第4話 海羽

あの日君と出会ったことを  僕は後悔なんてしない

海羽



 孤独な木は、仮に育つとすれば丈夫に育つ。


      ウィンストン・チャーチル






































 第四少【海羽】




























 「釣り?」


 季節は変わって秋になり、友達も就職や卒論が落ち着いてきたのか、陽翔に釣りに行こうと誘ってきた。


 釣りの経験はないし、バイクに乗ってしまうと運動不足になるということが分かり、自転車を使っているため釣り場までは遠い。


 「バイク乗れよ」


 「バイク乗ると色々思い出しそうで」


 「はあ?」


 何度か断ってはみたが、結局釣りに行くことになった。


 何を釣るのかと聞けば、特にこれと決めてはいないという話で、連れればなんでも良いらしい。


 ルアーや釣り竿などの必要なものはというと、友達の父親と祖父が釣り好きでそれを借りられるとのことだった。


 失くしたり傷つけたら大変だろう。


 場所を決めて、そこまでは車と免許を持っている友達に乗せてもらえることになったが、音楽を聞くと運転に集中出来ないと言う理由から、音楽を聞くことも出来ず、話しかけることも出来なかった。


 陽翔を含め3人で来ていたため、もう1人と小さな声で話をしていた。


 コンビニなどに何回も立ち寄りながら釣り場へ着くと、すでにそのとき友達は疲れ切っていた。


 飲み物を渡して少し休むと、回復したのか友達は元気になった。


 「大丈夫か?落ちるなよ」


 「わかってるよ」


 「良い天気だ」


 燦々とした太陽のもと、3人は釣りを開始する。


 ここは本当に釣りをする場所なのかと疑いたくなるくらいに人はいないし、魚も釣れない。


 甘く見ていたわけではないが、餌に食いついたような感じも全くない。


 「はあー、暇」


 「同じく」


 「釣りって言うのは辛抱なんだよ。結婚と同じだぞって親父が言ってた」


 1時間、2時間と時間が経っていくと、晴れ晴れとしていた空は次第に陰って行き、海が荒れそうな感じがした。


 「なあ、やばくなりそうだから、そろそろ止めておかねえ?」


 「もうちょい」


 「波荒くなってきたし。釣りどころじゃねえって。あぶねぇよ」


 しかし、1匹も釣れずに帰るのが悔しいのか、友達はそこから動こうとしない。


 仕方なく、もう1人の友達と先に戻り、近くの店で待機していた。


 それでもなかなか戻ってこない友達に、陽翔は様子を見てくると言って店を出て行った。


 先程の釣り場まで戻ると、結構強い風と波が岩場にぶつかっており、足を滑らせでもしたらそれこそ流されてしまいそうだ。


 声を荒げて友達を呼ぶが、動かない。


 そこで、強引ではあると思ったが、友達を力付くで連れて帰ろうと腕を引っ張ると、友達はその陽翔の腕を払いのけた。


 その時だった。


 滑りやすくなっていた岩場では当然だが足元がぐらつき、さらにはバランスを崩した身体にはそれを止める術はなく。


 陽翔とその友達は、一緒に海へと落ちていった。


 その頃、1人店に残っていた友達は、陽翔の帰りが遅いことが気になって、同じように様子を見に行っていた。


 すると、岩場には人影が見えず、もしかしたら海に落ちたのではないかと思った。


 すぐに人に伝えようとしたのだが、強風で思う様に身体が動かず、同じように海へと消えてしまった。


 海とか自然のことを馬鹿にしていたわけではないが、いつもは綺麗な海に飲みこまれてしまう日が来るとは思ってもいなかった。


 抵抗すればするほど体力は無くなっていくし、服が水分を含んで重たくなっているから余計に動き難い。


 昔習っていた着衣泳って何だったんだろうと思うほど、無意味に等しいあがきだった。


 肺にあった酸素なんてあっという間に無くなって、身体から力が抜けて行くのに、掴むものなどないその海の中で、何かを掴もうと腕を伸ばす。


 そのまま静かに沈んで行く身体は、思っていたよりも静かだった。








 誰が助けてくれたのかは知らないが、呼吸をしていた。


 目を開けて空を見れば、先程までの悪天候が嘘のように晴れ渡っていて、本当に嫌になってしまう。


