのかということも不思議だった。
いくら二人が付き合っていたとしても、まわりの誰にも水面下で動いていることを知らない様子だったのに、彼女だけが知ったというのは、彼から何か渡されていたからなのか、それとも、彼の遺品の中に何か自分にしか分からないものでもあったのか。
自殺とはいえ、警察も家宅捜索はしたはずなので、その時に詐欺に関しての記述があったのだとすれば、分かったはずである。それがどこからも発見されず、調書としても残っていないということは、彼女にしか分からない何かを彼は残していたということなのだろうか。
それを感じた彼女が、彼のことを気の毒に感じ、しかも自分を信じてくれたことで、彼の復讐を図ったとしても、それは無理もないことだ。
だが、何と言っても、女性一人で何ができるというのか。
相手は詐欺を働いている人間である。まさか一人でやっているわけでもないだろうし、できっこない。
犯罪というのは、人数が増えれば増えるほど、発覚という意味では危ないものだ。人数が増えるのは、強固になっているという意味合いもあれば、危険に晒されるという意味の両面があることから、一長一短あると言ってもいいだろう。
だが、それだけに、相手の警戒はかなりのもののはずだ。下手に一人で飛び込んでいけば、闇から闇に葬られるのも当たり前かも知れず、身元不明の女性の遺体が海から上がるか、それとも誰にも知られることもなく、東南アジアなどに金で売られてしまうか、そんな恐ろしい結末が待っているに違いない。
いくら相手の男を愛していたとしても、そこまで思い切るのであれば、自分だけが犬死をするようなことはしないだろう。彼の自殺の瞬間、逆上してナイフを手に襲い掛かるなどという衝動的な行動なら分からなくもないが、計画を持ってやることなら、少なくとも仲間がいないと成り立たない。
坂口刑事は、今までにそんな犯罪を腐るほど見てきた。そのたびに、苦虫を噛み潰したような気持ちにさせられ、嫌な気持ちになってきたものだ。
「詐欺なんて、どうしてやろうとするんだろうな」
と、考えたことがあった。
自分たちが私腹を肥やすために人を騙して。その人生を壊してしまう。たとえ殺害するわけではなくとも、悲観した人たちは、自らで命を落とす。客観的とはいえ、殺害に関与している詐欺連中にはまったくのお咎めなしだ。
そもそもお咎めが最初からあるくらいだったら、お上に訴え出るという方法もあるのだが。詐欺グループがそんなへまをやるわけもない。何しろ、やつらには法律の専門家がついているはずであり、法律を知らない連中にできるはずもない頭脳犯罪なのだ。
これを芸術のように表するやつもいるが、確かに鮮やかな手口は芸術的なのだろうが、そんなことで芸術という言葉を使うのは、間違いなく芸術への冒涜である。
そう思うと、坂口刑事は。まだ会ったことがない川崎晶子という女性がどういう女性なのか、自分の中で創造がついていないことが気になっていた。
彼も刑事の端くれなので、会う前から少々のその人の基礎知識があれば、大体の想像がつきそうなものだと思っていたが、今回はその想像力が働くような気がしなかった。まだ会う前から彼は、川崎晶子という女性に何らかの魅力を感じていたのかも知れない。ただそれがいい意味なのか悪い意味なのかは分かっていなかった。
――とにかく、彼女は自分の彼氏が詐欺に騙され、自殺させられた被害者でもあるんだ。取り扱いには十分に注意しなければ――
と、いう認識を改めて持った。
刑事というと、どうしても市民からは、
「人情味のない人たち」
というイメージが強く、事件解決のためには、どんな方法をも用いる人で、さらに、所轄違いということなどで、内輪でくだらない争いをする人たちというイメージを持たれていると感じていた。
実際に坂口刑事も、今までに強引な捜査を行ってきた。時には善意の第三者を事件に巻き込んでしまったり、まったく事件と関係のない人を犯人と見込んでしまったことで、強引な取り調べをしてしまったりということもあった。
刑事になりたての頃は、
