第2話 二人の女
第一発見者が、被害者と深い関係にあったということは、彼の立場を微妙にしたのは言うまでもない。
昔から、
「第一発見者を疑え」
というのが、捜査の鉄則だというではないか。
刑事が事情聴取した時も、どこかしっくりこないところがあり、初めて死体を見たにしてはあの落ち着きようは、どこか違和感を持たせるに十分な気がした。
捜査本部では、まず第一に第一発見者の素性を洗うということから始め李、手始めに会社での社長のウワサや、社長を恨んでいるものがいなかったか、そして、怨恨でなければ、社長を死ぬことによって、誰が一番得をするのかということを重点的に捜査がされた。
その捜査方針を固める前に、まずは捜査本部が開設された時点での分かったことが発表されたのだが。
「まず、死因は毒殺でした。致死量を十分に満たしている毒薬ではあったんですが、どうも被害者はその薬を服用して結構苦しんだのではないかと思われるのです。即死とまではいかないまでも、毒殺するには十分な量を摂取しているにも関わらずに苦しんだというのは、どうも変だということを監察医の先生はおっしゃっていました」
「それは少し妙だね」
と各務原氏に事情聴取した刑事である、坂口刑事がそう言ったが、彼もその理由がすぐに分かるはずもなく、ただ、そのことをこれからしばらく気にするようになっていた。
捜査報告は続けられた。
「死亡推定時刻は、死体が発見されてから、死後八時間から十時間が経っているということでしたので、たぶん、昨夜の十一時から午前一時くらいの間ではなかったかということです」
という報告だった。
そして、現場を捜索した刑事が手を挙げてその話の補足を行った。
「夕べ被害者は、別に誰かの来訪を受けたような形跡はありません。台所の上は愚か、流しの上にも何も残っておりませんでしたから、片づけは夕食が終わってからだと見るのが妥当ではないかと思います」
「その心は?」
「社長は誰かが来たりした時は、必ずその人を接待するという意味で、片付けなどはその人が帰ってからしているようでした。しかもアルコールが好きなようなので、夜の来訪客と結構呑むことも多く、今までもほとんど朝までまともに片づけていることはなかったので。各務原さんが朝寄った時に、後片付けをすることも結構あったそうです。しかし昨日はそんな後もまったくなかった。だから、社長に来客があったというのも考えにくいということです。実際にマンションのロック履歴を見ると、昨日社長が帰宅してから、あの部屋に誰も出入りをした人はいないということでした」
という報告に、
「じゃあ、社長は自分で毒を飲んだということなのかな?」
「そう考えると辻褄が合います。社長は常用している薬もあったということですから、そこに毒薬を混入していたということも考えられるのではないでしょうか。社長のボディガードの人も、来客はなかったと言っていますので、ほぼ間違いないと思っていいのではないでしょうか」
そこで、捜査主任の門倉刑事が発言を求めた。門倉刑事は、筆者の小説を愛読の方にはお馴染みであろうが、冷静沈着な目を持って捜査を行うベテラン刑事であった。
「今の話を聞いていると、あまり個人のアリバイは関係がないかのようにも感じてきたね」
「どういうことですか?」
と坂口刑事が訪ねた。
「もし、彼の常用している薬の中に毒を混入したのだとすれば、被害者がいつそれを口にするか分からないわけだよね。ということは、犯人は被害者がいつ死んでもいいということになり、犯人自身もアリバイなど最初から考えてはいなかったはずだと思うんだ。そもそも彼が服用していた他のクスリから、毒物反応はあったのかね?」
という質問を受けて、監察医が答えた。
「いいえ、ありませんでした。ただ一つ気になることがあったんです」
「というと?」
「彼の足首にポツンと注射針の痕がありました。解剖所見からも、彼は麻薬の常習犯だったことが判明しています」
「なるほど、それでは、被害者が毒を摂取したのは、必ずしも口からだとは限らないということかな?」
「ええ、そうですね。吐血していたわけではなかったので、最初は分かりませんでしたが、注射による接種での中毒ということも十分にありえます。先ほど坂口刑事が報告していた件とも重複しますが、十分な致死量なのに、苦しみの痕が結構あったというのは、ゆっくりと摂取したことが原因という可能性もあるかと思います」
「分かりました」
と門倉刑事は、その話を聞いて納得したようだ。
「被害者は結構危ない橋を渡るような商売をしていたということでしたが、麻薬にまで手を染めていたということですね。第一発見者の各務原という男は、そんなことは一言も言っていなかったですけどね」
