第2話 鎌倉探偵の憂鬱
その女性は、年齢的にはまだ二十歳を少し超えたくらいだろうか、身長は百五十センチにも満たないくらいの小柄さで、髪型もおかっぱぽくて、幼く見える。そのせいもあってか会話も気さくで、話しやすさを感じさせた。
人懐っこさも感じられ、何となくこのまま別れるのが少しもったいない気がしていた。
――少し人恋しくなっているのだろうか?
と、自分で感じるほどで、彼女が本棚から本を出すのを見ていると、そのスピードはかなりスローモーションに見えた。
「後ろ髪を引かれるような思い」
という言葉があるが、その時の鎌倉探偵の心境は逆に、
「後ろ髪を引っ張りたい」
という衝動に駆られていた。
相手はまだ二十歳そこそこの小娘なのに、どうしてそんな心境に捉われたのか自分でも分からない。寂しさが嵩じてくると、抑えが利かなくなって、そのまま抱き着きたくなる衝動は、学生時代にはあった。特に高校時代というと、多感な時期、女性にモテたことなど一度もない鎌倉青年は、日ごろの鬱憤を小説を読んで紛らわせていた。その思いがいつの間にか小説を書くという職業になるのだから、その時は、
「世の中というのは面白いよな」
と思っていた。
今も言葉にすると同じ思いを持っているが、それは言葉にすると同じというだけで、ニュアンスはかなり違うものだった。
鎌倉青年は彼女がレジで精算するまでずっと彼女を見ていたが、こんなにも後ろ髪を引かれる思いを感じたのは初めてで、彼女がレジで精算している間、もう一度、さっき彼女が本を抜き取って空いたスペースをじっと見つめていたが、次第にそのスペースが狭まってくるような錯覚に陥り、そのうちに、そこに本が入っていたなどということが分からなくなるほどに、狭くなっていくような気がしてならなかった。
もちろん、そんな時間まで見つめているつもりもないし、彼女を見失いたくないという気持ちもあったが、さすがにこの年齢で、しかも探偵という職業であることからも彼女を追いかけるわけにもいかない。それではストーカーになってしまうではないか。
最近はストーカー犯罪にかかわる捜査をすることも多いので、ストーカーというものがどれだけ卑劣な行為なのか分かっているが、相手を好きになってしまうと、その気持ちが大きくなりすぎて抑えが利かなくなることがあるということを忘れていたような気がする。
それは、自分が探偵であるということから、わざと抑えようとしていたわけではなく、本当に意識としてなかったのだ。
「ストーカー行為というのは、陳腐ではあるが、許されない卑劣な行為」
として認識していたので、それ以上の感情も、それ以下の感情も持ち合わせていなかった。
自分の中で、
「それ以上でもなく、それ以下でもない」
という感情は、完全に確定した思いであり、動かしがたいものであった。
それがあるから、ブレることはなく、探偵という職業に従事できるのだと思っている。
鎌倉探偵はそのまま本屋を後にした。旅行雑誌を見ようかとも思ったが、急にその気も失せてしまったのだ。
彼女を見たことで、自分が本屋に立ち寄った意味がすべて終わってしまったような気がしたというのが、一番の理由であろう。
表に出ると、ちょうど一日で一番暖かい時期だったので、最近めっきり冷えてきた空気に暖かな日差しが当たって、気持ちがよかった。
ただ、このまま帰るのも何か寂しい気がして、行きつけの喫茶店に立ち寄ることにした。その店は昭和の頃からある店で、赤レンガ造りの外装が洒落ていて、最初に来た時からすぐに馴染みになった。
中は木目調の装飾が多く、いかにも昭和を思わせた。テーブルの上には、ランプが置かれていて、まるで大正時代のガス灯を思わせる感じも好きだった。
「さすがに大正時代は知らないからね」
とマスターは言っていたが、実際には、昭和が好きだということだった。
実は大正ロマンの店というのは、当時小さなブームがあったようで、ブームに乗っかるのが嫌だったマスターが、昭和風にしたというが、それは正解だったのかも知れない。
もっとも、今来店する客に、昭和だろうが大正だろうが、そんな微妙なところが分かるはずもないのだった。
BGMがクラシックというのも嬉しかった。しかも、マスター秘蔵のクラシックレコード屋CDが所狭しと置かれていて、リクエストをすればかけてくれるのだ。今ではまず見ることのなくなったレコードも、昔のプレイヤーで針を落とすというレトロなもので、しかも、針を落とした時の、
「プツッ」
という独特な音が何とも言えずにいいのである。
鎌倉氏は、実際にレコードを触ったことはない。すでにCD世代であったからだ。ただ家に昔のプレイヤーやレコードが置いてあったのは知っていた。子供心に、
「これは、もう聴かないの?」
と聞くと、