 ふと横を見れば、そこには一緒に落ちた友達が寝ていた。


 胸元が荒く上下しているところを見ると、死んではいないようだ。


 どうしてこんなところに寝ているのかと、陽翔はなんとか身体を動かしてみると、上半身だけを横に向かせることが出来た。


 すると、誰かが海に飛び込んでいく姿があり、御伽噺はあまり好きではないが、人魚でもいるのだろうかと思い、思わず笑ってしまった。


 しばらくして戻ってくると、そこにはもう1人の店にいたはずの友達がいた。


 「ウリちゃん?」


 その友達を海から助けたのは、いつもの格好をした少女だった。


 髪の毛も服もびっしょり濡れているのだが、男3人を助けたにも関わらず息を乱している様子はない。


 最後に助けたその友達を寝かせると、少女は陽翔に微笑んだ。


 「大丈夫ですか?」


 「ウリちゃん、なんで・・・」


 「泳ぐの、得意なんです」


 「いや、得意とかそういうレベルじゃないと思うんだけど・・・。もしかして、ウリちゃんって人魚なの!?」


 「人魚?」


 自分で言って恥ずかしいが、少女はキョトンとしていた。


 そんなものいるわけないか、というと、少女は少し考えるように首を傾げたあと、こう言った。


 「残念ながら、まだ見つかっていません」


 まるでいるかのような口ぶりだが、人魚の事は良いとして、それよりも、どうして少女が此処にいるとか、どうして男3人を助けて平気そうなのかとか、色々と聞きたいことはあった。


 「水族館にいたのです。そしたら、みんなが言っていたのです」


 「何て?」


 「海に人が落ちてしまったと。みんな、分かるのです」


 「・・・ウリちゃん、何て言ってたか分かるんだ」


 「海は急に怒るときがあるのです。とても怖いのです」


 「ウリちゃん、そんなに濡れて大丈夫?」


 相変わらず濡れることには抵抗がないようで、少女は大きく首を縦に動かした。


 友達2人も無事のようで、安堵した。


 目を覚ますのはもう少し時間がかかるかもしれないと思っていると、少女が立ち上がって何処かへ行こうとしたため、腕を掴んだ。


 「ウリちゃん、君は一体」


 「なぜ人は、知りたがるのですか」


 「え?」


 陽翔はなんとか立ち上がると、少女の腕を掴んだまま話を聞く。


 もし放してしまったら、少女が消えてしまいそうな気がして。


 「知らなくても良いことも知りたがります。知られないからこそ生きて来た子たちにとって、知られることは恐怖なのです。どの子も生きるために、ずっとずーっと考えて考えて、その術を身につけてきたのです。でも、人は知りたがってみんなを連れて行き、どうやって生きているのか、なぜそんな姿をしているのか、弱いところも見つけてしまう。なぜですか?なぜ、そっとしておいてくれないのですか?」


 あまり話さないイメージだった少女だが、この時は違った。


 なにより、今にも泣きそうな顔をしている少女に、陽翔は言葉が出なかった。


 正直、そんなことを聞かれても、陽翔は答えなんて持っていなかった。


 だが、答えを求めている少女に対して、知らない、というのは違うような気がして、陽翔は考えた。


 少女の手をぎゅっと掴むと、顔をあげてもう一度笑った。


 これは少女の為だけではなく、陽翔自身の気持ちを落ち着かせるためでもある。


 「人が知りたいと思うのは、好きだからだよ」


 「好きなのに、傷付けるのですか」


 「結果として、傷つけてしまうことはあるかもしれない。でも、最初から傷つけようと思っているわけじゃないんだ」


 海からの冷たい風が吹いてきて、さらには身体が濡れているからか、余計に寒いと感じるはずだが、なぜだか、それほど寒くはない。


 陽翔は少女に近づくと、もう片方の手で少女の頬に触れた。


 「好きだから知りたい。守りたいから知りたい。ずっと一緒にいたいから知りたい。ただ、それだけなんだと思う」


 「分かりません」


 少女の返事に、陽翔は困ったように笑った。


 なんと言えば伝わるのか分からず、でもとにかく伝えたくて、話す。


 「確かに、人は間違える。沢山ね。でも、知ることで、救えるものがあることを知ってるんだ。知らなければ、動くことも出来ない。人は、これまで犯してきた過ちから、それを学んだんだと思う」


