第3話

「……」


 欄干に肘を置き、黒い大きな川を眺める。


 鞄を逆さまにすると、中に入っていた物が音も立てず黒に飲み込まれて消えた。心に大きな穴が空いた代わりに、お気に入りの鞄は随分と軽くなった。


 この期に及んで後悔している自分が情けなくて、涙が滲む。


「こんなとこで何してるんですか?」


 突然聞こえてきた女性の声に肩が跳ねる。頬を伝う涙を拭い、激しく鼓動する心臓を落ち着かせながらゆっくりと声のした方を見ると、幽霊でも警察でもなく、何処にでもいるような普通の女性が立っていた。


 何と答えれば良いか分からず黙っていると、責められているような気分になって、視線を逸らす。


 暫くそうしていると、女性は気まずい空気に堪えかねたように、あっ、と声を上げ、手に持っていた袋に手を突っ込み、ガサガサと漁る。


「飲みます?」


 そう言って差し出されたのは缶ビールだった。


 私がそれを見てどうしようか悩んでいると、彼女は一旦腕を引っ込めて訊ねてくる。


「あ、ちょっと待って。未成年やったりしないですよね?」


 首肯する。


「良かったぁ。というかこんな時間に未成年の人がいたらそれはそれで問題ですよね。まぁそういう意味でも良かったって事で。ちょっと一緒に飲みましょ。これは奢るんで、私に付き合ってくれたら嬉しいんですけど。あっ、何ならうち来ます? というか行きましょう。暑いし」


 既に酔っ払っているようにも思える彼女に半ば強引に腕を引かれ、私は重たい足を動かす。真っ暗で静かな住宅街を通り、大きなマンションの敷地に入っていく。エレベーターは使わず一階の廊下を突き当たりまで行くと、彼女はエントランスでも使った鍵で扉の鍵を開け、私を招き入れる。


 家に入る直前、ちらと視線を動かし表札を見る。


 彼女は香川というらしい。


「どうぞー」

「お邪魔します……」


 小さく呟くように言うと、彼女は勢いよく振り向き、見開いた目で私を見た。


「声出せるんですね」


 喋れない人だと思われていたらしい。なら何故話し相手に選んだのか。


「まぁいいや。どうぞ遠慮無く入ってくださいな」


 リビングではなく、一番手前の客間のような部屋に案内される。ローテーブルと座椅子が中央付近に設置されており、壁沿いには棚や箪笥が置かれているが、全体的にとてもシンプルな部屋だ。


 彼女はゴンッと音を立ててテーブルに袋を置き、座椅子に腰を下ろした。私はそれを見て反対側の座椅子に腰を下ろす。


「どっちが良いとかあります? まぁどっちも一緒なんですけど」


 うははは、と彼女は楽しげに笑う。やはり既に酔っているのだろう。もしかしたら普段からこの状態なのかもしれないが、彼女と初対面である私にそれはできない。


「そう言えば名前何て言うんですか?」

「琴平仁美」


 缶ビールを受け取りながら名乗る。彼女はカシュッ、と小気味良い音を立てて缶を開け、風呂上がりに牛乳を飲む勢いでごくごくと喉を鳴らす。ぷはぁ、と息を吐き出し、幸せそうな笑顔を浮かべる。


「ふんふん。ことひらさんねぇ。初めて聞いたかも。その名字珍しくない?」

「まぁ、あんまり聞かないかも……」

「ね。どういう字書くの?」

「木琴の『琴』に『平ら』」


 いつの間にか敬語じゃなくなっているなぁ、とどうでもいい事が気になったが、どうでもいいので気にしない事にして、私も彼女に倣って缶を開ける。


「ふんふん。私は香川千里。小学校で習う漢字ばっかりやから覚えやすいと思う」


 彼女はまるで劇をしているかのように胸に手を当てて名乗った。


 変わった人だな、と思いながら恐る恐る缶を傾けると、口の中に苦いアルコールの味が広がり、思わず顔を顰める。それを見ていた彼女はまた、うははは、と大きく口を開けて笑う。


