第8話 ンィーガ視点

〜ンィーガ視点〜



 深夜未明。


 集落の狭い家の中で、ンィーガは眠れない夜を過ごしていた。

 そばではロウロが寝息を立ててぐっすりと眠っている。


 瞑目めいもくすると、ザルバドの怒声や泣き叫ぶギャドの姿がよみがえって、眠ることができなかった。

 五感が鋭敏になってしまい、下に敷いているささくれたすだれの感触が気になって仕方がない。何度も寝返りを打って体勢を変えてみても、効果は薄かった。


「誰だ!?」


 ぎ澄まされた耳が、かすかな足音を拾う。

 ンィーガが飛び起きると、家の入り口に影が差した。人型ではなかった。頭の左右から、枝分かれした細長い角が突き出ている。


『サウザンドの青年よ。名乗れ』


 その言葉は、鼓膜こまくを震わせることなくンィーガの心臓に響いた。


「お前が名乗れ」


 そばに置いていた槍を手に取り、ンィーガはしゃがみ込んだまま音もなく構えた。


『私は大賢者だ。名前などない』


「だいけーじゃ? サウザドを導く森の種族が、なぜここにいる」


『私とて好んで人里になど下りない。だが事態は一刻を争う。心して聞け』


「聞こう。だが俺はまだお前をしーじたわけではないぞ」


『構わぬ。ただ耳を傾けるだけで良い』


 大賢者は隆起りゅうきした喉笛を震わせ、続ける。


『じきに《ハザード》が起こる。サウザンド族と、我ら大賢者を巻き込む強大な嵐だ。逃れることはできない。しかし、治めることはできる』


「ハザード、だと?」


『そうだ。そして《ハザード》を治めるのは、サウザンドの英雄。私は、お前こそがその英雄だと見ている』


「サウザードの英雄はザルバドだ。俺じゃない」


『いいや、違う。私にはわかる。ザルバドは《ハザード》を巻き起こす者。治めるのは、対となるもう一人の赤子。さぁ、青年よ、名乗るがいい』


 逡巡しゅんじゅんのあと、ンィーガは口を開いた。


「俺はィーガ。の、ィーガだ!!」


 大賢者は噛みめるように深く頷くと、ゆっくりと顔を上げた。


『真の英雄ィーガよ。洞窟に幽閉ゆうへいされた友を助けろ。そして、その言葉を信じ、《ハザード》を治めるのだ』


 そう言い残して、大賢者は去っていった。


「ィーガ」


 ンィーガが振り返ると、ロウロが眠そうにまぶたをこすりながら身を起こした。


「誰と話していた?」


「だいけーじゃ様だ」


「大賢者様と?」


「ロウロ。お前はだいけーじゃ様をしーじるか?」


 ロウロはうなずく。


「信じる。大賢者様は言葉を下さった。大賢者様は今日まで、私たちを導いてくださった」


「そうか。なら、俺も信じよう」


 槍を手に立ち上がろうとするンィーガを見て、ロウロは首を傾げる。


「ィーガ、どこへ?」


「だいけーじゃ様がおっしゃっていた。もうじき災厄が起こる。俺は洞窟へ行く。そこで友を助け、ともに戦い、災厄をしずめる」


「ィーガ、手を出して」


 ンィーガは言われた通り左手を差し出す。

 ロウロは家の奥から小さなうつわを持ってきて、人差し指を唾液で湿らせてから、中の粉末を指の腹ですくい上げた。


「何をしている?」


「ィーガにの加護を授ける」


 ロウロは粉末が付着した人差し指で、ンィーガの左手の甲に紋様を描いた。

 指をくわえて唾液をつけては粉末をすくい、紋様を描き足していく。

 やがてそれは複雑な形を取ったが、暗闇の中ではよく見えなかった。


「何も見えない」


「大丈夫、私には見える。ヌケニンの加護が、必ずィーガをまもってくれる」


「わかった。……ありがとう」


 ンィーガは槍を地に突き立て、今度こそ力強く立ち上がった。


「友を助けにいく」


 ンィーガは小さな松明たいまつを手に、暗闇の中を走った。


 幸いなことに他種族の姿はない。夜の湿原は眠っていた。


 サウザンド族の集落の近くに、洞窟は一つしかない。ンィーガは夜空を照らすわずかな星の光と、心もとない小ぶりな松明の火を頼りに疾走した。


 崖の下にぽっかりと空いた穴が見えてくる。無事洞窟にたどり着いたようだ。


「ザルバド、いるか?」


 ンィーガは松明で前方を照らしながら進んだ。洞窟の中は湿っていて、気を抜くと足を取られそうだ。


「その声は、ィーガか?」


 ほどなくして返答があった。洞窟の壁に反響し、幾重いくえにも重なって聞こえる。

 しかし、声の主はザルバドではなかった。


「フー? フーなのか?」


 大賢者は友としか言わなかった。

 そのためンィーガはてっきり一番の親友であるザルバドが幽閉されているのだと思った。閉じ込められたザルバドを助け、ともに《ハザード》を治めるのだと願った。


 しかし、大賢者はこうも言っていた。


『ザルバドは《ハザード》を巻き起こす者』


 その言葉が、ンィーガの胸の奥に引っかかっていた。


 ゆるやかな曲線を描いた道の先に、縄で縛り付けられたフーの姿があった。


「フー、なぜここに?」


「話せば長くなる」


「構わない、教えてくれ」


「昨日の夜、オウララ様が殺されたそうだ」


「!?」


「それに気づいたグーグスがザルバドを起こして、ザルバドが集落の男たちを何人か呼んで会合を開いた。

 グーグスが言うにはオウララ様を殺したのは大賢者様で、大賢者様を今すぐ皆殺しにすべきだと騒いだ。

 ザルバドもグーグスの言葉を信じて疑わなかった。

 俺はそんなはずがないと最後まで訴えたが、ザルバドは聞く耳を持たなかった。そして、俺をこの洞窟に閉じ込めた」


「どういうことだ、何が起こっている?」


 フーは半ば諦めたように力なく首を横に振る。


「わからない。ただ一つ言えることは──」


「ィーガ!」


 その先をさえぎるように、洞窟の入り口から声とともに足音が近づいてきた。声色からザルバドではないとわかった。

 姿を現したのは、ロウロだった。


「ロウロ、どうした?」


「ィーガ、今すぐ集落に! ィーガがいなくなったあと、みんなおかしくなった」


「みーなが? ……これが、だいけーじゃ様が言っていた《ハザード》なのか?」


「ハザード? それはなんだ?」


「わからない。だいけーじゃ様が言うには、ザルバドが《ハザード》を巻き起こすのだそうだ」


「やはりそうか」


 フーは身を寄せ、ンィーガの耳元にささやく。


「!?」


 ンィーガは目を見開き、言葉を失った。


「ィーガ?」


 ロウロが不安げに見つめてくる。


 ンィーガは硬直したまま動くことができなかった。

 思考だけが加速したが、すぐにそれは同じ場所をぐるぐると回り始め、堂々めぐりになった。

 ンィーガは結論を出せないまま頭を振って思考を中断する。


「ロウロ、ザルバドは今どこに?」


「ザルバドは集落から逃げ出した人たちを追いかけていった。多分、まだそばの平原にいる」


「わかった」


 ンィーガはフーに振り返る。


「フー、ここでロウロを守ってくれ」


「ィーガ、どうする気だ?」


「《ハザード》を止めにいく」


 槍を手にしたその背中は、振り向くことなく洞窟を飛び出していった。



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