「凶悪犯を捕まえるためには少々のことは仕方がない」
と思っていたが、実際に捜査をしてみると、警察の強引なやり方にひどい目に遭った人も少なくはないようだった。
いくら仕方がないとはいえ、凶悪犯を許すまじという信念と、一般市民の平和を守るという信念とがどうしてもジレンマを呼んで、悩んでしまうことも多かった。今ではだいぶよくなってきたが、それも自分の事件捜査の行き過ぎが招いたことであった。
あれは、刑事になってから一年が過ぎたくらいのことだっただろうか。朝の通勤電車の中で、不審な動きをしている男性がいた。その前にエコバッグのような手提げかばんを持った老人と言ってもいいくらいの女性がいて、どうもその男はその女性の懐を狙っているようだった。
冬の時期ということもあって、パーカーのような服を着ていて、半分フードを頭に引っ掛けたような様子がいかにも怪しかったのだ。
――人に顔でも見られたくないというような行動だ――
とでも見えたその姿は、坂口刑事の目をくぎ付けにした。
その時、坂口刑事は防犯課ではなかったので、刑事としては管轄外でもあったのだが、さすがに気が付いてしまったものを見逃すわけにもいかない。だが、坂口刑事は、その時、完全に盗犯についての基礎知識を知らなかったのだ。
いや、知っていたかも知れないが、警察学校で習ったくらいの知識なので、専門的には分かっていなかったのも仕方がないだろう。
盗犯というものは、基本的に単独犯というよりも、組織犯罪の方が多い。テレビでもよくある方法として、一人が実行すると、後はバトンを渡していくかのように、ブツをパスしながら、誰が持っているのか分からずに、結局、皆がグルなのだから、犯罪が露呈しても、捕まることはない。犯罪が露呈した時には、すでに犯人グループも現物も、その場から消え去っているに違いないからだ。
犯人グループは、一方向に逃げることはない。放射状に逃げるのだから、一人で捕まえようとするならばm一人をターゲットにするしかない。
もし捕まえたとしても、現物がないのだから、証拠があるわけではなく、相手から、
「刑事さん、どうしてくれるんですか? 何もしていない僕を捕まえるなんてどうかしていますよ。そんなことだから犯罪は減らないし、その分、冤罪も増えるんですよ」
と言って、嘲笑われるに違いない。
それは完全に屈辱である。自分はそんなことを経験したことはなかったので、坂口は気付かなかった。
しかも、その犯人と目される男は挙動が不審なだけで、度胸があるようには思えない。考えてみれば、集団犯罪が主流のスリに、単独で挑もうとするなら、その道のプロでなければいけないだろう。どう見ても、その男がプロに見えるわけもない。しかし、鼓動不審という先入観が若い坂口を盲目にしてしまった。
ちょっとしたはずみに電車が揺れた。坂口は、
「これはやったな」
と思い、そそくさと男に近づいて。
「ちょっとこっちへ」
と、小声で呼びかけながら、警察手帳を示した。
まだ、大声で彼を犯人扱いしなかっただけでもよかった。もし、ここで大声を出していれば、パニックになっただろうし、さすがにそこまでは彼は冷静さを失ってはいなかったのは不幸中の幸いだった。
しかし、電車から下ろして、彼の顔を見ると、真っ青になっていた。明らかに度胸がある顔にも見えず、いきなり警察に呼び止められたのだから、それは彼でなくともビックリするというものだ。何しろ彼には何も悪いことをしたという覚えがないのだからである。
その時に気付けばよかったのだが、もうその時は頭の中は彼が犯人であるということを疑う余地もなかった。
手柄を挙げたという意識もあったわけではなかったが、検挙できたことで、正義感のようなものが頭をもたげたのは無理もないことだろう。
そのまま駅の公安室に連れていき、身体検査を行ったが、彼が所持していると思ったものは何も発見されなかった。
彼はまだ怯えていた。その時初めて、坂口は自分が間違っていたことに気付いた。
