続編執筆の意義

森本 晃次

第1話 売れない作家

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。ご了承願います。


 世の中というのは、うまく行っていない時はとことんうまく行かないものだが、うまく行くようになると、不思議とそれまでのことがまるでなかったことのように思えてくるから不思議である。

 それまでの自分とはまったく違う人物になったような気がするのは、実に爽快なものである。

 だが、逆に落ち込んでしまう時もまたしかりであり、まったく違った人間になってしまった気分になるのではなく、まったく違った人間になってしまいたいという逃げの心が働くからに違いない。

 坂崎重利、今年三十歳になった彼は、高校生の頃から小説を書くのが好きで、ずっと書いてきた、大学でも文学部に進んだのだが、三年生の時に応募した新人賞に入選したことで、デビューすることになった。

「下手な鉄砲数撃ちゃ当たる」

 とばかりに、徹底的に描きまくって、いろいろと投稿を重ねてきた。

 同じ作品を別の新人賞に応募することはできないが、一人の作家が別の作品を同じ新人賞に応募することは、よほど応募条件が厳しいところでない限りは問題ない。

 つまり、書きまくれば、応募作品がたくさんできるというものであり、理屈的には自分が選ばれる可能性は高まるというものだった。

 本人は駄作だと思いながらも、

「優秀作品の判定ができるような人って、本当に存在するのだろうか?」

 と思っていると、

「いくら、自分で何度も吟味して優秀だと思ったとしても、選考委員の意にそぐわなければ駄作に見られるだけだ。だからといって、選考委員の好みの作品を調べて、それに似合う作品を仕上げたとしても、その人たちは最終選考でしか目を通さないのだから、そこまでに落選すれば、本末転倒だ。いくら研究しても、無駄でしかないのだ」

 と、言えるのではないだろうか。

 そういう意味で、いいのか悪いのか分からないまま、

「とりあえず、納得した作品」

 というものを作って応募しまくったのだ。

 すると、運がよかったのか、実力なのか分からないが、うまく引っかかって、新人賞には選ばれなかったが、準優秀作ということで、佳作扱いとなり、一応の賞金と受賞作を掲載してもらえることになった。

 出版社から、

「専属ということで、契約しないか?」

 と言われて、いくつかの作品をその後、掲載させてもらえたが、それも三作品くらいまでで、それ以降は、たまに原稿に穴が開きそうな時、声がかかる程度の、

「売れない小説家」

 になっていた。

 とりあえず大学だけは卒業できたが、何とか作家として名前だけは残っていて、やはり姿勢は、

「質よりの量」

 という意識が強い。

 出版社の編集者がそのことを分かっているのかどうかまでは分からないが。何度小説のネタを書いて送っても、ボツになる状況が繰り返されている。

「坂崎先生の作品には、一本筋が通っていないんですよ。これぞ坂崎という代表作になるような作品ができればいいですがね」

 と、何か一本、筋が足りないということを理由に、毎回小説のネタが却下されていく。

 坂崎が応募した頃、ジャンルに共通性はなかった。SFやホラー系のファンタジーモノや、恋愛系のようなベタなものまで書きなぐっていたと言ってもいい。しかし、広範囲のジャンルが書けるというのも強みだと思っていたが、編集部から言わせると、

「それは器用貧乏と言ってもいいもので、せっかくの長所を短所が押し殺してしまっているに過ぎない。短所は長所のすぐそばにあるものだから、気付かないのも当然なのかも知れないが、自覚しておかなければいけない部分だ」

 というではないか、

「長所と短所をですか?」

「そうだよ。どちらかではダメなんだ、プロとアマの違いは、両方を自分で把握できているかどうかというところなんだ」

 と言われた。

 とにかく、坂崎重利は中途半端な男だった。小説家としても、プロというのは、あまりにも売れていない。今までに出した本も、最初の二作目までで、後は原稿の依頼もない。かと言って、他の出版社へ話を持っていくわけにもいかない。専属契約を結んでしまったからだ、これを解除すると、もうこの出版社からは二度と契約をしてもらえなくなるし、他の出版社に原稿を持って行ったからと言って、出版してくれるとは限らない。しょせん、一発屋という程度の作家でしかなく、知名度も作品の評価もないに等しかった。

