オーバーフロー

八文啓

オーバーフロー

 親友がいた。もう生きてはいない。

 滑らかな海岸線に沿うようにして、時折踏切の音を置き去りにしながら旧時代の鈍行列車は走っていく。真昼の日差しは住居の波の間に隠れては現れる海に反射して、眩い白がしきりに私の目を焼いていた。

 アルミラックの上のボストンバッグが視界の隅に見える。軽く顔を上げた私は、すっからかんの列車の天井を見つめながら、やはりまだ親友のことを考えていた。

 彼女は―――ウツミは、高校時代の友人だった。艶のある黒い長い髪をいつもなびかせ、傍目から見れば文学少女か何かと思わせるような風体をしていた。

 けれどもバレー部ではいつもそれを後ろに結んで活発に動くのだから、初対面で人というものを判断するのは難しいのだと思ったことを、よく覚えている。

 そのウツミと初めて言葉を交わしたのが、この列車の中だった。この路線を使って毎日登下校していた私は、終点に近付くにつれて増えていく空き席に座ることだけを考えながら毎日つり革を掴んでいた。

 その日も何とかシートにありつくことができ、長い間立ち続けた脚を休めていたと思う。西日がもろに差し込む列車の中で、奇妙な輪郭を描いて伸びる一筋の影がずっとそこにあった。

 橙色を裂くようにして伸びるそれに目をやってみると、空席もあるというのにドアの傍で立ち続ける一人の女子がいた。彼女は流れゆく風景をじっと見つめていたが、ふっと振り返ると私の視線を疎んじる訳でもなく、軽く手を開いてそれを振った。

 同じ高校の生徒ということは分かっていたが、初対面の人間にそこまでフレンドリーな仕草を送れる彼女のことがやはり不思議に思えて、気が付けば立ち上がった私はそのドアのもとまで足を運んでいた。

 長い髪を揺らした彼女は、耳元からワイヤレスイヤホンを外すとどしたの、とだけ言った。

「あー……そんなに夢中になれる景色かな、と思って」

「なれるよ。君は?」

「私はまぁ、この路線百万回乗ってるし」

 なるほど、この路線を最近使い始めたから物珍しいのだろうと私は納得した。彼女が私と同様にこの路線を百万回使っていたことを知るのはもう少し後のことだ。

 ともかく納得した私の興味は、少しの間を置いてから彼女が聞いていた音楽の方に向いた。

「何聞いてるの?」

「好きな曲。聞く?」

 無遠慮に差し出された左耳のイヤホンにどうしようか、と少し迷った。ふとよぎったのはこれを手に取ったらどうなるだろう、という前向きな問いではなく、これを手に取らなかったらどうなるだろう、という後ろ向きな問いだった。私の臆病さがそうさせていたのかは分からないが、この機会は永遠に訪れないような気がしていた。

 恐る恐る手に取ったそれを耳に嵌めてみる。

 同じように、車窓の外の海を眺める。

 そうしてもう一度振り向いて、彼女の目を見つめた。

「接続、切れてる」

「あはは。これは失敬」

 ウツミとの出会いは、こんな締まりのない交流だった。

 ともかくウツミと私は、毎朝と毎夕に顔を合わせるようになった。降りる駅さえ同じだった私たちは近所に家があることも知り、それからは課題を互いの家でやったり相手を起こしに行ったりすることもあった。

 学校の外側でも交流が続くウツミとの関係は、やはり親友と呼ぶに相応しかったように思える。

 そして彼女が卒業し、兵士として戦場に出たのが一年前。彼女の戦場での友人から、ウツミが死んだという便りが諸々の人を介して私の耳に入ったのが半年前の冬の日のことだった。

 電車は相変わらず走り続け、降りる人間も乗る人間もいない無人駅と律儀に接している。開け放たれたドアから入り込む蒸し暑い空気の中に、寂れた草木の香りがする。

 稼げる、というシンプルな理由で彼女は兵士になった。アンドロイドが多くの職業を肩代わりにできるようになった現代において、人間でしか担えない職業の人気と給料は高まる一方。その頂点にあったのが、複雑な命令をこなしながら三原則で禁止された人間の殺傷を行わなければならない兵士だった。

 ウツミの両親は二人とも難病に侵され、高額な治療代は兵士のような高給の職業につく人間でもいない限り賄えない。そんな理由が奔放で責任というものと無縁であるように思えたウツミから本当に出た言葉なのかと、この耳を疑った。

