第2話 公衆女子トイレ

 そんな時に、慰めてくれるのが典子だった。

 それ以外のまわりの人は、まるで腫れ物に触るかのように接してくるが、本当は触りたくないのが本音である。しかし、視線の先にうずくまった人がいて、それを無視していくなどという無神経なことをしては、まわりから何と思われるか分からないので、とりあえず触れるくらいのことはしてくれる。

 しかし、それはまるで汚いものを触るかのように、親指と人差し指の間でつまんでいるボロ雑巾のようだ。そんな状態でつままれても、自分が惨めになるだけだ。

 そんな中、典子も同じように腫れ物に触るような触り方ではあるが、決して汚いものを触っているのではなかった。弱っているものを、少しでも暖めてあげようとする様子が見られる、まるで飼い主に捨てられた子犬が、雨ざらしの中でビクビク震えている姿を。

「かわいそう」

 と言いながら、目は軽蔑の眼差しを上から浴びせているような世間の連中とは違い、典子はそっと抱き寄せて、そのままお風呂で綺麗にしてくれるようなそんな女性だった。

 典子と一緒にいると、時々、

――自分の惨めな姿を見て、悦に入っているんじゃないか?

 という妄想に駆られることがあった。

 何しろ彼女は、自分の人生を順風満帆に過ごしている。そんな彼女が自分のような、

「人生の落後者」

 に対して優しくしてくれるのは、

――俺のような惨めな人間を見て、自分がいかに幸せなのかということを感じたいがために一緒にいるのではないか?

 などという捻くれた考えを持つのだった。

 そんなことなどないことは一番自分が分かっているくせに、どうしてそんな僻みっぽくなってしまうのか、それが悔しかった。

 その悔しさを、事もあろうに、本人である典子にぶつけてしまっていた。

 典子は坂崎の苦しさを分かるのか、黙って耐えていたが、それがさらに坂崎を孤立されることになった。

 しばらくの間、二人はぎこちなくなって、お互いに一人になってしまった。

 坂崎はその間、一人で考えていたが、次第に落ち着いてくると、典子のことが気になり始めた。

――いくら自分が苦しんでいるからと言って、典子に当たるなんて、なんてことを俺はしてしまったんだ――

 と、後悔の念が襲ってきた。

 それまで見ようとしなかった典子の視線を見ると典子は自分を見つめてくれていることに気が付いた。

――どうして気付かなかったんだろう?

 その視線は、汚い子犬を風呂で洗ってあげるような視線ではなかった。

――私のことに気付いて――

 とでも言いたいのだろうか、その視線は今までにないくらいの熱視線であった。

 坂崎もどうして気付いてあげられなかったのか分からず、

――今からでも大丈夫だろうか?

 と不安に感じたが、考えるまでもなかった。

 明らかに顔色に変化があるのに気付いた典子の方から話しかけてくれた。

 会話は差し障りのないものから、次第に親密な話になっていく。しばらくの間ブランクのあったカップルとは思えない。ずっと最初からお互いに気遣い合っているカップルだったという意識である。

 紆余曲折があって、やっと結婚を考えたのが、坂崎が二十七歳の時だった。

「俺、全然売れていない作家なんだけど、収入ないので、働いてもらうことになるけど……」

 というと、

「分かっているわ」

 と、二つ返事だった。

 どちらからのプロポーズだったのか忘れてしまったが、お互いに気持ちを言い合った時があったことで、お互いだったのだろう。

 結婚してからは、家計を支えてくれるのは、彼女だった。典子は学生時代から坂崎のように作家だけを目指していたわけではないので、地元企業に就職し、普通に収入を得ていた。

 坂崎は、そんな彼女の収入を当てにする。そんな生活になった。

 途中、そんな立場に屈辱感を感じないわけではなく、分かっているくせに、すねてみたり、喧嘩になったりもした。仕方がないことではあったが、そんな時でも、最後には典子が折れてくれたので、いつもそこで事なきを得たのだが、そんな毎日にも、転機が訪れることもあった。

 あれはいつのことだっただろうか? 典子と結婚したのが三年前、あの頃が二十七歳だったので、三十歳になっていた。最初に小説で新人賞を貰ってから、そろそろ十年g経とうかとしていた。短いようで長かった? いや、長いようで短かった十年だったような気がする。前者はこの転機が訪れる直前に感じていたことで、転機を感じてからというもの、後者の方を強く感じるようになった。つまりは、人生の意識を反転させるだけの力を持った転機であったということだ。

 これは、坂崎が実際に経験したことで、自分の性格を顧みた時、その発想でミステリーが書ければと考えたことから、思いついたストーリーであった。

 場所は、いつも夕方になったら訪れる公園であった。次第に日が長くなってきて、ついこの間まで午後七時というと、まだ明るかったはずなのに、今ではもう六時を過ぎたあたりからまわりは暗くなってくる。