 もし、万が一作品を扱ってくれたとしても、専属契約のようなことはなく、その作品だけであとは素人と同じ扱いでしかない。しかもせっかくの専属契約を作家の方から一方的に破棄したとなると、出版社側からしても、

「出版社を裏切った男」

 というレッテルを貼り、それこそ、二度と作品を掲載してくれなくなってしまう。 そうなると、作家としては致命的だ。

 今のままでは、出版社による、

「飼い殺し」

 ということになるのかも知れないが、他に移ったり、自分から営業をすることなど適わない。

 それだけ、彼が中途半端であるという証拠であろう。現状に甘んじながら、とりあえず上を向いていくしか彼には手はないのである。

 そんな坂崎も、小説を諦めようと思った時期もあった。しかし。いまさら諦めて、では何をするのかと言われると何もできない。

 学校で他の勉強をしたわけでもない。いまさらどこかの会社で仕事をしようにも、そのノウハウも力も何もないのだ。彼が、

「中途半端」

 だと言ったのは、そういうことである。

 そんな彼は、コンビニのアルバイトをしながら、その日暮らしのような感じの毎日だったが、小説を書くことは辞めなかった。

 確かに、小説家としては、辛酸を舐めてきたので、屈辱感を嫌というほど味わっていて、これほど気色の悪いと思える気持ちもなかったが、そんな中で、ある日ある時急に、

――俺は小説を書いてきてよかったんだ――

 と感じることがある。

 他の人にはできない本を出すこともできた。出版社の人から、一応「先生」とも言われている。

「一発屋」

 と自分でも豪語しているが、まわりからもそう思われている。

 しかし、彼が思うのは、

「一発屋で何が悪い。一発も当てることができなかったやつがごまんといるいるのに、俺はその一発を当てたんだぞ」

 ということであった。

 そう思うことができるからなのか、急に自分が小説家であるということを思い出すのだ。あまり長く思い出していると、今度は情けなさが自己満足を支配してしまい、屈辱感に包まれてしまう。このギャップは耐えられるものではない。いつの間にか、そのギャップを感じなくてもいいようなテクニックを身に着けたのか、坂崎は自分をコントロールできるようになっていたのだ。

「俺は中途半端なのだ」

 という意識があるから、ギャップに悩むことがなくなったのかも知れないと思うと、微妙な気分にさせられるのだった。

 ただ、年齢的にはもう三十歳を超えていた。そろそろ何かにけじめをつけなければいけない年齢なのかも知れないと思ったが、何にけじめをつければいいのか分からない。一つを崩してしまうと、すべてが崩れてしまうのを分かっているので、余計なことをするわけにはいかない。一角を崩そうとすると、すべてが瓦解してしまうことは、誰が見ても明らかなことなのだ。

 とにかく今できることをするしかない。そのうちに何か思いつくのを待つしかないという楽天的で客観的な自分を作り出し、言い聞かせるしかない毎日は。実に苦しいものだった。

「何が間違っていたんだろう?」

 言い聞かせてもそれに答えられるだけの力を持っているわけではなかった。

 そんな坂崎という作家であったが、実は彼には奥さんがいた。名前は典子という。自分が売れていないことは自覚していて、

「結婚などできるはずなどない」

 と思っていたはずなのに、今から三年前に結婚したのだった。

 その奥さんとは、大学時代からの友達だった。大学の三年生になった時、彼が所属する文芸サークルに入会した。その頃はまだ、

「書いては応募」

 を繰り返していた坂崎は、サークルでは部長のようなことをやっていた。

 部員自体は十名ほどしか実際の活動はしていなかったが、名前だけはさらに同じ人数くらい所属していることになっている。

 このサークルはサークルの実態に参加して、サークルの運営から企画、さらに機関誌発行などという実務的なことに携わりながら、自分でも創作活動を続けるという。ドップリサークルに浸かった人と、サークルの活動には一切参加せず、機関紙などに掲載を行うために部員としての名前を連ねているだけの部員がいる。