 夏の夜、海岸で花火を散らしながら佇む彼女が大したことでもないかのようにそれを口にしたとき、この心臓の芯が冷たくなるような心地がした。真夜中の中で彼女に差し伸べた手は、少し後ずさりした彼女の傍を掠めて空を切った。

 きっとそれが全てだった。私の感情は、ずっと空を切り続けているのだと思う。

 ウツミは、そのまま沈み切った海に目をやった。

「アタシ、父さんと母さんが好きだから」

 私は黙り込んだ。きっと同じ言葉を言われて、彼女の友人や担任、両親でさえも黙り込んだのだと思う。

 そうしてウツミは北方に出征し、死んだ。

 半年前の冬のことだった。

 電車はいつの間にか、私が降りる駅に到着しかけていた。やる気のないアナウンスに懐古をかき消された私は、慌てながらバッグを手にして車両を飛び出す。

 身を焼くような日差しが雲の隙間を縫って降り注ぐ。誰もいないホームのフェンスに身を寄せてみると、静かな港町が一望できた。これもきっと、百万回見た景色だ。

 けれども、里帰りという機会の中で見たこの景色にはやはり思うものがあった。一瞬さえ過ぎてしまえば戻らない、今しかない景色というものが過去に色付けされて浮かぶ。

 ウツミもそういったものを、日常の中に見出していたのだろうか。

(……もう考えるな。私)

 今でもこうやって彼女のことを思い出す。けれども、もう何も起きないのだ。

 死者は帰ってこない。あの長い髪も、遠くを見るような目も、何も。彼女が死んだことを聞いてから、悲しみや苦しみの代わりに繰り返してきた言葉をもう一度唱えた。

 ボストンバッグを振り回すようにして改札に向かおうと、振り返る。その目をすっからかんのホームにもう一度向けた時、私はここに一人きりでいたわけではなかったということに気が付いた。

 遠くの方、別の車両から降りたのであろう人影がこちらに向かってくる。

 やけくそ気味に振ったバッグのことを後悔しながら、少し歩幅を狭めて歩く。もう一人の客は誰だろうか、と顔を上げた私はその様に思わず足を止めた。

 白面のアンドロイドだった。都市部のモールで接客や警備に使われているような、汎用型のよく見るアンドロイド。表情らしい表情はあるが、服もなく全身真っ白なそれはどう見ても機械だ。

(なんで?)

 どうしてそんなものが、こんな寂れた街にやってくる? アンドロイドが公共交通機関を使うこと自体は不思議ではないが、この街には高度な整備を行える場所などありはしない。彼ないし彼女にとっては不便な場所だろう。

 私の目線に構わずスタスタと歩くアンドロイドは、やがて改札の前で足を止めた。一挙手一投足が不気味なそれは、やがてこちらの方をぬっと向いてぽっかりと口を開けた。

「え……っと」

 なんだ。私が何をしたのかさえ見当がつかない。

 アンドロイドは改札にかざしかけていた手を元に戻すと、こっちに向かってゆっくりと歩を進める。思わず逃げたくなるが、狭苦しいホームに逃げ場などありはしない。

 私の両目を見据えたそれは、呆気に取られたようにしながら合成音声を発した。

まるで電話口の向こうから聞くような、見知った声を。

「アマノ?」

 なぜ、私の名前を。

 その疑問が出る前に、私は声の主の正体を知ってしまった。

「……ウ、ツミ?」

「うん。ウツミだよ」

 彼女は開いた手を私に向かって振る。

 あの日のように。


 数えきれないほどにウツミと下っていった駅前の坂道を、今も下っていた。標識は汚れ、隅には雑草が生え放題になっていたが、それでも変わらない道だ。

 そして隣にいるのは。

「ええ、と」

「一通りの説明はさっきので十分でしょ?」

「いやいや。全然飲み込めないから」

 私はこめかみを押さえながら、ウツミらしきものが言っていたことを反芻してみる。

「ウツミは去年死にそうになるほどの怪我をした。けどダメになったのは体の方だけで、ギリギリ生きてた脳は戦死する前の契約で機械に繋げられるようになって、今のウツミはアンドロイドの中に組み込めるようになった。

 で、今日は休暇が貰えたから里帰りに来た」

「なんだ、分かってんじゃん」

「全然すっと入ってこないんだけど」

 ウツミを名乗るアンドロイドは、軽々と足を運びながら私の横でぎこちない笑みを見せる。コツンコツンと機械の指でつつく頭の中に、彼女の最後の肉体がある、らしい。

「ウツミが死んだって聞いたのは」

「人伝いでしょ? 同じ部隊の連中には知らされてない秘密の契約だから、アイツらは私の体がバラバラになったところしか見てないよ。アタシのことを知ってるのは父さんと母さんくらいじゃないかな」