 坂崎は夕方という時間に、独特な感覚を持っていた。

 坂崎の毎日の生活は、ある程度決まっていた。朝は午前六時に目を覚ます。典子もすでに目を覚ましていて、朝食は典子だけが食べている。最初は一緒に食べていたが、元々目が覚めてからすぐは、食欲どころから気持ち悪さしかない坂崎は、独身時代は、朝食を抜いていた。それを知らない典子だったが、さすがに数か月一緒に暮らしていれば、朝食が坂崎にとって辛いということが分かってきたようで、

「じゃあ、朝は私だけが食べていくね」

 ということにしていたが、一緒に起きてから典子が出かけるタイミングで、坂崎も朝の散歩をするようになった。

「運動でもすれば、朝食がおいしいかも知れないわよ」

 と言われたのがきっかけだったが、言われてみれば、朝の散歩というのは、小説のアイデアという意味ではいいのかも知れない。

 さらに、パソコンを持ち歩けば、途中の喫茶店で執筆作業をすることもできる。せっかく表に出るのだから、ただの散歩だけではもったいないというものだ。

 これは今までの悪しきリズムを組みなおすいいチャンスでもあった。

「あなたがうまく行かないのは、いつも同じリズムを繰り返しているからなのかも知れないわよ」

と典子に言われ、

「いや、毎日が同じでないといいアイデアも浮かんでこない気がするんだ」

 というと、

「それは違うかも知れないわよ。自分がそう思っているだけで、それは怖っているからなのかも知れないわね」

 と、辛辣なことをいう。

 結婚してからの典子は、それまでの気を遣った言い方というよりも、どちらかというと、思っていることをズバッと口にするようになった。それまでの気を遣ってくれている感覚が強かっただけに、結婚してからの彼女の言葉には、ショックがあった。

 しかしそのショックはいい意味での刺激を与えてくれて、気付かなった何かに気付かせてくれているように思えた。

「朝、一緒に出掛けて、散歩するのも、刺激になるんじゃないかしら? 今まで見たことのない光景を見るのも一つの気分転換であるし、毎日同じことを繰り返していることを、適度に変えていくことも必要であることに気付くかも知れない」

 というではないか。

「確かにその通りだね」

 と言って、朝の散歩が日課の中に新たに加わった。

――これが、朝の通勤の時間帯なんだ――

 学生時代にはこの時間を経験したこともあったはずなのに、今は学生でもなく、社会人でもない。

 そんな中途半端な自分を顧みていた。

 その日の坂崎には、一つのアイデアが湧いていた。それは昨日の夕方に感じた思いで、それをミステリーとして描けないかと考えたのだ。ノートにメモしておいて、一晩どのようなストーリーにしようかと考えた。

 湧いてきたアイデアというのは、普段なら気にならないようなことで、目で見ていたとしても、スーッとやり過ごしてしまう光景だった。

 前日の夕方の散歩は、いつものように、日が暮れる寸前くらいの午後六時までに公園に入るという計画だった。思惑通りに午後六時近くで公園に入ると、まだその日は日が沈んではいなかった。そのおかげで、足元から伸びる影が最高に長いという光景に巡り合うことができて、

「秋が近づいてきた証拠だよな」

 と感じていた。

 児童公園というと、当然アスファルトのように舗装されているわけではないので、風が吹いてくると埃が舞ってくる。その日は思ったよりも風が強く、埃が舞っているのが分かったのだが、埃が夕日を反射するのか、視界が思ってよりも悪い気がした。

 こんな日は疲れを感じるもので、秋には結構あることだった。

――いや、秋ではない。夏の終わりのことだな――

 汗が滲んでくるほどではないと思っていても、ベンチで座っていると背中にはじっとりと汗が滲んでいる。昼間と朝晩の気温差は激しいもので、ずっと雨が降っていなくても、なぜか蒸し暑さを感じる。涼しいはずなのに、身体に熱が籠ってしまうことで、汗を掻くのだろうが、汗が籠る理由が見当たらない。それが、季節の変わり目の、想像以上に身体に負担がかかっている証拠なのかも知れない。

 昨日も、普段と変わらず、ベンチに座って公園内を見渡した。その日はすでに子供たちはいなくなっていて、

――まだ明るいのにな――

 と思ったが、たまにはこんな日もある。

 ひょっとすると、子供にとって見たいテレビがあったのか、それとも、親の都合で皆子供が引き上げることになったのかではないかと思えたが、とにかく年間には、何度かこんな日もある。

 あまり子供がギャーギャー騒ぐのも嫌だったが、一人もいないとなると寂しいものだ。風が吹くのも、人がいないことで空っ風が吹いているのかも知れない。それを思うと、

「まるで西部劇に出てくるゴーストタウンのようではないか」

 と思うのだった。

 だが、そんな時間は長く続かなかった。公園に誰もいない時間というのは、思ったよりも時間を長く感じさせるもので、自分が何かを考えていると思いながらも、無意識に過ぎ去っていくのを感じていた。

 思い出そうとしても、たった数分前のことであっても、何を考えていたのかすら覚えていない。

――どうしたんだろう?