 普通のサークルであれば、前者が本当に実際の部員で、後者は幽霊部員ということになるのだろうが、部費としてサークル活動に必要なお金を供出してくれるという条件でよければ、幽霊部員もありがたく受け入れていた。

 最初は坂崎も前者だったが、三年生の途中で、新人賞入賞などということになり、出版社と専属契約を結んだことで、部の運営はできなくなってしまった。とりあえず籍だけ置いておくことになったのだ。

 彼女はそんな坂崎を尊敬していた。入部した時から、彼の熱心さに一目置いていたこともあって、自分で勝手に彼の弟子のような気持ちになっていた。

 いつもそばにいるような存在だったが、典子の気の遣い方がうまいからなのか、それを意識させないところがあった。気が付けば甘えているような関係なのに、恋愛感情が浮かんでこない。そういう女性だったのだ。

 典子は、中学時代の思春期の頃から、男の人を好きになることが多かった。それもいつも年上で、最初は一年生の時に三年生の先輩。三年生というと受験の時期なので、

「邪魔してはいけない」

 という意識から、好きで好きでたまらない気分になっているのに、近づけない自分に苛立ちを感じながらも、それと同時に、自分にいじらしさも感じていた。そのいじらしさがあることで、相手に自分の気持ちを押し付けることもなく、相手もその気持ちに気付かないという相手にとっては都合のいい関係になっていた。

 典子自身も、それでいいと思っていたようで、その後に好きになったのが担任の先生だったが、先生ともなると、さらに経験上、少しでも自分の気持ちを言えば、相手に与える迷惑はハンパではなく、自分も身の破滅になってしまうとまで思っていたので、密かに見守るだけになってしまった。

 そのおかげで先生も心地いい気分にさせてもらっていたが、それが典子から与えられるものだということが分からないくらい、典子の態度がさりげなく、そして嫌味のないものだったのだ。

 そんな性格が完全に思春期の間で身についてしまい、大学に入学するまで、ずっと大人しくしていたが、心の中で切ない気持ちになったことは結構あったようだった。

 もちろん、典子がそういう性格だということを誰も知らなかった。

「都合よく付き合える相手」

 という認識もまわりの人にはなかった。

「一緒にいて居心地がいい」

 ということで、まるでハンモックに乗っているような心地よさに違いないが、都合のいいという意識がない分、逆に典子のことを彼女にしたいという気持ちを相手に起こさせることはなかったのだ。

 そのこともあってか、典子には今までお付き合いした男性がいなかった。好きになった相手であっても、

「憧れの人」

 というところで自分の気持ちを抑えてしまい、それ以上突っ込んだ気持ちになることはなかった。

 そんな典子が大学に入学してきて、最初に気になったのが、坂崎だったのだ。

 大学というところは高校までとは違い、典子にまったく違った世界を見せてくれた。遠慮と言う気持ちはどうしても頭から離れないまま、解放的な気分になって入学した大学は、話に聞いていたよりも、相当解放的だ。それまでの自分とまったく違った生活ができるような気がして、ワクワクしていた。

「どんな毎日が待っているんだろう?」

 大学というところにオアシスを感じたのだ。

 典子自身は、小説を書くというわけではなかった。元々は絵画が好きで、絵を描くサークルに入ろうかと思っていたようだが、美術系のサークルはなく、文芸の中で、挿絵などを描いてくれれば嬉しいという坂崎の意見があって、彼女も、