―ーそうだ、こういう犯行は、集団で行うのが常だった。単独犯で行う場合はよほどのプロしかいないだろうが、最近ではそれもめっきり減っていると聞いている。こんな臆病を絵に描いたような男に、単独で窃盗が行えるはずないじゃないか――
と自分に言い聞かせた。
それは、後からきた窃盗犯専門の刑事からも、
「坂口さん、早まったことをされたようですね。彼は何も所持していないし、我々が把握している窃盗グループの中にはいないですね。早く帰してあげる方がいいですよ」
と言われたので、坂口は阿多あを深々と下げ、
「申し訳ございませんでした」
と陳謝した。
この時、先ほどの彼を呼び止める時に、こそっと行ったことが功を奏してきた。もし彼がマスコミにリークでもしたり、ネットで拡散でもすればどんな目に遭っていたかと思うとゾッとする。その点彼は、見た目に似合わぬ紳士だったのである。
そんなことがあってから、坂口は捜査にはより慎重になり、さらに考えられることをすべて考えてから、捜査に当たることを信条とするようになった。
ただ、警察としては、彼を一年間、もう一度交番勤務に戻すことにした。期限付きなので、また刑事課に戻ってこれるのは分かっていたが、そこでの一年間というものが、彼をいい方に変えてくれたのはよかったと言えるだろう。
交番にいると、一番一般市民に触れることができる。ちょっとしたことでも触れ合うことができるのはありがたいことで、道案内にしても、例えば近所で喧嘩があったりした時に駆け付けたりすることも、よく刑事ドラマの、
「駐在さんシリーズ」
などで見かけていたが、考えてみれば、それに憧れて、警察官になろうと思った子供の頃を思い出していた。
坂口刑事は、、今までにたくさんの犯人や被害者を見てきた。
犯人の中には、かわいそうなやつもいたし、被害者の中には、
「こんなやつは、殺されても当然だな」
と思うようなやつもいたりした。
要するに、
「表に出ている状況だけで、すべてを判断してはいけない」
ということである。
冤罪になってしまったスリの一件でもそうだ。スリ犯罪という基本的な考え方さえ頭に入っていれば、決して冤罪になんかなることはなかった。挙動不審というだけで犯人にしてしまうなどということが逆の立場だったら、どんな気分になるだろうか。そういう意味では挙動不審な人間なんて、大都会のスクランブル交差点を歩いている人に石を投げれば当たるというレベルのものではないかと思うくらいだった。
高校生の頃は、自分でも閃きもあり、理論的なことも冷静に積み重ねていけば、積み木を崩すように理論を組み立てられるという自負があった。その自負はずっと続いていて、自信となって自分の中でのいい部分として認識していたのだが、それが思い込みであったということを、冤罪を引き起こしてしまった時に気付かされた。
考えてみれば、警察学校に入学した時、自分のそれまで感じていた自信を、まわりのレベルを思った時、自分が自信過剰であったということに気がついてもいた。
しかし、そのことを深く考えず、まわりのレベルに染まっていくことで、その時に感じたことを忘れてしまったようだった。
それがよかったのか悪かったのか分からないが、少なくともあの時に何かもっと感じていれば、冤罪を引き起こすことはなかったのではないかと思うのだった。
坂口刑事は、その自分の思いを誰にも話したことがなかった。気持ちを通わせる友達がいないわけではなかったが、こんなことは人に話すべきことではないという思い込みがあった。
それが、坂口刑事を袋小路に閉じ込めて、それが蓄積してきたことで、あの時の冤罪となったことを、
「気付いてもいいはずだったのに」
と思いながらも、気付けなかった自分を責めていた。
責めることがいいのか悪いのか、よく分からなかった。
それからというもの、坂口刑事は、何かを感じた時、一歩下がって冷静に考えるようにした。
刑事という仕事は、確かに疑うのが仕事であるが、かといってすべてを疑ってしまえば冤罪を生んでしまうことも往々にしてある。
だが、冤罪を怖がって皆相手のいうことを信じてしまうと、犯罪者の思うつぼに嵌ってしまうということもあるだろう。それでは何のための警察官なのか分からない。相手の真意がどこにあるのか、それを理解できるだけの力を養う必要があるのではないかと思うのだった。