「その身体は」

「里帰り用に貰ったやつ。見ての通りそこらへんで見るタイプだよ。戦場だとまた別の体に入るんだけど、今は修理してる。あと恐竜と蟹をくっつけた鉄のオバケみたいな感じだから電車に乗れない」

「……」

「まあ、そんな感じ」

 いけしゃあしゃあと答える様は明らかにウツミのそれだった。けれどもここで認めてしまえば、自分の中で半年間言い聞かせてきた呪いがまったく報われなくなるような気がして、私は意地悪な質問をする。

「……ウツミが毎日電車の中で聞いてた曲は」

「アマノに教えたことないよ」

 最後の最後でかけたカマも外れて、私は深く溜息をついた。

 そうだ。あの日から私たちは二人で話すようになって、結局彼女が一人の時に聞く曲を聞けた試しは無かった。

「ああ分かったよ、もう。ウツミなんでしょ?」

「最初からそう言ってるじゃん」

 肩を落としながら彼女の顔を見上げる。この際中身がウツミであることは認めるしかないようだが、外見は人にすら似つかない。

 あの肩まで届く髪は一本も残っていない。あの雨水のような瞳はプラスチックで代用されている。

 覗き込んだその瞳がキロリ、とこちらを向き、思わずぎょっとする。今の彼女の所作にはまるで生気が無く、反応と応答を返すだけの機械に成り下がっているようにしか見えなかった。そしてその不気味さに、私は悲しみをとどめる最後のよすがを覚えている。

「アマノも里帰り?」

「お盆だからね」

「一発目からお盆らしいことが起きてラッキーじゃない?」

「ウツミ。怒るよ」

 その軽薄さが、やはりウツミの言葉であるように思えた。

 諫める言葉を放ってからはしばらく静かだったが、やがて私の隣に彼女がいないことに気が付く。振り返ってみると、少し手前で立ち止まった彼女は私を見下ろしながら口を閉じていた。きっと何かの表情がそこにはあったのだろうが、普及型のアンドロイドはそこまで表情豊かになるようには作られていない。

 それでも僅かな沈黙の中で、技術に遮られたその感情の欠片に触れたような気がした。

「いいね」

「は?」

「アマノに怒られてばっかりだったから、久しぶりにそう言われると嬉しくて」

 アンドロイドの表情は相も変わらず硬いままだ。けれども私の目にはっきりと映ったのは、いつも誤魔化すようにへらへらと笑うウツミの記憶だった。

 そうやって何も無かったかのように日常を描くウツミから、目を逸らす。

「ウツミ」

「うん?」

「どうして私に、話しかけたの」

 ひょっとすれば、あのアンドロイドが私のことを見もせずに去って行った方が幸せだったのかもしれない。そうして何も知らないまま、積み上げた悲しみを自分のものにして生きていった方が良かったのかもしれない。

 けれども、ウツミは私に自分の正体を明かした。もはや人とも言い難く、会うことだってほとんどできないはずなのに、生きているという情報を私に浴びせかけた。

 大切な人の死を受け入れることと、いつ途絶えるか分からない生に締め付けられることと、どちらが幸せなのだろう。

 そしてそのような他人の問いや感情の機微にとにかく無関心で、私の心情を汲み取らないのが、ウツミだった。

 彼女は自由だった。だから、この問いかけに迷うことも無かった。

「アマノに会えて、嬉しかった」

「それだけ?」

「それだけ」

 軽薄さは、やはり彼女の証明だった。

 私たちは坂を下ってからも歩き続け、互いの家に至る最後の分岐点に差し掛かった。ウツミは実家で少しの間過ごしてから、すぐ夜の電車で帰ると言う。

 じゃあここで終わりだ、と冷たい胸を撫でおろした私に、ウツミは声色を弾ませた。

「夏休みの時みたいにさ、海で花火しようよ。ウチから持ってくるから」

 あっという間に陽が沈んだ海岸で待ち合わせることを取り決められて、私は丁字路に取り残されてしまった。アンドロイドの背中は見る見るうちに遠くなり、陽炎の中に消えていく。