と坂口刑事は言った。
「意外とその各務原という男は、できるやつなのかも知れないな。まあ解剖すればすぐに分かることではあろうが、他のことはあっさりと認めたのに、麻薬のことは口にしなかった。そこには何か思惑があるのだろうが、それをこちらに悟らせないようにするために、わざと麻薬のことを口にしなかったのかも知れないな。やつは『木を隠すには森の中』ということわざを利用したのかも知れない」
と、門倉刑事が言った。
そこで今度は坂口刑事から、
「それでは、被害者の人間関係についてはどうなんですか・」
という質問に、そちらの捜査を受け持っていた刑事二人のうちの一人が手帳を見ながら挙手をして立ち上がった、
「ご報告いたします。我々で調べてみたところでは二人気になる女の存在がありました。一人は川崎晶子という女性で、彼女は被害者の男に脅迫状めいたものを送り付けています」
というと、
「脅迫状とは穏やかではないね」
と言われ、
「ええ、実は昨日の被害現場を家宅捜索したところ、被害者の机の郵便物の中から、その脅迫状が見つかったんです。別に隠す意図はなかったようでしたが、さすがにすぐに見えるような場所に保管はできなかったんでしょうね。それに本人も気になったからなのか、机の中に隠していました。その内容というのが、どうやら被害者が行った詐欺に対しての証拠を持っているということでしたが、脅迫しているわりには、具体的に何をしろという内容は書かれていませんでした。どうやら、また送るという内容のようです」
「それは郵送されてきたのかね?」
「ええ、消印は一週間くらい前のものでした。今の時代に脅迫状を郵送でというのもとはおもったんですが、何か意味でもあるんでしょうかね」
「なんともいえないが、それで、その川崎晶子という女性は何者なんだね?」
「どうやら、この詐欺の被害者の知り合いのようです。実際には詐欺事件は表には出ていませんので、警察にもその被害届のようなものはありませんでした。それというのも、彼女の知り合いの実際に被害にあったと目される人は、数日前に自殺を遂げているんです」
「それは脅迫状よりも後だということかな?」
「ええ、そのようですね。だから、脅迫状を送った時はそれほどの憎しみがあったわけではなく、怒りから送ったと思われます。でも本人に自殺をされて、一気に殺意が芽生えたとも考えられなくもないですよね」
「その脅迫状には送り主の名前は?」
「ありませんでした」
「どうして彼女が脅迫状を送ったと思ったのかね?」
「指紋を照合した時に彼女のものがでてきたんです。文面からは女性だということは分かりましたし、彼女の知り合いが最近自殺をしたというのも分かっているので、そこで結び付いたというわけですね」
「よく彼女の指紋だって分かったな」
「ええ、川崎晶子は以前、万引きで捕まったことがあって、指紋が残っていました。常習犯とまでは行かなかったんですが、その時の指紋との照合ですね」
「盗癖があったということか、彼女と自殺をした人との関係は?」
「自殺をしたのは、ある店のオーナーをしていた人で、どうも彼女が窃盗をした時に、その店長さんが許してくれたようですね。そこから店長を慕うようになったということです。それで今回の詐欺事件ということなので、彼女はかなり立腹していたということでしか」
「そういう事情なら、分かる気がするが、脅迫状というのは、思い切ったことをしたものだね」
「ええ、その通りですね。どうも、彼女は時々思い切ったことをする癖があるんじゃないでしょうか? 盗癖というのもその一つなのかも知れませんね」
「その自殺をした男というのは?」
「はい、ブティックを経営していて、経営方針は真面目で、決して詐欺にひっかかるようなタイプではなかったというのが、近所の彼を知っている人からの話でしたので、詐欺の内容がどういうものだったのかはわかりませんが、さぞやうまくやっていたんでしょうね」
「最近は、新手の詐欺がどんどん出てきているので、警察も手に負えなくなってきている。そんな状況なので、詐欺のアイデアを売って商売にしている輩もいるという話だが、本当に詐欺というものは卑劣な犯罪なんだと思うよ。人の人生を簡単に壊すことができる。殺人だって、人を殺すことに感覚がマヒした状態で、怨恨という意識だけで殺してしまう。そんな人だっているんだろうよ」
と言って、門倉刑事は大きくため息をついた。
「川崎晶子という女性からは事情が聴けたのかな?」