今度いく川崎晶子への事情聴取もそうである。
表に出ていることだけを考えれば、彼女が被害者に脅迫状を送っている。それを被害者は人に知られることもなく、自分だけの胸に閉まっていた。これは他の人にバレてはいけないという被害者自身に、悪びれた部分があるからなのか、それとも、身に覚えのないことなので、無視してしまおうという、まったくの逆恨みに近いものなのか、それによっても変わってくる。
もし、彼女が犯人だとすれば、どちらの場合も考えられる。相手を詐欺の本人だということであれば、そのまま仇討ちであり、逆に相手に身に覚えがなければ、逆恨みでしかないが、どちらにしても動機にはなりうることである。
一つの問題として、彼女がこの件について被害者と面識があるかということである。彼女がどれほど詐欺に信憑性を持っていたのかも問題であるが、直接この疑問を本人にぶつけてみたのだろうか。もしぶつけているとすれば、脅迫状の存在はどういうことになるのか。基本的に脅迫状というのは、相手と面識のない人間が出すものではないかと思っているが、それはただの先入観に過ぎないものなのだろうか。そのあたりも少し考えていた。とりあえず、会ってみないことには何も分からなかった。
川崎晶子のマンションは、被害者のマンションからは、少し離れていた。
車でも似十分近くはかかる場所で、その間に都心部があるので、都心から帰る時は、最初から反対方向になるわけだ。
朝の九時半、果たして彼女が在宅かどうか気になるところだったが、昨日会社に電話を掛けると、
「明日はお休みです」
という返事が返ってきた。
それならばと自宅に直撃を書けようというのだが、もし最初からどこかに出かける予定があるのであれば、もういない可能性もあったからだ。
彼女のマンションに来てみると、普通のOLが借りるに無理のない程度の感じが受け取れた。彼女は普通のOLであり、特別な感じもないのだろうと、坂口は思った。部屋は三階のようで、エレベーターで上がると、部屋の前から呼び鈴を押した。オートロックではないのは、女性の一人暮らしとしては、少し気になった。
「はい」
果たして彼女は在宅中だった。
「すみません。警察のものですが、少しお話を聞かせてもらえますか?」
というと、
「はい」
と言って、まだ部屋着を着て、化粧も施していない二十代後半くらいの女性が出てきた。
彼女は二人の刑事を見ると、キョトンとした様子で、どうして自分のとこりに刑事が来たのか分からないと言った表情だった。
――これが脅迫状を送り付けた女の態度なのか?
と坂口刑事は感じた。
「何かあったんですか?」
という彼女の最初に出てきたセリフは想像がついた。
「実は昨日、東雲研三という方が殺されたんですが、その件についてお訪ねしたくてですね」
と坂口刑事がいうと、
「え? 東雲さんが殺されたんですか?」
「ええ、昨日マンションで殺されているのが発見されました」
「まあ、それはそれは、ビックリしました。私は夕べからずっとこの部屋にいたので、そんなことになっているなんて、まったく知りませんでした」
彼女はそう言ったが、坂口は一瞬考えた。
――彼女の供述は暗に自分のアリバイを口にしているように思うが、殺害状況から考えると、いつ彼が死ぬか分からない状態にあったのだから、アリバイは関係ないことになる、彼女はそれを分かっていて、無意識を装うように話したのか、それとも、本当に気が動転して思わず自分への自己防衛本能から、アリバイを立証するかのようなセリフになってしあったのかのどちらかではないか――
と思えたのだった。
「とりあえず、ここでは何ですので、おあがりください」
と言って、彼女は部屋に入れてくれた。奥のリビングはやはり、昨日殺された東雲の部屋よりも一回り小さい感じを受けた。
「おじゃまします」
と言って中に入ると、彼女はそそくさとお茶を入れてくれた。
「川崎さんは、東雲研三氏をご存じですよね?」