 やかましくがなり立てるセミの鳴き声の下で、彼女といられる喜びと、彼女がいてしまう悲しみの境界が分からなくなるようで、私は空を仰いで自分自身に問いかける。

 彼女ともう一度会いたいか。

 約束をすっぽかして全てを勘違いにしてしまうことだって出来たはずなのに、ゆだる頭の答えは哀れなくらい「はい」だった。


 寄せては返す白波が、灰色の砂浜に溶け行く様をじっと見つめていた。豪勢な音に似つかわない、静かな去り際に残るものは何もない。藍色に暮れつつある空を時折見上げては、彼女を待ち続けている。

 そして、自分はどうしてここにいるんだろうかと繰り返し考えていた。

 どうして私の心も知らず、無暗にかき回したまま置いてけぼりにする彼女のことを待っているのか、と。

 けれども答えは一向に姿を現さない。何も残さない波を、呆然と見つめる時間だけが続いていた。

 ウツミは私の問題が解決することを待たずに、やたらと響く足音を立てながら岸壁にやって来る。何か言ってくるものかと思っていたが、ぶら下げたバケツに市販の花火セットを突っ込んだ彼女は何も言わず、私をまた見下ろしていた。山の影に沈んだ陽は、もう彼女の顔を照らしてはいなかった。

「や」

「……結構遅かったね」

「なんか、ねえ」

 とぼとぼと苔むした階段を降りてきた彼女は、荒れ切った砂浜に足を踏み入れた。流木やらゴミやらが散乱し、砂の形も定まらないそこを乗り越えてようやく私のもとにやって来る。

 アンドロイドは肩を落とした。多分、この機種には溜息を再現する機能がないのだろう。

 届かない吐息に代えるようにして、ウツミは呟く。

「なんかさあ」

「何?」

「めっちゃ泣いたり、めっちゃ怒ったりして何が言いたいのかよく分かんなかった。私の体のことは伝わってたはずなのになあ」

「……」

 私は彼女の両親にどんな情報が伝えられていて、どこまで知っていたのかということに対して知る術を持たない。

 けれども、死んだと思っていた彼女が帰ってきたことに整備した感情で答えることなど出来るのだろうか。人の体さえ持たず帰ってきた彼女が、両親に向けられた愛情の結果だったとして、取り乱さずに受け入れられるだろうか。