 と思っていると、汗を掻いていないことに気付かされた。

 涼しさを感じてきたからだというわけではない。身体に熱が籠っているのは分かっている。こんな時は頭がボーっとしてきて、頭痛を感じてくるのであった。

 公園のベンチに座っていると、足元から伸びる影の長さをまたしても感じていた。自分の身体の長さだけではなく。近くに落ちている石からも細長い影が伸びている。

――前にも時々感じた感覚だな――

 と思ったが、小学生の時にも、よく夕方近く、公園に来ていたのを思い出した。

 友達と一緒に遊んだという思いよりも、一人でいたことの方が思い出としては強かった。確かに友達といるよりも一人でいる方が多かったような気がする。それはブランコが好きだったからだ。

 基本的に一人遊戯の多い公園の遊戯アイテムであるが、その中でもブランコだけは一人でやるものだった。

 ブランコに腰を掛けて、足で蹴り上げるように動かせば、後は腕の伸縮で、動きをコントロールする。前に突き出した時、後ろまで引っ張られて、前につんのめるように動き出した時に、顔に当たる風、身体が宙に浮いてしまう感覚を自分一人で作り出していることに喜びを感じていた。

――これがブランコの醍醐味だ――

 と思っていると、敢えて友達がいない方が楽しかった。

 ただ、一つの難点が、

「ブランコというのは、風を切るような爽快さ」

 を味わうことができるのに反して、泊ってしまうと、身体に溜まった熱が一気に噴き出してくる。汗も掻いていなかったはずの身体から汗が噴き出してくるのだ。

 汗が乾いてくれば、身体がドンと重みを感じるようになり、何をやっても億劫になってくる。それがブランコの弊害だった。

 汗を掻いている時はいいが、汗を掻かない日には、完全に籠ってしまった熱さは熱となって籠ってしまい、それは頭痛となり、体調を崩してしまう原因になった。

 子供の頃はよく熱を出していて、年間何回か高熱で学校を休むことがあった。

 たまにであれば、学校を休むというのも悪くないと思っていたが、実際に休んでいる間の昼前くらいに熱が下がって体調がよくなると、せっかくよくなったのに、表に遊びにいけないことが切なかった。自分で後ろめたさもあったのだ、

「朝は熱があったのだから、Sの日一日学校を休むくらい、別に悪いことではないはずなのに、どうしてこんな罪悪感に苛まれなければいけないんだ?」

 と感じた。

「学校をたまになら休むくらいは、別にいいではないか」

 と思っているくせにである。

 公園で埃が舞い、日の光で煌めいているのを見ると、綺麗だと思う反面、身体に蓄積されていた疲れが噴き出してくるようで、それが辛かった。

「このまま帰ってしまおうか?」

 と、、身体に疲れを感じた時に思ったのだが、身体の気だるさのせいで、身体を起こすのもきつかった。

 立ち上がる時に、立ち眩みを起こしそうで、その思いから、なるべくじっとしていて、体力の回復を待つことにした。

 首くらいは動かしてもいいのだろうが、首スラ動かすのがつらかった。ベンチのちょうど前には遊戯用具はなく、ちょうど遊技場の切れ目になっていて、その向こうがちょっとした森のようになっていた。

 そこには昔からトイレがあったのだが、坂崎はほとんど利用したことがない。正直あまり綺麗ではなく。利用している人をほとんど見たことがなかった。

 男性が少し用を足すくらいであれば、それほどのことはないのだが、それ以外で使用するのは少し気持ち悪い、きっと個室には品のない落書きが残っているのではないかと思えるほどだった。

 それでも、男子便所と女子便所の間には多目的トイレが用意されていた。あまり綺麗とは言えなかったが、あるとないとでは大きな違いだ。どうやら託児ベッドもあるようで、授乳もできるようになっているようだ。作った時にはそれなりに綺麗だったのだろうが、今では見る影もないのかも知れない。

 以前に、多目的トイレを利用してみようかと思ったことがあったがやめた。想像以上に汚くて、利用する気にはならなかったのだ。

 だから、公園に来ても、そこにトイレがあるという意識があるだけで、よほど急を要さない限り使うことはないと思っていた。

 実際に、固執の扉が閉まっているところを見たこともない。たまに多目的トイレを使用している人がいるというのを感じるくらいだ。

 sの日も、同じように、

――どうせ、誰も使う人などいないだろう――

 と思っていると、一組のカップルが多目的トイレに近づいていた。

 男性はあたりを気にしていたが、女性の方はモジモジしている。男性がキョロキョロしているのを見ると、坂崎は男と顔を合わせたくないという意識から、目を逸らしていた。

 意識していないと、相手には分からないもののようだ。特に挙動不審の人間は、相手も必要以上に気を遣っている人でなければ意識をすることがないのだろう。その男は坂崎に気付かなかったようだ。