と刑事がいうと、
「ええ、知っております。直接の面識はありませんが、ウワサは聞いております」
「どういうウワサですか?」
「あの男は表と裏があって、裏では詐欺行為を行っているというような話です」
「なるほど、詐欺というのは穏やかではないですね。どこでお聞きになったのかはわかりませんが、あなたが東雲氏を恨んでいるということはありませんか?」
と刑事が聞くと、一瞬動きが止まった晶子だったが、
「ええ、大いに恨んでますね。私が慕っていた男性が彼の詐欺に引っかかって、自殺してしまったんです。その人は私の恩人のような人でした。警察の方がこうやってお訪ねになってこられたということは、私のこともお調べになってのことですよね。それなら隠し必要もないですし、逆に聞いてもらいたいくらいですよ。そうですか、殺されましたか。でも私はその時このお部屋にいましたので、犯人ではありませんよ。一人ではなかったので、一緒にいた人に聞かれてみればいいです」
と言って、彼女はその人を紹介してくれた。
――ここまでアリバイについていうのだから、さぞや間的なアリバイなのだろうが、もし犯人であるなら、アリバイなんか関係ないことくらい分かりそうなものだけど、このアリバイの申し立てには何かあるのだろうか?
と、坂口刑事は考えた。
ただ、坂口刑事は今頭の中で少し彼女に対して同情的になっているのも事実だった。
――この人は、僕と同じなのではないだろうか?
坂口刑事も、自分が以前冤罪を引き起こし、まわりに迷惑を掛け、交番勤務にまでなったが、その時挫折せずにいられたのは、交番勤務の中で庶民の人たちとの間でのふれあいがあったからだった。
彼女にも昔盗癖があり、それを恩人と言っているブティックの店長がいたおかげで、立ち直ることができた。しかし、その人が詐欺という一番卑劣に思える犯罪に遭って自殺までしてしまったのだ。この怒りはどこにぶつければいいのか、苦しんだはずだ。
詐欺という商売は、卑劣極まりないと坂口は思っている。
殺人などでは、やむにやまれる理由があることも多い。怨恨であったり、相手を殺さなければ自分が殺される。殺されないまでも、自分にはまったく将来がないなどの理由も考えられるが、詐欺に関してはそんな理由はない。
自分たちが私腹を肥やすことだけが目的で、しかも、全面的に信用してくれている相手を完全にだますのが詐欺というものなのだ。
それだけに、裏切られた時のショックは計り知れない。
信じていた相手に裏切られることの精神的なショック。そして、財産を奪われたことでの生きる支えまでも奪われて、二重のショックから自殺を企てるという人も多いのだ。
自分から手を下しての殺人ではないので、詐欺が立証されて詐欺罪で訴えることができても、自殺を殺人として訴えることはできない。もっとも生きていたとして、犯人が捕まり、詐欺が立証されて彼らが獄中に繋がれることになったとしても、取られたお金が返ってくることはない。それを思うと、生きていたとしても、死ぬよりも苦しい思いをしなければいけないだろう。
死を選んだことは悔しいが、それを考えると、果たして自分なら、
「生きていれば、そのうちにいいことが」
などと、甘い言葉を掛けれる自信はない。
もし自殺をしようとしているのが分かっても、止めることができるのか、そのあたりも刑事としてというよりも、一人の人間としてどうなのかということを考えないわけにはいかなかった。
坂口はそんなことを考えていたが、果たして川崎晶子がどういう女性なのかを知るという意味で、聴いてみなければならなかったのだ。
ただ、彼女はわざと落ち着いているように見せたのか、最初から挑発的な態度で、開き直っているかのようにも見えた。それは我々た訪ねてくる前に、被害者が死んでいるということを確信したからなのか、それとも、彼の詐欺についての話だと思ったからだろうか。
もしそうだとすれば、脅迫状のことは彼が生きていれば、普通に考えると分かるはずがない。
「私は脅迫されているので、捜査してください」
