過去

あの頃の悠は、世界そのものと殴り合っている気分だった。


高校生だった彼は、喧嘩を避けるという発想を持っていなかった。

目が合えば一触即発。言葉を交わせば、次は拳だった。他校の不良とやり合うことも、特別な出来事じゃない。


「アハハハッ!痛ぇか? こんなんじゃ俺に勝てねぇんだよ!」


倒れた相手の呻き声を聞くたび、胸の奥が静かに満たされた。

速さと残酷さ。それだけが、当時の悠を形作っていた。


当然、周囲に人は残らなかった。

距離を置かれ、避けられ、触れれば怪我をする存在として扱われた。


――ただ一人を除いて。


雪だけは、そこにいた。


「また試験サボって喧嘩してきたの? ほんっと馬鹿だよね〜。それじゃ成績落ちるの当たり前だよ」


幼馴染だった。

どんな姿を見せても、彼女は引かなかった。血に染まった手で帰ってきても、無言で絆創膏を差し出すだけだった。


「うるせぇな。先に仕掛けてきたのは向こうだ。俺は正当防衛だっつーの」


「へぇへぇ。でも先生にはちゃんと謝っときなよ。反省したフリでもいいからさ」


小言は多いが、背を向けることはなかった。

勉強も教えた。一緒に登校もした。悠が完全に孤立しないよう、線を引き直してくれていた。


「なぁ雪……おれなんかとつるんでていいのか? 変な噂とか立たねぇ?」


「うーん、今のところ何も言われてないよ? そもそも幼馴染だし。私が関わらなくなったら、悠、ほんとに孤立しちゃうじゃん」


その言葉で、悠は理解した。

感情に名前をつけるのは遅かったが、間違いようはなかった。


雪は、悠の世界の温度を変えた。

荒れた内側を、少しずつ溶かしていった。


変わろうと思ったのは、そのあとだ。

彼女の隣に立つには、今のままじゃ足りない。


喧嘩を抑え、机に向かった。

器用なやり方じゃないが、逃げなかった。


結果、大学には進めた。

心理学部。中でも臨床心理学を選んだのは、自分の中にある怒りの正体を知りたかったからだ。


そして、大学二年のある日。

悠は一つの扉を叩いた。


「初めまして。私は飛鳥探偵事務所の所長、中沢飛鳥よ。渋谷で探偵をしているの」


端正な顔立ち。視線は鋭く、曖昧さがなかった。


「あなたの経歴、全部見たわ。前科はないけど……喧嘩で有名だったらしいじゃない」


正直、期待はしていなかった。

探偵という仕事は、資格や肩書きよりも現場が物を言う。だが、こんな経歴の人間を拾う理由はないはずだった。


だが、飛鳥は違った。


「人の心を読めるのも才能の一つよ。臨床心理学を専攻していたっていうのも、強みになる」


そうして悠は、探偵になった。


過去を断ち切ったわけじゃない。

ただ、使い道を変えただけだ。

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