「今はCDがあるから、そっちで聴いていると」
と言っていた。
流行りの音楽を聴いている分にはCDの方がいいのだろうが、クラシックやジャズなど、昔からの音楽であれば、
「レコードの方がいいんじゃないか?」
と感じるようになったのは、この店に来て、マスター秘蔵のレコードを聴いてからのことだったが、その感覚に、やはり間違いはないようだった。
この日の鎌倉探偵は、実は読みかけの小説を持っていた。まだ半分くらい読んだところであったが、すぐに読み終わると見越しての本屋だったのだが、少し残念であった。それでも、本屋で本の背を久しぶりに眺めてからこの喫茶店に赴くというのは、芸術に浸れるということで、一休みできる感覚であった。
旅行に行きたいという気持ちも、まだ強くなってきた気がする。海外までは考えているわけではなく、日本のどこかということになるのだろうが、候補はないわけではなかった。
ただ、今はクラシックの時間、自分が思いを馳せるのは、
「中世ヨーロッパ」
だった。
店に入った時に流れていたのは、ベートーベンの交響曲第三番の、
「英雄」
であった。
鎌倉氏はこの英雄という曲が好きだった。
数あるベートーベンの交響曲の中でも、この英雄が一番ではないかと思っているくらいで、運命や第九のように、誰が聴いてもすぐに分かるという代表的な旋律があるわけではないか、
「いかにもベートーベンらしい」
ということが一番の理由で、この曲をベートーベンの中でのナンバーワンと思っていたのだ。
「その気持ちはよく分かりますよ」
と、ベートーベンらしいという発想には、マスターも感心してくれた。
「確かに、ベートーベンはその旋律の独特さに、ワンフレーズが有名だったりするけど、本当に真の作曲の醍醐味は、曲全体の雰囲気から感じ取れるものでなければいけません。そういう意味ではベートーベンという人の曲は、実は全体の雰囲気に魅力を感じるのであって、それが私などの興味を引くんですよ」
と言っていた。
それを聞いて、鎌倉青年は、
「その通りですね。僕もベートーベンはそういう作曲家だと思います。何と言ってもクラシックというのは、大勢のオーケストラを従えて、一つの大きな演劇を創造するようなものですからね。映像にはない想像力を掻き立てられるものでなければいけない。しかも、それが昔から伝わってきたものであり、今の時代に受け継がれてきているんでしょうが、どうも私は今の曲を手放しで好きにはなれないんですよ。勉強不足なのかも知れませんけどね」
と言うと、
「いやいや、若いのによくそこまで感じれるものですね。まさに芸術というのはそういうものだと思います。これが音楽でなくても、絵画であったり、彫刻であったり、または文学の世界でも同じことだと思います。だから、音楽、絵画や彫刻、文学の三方向にそれぞれの適度な距離があり、それが均等に配置されていることから、時代時代で文化が発達してきたのではないでしょうか? 私はそんな風に思います緒」
とマスターが返してくれた。
「まさにその通り」
と言って、鎌倉青年はすっかりマスターの話に陶酔していた。
鎌倉探偵は読みかけの小説を開いて少し読んでいると、それまで誰もいなかったと思っていたカウンターに一人女性が座っているのに気が付いた。店に入ってからの時間としてはそんなに経っていないような気がしたが、時計を見るとすでに一時間を過ぎていた。
――なよほど、口に運んだコーヒーが少し冷めているくらいだからな――
と感じたが、彼がこの店に来ると滞在時間は結構なものなので、マスターも鎌倉探偵の方もさほど気にはしていなかった。
下手をすると、午前中に来てから、夕食をその店で摂って帰ることもあるくらいで、一日ゆっくりしたい時などに利用する店の一つであった。
「一つであった」
ということは、他にも似たような店を鎌倉探偵は持っている。
ここから近いわけではないが、ちょうど門倉刑事のいる県警本部の近くにある店で、そこもクラシックを基調にしたお店であるが、音楽の趣味は同じクラシックでも少し違っていた。
クラシックに詳しくない人には何が違うのか分からないかも知れないが、この店では交響曲が多いが、警察署の近くの店では、管弦楽器を使っての音楽が結構多いのが特徴だった。
最近はそっちの店の方が多かったのだが、今は警察署によるような事件もさほど引き受けることもないので、こっちの方が多いかも知れない。本当はその方が世の中が平和ということでいいことなのかも知れないが、鎌倉探偵としては複雑な気持ちだった。
それは金銭的なという意味ではなく、毎日の生活をしている中で、自分が充実した毎日を送れるためには、刺激が必要だというのは、誰もが考えていることだろう。鎌倉探偵の中で刺激を求められるのは仕事として探偵業に携わっている時であり、あまり暇すぎると、リズムが狂ってくるのも仕方のないことで、実際に鬱状態になり、病院で薬を処方してもらい、クスリを飲みながら、通院する日々が続いたこともあった。