「それならば」

 ということで入部した。

 作画だけではなく、彼女はポエムなどもよく書いていると言ったので、高校時代に書き貯めたというポエムノートを持ってきてもらった。それを見たサークルの面々は、

「なかなかいいじゃないか。これなら挿絵も期待できちゃうな」

 と言っていたが、その意見には坂崎も同感だった。

 実際に彼女の出来上がった挿絵は独特なものだった。可愛らしいというわけではなく、作品をしっかり読み込んだ中で、彼女の想像力がいかんなく発揮されているというべきであろうか。つまりは、典子の今までの性格がよく洗われているともいえよう。

 人に気を遣っている感覚と同じで、想像するということに対して彼女は自分の中の遠慮をいかんなく発揮したのだ。

「想像というのは、こういうもの」

 という概念を訴えるかのように、描いている。

 もし、それが押し付けがましかったら、きっと絵のインパクトの深さkらあざとさが見え隠れしてしまうのだろうが、元々の遠慮深さがまわりにそんなあざとさを感じさせない。そのくせ訴えようとする気持ちが表に出てくることで、まわりに何かを感じさせる力を持つのだ。

 それが彼女のまわりにいる人の感じる都合のよさが絡み合って、想像力をたくましくさせる絵に、誰もが共感させられていたに違いない。

 彼女はたちまち、

「サークルのマスコット」

 のような存在になった。

 いてくれるだけでいいのだが、逆になくてはならない存在でもある。そんな彼女に誰が都合のいいなどという発想を抱くだろう。中学高校時代とは違って開放的な環境に、典子自身も心地よい感情を抱いていたのだった。

 坂崎が専属契約したことで中途半端な状態になってしまった一時期、サークルも中途半端な状態になってしまい、

「解散もやむなし」

 ということになったが、それを引き留めたのが典子だった。

 典子は、

「せっかく、機関誌の時だけの会員がいるんだから、もっとその人たちを募集して、発行部数を稼ぐことで、機関誌発行サークルとして存続できるんじゃありませんか? 皆さんだって機関誌を中心に活動してた抱ければ、これからはお忙しくなられても、部活への参加もできるんじゃありません? それに部活を続けていることで、ストレスの解消にも繋がると思えませんか?」

 と言ってまわりを説得した。

 まわりは、

「典子さんがそこまでいうなら」

 ということで、サークルの存続が決まり、さらに新入生が入ってくると、彼らが今度は運営をしてくれるということになり、今度は典子が中心になってサークルを盛り上げていくようになった。

 完全に二年前までのサークルとは違うサークルになっていたが、、やっていることは過去のいい部分をしっかり踏襲して運営された。

「やっぱり、最初からしっかりしていたから、危機を乗り越えられたんだと思いますわね」

 と言って、典子は心底喜んでいた。

 そんな典子の相談相手でもあり、典子も彼の相談相手として典子と坂崎は、

「近い将来結婚するんじゃないか?」

 と言われていたが、お互いに気持ちだけの関係であり、相談相手としてはいい関係であっても、結婚するとなるとどうなのか、自分たちにもよく分かっていなかった。

 そのうちに、相談事が多いのが坂崎になってしまい、どちらかというと相談というよりも、愚痴を聞いてもらうことが多くなった。

「相談してもどうにもならない」

 というリアルな問題が増えてきて、それが愚痴になってしまった。

 実際に坂崎の話を、相談とは思えなくなっていた典子であったが、愚痴であっても、聞いてあげることに意識のない遠慮から、坂崎は居心地がいい感じを楽しんでもいた。

 デビューした頃こそ、さすがに舞いあがった気分になっていた坂崎だったが、さすがに今はあの時のような有頂天ではない。そこまで自分を愚かだとは思っていないし、あの時だって、