「もしかしてお酒飲んだ事ない?」

「梅酒とかワインなら飲んだ事ある」

「ビールは初めてって事?」

「うん」

「琴平ちゃんの初めて貰っちゃったぁ」


 自分で言って、自分で笑う。酔っ払いは見ている限りではとても幸せそうに見える。私はお酒を飲んで彼女のようになった事が無いので、彼女が今どんな気分なのかは分からない。羨ましい。


「琴平ちゃんこれ開けてー」


 渡されたのはおつまみと思しき食べ物の袋。酔っ払いの手では開けられなかったらしい。私は一瞬どう開けるのが良いか悩み、結果普通に開けた。


「どうもー、いただきまーす」


 不満は無いようだったが、少しして不満が湧いてきたらしく、中身が取りやすいように袋の端を引き裂いた。


 そして少しの間黙々とお酒を飲み、彼女が二本目の缶を空にして、三本目を開けながら突然話し出す。


 先程までの無邪気な声とは違い、泣いてしまいそうな、悲しそうな声だった。


「私もね、ちょっと前にあそこから飛び降りようとしたんよね。まぁこうして無様に生きてるんやけども」


 悲しげな表情のまま、無理遣り捻り出すように笑った。


「この家も先月までは一緒に暮らしてる人が居ったんやけど、喧嘩したというか……愛想尽かされたというか……浮気されてたというか……。まぁそれで出て行っちゃって」


 ビールを口に入れ、相変わらずの苦味に眉を顰めながらも彼女の言葉に耳を傾ける。


「初めの方は何やねんアイツ!って感じで切れ散らかしててんけど、思い返すと忙しいからってデートも少なくなって、デートしてもあんまり楽しめへんかったりして、私の態度も悪かったんかなぁとか思うようになって……。んで、まぁ仕事も全然集中できひんくなって、家事もやる気にならんくて、もう良いかなぁって思ってあそこ行ってんけど、怖くて逃げ帰って来ちゃったんよね」


 彼女の言葉が途切れ、どう返事をするべきか迷う。そうしている間に彼女は新しく缶を開け、自棄になったように喉を鳴らす。ぷはぁ、と息を吐くのと同時にテーブルに叩き付けられた缶は随分と軽い音を鳴らす。あの一瞬で半分近く飲んだらしい。


「なぁ。私も言うたんやし、琴平ちゃんが何であっこに居ったんか教えてよ」


 自分が勝手に喋り出したんやろ、という言葉を飲み込み、まだ半分以上残っているビールをまた少し飲んで考える。どうしようかと考え始めて数秒、別に良いかと半ば自棄になったように結論を出し、私は話し出す。


 私も彼女と同じように彼氏と別れた事、それによって生きる意味、がんばる意味が分からなくなった事、死ぬのが怖かった事。今まで心の中で堰き止めていた事が洪水のように溢れ出る。私も酔っているのか、自分でもちゃんと話せているのか分からないが、彼女は時折相槌を打ちながら聞いてくれていた。


「死にたい」


 どのくらい話したのか、気付けば私は泣いてしまっていて、いつもの衝動が湧き出してくる。恥ずかしくなって俯いていると、彼女が徐に私の隣に来て、不意に抱き締められる。


 私は突然の事に戸惑いながらも、久しぶりに感じる人の温もりに心を満たされ、頭を撫でられると、我慢していた涙が溢れ出した。


 彼女は何も言わず、泣きじゃくる私を抱き締め、頭を撫でてくれていた。


 暫くして、私の涙が涸れた頃、彼女が耳元で囁くように言う。


「私な、恋人と別れてから寂しかってん」

「うん」

「琴平ちゃんも、どうせ死んじゃうくらいやったら、私と一緒に居てよ」

「えっ?」


 抱き締めていた彼女の腕の力が緩み、私はゆっくりと身体を起こす。


「琴平ちゃんが良ければやけど、この家は私一人やと寂しいからさ」


 衝動的に家出をして、行く当ても無く彷徨い、荷物を全て捨てた。このまま此処を出て行ったとしても、やりたい事もできる事も無い。後は死ぬのを待つだけ。けれど、死ぬのは怖い。なら、彼女が許してくれる限り、彼女と一緒に暮らしてみるのも良いかもしれない。そう思った。


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