第2話 幻想の海に溺れる者たち(ビジョン・ダイバー)
左薬指の疼痛は悪化していた。左薬指の付け根から先だけが、自分の体とは違う独自のリズムで脈を打っている。今までにこんなことは一度もなかった。ヒイラギは
ヒイラギは自分の左薬指から指輪を外した。指輪の下から現れた薬指の付け根には縫い合わせた跡が残っている。これはフリューヤがヒイラギに残してくれた傷だ。かつてヒイラギの薬指がついていた場所には今はフリューヤの薬指が縫合されている。将来を誓いあったあの日、ふたりは互いの薬指を交換したのだった。
「フリューヤ……」
生きていたのか? 死んだはずでは。生きているなら私に一言もないのはなぜなのか。ヒイラギの脳内に答えの無い問ばかりが浮かび上がっては宙づりになる。
ヒイラギは東都の街を見下ろす。きっとこの都市の何処かにフリューヤがいる。ただどこにいるのか。
東都タワーからは、先の大戦つまり第四次魔術大戦がこの東都に残した爪痕を一望することができる。先の大戦で東都は歴史改変魔術、異世界転送魔術、初期化魔術、世界線消失魔術等々敵国各国の最先端魔術の実験場となった。(それらの技術は停戦後に条約で禁止された)。その結果がこの歪な混成都市である。水源が無いにも関わらず涸れることのない川、刳り貫かれた山、本来この惑星に存在しなかった生態系が織り成す森林、原初の海に没した魔天楼群、砂に埋もれた旧帝の城。そのすべてが先の大戦の悲惨さを物語っている。
フリューヤ……、どこにいる? タワーから都市を一望してもフリューヤが行きそうな場所にはピンとこなかった。というか、ピントが合わなかった。何の収穫も得られないままヒイラギは探偵事務所へと戻った。
***
ヒイラギは煙草の先端に火を点けた。ライターはフリューヤの遺品だった。紫煙を吐きながら、フリューヤとの日々を反芻する。
「私、この世界が嫌い」ヒイラギはフリューヤがことあるごとに呟いていた言葉を思い出した。ヒイラギの傍から姿を消す直前のフリューヤは
ヒイラギはフリューヤを求めて霊的空間へ
霊的空間を無数の
《フリューヤ!》 慌てて追いかける。相手方の周波数は読み取れない。自閉状態にしているようだ。《フリューヤなの?》 道を折れる。目標はまた道を左に曲がっていく。追いかける。曲がった先は行き止まりで誰もいなかった。
《フリューヤ!》ヒイラギの言葉は届かない。返事はなかった。
***
砂の街を激しい雨を洗い流す。雨の帳に包まれてこの街のすべては灰色だった。ぽつぽつとネオンライトが灯る。降りしきる雨の中、ヒイラギは傘もささずに灰色の街を彷徨っていた。その足取りは重い。濡れた髪や服が肌に張り付く。
フリューヤ、どうして? その思考はフリューヤのことで占有されている。フリューヤは生きていて、そして、自分の元にはもう戻ってこない。頬を滴るのが雨なのか涙なのか分からなかった。
背後から強い光が二本照射される。車のヘッドライトのようだ。いっそこのまま轢かれてしまおうか。道の真ん中でぼんやりと立ち竦みながらヒイラギはそんなことを思う。車はそのまま直進してくる。ヒイラギは避ける意思を見せない。車がヒイラギの体躯を跳ね飛ばす――寸前のところで停止した。
「所長、探しましたよ!」運転席にいたのはユミだった。
「びしょ濡れじゃないですか、風邪ひきますよ。乗ってください」
「いやその車、屋根ないだろ」
「大丈夫でありんすよ」後部座席に座っていたアデイルが傘を差す。「
「そういうこった」ヒワコが笑いながら言う。
「まったく。快適なドライブになりそうだな」
***
一行が雨夜のドライブに洒落込んでいると。
眼前に広がる闇の一部が蠢いたように見えた。
頼りない街頭がそれを照らし出す。
それの黒黒とした頭部には無数の単魔眼と二つの複魔眼が不規則に配列されていて、時々ぎゅるりと大きく回転した。背中から甲虫のそれに似た一対の黒い羽と目にも止まらない速さで動く薄羽が伸びている。車の駆動音にも勝るとも劣らないほどの羽音をたてながらそれは夜闇に浮かんでいた。化け物が羽ばたくたびに雨の軌道が変わり、ヒイラギたちに眼前から降り注いだ。胴体からは七本の手足と一本の尾が生えている。七本の手足は一本一本形状が異なっている。蟷螂を思わせる鎌状の腕、甲殻類のそれに似た鋏状の腕、雨に濡れててらてらと光る軟体動物の触手、先が三つに分かれた爪、毛むくじゃらの太い筋肉質な腕。それぞれ七種類の生物からもぎ取ったものを無理矢理移植したかのようだ。
ヒイラギたちの目の前に現れたそれは、三メートルは有に超す巨大な
「きゃゃぁぁぁあああああ!!!」
