第1話 キュウベエは、あのヒグマの名前だよ。
――天原衛
戦いが始まってから30分。
何千年もの時をかけて成長してきた鍾乳石は戦いの余波で全てなぎ倒され、辺り一面まっさらな更地になっていた。
「ううううう……」
敵意を含まない声音で、『まだ続けるか兄弟』と問いかけると、巨獣はクビを左右に振って否定の意志を示し、右手の掌を差し出してくる。
別に草魔法を仕掛けようとしているわけではない。
巨獣と自分が兄妹であること示すために俺は、差し出された巨獣の掌と自分の掌をポンと合わせた。
俺だけではない、俺と掌タッチをした巨獣は恵子にも自分の掌を差し出してくる。
恵子は嬉しそうに「わんわん」と声を出しながら、人間に向かってするお手のような体勢で、巨獣の掌と自分の前足を触れさせる。
「がううう」
クマ語でまた遊ぼうな兄妹と語りかけると、巨獣はコクンとうなずいてから食料をため込んでいる自分のねぐらに戻っていく。
おそらく戦闘で魔力を使い過ぎて腹が減ったのだろう。
あとで、あいつの好きなトウモロコシやイノブタの死体を補充してやる必要がありそうだ。
巨獣が洞窟内の狭い道に姿を消したところで俺と恵子は人間の姿に戻った。
俺達が人間の姿に戻ったところで、物陰に隠れていた牙門が俺の服を持って俺達のところに駆け寄って来る。
変身によってクマの身体能力を借りることが出来るのは便利だが、人間に戻ったときに素っ裸になってしまうのは解消できない問題の一つだ。
「ほら、その貧相なものをさっさとしまえ。お前も天原妹みたいに、さっさと服を作る魔法覚えろよ」
恵子は人間の姿になると同時に、炎の衣を作り、和服と女袴とブーツといういつものハイカラさんスタイルで全身を固めている。
「マモちゃんは獣属性しか持っていないから、服を作る魔法を覚えるのは無理だと思うな。あと、服を作る魔法って結構難しいんだよ、習得に自然属性の魔法が必須になるし」
「薄々感じていたが、やっぱり俺には自然属性が備わっていなかったか」
「獣属性しか使えないのは、あくまで普段のマモちゃんだけどね」
魔法には、自身の生命体としての属性を示す生体属性と、操作可能な自然現象を示す自然属性の2種類が存在する。
例えば恵子の場合は、生体属性としてゴースト、自然属性として火の属性を持っているのでゴースト魔法と火魔法、二つの属性の魔法を使うことが出来る。
ただ、マモノやマジンが必ず自然属性を持っているわけではなく、俺は獣属性しか持っていないので使える魔法も獣魔法だけにということになる。
「強くなるために必ず自然属性が必要なわけじゃないから安心して。実際、キュウベエは自然属性の魔法使えないけど頭おかしいくらい強いじゃない」
「キュウベエは魔法がなくてもフィジカルがチートじゃねえか」
「ちょっと待て、キュウベエって誰の事だ? まさか……」
そういえば名前を付けたことはまだ牙門に伝えていなかったな。
「キュウベエは、あのヒグマの名前だよ。仲間にするなら名前があった方が便利だろ」
「仲間ねえ。一応公務員の立場から言わせてもらうと野生のクマを飼育するのは鳥獣保護法違反だぞ」
「でも、『ONE19』をこのまま野放しにするわけにはいかないだろ」
キュウベエに鍾乳洞という巣穴を提供した後から知ったことなのだが、キュウベエは道東地区一帯の広い範囲で、牧場で放牧されている牛を襲撃して食い殺す獣害事件の犯人として『ONE19』というコードネームで指名手配されている個体だったらしい。
移動するのは常に夜間で、人が肉眼で目撃したことはほとんどなく、わずかに残された足跡のサイズが19センチあったことから付けられたコードネームは『ONE19』。
ときどきニュースでも報道されるが、今でも北海道中のハンターが『ONE19』を駆除しようと躍起になって彼を探しているらしい。
そんな、凶悪グマが異世界マモノを体内に取り込み魔法という人知超える力を使えることになったと知られたらパニックが起こりかねないので、異世界対策課が『ONE19』を捕獲したという話はトップシークレットとして、自治体には秘密にすることになった。
「名前つけるにしてもコードネームのONE19じゃ愛着湧かないからな」
「19から韻を取ってキュウベエか、まあそれはいい。それはそうとキュウベエの奴本当に大丈夫なんだろうな? 仲間にすると言ってたが傍から見ると殺し合いをしてるようにしか見えないぞ」
間近で三大マジンの超常魔法バトルを見せつけられた牙門はため息混じりに不安を口にする。
「いや、なんというか……あれはキュウベエの運動不足解消を兼ねた遊びなんだよ。お前も野生動物紹介するテレビ番組で子熊同士が取っ組み合いするの見たことあるだろ? あれと同じ」
「あの殺し合いがかッ!?」
そうか、牙門には殺し合いに見えたか。
言われてみれば、全員人間が喰らったら確実に即死する攻撃魔法をぶつけ合っていたからそう思われるのも仕方ないのかもしれない。
「信じられないかもしれないけど、キュウベエは兄妹を殺さないように手加減して魔法を使ってるのよ」
「なんとか友達と食べ物の違いは理解してもらえたからな、あと最近『はい』『いいえ』の概念も理解したから話しやすくなったよ」
「理解したって――クマに『はい』『いいえ』の概念を教えたのか?」
さすがの牙門もクマが人間の知識の一部を覚えたと知って驚きが隠せないようだ。
「教えたといか勝手に覚えたんだよな。俺と恵子が、うなずいたりクビを左右に振ってる仕草を見てうなずくのは『はい』、首を左右に振るのは『いいえ』っていつの間にか覚えてた」
最初にキュウベエがクビを左右に振って否定の意志を示した時には、俺も度肝を抜かれたのを覚えている。
「見て覚えたって言えばハイタッチも覚えたよね。私とマモちゃんがときどき掌タッチとかグータッチしてるのを見て、掌を触れ合わすのは友達との挨拶って覚えたみたいだし」
「クマ語のでコミュニケーションが取れるからかもしれないけど、キュウベエって思った以上に頭いいんだよな。質問されたことに答えたら、それを知識として乾いたスポンジみたいに吸収していくし」
カゲトラを見て思ったことだが、コミュニケーションを取って知識を伝達することが出来れば、どんな動物であろうと知的生命体になる可能性があるのではないでろうか。
カゲトラはニビルでダルチュ呼ばれる知的生命体だが遺伝子的には、地球に生息するワシミミズクと全く変わらない。彼らは独自のコミュニケーションによって知識を伝達し、その知識を何万年もかけて積み上げることでホモサピエンスに見劣りしない知的生命体に進化した。
ワシミミズクが知識の集積によって知的生命体に進化できるならヒグマにだって同じことが出来るかもしれない。
「それは末恐ろしいな」
牙門は不安な感情を隠そうともせずそうつぶやいた。
強大な力を持つキュウベエが人間の知恵まで身に付けたらますます手に負えなくなる。元自衛官だけだって、キュウベエが敵に回ったときのことを考えているのかもしれない。
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