第16話 それは、俺と恵子が爺ちゃんと交わした大切な約束だ。

――天原衛


 ギュッ、ギュッ、ギュッ……。

 踏み固められた道を縫うように俺と恵子は手を繋いで雪山を歩いていた。

 俺達の前を口の周りに白いひげを蓄えた老人が歩いている。

 彼の名は天原誠司、今年で72歳になる俺達の爺ちゃんだ。

 爺ちゃんは先頭に立ち、新雪をラッセルで踏み固めて歩きやすいように均してくれる。

 現在の時刻は午前6時、日が昇り切っていないため周囲は薄暗く、慣れた道じゃなければ迷ってしまうかもしれない。


「何もいないといいなあ……」


 心の底から願うように恵子がつぶやく。


「イノシシ捕まえないとダメだろ。食われたジャガイモの仇とってやろうぜ」


 俺達がこんな寒い中雪山に入ったのは、爺ちゃんの仕掛けた罠の見回りをするためだ。

 爺ちゃんは自分の私有地になってる山の中に数十か所もの罠を仕掛けており、その見回りに付き合うのが俺と恵子の日課になっている。

 爺ちゃんは、オントネーでも№1と呼ばれる罠猟の名手で、畑を荒らすシカやイノシシを月に2~3度は仕留めている。

 罠猟で動物を捕まえるのは大変だ。

 罠にかかった動物はたいていの場合、まだ生きているのでトドメを刺す必要がある。

 相手がヒグマならお手上げだが、イノシシやシカくらいなら俺と恵子が手伝ってトドメを刺している。

 罠に獲物がかかっている可能性は決して高くはない、毎日見回りをしているが空振りで帰る日の方が圧倒的に多い。

 しかし、可能性はゼロではない、本日6か所目のポイントにそいつはいた。


「シカのオスだ。まだ、若いな……」


 若くて経験が浅いから罠に引っかかる、可哀そうだが運が悪かった。


「ワシが右足、恵子は左足に拘束具を投げる、衛は槍だ」

「はーい……」

「押忍ッ!」


 爺ちゃんと恵子が持っているのは両足の自由を奪うための拘束具、長い鎖の先端にナスカンに似た形の金具がついていて、これを両足にひっかけて獲物暴れないよう拘束するのだ。

 そして俺が持っているのは竹竿の先端にナイフを括りつけた手製の槍だ。

 拘束した獲物の心臓を突いてトドメを刺す。

 最初は爺ちゃんが槍担当だったが、最近俺に任されてるようになった。

 爺ちゃんいわく俺は心臓の位置を的確に貫くセンスがあるらしい。

 恵子は何度か失敗したが、なんとか右足に拘束具をひっかけて鎖を木に巻き付ける。

 両前足を拘束されたシカは上半身だけでバタバタと暴れまわるが、まな板の鯉同然だ。

 俺は足音を立てないよう慎重に近づいて、シカの心臓を槍で突き刺した。

 ドクン…ドクン……ドクン…、竹竿越しに心臓の脈動を感じる。

 脈動はだんだんと弱くなり、やがて動かなくなる。


「し、しとめた……」


 俺は肺の中に溜まりにたまった緊張感をふぅぅぅと口から吐き出した。

 爺ちゃんと、恵子は息絶えたシカに手を合わせている。

 たとえ畑を荒らす害獣だったとしても、死んで糧となってくれる命に感謝と敬意を持つこと。

 それは、俺と恵子が爺ちゃんと交わした大切な約束だ。



 ――夢を見ていた。

 懐かしい夢だ。

 爺ちゃんが生きていて、恵子が生きていて、恵子が体操選手になる前の夢だ。

 小学校を卒業するまで俺と恵子は、オントネーに住んでる爺ちゃんの家に預けられていた。

 学校の勉強はそこそこに、ジャガイモを作り、トウモロコシを作り、畑を荒らす獣を罠猟で捕獲する、土と雪と血の匂いのする毎日。

 街での暮らしを知らなかったからかもしれないが、俺も恵子も自然の中での生活がけっこう好きだった。

 爺ちゃんは猟師だが、母さんは元体操選手だった。

 田舎で農家をやるのが嫌で札幌に飛び出した上昇志向の強い女性で、現役時代は全日本選手権やアジア大会にも出場したかなり有名な体操選手だったらしい。

 母さんが体操選手として活躍する傍ら、俺たち二人はオントネーの爺ちゃんのところにずっと預けられていた。

 小学校を卒業するまでの12年間ずっとだ。

 ヒドイ母親だったと思うが、自分のやりたいことをいつも誇らしげに語る夢見る少年のような人でそんな母さんが俺は嫌いではなかった。

 しかし、転機は突然訪れる。

 札幌の体操クラブに指導者として採用が決まったのを契機に、母さんは爺ちゃんに預けていた双子の子供達を自分で育てる決意をした。

 人生が一変するとはよく言ったものだ。

 ド田舎で農作業と罠猟で暮らしていた俺は、母さんの指導のもとで体操選手を目指すことになった。

 だが、現実は残酷だった。

 有名な体操選手だった母さんの子供には、体操選手としての才能が受け継がれている。

 ただし、その才能は妹の恵子にだけ偏って受け継がれていた。

 妹の恵子がメキメキと上達しジュニアの大会で上位入賞するのとは対照的に、俺には体操選手としての才能は無かった。

 高校進学を契機に俺は体操をやめようと思ったが、母さんは『諦めるのはまだ早い』と説得され選手として練習は続けていたが、俺は恵子とは違い体操をやっている凡百な高校生から抜け出すことは出来なかった。

 俺の分の才能を吸ったためか、恵子は高校1年でインターハイ優勝、全日本選手権5位入賞、という輝かしい成績を収めた彼女は世界体操の出場権を獲得し、いつの間に日本で有数の体操選手になっていた。

 次のオリンピック候補として期待される天才少女はドイツのベルリンで開催された世界体操に出場して好成績を残し、凱旋帰国をするためにベルリン発の飛行機に搭乗した。

 ルードバッハ航空304便。

 ベルリンから羽田空港へ向かうその飛行機は、航路上の黒海上空で行方不明となった。

 乗客乗員合わせて407名。

 機体及び乗客乗員の遺体はいまだ見つかっていない。

 その中には、天才少女と呼ばれた天原恵子と、ほぼ彼女の専属コーチとなっていた俺の母さんも含まれていた。

 爺ちゃんも歳には勝てず1年前に他界しており。

 俺――天原衛は、齢15にして天涯孤独の身の上となってしまった。

 例え世間の評価が天と地ほどに離れようとも、幼いころずっと二人きりで過ぎしてきた俺と恵子は固い絆で結ばれていたし。

 俺にとって、天原恵子は俺の命より大切な女の子だった。

 自分の命より大切なものを失った人間はどうなるのだろう?

 答えは、生きる屍、具体的には何の目的意識もない人間となってしまうのだ。

 その後、何の目的意識もなく高校を卒業し、就職にも就学にも失敗した俺は唯一採用された自衛隊に消去法で入隊した。

 俺の能力と才能は、自衛隊向きだったと思うが、何の目的意識がない俺は自衛隊に残るための努力を一切せず2年で満期除隊。

 その後、民間企業をいくつか転々としたが、何処に行っても人間関係が上手くいかなかった。

 オントネーに帰る。

 その選択肢に気づいたのはつい5年前のことだ。

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