と東雲自身が訴え出なければ、生きている東雲の家宅捜索などできるはずもないからだ。
もっとも、彼の詐欺についての証拠が固まって、家宅捜索令状が詐欺事件として出ていればありえないことではないが、もし今出るのであれば、それなりに誰かがリークでもしなければありえないことだ。そんなに簡単に尻尾を出すような連中ではないことは分かっていることだった。
「ところで、東雲さんについてはどこまでご存じなんですか?」
と刑事が聞くと、
「詳しいことは知りません。自殺した恩人の方の生前も、その名前は聞いたことがありませんでした。ただどうやら、詐欺に引っかかったのは、私のためでもあったようです。私だけというわけではないのでしょうが、お金を儲けて私のような非行に走った青少年を少しでも援助しようと考えてくれていたのは事実です。私が昨日ここで一緒に夜を一緒に過ごした女性も、元は私のように非行癖があったんです。でも、恩人の方のご助力で、立ち直った仲間なんです。昨日はその人を偲びながら、一緒に過ごしたという私たちにとっては神聖な日だったんです。そんな日に敵である東雲が死んだというのも私は運命を感じますね。気の毒だとはまったく思いません。当然のことだったと思うだけです」
「当然のことですか? じゃあ、脅迫状を送ったのは、あれは本気だったということでしょうか?」
と、ここで初めて脅迫状の話をしたが、彼女はさしてビックリする感じもなかった。
「もちろん、何かをしようという気はありません。刑事さんはそれで私がお金を揺すろうとしたり、殺しに関与したりと思っているのかも知れませんが、そんなことをしても、あの人が帰ってくるわけではありませんからね」
と言った彼女の顔は落ち着きに満ちていた。
彼女は殺しに関して。
「関与」
という言葉を口にしたのが、坂口刑事には気になっていた。
それはまるで、
「私は主犯ではない」
ということを匂わせているようで、もしそれが当たらずとも遠からじの発想であったなら、彼女は、
「犯人を知っているのではないだろうか?」
という思いが擡げてきた。
そしてその場合は彼女は自分が犯人であるわけはないと匂わせているようにも思う。
実際に彼女の言い回しは、彼女を犯人として指摘できるようなイメージではないのだった。
さらに、彼女は何もしていないという理由を、
「死んだ人が帰ってこない」
と言い切った。
もし、人を殺しているのであれば、そんな言い方はできないような気がしたからだ。恩人に対しての思いは並々ならぬものがあるだろうが、人を殺すという罪悪に感じて、彼女はそれなりに重さを知っているように思えた。それが、彼女の最後のセリフに含まれているようで、
――川崎晶子という女性は、思っていたよりもしたたかそうだけど、どうも殺人が平気でできるほどの人にはどうしても思えない――
と感じた。
人はいかに怨恨が強くて、殺人を犯したくもないのに、殺さなければいけないというジレンマに陥ると、何段階か超えなければ、実行にまではいたらないと思っている。川崎晶子の場合に限らず、人を殺すと覚悟したなら、殺すこと以外は何も考えられない瞬間がなければ、きっと人など殺すことはできないだろう。そこには罪悪感というものがあるからなのかまでは分からないが、
「彼女はひょっとすると、その悪魔の時間に入ることができる人なのかも知れない」
と感じてしまった自分を、坂口刑事は、
「これが刑事としての感情なんだな。実に因果なものだ」
として感じていた。
短い時間の訪問であったが、たったこれだけの話で、坂口は何かを得たような気がしてこれ以上聞いても、新たなことは聞き出せないような気がした。
「分かりました。またお伺いすることもあるかと思いますが、その時はご協力のほど、よろしくお願いしまう」
と言って、彼女の部屋を後にした。
「いいんですか? あの程度の事情聴取で」
と聞くもう一人の刑事に、
「いいんだ」
と言って、彼の顔を見ずにまっすぐに歩いていく坂口刑事だった。
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