第8話 二人とも、ラッキーだ。多分イノブタがかかってる

――アイリス・オスカー


 1時間後。

「衛、ちょっと待ってください少し休憩を……」


 私は荒い息を吐きながら、その場にひざまずいたカーゴパンツが雪で濡れるがそんなことを気にする余裕はない。


「おい、大丈夫かよ。休憩ってこれで3回目だぞ」

「ソーリー。ただ、コースが想像してたよりもハードだったので」


 山に入るとき、いきなり傾斜20度以上の崖をロープでよじ登った時点でイヤな予感はしていたが、この山全く登山道が整備されていなかった。

 比較的歩きやすいのは、エゾ松の根が地下でぶつかることによって発生した木と木の間の微妙な間隔と、獣が雪を踏み固めることによって出来た獣道だけで基本的には自然のままの山をラッセルで雪を踏み固めながら進まなくてはならない。

 正直言って、ミッションの難易度はトレイルランよりハードだ。

 この道なき道を進む獣の行軍で、20キロ道を7時間で踏破するなんてまともな人間の出来ることとは思えない。


「恵子はさすがですね、息一つ切らしていない」


 私の背中を押しながら、背後を守ってくれていた恵子は、このくらいの運動なんでもないと言わんばかりにポーカーフェイスを維持している。


「私はこの山、小学生のころ毎日歩かされたからね。お爺ちゃんの口癖は『働かざる者、食うべからず』だったから」

「確か、小学校の頃は今日みたいに三日かけて罠のチェックやってたんだよな」

「あの頃、お爺ちゃんもう70過ぎてたんだよ。マモちゃんみたいに三つの山を一日で全部まわるなんて無理だったんだよ」


 本人に自覚は全くないのかもしれないが、目の前のいる天原兄妹は子供のころまるでファンタジー小説の登場人物のような生活を送っていたようだ。

 それから、30分ほどしてようやく私達は一つ目の罠、赤文字の1と書かれた場所にたどり着いた。

 幸か不幸か、罠に獲物はかかっておらず森の中は静寂に包まれている。


「罠が壊れてないかチェックすするから、少し休憩しててくれ」

 

 衛は地面に埋めてある罠を掘り出して、罠が正常に作動するか金具に錆が浮いていないかを注意深く確認している。


「あの金属製の輪っかはどのような動きをするんですか?」

「あれは、くくり罠って言って地面に埋めてる金属製の輪っかを動物が踏むとわっかの周りに捲いてあるワイヤーが獲物の足に捲きつくようになってるの。ぱっと見わからないように埋めてあるからアイリスさんもうっかり踏まないように注意してね。人間の足にもちゃんとワイヤー捲きつくから」