「いえ、ちょうどその日は休みだったようで、まだ事情は聞けていません。この後自宅に行ってみようと思っています。ただ、彼女の評判については、会社で聞くことができました。元々彼女が入社してきたのは、そのブティックの店長からの紹介だったようで、入社してまだ数か月のようなんですが、勤務態度は実に真面目だということでした。もちろん、同僚の人は彼女に盗癖があったということは知らないようですが、彼女の方でも真面目に職について仕事をするようになって、やりがいができたことで、盗癖がなくなってきたということなのかも知れませんね」
「そうですね。元々がそんなに悪い人ではないので、きっと彼女も何かのきっかけが自分を変えるということを自覚しているのかも知れません」
「でも、それだけに、恩人でもあるブティックの社長が詐欺に遭って苦しんだ挙句に、自殺を遂げたということを知れば、一途なだけに、何をするか分からないんだろうね。だから脅迫状を送り付けるというやり方をしたのかも知れないし。もしそういう性格だったとすれば、彼女はこの事件で重要参考人の一人として考える必要は十分にあるということだ」
「ええ、その通りです」
「ところで、もう一人女が浮かんだんだって?」
と聞かれて、今度はもう一人の刑事がメモを見ながら挙手をして、今まで話をしていた刑事と入れ替わりに立ち上がった。
「はい、そちらは私の方で調べてきました。今出てきた被害者が行っていた詐欺行為を裏付けることになるのかも知れないと思うのですが、被害者は表の会社以外に、自分の名前でもう一つ会社を設立しています。ここはどうやら幽霊会社のようで、どこかのマンションの一室を借りて、そこを事務所のようにしていたようです。事務所にはいつも一人の女性が常駐していて、代わりの人はいなかったようです。彼女が週に一度休む時はその日がその事務所も定休日というわけですね」
「本当に幽霊会社のようだね。その会社が彼が行っていたという詐欺行為に関係していたという事実はあるのかね?」
「そこまでは立証出来ていません。何しろ事務所にはほとんど使用らしきものは何もないようで、顧客リストのようなものもなかったんです」
「そこの事務所はいつから開設されたんだ?」
「実際に運用し始めたのは、本当につい最近のようです。まだ一か月も経っていないようでした。そしてこの会社の名義は被害者の名義にはなっていますが、実際に被害者がここに来たことはほとんどないそうです。代理としてきていたのが、各務原氏だということでした」
「その事務所にいた女というのは?」
「ええ、如月祥子という女性で、彼女は元々社長とは面識があったようです」
「ということは、引き抜かれたような感じなのかな?」
「ええ、元々はクラブでホステスをしていたようですが、そこを社長から、昼間のアルバイトをしないかと言われたそうです。電話番をするだけでいいということで、掛かってきた電話に対しても、一定のマニュアルにそって答えるだけでいいので、それができなければ、後から掛け直すと言って、連絡先をメモってくれているだけでいいということらしいんです。実に楽なアルバイトなんですが、結構いい給料をくれるということで、二つ返事で引き受けたそうです」
「なるほど、それが幽霊会社というゆえんなのかな? 幽霊会社というのは出羽がかかってきても、そこで即決するわけではなく、連絡のための中継でしかないという意味だね。そういうことであれば、事務所にほとんど何もなくとも分かる気がするね」
「そうですね。顧客リストなど必要ありませんからね。下手にあるのもおかしな話ですしね」
と、捜査本部でも皆がそう感じたことだろう。
「その如月祥子という女性はどうして、被害者に対して何か恨みを感じていたのかな?」
と聞かれて、
「これは彼女が夜勤めているクラブでの聞き込みだったのですが、彼女には被害者以外にもどうやらパトロンがいたようで、最初はうまく両方が被らないようにうまくやっていたようなんですが、どうやら被害者にうまくやっていたところを見抜かれたようで、少し厄介な立場になっていたということのようでした。そんな中で、被害者から昼間の事務を依頼されて、しかもそれを引き受けるというのは、どうも矛盾しているかのように見えるという話だったんです」
と聞くと、
「うん、それは何か妙だね。女性のそのあたりの心境はよく分からないけど、恨みを持っていないともいえない。でも、まだそれだけではかなり薄い気がするんだけどね」
というと、
「確かにそうかも知れません。でも、これはまた別の筋からの話ではあるんですが、この如月祥子という女、昨夜の事件の第一発見者である参謀と自認している各務原という男と何らかの関係があるということでした」
「それは男女の関係ということかな?」
「そうかも知れません、でも、そこまでハッキリとは分かっていないようでしたが。よく二人で密談のようなことをしているような話でした」
「それはクラブでかい?」