この店のマスタ―とは大学時代からの知り合いなので、そろそろ十数年になる。小説家だった時代も知っているが、マスターがいうには、
「小説家をしていた頃よりも、今の方が数十倍生き生きしているよ」
と言ってくれ、その言葉が自分の心境と同じだということに喜びを感じていた。
――だからこの店に通うことをやめられないんだよな――
と、鎌倉探偵は独り言ちていた。
鎌倉探偵の指定席は、カウンターの一番奥、ここからだと店内も見渡せると、窓の外も一望できる気がしているので、見渡すには最高の場所だと思ったことから、ここが結構早い段階からの指定席になっていた。
「その席は、意外と誰も座らないんだよ」
とマスターが言っていたが、
「どうしてなんだろう?」
というと、
「自分が見渡せるということはまわりからも見られるという意識が生まれるんじゃないかな? どこにいても見られることを嫌う人って結構いるからね」
と言っていたが、
「そうなんだ。僕の場合は見られることは確かに気にはなるけど、見渡せるという利点に比べればさほど遜色ないような気がするんだ。むしろ見渡せる方が重要視できるんだけどね」
というと、
「それはきっと鎌倉さんが小説家であったように、観察眼を一番に考えるからじゃないかな? 普通の人は見られることを意識してしまう場合が多いからね」
と言われてしまうと、
「じゃあ、結構僕はまわりから意識されていたのかな?」
「中にはそういう人もいたでしょうが、何分このお店は常連さんが多いので、常連さんから誤解を受けるようなことはなかったでしょう? だから、鎌倉さんの場合は大丈夫なんですよ」
と言ってくれた。
「それはよかったんだけど、僕は小説家としての、全体の雰囲気を見るよりも今は探偵として、人個人を見てしまうことが多いからね。無意識のうちに誰かを凝視してしまっていて、その人のことを想像し、丸裸にしてはいないかと危惧することもあるくらいなんだ」
というと、
「それは仕方ない。それで助かる人もいるのも事実なんだからね。だから、鎌倉さんもそう感じているのなら、余計なことを考える必要はないんじゃないかな?」
まさにその通りだと思った。
「そういえば、僕がここに来るようになってからどれくらいが経つようになったんだろうな」
というと、
「そうだねえ。まだ息子たちが学生だったから、もう十五年以上にはなるんじゃないかな?」
マスターの息子さんたちとは、それほど歳が違わなかったので、時々遊びに出かけることもあった。
そもそも小説家になる時、応募することを進めてくれたのが、ここの息子だった。
「俺なんか、応募したって一次審査ですぐに落選さ」
というと、
「やってみないと分からないじゃないか。あとになって。ほら、よかったでしょう? なんてことになりかねないんだからね」
と言っていたが、本当にそうだった。
学生時代は今の探偵業と違って、結構ものぐさで、面倒くさいことはやりたがらないところがあったので、その背中を押してくれたのが、ここの息子の長男だった。
今は渡米していて。向こうで事業を起こしているらしいが、あの時の行動力から考えれば、それも至極当然と思えることだった。
高校時代から数学が得意だったこともあって、計算の早さはビックリするほどだった。考えてみれば、探偵のような仕事は彼の方が向いているのかも知れない。
そういえば、よく本を見ながらミステリー談義をやったものだ。子供が見る本の中で、謎解き関係の本があったが、彼はそれを持って着て。
「さあ、これをやってみようじゃないか」
と言ってきた時はビックリした。
天才的な頭を持っているはずの彼が、まさか子供用の探偵の謎解き演習のような本を持ってきたのだから、それも仕方のないことなのだろうが、
「それは子供の本じゃないか?」
というと、
「まあ、そういうなよ。確かに子供の本ではあるが、子供の本と言って舐めてはいけない。結構謎解きは難しいぞ」
と言って、半信半疑ながらにやってみることにした。
実際にやってみると、彼のいう通りで、これがなかなか難しい。
「これ、本当に子供用か?」
と聞くと、
「そうさ。子供用と言ってバカにはできないと言っただろう? 子供用には子供の世界で楽しむものというだけで、決してトリックは優しくない。むしろ難しいのさ。しかお俺たち大人は舐めて掛かっているし、頭が固くなっているので、とんちが利いた問題であれば、子供に戻ったような柔軟な気持ちで解かなければ、絶対に解けない」
と言った。
「そんなものなんだ」