 衛は罠を点検した後、埋め戻しと、動物に見つからないようにするための偽装工作を手早く済ませる。


「うし、じゃあ次の場所に行くぞ」

「アイリスさん、次は下り坂になるから転ばないように注意してね」

「下り……確か3番目の罠の位置はここより高かったと思うけど」

「1番から5番の順路は登り下り登り――って感じで稜線をジグザグに歩く感じになるかな」

「オーマイガー」


 コレから辿るコースのハードさを想像して私は思わず点を仰いだ。

 衛がニビルに行くための訓練として自分の仕事を手伝うように言ってきた理由をようやく理解した。

 確かに、彼についていけば山と森の厳しさと、土の冷たさを嫌というほど味わうことになる。



「ポイント5クリアっと。しかし、この調子だと今日中にこの山に仕掛けた罠全てをチェックするのは無理だな」

「ソーリー、私が足を引っ張ってるわね」


 頻繁に休憩をはさむのも、水を大量に飲むのも私だ。

 衛と恵子は同じようにハードコースを歩いているのにほとんど汗もかいていないし、給水も稀に水筒のスポーツドリンクを一口飲んで口内を湿らせる程度で済ませている。


「初日だから仕方ないわよ。これから一か月かけて山歩きに慣れればいいんだし。マモちゃんだって、この展開は予想してたんでしょ」

「まあな、エリート医師で応急処置や外科手術に慣れてるとは聞かされたが、野外活動に慣れてるって話はなかったからな。いきなりニビルに連れて行かなくて正解だったぜ」


 確かに何の準備もなくニビルに行ったら私が足を引っ張って、チーム全員が遭難してしまったかもしれない。


「まあ、無理せず行けるところまで行こう。喜べ、次のポイント6と7はずっと登りだ」


 ニンマリと笑みを浮かべる衛の顔が私には人間を惑わず悪魔のように見えた。



 7と聞くと大半の人はなにを想像するだろう。

 私は、ラッキー7。

 そう、多くの人にとって7の数字は幸運の印だと思われている。

 しかし、今日の7は幸か不幸か私には判断が出来なかった。

 7番目の罠、赤字のポイント7。

 そこに近づいただけで獣の匂いが備考をくすぐる。


「二人とも、ラッキーだ。多分イノブタがかかってる」


 匂いだけでイノブタと判別できる衛の嗅覚に疑いを抱いたが、獲物が見える場所まで近づくとかかっているのは衛の言った通りイノブタだった。

 体長1メートルに満たない小柄なイノブタ。

 おそらく親離れしたばかりのまだ若い個体だろう。


「まだ子供みたいだし、見逃してあげない?」

「バカ言え、ここで逃がしたらこいつは山を下りてうちの畑を食べ放題バイキングに変えるぞ」

「最近の狩猟は、畑を荒らす害獣駆除の意味合いが強いの。だから、ここまで畑に近づいた個体は見逃せない」


 私は衛が担いでいる長槍にチラリと目を向ける。

 あれは彼が言ってたトドメ刺し、罠にかかった獲物を殺すための道具だ。


「恵子、トドメを刺す。悪いけど動きを止めてくれ」

「わかった」


 そうつぶやくと、恵子はその場で右手を罠にかかったイノブタに向ける。


 ゴースト魔法≪ジッタイカ≫


 すると文字通り不思議なことが起こった。

 イノブタの喉元が恵子の手の形にボコリと凹み四つ足をバタバタと振り回して抵抗するイノブタが空中に釣り上げられる。


「マモちゃんッ!」

「応ッ!!」


『ピギャガアアアアアッ!!』


 右前足の内側、心臓を一撃で刺し貫かれたイノブタは甲高い声で悲鳴をあげる。

 衛は動じることなく槍の束をひねると刺し貫かれた心臓から噴水のように鮮血が噴き出した。

 イノブタはクタリと首を垂れて動かなくなる。


「出血性のショック死。きっと痛みを感じる間もなかったと思う」


 私は去年までイラクで働いていた。

 手当が間に合わず私の目の前で死んでしまった人も見たし、診療所の間近で発生した銃撃戦で撃ち殺される人も見た。

 だけど、あれは戦場とという特殊な環境で発生する死だ。

 日本という平和な国で、今まで楽しくお話ししていたティーンエイジャー達がためらいなく動物を殺す光景は想像以上にショックが大きかった。


「ボーっとするな、すぐに腸を出すぞ、肉が体温で痛む」


 恵子は背負っていたリュックからゴム手袋と保冷材の入った袋を取り出した。


「内臓も保冷剤で冷やせば食べられるから、悪いけど入れるの手伝ってくれない」

「おっ、OK」


 衛が山刀でイノブタの腹を切り開くと、筋肉の中に詰まっていた内臓が押し出されるように外部に飛び出してくる。

 恵子は飛び出した腸を保冷材の入った袋に詰めていく。

 私も彼女をマネしてイノブタの腸を袋に詰めていくが、ゴム手袋越しでも血のヌルヌルした感触を感じることが出来た。それに……。


「まだ、あったかい」

「かわいそうだと思うなら、せめて無駄なく食べてあげよう。それが一番の供養だから」

「そうですね……糧を与えてくれた主に感謝していただくことにしましょう」


 獲物をしとめたらすぐに下山して、家で獲物の血抜きや解体を行うらしい。

 衛は内臓を取り出したイノブタを担ぎ、内臓を入れた袋は私が恵子に頼んで担がせてもらった。

 こうして私の初日のフィールドワークは終了となった。

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