「クラブでは大っぴらにはできないでしょうが、やつが幽霊会社の事務所に行った時などではなかったんでしょうかね。ただ、この話には信憑性が薄いので、何とも言えませんが、どうもあの各務原という男を見ていると、それくらい何かがあっても不思議がないような気がするんです。何かを企んでいるようなですね。参謀という立場で甘んじてはいるけど、何か大きな野心を持っているのではないかとも思えますよね」
「確かにそれは言えるかも知れないけど、どうもまだ分からないことが多いというのが事実でしょうか?」
と言って、彼は着席した。
「ところで被害者の部屋の創作はどうだったんだい?」
と聞かれて。今度は鑑識が立ち上がって説明をした。
「事件現場は荒らされていたという感じもないですので、やはり薬を摂取後苦しんでの中毒死ということでしょうか? ただ、彼はあの部屋にあまり人を連れてくることはなかったんでしょうね。指紋はほとんど被害者と、参謀と言っていた各務原氏の指紋くらいしかありませんでした。それに一つの部屋はまったく使用していないんでしょうね。通路側の部屋にはほとんど生活反応のようなものは残っていないような感じでした」
「その部屋には何があったのかね?」
「本棚があって、本がたくさんおいてありましたので、書庫のような感じですかね。机がせっかくあるのに、書斎としても使っていなかったようです。もったいないような気がするくらいですよ」
「社長をしていると、そういうところがあるのかも知れないね。僕にはよく分かりませんが」
と、坂口刑事が茶化すように呟いた。
「じゃあ、各務原が泊まる時は、リビングだったということか?」
「そうかも知れません」
「どうも被害者はおかしな性格だったようだな」
「そうですね。ただ、被害者だけではなく、各務原という男もよく分からない男のようですよ。どっちもどっちということでしょうか?」
「とにかく、やつの部屋には、女を連れ込んでいるという気配はないということだな?」
「ええ、そうです」
「話を聞いている限るでは、何か朴念仁のようなやつにしか聞こえないが、女が嫌いだったのかな?」
「そういうわけではないと思います。実際に女性を他のマンションに囲っているという話も聞くので、どうやら自分の部屋に連れ込まないだけのようですね」
「奥さんはいないのか?」
「嫁さんは、ほとんど家にいて、あまり出歩かないと言っています。どこかに出かけるとしても、使用人として気が知れた人としか出かけないようで、世間一般の人とはあまり関わりになりたくないようですね」
「奥さんも変わり者なのかな?」
「そういえば奥さんに旦那が殺されたことを話すと、最初はすごく取り乱していました。それほど旦那を愛しているのかと思ったんですが、どうもそうではないようなんです」
「どういうことだ?」
「最初は、旦那を殺した相手を殺してやるというくらいまで逆上していたんですが、途中から急にしおらしくなって、今度はまるで自分が殺されるのではないかとばかりに急に怯えだしたんです。旦那が死んで取り乱すのは分かりますが、ここまで急変するのもおかしいと思うんですよ。しかも、途中から旦那が殺されたことよりも、次は自分が殺されるんじゃないかと言い出す始末、挙句の果てには、今度は自分が殺されるから、警察に守ってもらいたいなどと言い出すくらいなんですよ」
「それは厄介だな。だけど、最初の旦那のころを気にしている様子はウソだったということかな? 旦那のことよりも自分のことの方が気になってしまって、すでに旦那のことは、もうどうでもよくなったんだろうな」
「ええ、だから、そんな状態の奥さんから事情もなかなか聴くこともできずに帰ってきたんですよ。また日を改めて行ってみようと思ったんですが。この様子だと、次回も怪しいものかも知れませんね」
「はぐらかされるかも知れないな」
「ええ、正直、あの奥さんにはまいってしまいましたよ。確かにお金持ちのマダムなんてやりにくいだけですけどね」
「あの奥さんが何かを隠しているということはないかね?」
と門倉刑事は聞いた。
「いやあ、分かりませんが、あの状態で隠していることがあるとすれば、あの奥さんもかなりの女優ですよ。迫真の演技というところでしょうね」
この時の門倉刑事の考えは、実はまんざらでもなかった。奥さんが今後この事件の表舞台に出てくることもあるのだが、その時になって門倉刑事が今感じたことを思い出せるかどうかが操作のカギになるだろう。
「奥さんには、他に男がいるということもなさそうだね」
「そうですね、何しろ家に閉じこもりきりですからね。一緒に誰かと出かけるのも、気心の知れた使用人ばかり。しかも初老の爺さんと、女性だけですから、男性の影はありませんね」