ユミの網膜がその
「ユミ、とりあえず落ち着いたか? ハンドルは任せる。あいつから距離をとるぞ」 ユミはヒイラギからハンドルを託されると、ブレーキを踏み抜きハンドルを目一杯切る。車は水飛沫をあげ反転し、来た道を逆走し始めた。
「な、な、なななんなんですか、あれは!」
「混成蟲だろうな……」
「ひぃぃぃいいい。いい、嫌ぁ!! キメラ! なにそれなにそれなにそれ! 気持ち悪い気持ち悪い! 逃げないと!」目に涙を浮かべ、大きく口で息をしながらユミは全力でアクセルを踏んでいた。
「ユミ、ハンドル離すんじゃないぞ!」
ヒイラギは助手席上で体を反転させると巨大な蟲に向かって銃弾を打ち込む。射出された弾は硬い表皮に弾かれた。ヒイラギが立ち上がる。その右手が緑閃光を纏う。伸ばした手腕の先から閃光が放たれ、蟲に直撃して爆ぜた。
「やったか?」
しかし、爆炎を払いながら蟲が姿を現す。その肉体には傷一つなかった。
「チィ……」
ヒイラギが続けざまに閃撃を放つ。怪物はそれを鎌の一振りで消し去った。
「姐さん、晶石は?」
「……事務所に置いてきた」
「ちょっと、何やってんだよ!」
「まずい、来るぞ!」
怪物は高度を下げつつ、車との距離を詰めてくる。そして、鎌を振り上げ、振り下ろす。
「ユミ、左に避けろぉ!」
「ひぃぃぃいいい!」
先程まで車が走っていた場所に大きな穴があいた。間髪入れずに、次は直径一メートルあろうかという触手が振るわれる。
「右だ!」ユミは急ハンドルを回した。触手が道に叩きつけられる。アスファルトが砕けひび割れた。触手は地面を並縫いするようにうねりながら迫ってくる。
「追いつかれるぅうううう‼‼」
「スピード出せ、もっと!」
「これが限界ですよ!」
触手は徐々に車との距離を詰めている。
「私があいつを押さえつける。その間にやれ、アデイル」
「はーい」
「でも、姐さん、石なしでどうやって」
「仕方ない、奥の手だ。使いたくなかったが」
ヒイラギは左腕を突き出す。薬指の指輪が青白く発光している。周囲の水がヒイラギの手元に集い一本の束となる。水の束は先端から八筋に別れ怪物の手足・尾を拘束する。
「やれぇー!!!! アデイル!!!!」
「ヒワっち、お願い!」
「はいきた!」ヒワコが巨人の腕でアデイルを天高く投擲する。
空中でアデイルが刀を抜く。降りしきる雨がアデイルの周囲だけ凍った。刀身が凄まじい冷気を纏っているのだ。「柳流魔刀術、
「はぁぁあああ!!」気迫とともに白い息を吐き出しながらアデイルは蟲の頭部を刀で斬りつける。冷気で凍った眼球がまるで湖に張った薄い氷のように呆気なく砕け散った。
「グジェヤァァァ」怪物はだらしなく開いた口から粘液と呻き声を漏らす。
しかし、アデイルの一太刀は致命傷には届かなかった。蟲は鋏でアデイルを振り払おうとする。アデイルは刀を押し付けるようにし、その反動を利用して再び宙を舞った。「柳流魔刀術、
「はぁぁあああ!!」
突き立てられたアデイルの刃がとうとう蟲の硬い外殻を破り、その肉体を焼き焦がしていく。
「ギギッチィエアアアァァァ……」
蟲はおぞましい断末魔を上げながら二つに裂け地に堕ちていく。蟲の体液に穢された雨が降り注いだ。
蟲の血を雨が洗い流す。焼き焦げた肉体。真っ二つに割かれてもなお死に切ってはいない。その手足はまだ蠢いている。
「いい雨だっけね」そこにアデイルが一刺しずつ止めを刺していく。体中に蟲の血を浴びたアデイルを道路照明が映し出す。普段ののんびりとした雰囲気とは異なる、生命を殺すことに躊躇いがない冷酷な
ヒイラギたちも降車し近づいてくる。ヒイラギが生み出した小さな緑色の太陽が死体を明るく照らした。
「一体どこのどいつだよ、こんなデカブツ使役したの」
「これか」ヒイラギは、怪物の尾に魔鉱石製の輪が着けられているのを発見した。
「こいつで使役してたんだな」
ヒイラギは煙草に火を点けると紫煙を吐き出した。
***
戻ると探偵事務所が荒らされていた。机に刻まれた三筋の爪痕が、襲撃犯はあの混成蟲だと物語っている。応接室に置かれたものは粗方破壊されていた。特に奥の部屋への扉周辺の損傷が激しい。奥に入ろうとして結界に阻まれたのだ。その後侵入を諦め、魔力の跡を辿ってヒイラギたちを襲撃したのだろう。
「オレ様特製の結界にただの物理攻撃は通用しねえぜ」ヒワコは自慢げだ。
「証拠品は無事か?」
「ろんもち! 奥の部屋だぜ!」
「狙いはそれか? 解析を急ぐか」
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