「そりゃあそうさ、大人のプライドが邪魔をするだろうし、何よりも一度違う方に思い込んでしまったら、後戻りはなかなかできない。それが堂々巡りを繰り返してしまって、先に進むことができないのさ」
と言われて、
「なるほど、確かにそうだよな。俺たちは子供に一度は戻る必要があるんだよな」
と言って、その言葉を自分に言い聞かせてみると、なるほど、柔軟に思えてきて、面白いように謎が解けた。
「鎌倉君は、なかなか順応性が高そうだ。考え方が柔軟でいいんじゃないか? 探偵にでもなればいいのに」
と言われたが、今から思えば、軽い気持ちで言った言葉でも本当に的を得ていたと思うと、彼がまるで預言者だったかのように思えるから不思議だった。
今ではそんな息子は二人とも家を出て、次男の方は、大手企業の支社として九州の方で結構出世しているという。
「兄貴にアメリカで自分の事業を手伝ってもらえないかって言ってきていて、困ってるんだよ」
と言っていたが、
「手伝ってあげればいいじゃないか」
と言ってはみたが、
「いやあ、せっかく今は順調なんだから、この路線を壊すのは結構な勇気がいるんだ。清水の舞台から何回も飛び降りるくらいのね」
と言っているが、まさしくその通りであった。
「仕事も順調なんだね?」
というと、
「ああ、順調そのものさ」
という返事が返ってくる。
その時の謎解きがまともにできなかった大学生が、今では探偵をしているというのも、実におかしな気もするが、考えてみれば、あの時どうして簡単に解くことができなかったのかということを後になって考えることで、今の自分があるのかも知れないと思うと、世の中の面白さというものが分かってくる気がした。
確かに、とんちのような発想が必要だった。算数の問題を解くように、理詰めではなかなかうまくいかない。しかし、結局は足し算や引き算なのだ。つまりは、媒体をいかに考えるかということで頭が柔軟になってくる。答えは問題の中にちゃんとあり、そのことが分かっていれば、謎ときと言うのができるものなのだ。
「しょせんは同じ人間が考えたもの」
そう思えば、そんなに難しく考えることもない。できるものとできないものの判別は頭の中で行えるものであり、そんなに難しいことではない。要するにできると思うことが必要なだけだった。
頭の冴えというのは、急に訪れるもので、それまでまったく発想すら浮かんでこなかったものが、ある日突然、誰も想像もできないような発想が浮かんできたのだ。
「まるで神が降りてきたかのようだ」
と、降臨を真剣に考えたほどだった。
謎が解けてくると面白いもので、それまで書けなかった小説のアイデアまで浮かんでくるようになってきた。
「いよいよ来たかな?」
とまるで自分の時代の到来を予見するかのような思いに、どうすればいいのか考えあぐねていた。
小説も、書いてはみた。それなりに自分もあるにはあったが、応募するだけの勇気もなければ、億劫な気もした。
それでも、人から、
「これならいいじゃないか、俺はいいと思うぞ」
と言われると、送ってみようという気になった。
実際に送ってみると、あれよあれよで新人賞だ。
「ほらよかったじゃないか、これでデビューまで約束されたようなものだ」
と言われて、鎌倉氏自身も有頂天だ。
――これで俺も人気作家だ――
と、徹底的に自惚れた。
次男の方は、
「実際に新人賞を取っただから実力があった証拠だよ。自惚れるくらいは当たり前のことで、自惚れていい作品が書ければ、それでいいじゃないか」
と言っていたが、長男の方は、
「そんなことはない。こういう時だから調子に乗ると、抑えが利かなくなるんだ。冷静さを失ってはいけない」
と言っていた。
鎌倉氏はどちらを信じればいいのか悩んでいたが、人間楽な方に進むというのは、古今東西昔からそうだったように、やはり楽をしようとする。
どうしても自惚れてしまうと、それを払いのけるには、覚悟とそれなりの力を必要とする。
――やはり、自惚れている方が気が楽だ――
と思うことで、ついつい自惚れて、自分の力を過信したというよりも、楽な方に進むということが、自惚れた瞬間に、自分の中で確定してしまったかのようだった。
それでも、最初の数年は何とかファンもついていて、小説家として少しはうまく行っていたのかも知れない。
しかし、それもうまく行かなくなったということは、ファンが離れて行ったということである。
つまり、
「ファンに飽きられた」
ということである。
それだけワンパターンの作品を書いていたということなのか、プロでやっていくだけの才能が最初からなかったということか、その頃からの鎌倉氏は、憂鬱状態に悩まされるようになっていた。
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