「真正面にいて、気付かないなんて」

 と思ったが、それほど急を要するとでもいうのだろうか。

 男は女を自分の身体で覆い隠そうとでもしているかのように庇うようにして、多目的トイレの中に消えていった。

 そのスピードは鮮やかなくらいで、まるで幽霊がスーッと壁に消えていくかのように見えた。

――幻なんじゃないか?

 と感じるほどで、前を見ると、施錠中のランプがついている。

 視力はいい方だが、普通ならこの距離でランプが見えるなどということを感じたこともないはずなにに、よくも分かったものだ。

 坂崎は公園に来るようになって、夕方の時間配分には、かなりの自信があった。

「逢魔が時ですら分かるのではないか」

 と思うほどだった。

「公衆トイレに男女が一緒に入る……・」

 何という淫蕩なシチュエーションであろうか。

 やることは決まっていると思うと、もうそこから先は、妄想の世界だった。

「どっちが欲情したんだろう?」

 と思ったり、

「何でラブホテルに行かないんだ?」

 と思ったりもした。

 ラブホテルに行かない理由をいくつか考えてみたが、一つは金がないからという考えだった。

 これが理由としては一番現実的な思いだが、リアルさという意味では違う。この場合のリアルさは、生々しさであり、淫蕩な臭いがしてきそうなほどの厭らしさであった。そういう意味でのリアルさでは、またいくつかに分かれてくる。

 一つは、

「ホテルまで我慢ができなくなった」

 という思い、さらには、

「そんなに時間がない」

 という思いである。

 男の方の仕事の問題か、あるいは女の方が子供を迎えにいかないといけないであったり、旦那が帰ってくる前に帰宅する必要があるなどである。そして、もっと生々しい感情としては、

「見られたり、聞かれるかも知れないトイレでの不倫は、これほど羞恥に満ちたものはなく、興奮してしまう」

 という思いである。

 ここまで来ると、一種の変態なのかも知れないが。一番人間臭い行為として我慢できなくなってしまったのだとすれば、無理もないことに思えてくる。特に最近では欲情すらすことのなくなってしまった坂崎にとっては、羨ましいくらいであった。

 もし、一番最後に感じた思いが当たっているとすれば、見たやるのが礼儀のような気がしたが、今から近寄って覗くというのは、さすがに気が引けた。最初から覗きをするつもりであればかなりの浴場の場面なのだが、この場面で思い浮かべるのは、

「覗きをしている自分を客観的に想像することができる自分がいる」

 ということだった。

 そう思うと最初から頭の中は冷めていた。それだけに、余計な想像が頭を巡っているようだった。

 覗きというのは、実に興奮させられる。覗きというのは見るだけではなく、聴くというのも、その興奮を倍増させるものなのかも知れない。

 小説だってそうではないか。マンガやドラマのように、映像を介しているわけではなく、あくまでも想像することが命なのだ。

「映画やドラマを先に見て原作を読む分には、さほどの違いは感じないが、原作を読んで、映画やドラマを見ると、映像作品が原作には絶対に適わないということが分かってくる」

 と言われることがあるが、まさしくそうだろう。

 そういえば、昔映画のキャッチフレーズで、

「読んでから見るか、見てから読むか」

 というものがあった。

 そのキャッチフレーズを聞いて最初に感じたのは、

「それほど映像作品に自信があるんだろうな」

 という思いだった。

 正直に言って、どんな映像作品であっても、原作には絶対に適わない。なぜなら原作は想像力を発揮しないと、まったく内容を把握することができないからだ。

 この場合は映像作品と原作という境界を超越している感じがする。想像は妄想に膨れ上がり、妄想は自分の身体を反応させる。

 見えてもいないのに、その情事の光景が頭に浮かび、聞こえてもいないのに、その生々しい声が、耳に入ってくる。身体が反応しない方がおかしいというものだ。

 ベタなAV作品で、企画ものなどでは、覗きや盗撮をテーマに出来上がった作品も多い。さっきの二人も、映画の撮影ではないかと思うほどだったが、まわりを気にしているわりには、映像作品ほど、露骨に気にしている様子はない。やはり映像作品では、見ている人にも出演者と同じ感情を与えるくらいのつもりで撮影されているに違いない。

 そんなことを感じながら見ていると、次第に何も想像できず、何も聞こえてこなくなっていった。

「こんなにも生々しい状況なのに」

 という思いだったにも関わらずである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る