――そんなに人生うまく行くわけはない――

 と、感じていたのは事実だった。

 それは自分に対しての気を引き締めるためお戒めでもあり、ただ単に不安が襲ってきたからであった。ただ、それは自分の中で、

――万が一、自分の勘違いであれば――

 という気持ちだったというのも、ウソではない。

 ダメで元々と思っていた新人賞に入賞したのだから、有頂天になってもそれは仕方のないことだろう。

 確かに、うまく行くわけはないと思っていたが、ここまで絵に描いたような小説家を自分で演じることになるとは、もはや思わなかった。

――相手だって、プロなんだ――

 と、審査員の人たちが伊達や酔狂で選んだわけではないとは思う。

 しかし、実際には、毎年いろいろな雑誌社で、いくつもの新人賞や文学賞が選ばれている。年間にして何人ほどの作家がデビューするかを考え、生き残れる人間の数を考えれば分かりそうなものだ。アマチュア作家だって、さらにプロになりたいと思っている人、その中から新人賞に応募してくる人だから、限られていることだろう。

「年間で、持ち回りにしたって、何年か語には自分に回ってくるんじゃないか?」

 などと冗談が出るくらい、新人賞の数は多いのではないかっと思うくらいだ。

 だから、新人賞の受賞は、あくまでもスタートラインに立ったというだけで、パチンコでいえば、

「ただ、大当たりを引いた」

 というだけで、その後はもう一度も当たらないのか、あるいは、信じられないような大連荘を巻き起こすのかは、誰にも分からない。

 ただ、その可能性はどちらにもあるわけだが、確率から考えると、パチンコほど当たるとは思えない。そういう意味で、

「新人賞の受賞を目指してまで、小説家のプロにはなりたくない」

 と思っている人もいるかも知れない。

 だが、坂崎はプロになってしまった。

 いまさら後悔しても遅いのだが、これはスポーツ選手にも言えることで、プロを目指して、中学時代に優秀な成績を残し、高校はスポーツ推薦などで特待生扱いで入っても、そこで落ちていく人がどれほどいるというのか。中学レベルではたとえ県大会でナンバーワンになったとしても、全国からトップレベルが扱ってくる中では、そのレベルはたかが知れているのかも知れない。

 ついていけずに退部すると、今までスポーツでちやほやされていた分、もう誰も相手にしてくれない。そうなると、グレるしかないという、絵に描いたような転落人生だ。また同じことは不可抗力によるけがなどをしても同じことだ。どんな理由があるにせよ、使えなくなった部員は見捨てられていくだけである。下手をすれば、優待性とする条件にも、いかなる理由や怪我であっても、退部した場合は、学費の免除はないなどと書かれているかも知れない。

 一種の詐欺まがいだが、まるで戦争中などで、捕虜にされて雪道を行進する中で、

「倒れたものは、その場に捨てていく」

 と言われ、実際に倒れた人間を誰も助けないという光景を映画などで見て、そのシーンが瞼によみがえってくるようなイメージである、

 要するに、どの世界であっても、こういうことはありえるということだ、世の中ん競争というもの、そして競争によって発展するという理論がある以上、この世から競争がなくなったりはしない。

「勝つ者があれば、負ける者がる」

 そこには、勝者の美学、敗者の美学が存在している。

 だが、実際に美学などは存在しない。人間に競争心がある以上、敗れた者に対しての蔑みが消えることはないのだ。それを見て、満悦する気分になる人間もいるだろう。考えただけでもおぞましいものだ。

 プロになってしまったことをいまさら後悔しても遅い。何とか前を見ていくしかなかった。

 ウソでもいいから、ヒットする作品を書かなければいけない。もちろん、その後のことを考えるとまた怖くなるが、まずは一歩でも先に行くしかない。

 今の作風では、ヒットは望めないという。

「あなたの作品は面白くないんですよ」

 と、編集者は平気で悪口を口にする。

 どこが悪いのかを指摘してくれるのが編集者なのだろうが、それにも値しないとでも言いたいのか。それ以上顔を合わせるのは時間の無駄だとばかりに、露骨に嫌な顔をする。

「せっかくお時間を作っていただきましたが、残念です。また出直してきます」

 としか言いようがなかった。

 皮肉を言ったつもりだが、皮肉にもなっていないのは、それだけ意気消沈しているからであろう。

 そんな毎日を送っていると、さすがに気が滅入ってくるのだった。

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