 私は少なくとも、そこまで他人に無関心かつ冷徹でいられる人間を一人しか知らなかった。

 海水を汲んできたウツミは安っぽいビニール袋を裂きながら、適当な花火をこちらに寄越す。カラフルな火花を放つと謳うそれに目をやりながら口を開いた。

「親御さんと会えて、嬉しかった?」

「当たり前でしょ―――だから、あんなに騒がれたのがなんか、よく分かんなかった」

「ウツミ」

「ん?」

 私はウツミの作り物の目を、真正面から見据える。プラスチックの目に何が伝わるかは分からないが、それでもウツミという人物に向き合うために、これは必要な行為だった。

 黒い曲面の暗がりに、私が反射している。

「大切な人が消えると悲しくなるし、寂しくなるんだよ」

 ウツミは何も言わなかった。ただ無言でライターに向き合って、滑り止めのついた手でそれを器用に操作し、真っ暗な世界に一つの小さな火を灯す。

 花火の先にそれを触れさせる直前、身勝手な旧友は呟いた。

「アマノも?」

「うん」

 瞬間的に燃え広がった炎が、穂先に閃光を走らせる。

 重く暗い夜を裂くように、金色の光が海岸に飛び散り続ける。眩い赤や鮮やかな緑に変わっていくそれを、ウツミと私はじっと見つめていた。

 次の花火に火を点ける。閃く赤色の中に、答えがあったような気がした。

「ウツミ。卒業式の日に私になんて言ったか、覚えてる?」

「……なんだっけ。あの日はいろいろありすぎて、よく覚えてないかも」

「『じゃ』だけだったよ」

 別に彼女のことを責めたかったわけではない。けれども隣で黄色い火を散らし続ける彼女の首が、少しだけ俯いたように見えた。

「私はさ、それに何にも言えないまま立ってたんだ。でっかいスーツケース引いて駅の改札を通っていくウツミに、何にも言えなかった。

 あなたに呆れたんじゃない。どうやってさよならを言えばいいのか分からなかった」

 身勝手なウツミには、どんな言葉もきっと届かないと思った。

 それでも戦場に行ってしまう彼女に、最後になるかもしれない言葉を伝えなければならなかった。それが出なかった。

 あの一瞬の間だけではない。ウツミが去ってからもずっとこの答えは出なかった。そして死んだという話を聞いて、この問いに蓋をした。

 死人に言葉を伝えることなど出来ないだから、諦めてしまえと。

 けれど今、此岸に見つけた彼女の隣で、ようやくこの口を開ける。

 浜辺を照らし続けた私の花火が消えて、暗闇が帰ってくる。あの頃に比べると少しだけ大きくなった彼女を見上げたときに、ほのかな火薬の匂いがした。

「ウツミのことが好きだったよ、私」

 随分と長い無言を経て、私の持っていた花火が最後の一本だったということに気が付いた。

 バケツの中に放り捨てたそれが、ジュッという音を立てて冷える。

 波音の間に、何かの音が響いたような気がした。多分、ウツミの声だった。

「……アタシは」

 数度瞬きをして、彼女は海に沈む夕焼けの名残に目をやった。水平線が淡い赤に光っている。

「人を大切にできないから、誰かを好きになんてなれなかった。なったらいけない気が、ずっとしてた。だから、お金っていう分かりやすいものでしか父さんと母さんにも向き合えないんだ」

 ただ、と彼女はかぶりを振ってこちらに目を向ける。

 幻だ。絶対に幻だと分かっていたのに、一瞬だけ吹き付けた潮風が彼女の長い髪を確かに揺らしていた。

「もうすり減って分からないけど、きっとアマノのことが好きだったんだ」

「……」

「いろんなことが違いすぎて、きっと上手くは行かなかったと思うけど」

 どうだろう。いつも無謀な彼女の弱気な言葉に、思わず口元が綻んだ。

 ウツミはきっと知らないが、世の中には音楽の趣味や眺める景色の映り方、歩き方や笑い方の違いも受け入れてしまえるような感情がある。性の常識さえ超えてしまうそれを、私は信じている。そんなこと無いよ、とあの頃の自分なら言っただろう。

 けれどもこの体の違いは、大きすぎた。

 私は彼女の手を握った。プラスチックのそれはぶらんと垂れ下がり、力がどこに入っているのかさえ分かりづらい。やがて均等な配分で力が指に入り、生の手を彼女は握る。

「だから、アタシのことを諦めてくれる日を待ってたんだけどね」

 ウツミは固い腕を回して、私の細い体を抱きしめた。白面のような表情が見えなくなって、ようやく散々に惑った可能性が否定されたような気がした。

 もう遅すぎて、もう彼女のことを愛せなかった。

「どうしたら諦めてくれた?」

「もう諦めた」

「本当?」

 彼女の声の震えは、音声装置の不具合だったのかもしれない。けれどもその四文字を発した時だけ、彼女の体は随分と小さいもののように思えた。

 私は間に合わなくなって得られたものの価値を、寂しく抱きしめながら囁いた。

「だって、こんなに冷たい」

 例えばあの日、私が好意を伝えられて、ウツミが振り返って。やっぱりやめにすると言った彼女の生身の温かさを知れるハッピーエンドがあったのかもしれない。

 例えばどちらかが、もう少し早く手を伸ばしていれば。

 そんなものは無かったけれど、この冷たさにもきっと意味がある。

 この冷たさが、滲んだ過去を溶かす。


 あれから一か月が経った。彼女は自分で言った通り、夜のうちに帰って行った。

 そして、死んだ。

 戦死公報のコピーが彼女の両親から届いたとき、私はウツミがあの夜に遺していった曲を聞いていた。誰にも教えたことなかったけど、と私に囁いた一つの曲の名前。

 聞いたこともないような、古いクラシックだった。それもヴァイオリンの独奏で、冷たい旋律が響き続ける長い曲。こんなものをずっと聞いていたのか、と最初は驚いたが、聞いているうちにウツミらしい曲でもあるように思えた。

 私の積もった後悔と想いは、あの浜辺に置いてきたはずだ。あの冷たい体に熱いこの手で触れて、もう手遅れなのだとはっきり理解したはずだ。全ての区切りがついて、この曲を無感情に聞き流せるほどに整理をつけられていたはずだった。

 窓の外では雨が降り続いている。雨戸を叩く音が、震える弦の音色にいつまでも混ざり続けていた。

 なら、この胸を握り潰しているのは、何だ。

 全てを伝えても、全てを諦めても止まないものがあるというなら。そうできることに喜び、そうなってしまうことに苦しみ続けるのが私に残った生なら。

 無機質に刻まれた彼女の名前に、問いかける。

「どうしたら、諦められた?」

 彼女が愛した旋律も、降りしきる雨の音も、何も答えはしなかった。

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