ということであった。
「ただ、奥さんの様子が少し変だということは頭に入れておこう。金持ちの奥さんなんて何を考えているか分からないと考えるか、それともよほど、世間にトラウマがあるか、生まれてこの方ずっとお嬢様で育ってきて。表が怖いとでも思っているのかのどちらかではないのかな?」
と門倉がいうと、
「どちらもあるかも知れませんね」
と、捜査員が答えた。
「じゃあ、奥さんは旦那に何か疑問を感じていたりしないのかな? 少なくとも怪しい商売も手掛けているのだからね」
「見る限りでは、旦那に疑問を感じている様子はないですね」
「じゃあ、各務原とはどういう感じなんだ?」
「別に普通に社長の奥さんと、参謀というだけの関係のようです。奥さんはむしろ、各務原のことを嫌っている様子もありましたよ」
「ほう、各務原を嫌っている?」
「ええ、各務原の方にも奥さんへの気持ちはないようで、お互いに好き合っているなどということは、まずないと思えます」
坂口刑事はなぜ門倉刑事がそんなに奥さんにこだわっているのかよく分からなかった。彼も一緒に奥さんに遭ってみたが、奥さんというのは、やはり変わり者にしか見えず。それにいわゆる、
「世間知らず」
に見えた。
彼女の身の回りの世話をする連中が数人いて、それを取り仕切っている初老の男性が目を光らせている。どうやらこの男性は奥さんがまだ子供の頃からの養育係だったようで、奥さんが結婚してからも、いそいそと一緒についてきたというわけだ。
奥さんの方は、独身の頃から人嫌いだったようで、大学時代も友達はほとんどおらず、何が一番問題だったのかも本人にはよく分かっていない。
奥さんは大学時代に問題を起こして一度停学になっているが、どうやら誰かがうまく処理したようで、事なきを得たかのように復学できたが、さすがに事実を隠蔽することはできなかったが、実際に何があったのかは、後になって調べようとしても無理なようになっていた。
残っている資料の要領を得ないものだし、ただそのせいもあってか、余計なウワサや誹謗中傷が起こったのも事実だった。ただ、事実を隠蔽できるくらいなので、警察沙汰になるほどの大きな問題ではなかった。
後から巻き起こったいろいろなウワサの中にはえげつないものもあり、ただ、共通してのウワサは、
「どうやら、奥さんは大学時代に誰かの子供ができて、それをおろしたことがあるらしい」
というものであった。
もし、それがただのウワサであれば、誹謗中傷であり、許されるものではなかったが、どうやら事実のようだった。
もっとも、そうでなければ、いくらウワサとはいえ彼女の家の方でもここまで必死になってなかったことにしようなどと感じないはずだ。ウワサでは父親に対してもいろいろなウワサがあった。
「学校の先生ではないか?」
あるいは、
「家庭教師ではないか?」
などとあらぬうわさがあったが、ひどいものの中には。
「使用人の誰かではないか?」
「強姦されたのではないか?」
「まさか、実の父親ではないか?」
などと、ここまでくればさすがに許されるウワサでもなかった。
しかし、このウワサの中には、あまりにも強引にウワサを打ち消そうとした彼女の家のやり方に不信を感じた連中が勝手に言っていることであった。そんな彼女のウワサを聞きつけたマスコミが煽ったという話もあった。
彼女は本当に世間を怖くなったのはこの事件があってからだということは、紛れもない事実であろう。
奥さんは、今でも世間知らずであるが、被害者がそんな奥さんを愛しているわけもなく、結婚生活は冷え切っていたことは分かっていた。奥さんも旦那が死んで最初は取り乱しそうになったが。すぐに冷静さを取り戻してからは、まるで何もなかったかのようにしていたという。
「奥様は旦那様を失って失意のどん底におられるんですよ。少しは遠慮というものをなさい」
と、彼女の身の回りを一手に引き受けている老人がそう言って、警察を追い返そうとしたのを、
「爺や、私は大丈夫ですよ」
と言って、落ち着いた様子を見せて坂口刑事たちの前に姿を現した奥さんは、弱弱しそうに見えたが、どこか芯がしっかりしているようにも見えた。
――この人は見た目だけで判断してはいけない人なのかも知れないわ――
と感じたが。それでも、
「お嬢様」
という雰囲気を払拭することができず、世間知らずであることは、百戦錬磨の刑事が見れば分かることだった。
――この奥さんは何かに怯えている――
虚勢を張っているのは、あくまでも怯えを隠そうとするからだが。その怯えがどこから来るのか分からなかった。
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