 「でも、怖いのです」


 「自分を知ってほしいという人もいれば、知られたくないっていう人もいる。世界にはね、知らないから怖いことの方が多いんだよ」


 少女は、不安そうにしていた。


 まだ冷たい少女の頬には、少女の黒くて綺麗な髪がはりついていて、白い肌に映えるような赤い唇が浮かぶ。


 「知らないところで、今も誰かが傷ついてる。今日を生き抜こうとしてる人がいて、誰かを守ろうとしてる人がいて、それは人だけじゃなくて、動物に対しても同じなんだ」


 陽翔の言っていることを少女はちゃんと聞いていたが、理解していたかは別だ。


 陽翔がそう思ったのは、少女が口を少しだけ開けてぽかんとしていたことと、小首を傾げていたからだ。


 それでも良いと、知ることで何かを変えられるということを、気持ちだけでも良いから伝わって欲しかった。


 動物に関しても自然に関しても、知らないと放置されてしまうことがあるが、知ることで何か行動を起こせる。


 それを知っているからこそ、人は知りたがるのだと。


 「難しいです」


 「え?」


 「知りたがるのは、良いことなのですか?」


 「えっと、まあ、そういうことかな」


 「知る為なら、何をしても良いのですか?」


 「それは・・・違うと思うけど」


 人はしばしば、知る為の研究や実験というものを行う。


 そこに犠牲が全くないかと聞かれると、決してそんなことはない。


 犠牲を最小限に抑える、その犠牲でより大きなものが得られるならそれは正しいことなのだと、きっとそれが倫理的に間違っていることだと分かっていても、やらずにはいられない。


 「ウリちゃんは、人が嫌い?」


 ずっと気になっていた事があった。


 少女は人よりも魚に心を通わせていて、人よりも魚を信頼していて、人よりも魚に心を奪われている。


 最初はただ水族館が好きな子なのだろう程度だったが、そういうわけではなさそうだ。


 少女は陽翔の問いかけに対し、とても綺麗に笑った。


 「はい、嫌いです」








 あまりに綺麗に微笑んで、あまりに残酷に囁いた。


 少女の笑顔に気を取られ、少女の発した言葉に気付いたのは、それから少し経ってからだった。


 頬に触れていた手は力無く落ちる。


 それはショックという軽い言葉では表現できないくらい、陽翔の心臓も身体もずたずたに切り裂く威力を持っていた。


 無意識に呼吸を止めていたらしく、息苦しくなってきたことに気付いた陽翔は、ようやく酸素を取り入れた。


 時間差で体内に入ってきた酸素を身体中に巡らせようと、心臓はバクバクと波打つ。


 それが治まった頃、なんとか声を出すことが出来た。


 「なんで、嫌いなの?」


 聞いているのに、答えなんか出なければ良いと思っていた。


 知りたいけど知りたくないという、なんとも人間臭い理由で、聞いてしまった。


 きっとその時の陽翔の顔は、とても情けない顔をしていたのだろうか、少女はまだ握られている陽翔の手を掴み返す。


 「あなたのことが、嫌いなわけではないのです」


 少女が向けた笑みは、やはり綺麗だった。


 沈みかけて来た夕陽が頬を染め、身体の冷えは増して行く。


 「人が怖いのです。此処に来たのが間違いだったのです」


 「そういえば、何処から来たのか、ちゃんと聞いてなかったね」


 「探していたのです。でも、此処ではなかったようなのです」


 「探していたって、どういうこと?」


 「帰らねばなりません」


 「ウリちゃん!」


 話してくれるのは嬉しいのだが、陽翔からしてみれば一体何の事を話しているのか分からず、一旦止める。


 少女と陽翔を繋いでいるのは、頼りなく握っている手だけ。


 こんなに拙い繋がりを、必死になって放さないようにしているなんて、笑われてしまうかもしれない。


 いっそのこと、放してしまった方が楽なのかもしれないが、少し緩めただけですぐにどこかへ行ってしまいそうなそれを、強すぎて粉々になってしまいそうなくらい握る。


 「俺は、君のことを何も知らない」


 少女の顔を見ていると苦しくなって、陽翔は顔を下に向ける。


 「知ってるのは、それだけ」


 自分で言っていて、虚しくなる。


 少女のことを何も知らない、それだけが知っていることなんて、意味がない。


 水族館で出会っただけだと、気にしなければ気にしないで済んだ話なのだが、少女と話したいと思った。


 「不思議なものです」


 少女の声に、全神経を向ける。


 「あそこにいるあの子たちは、鳥籠の鳥と同じなのです。人は、あの子たちが飼われている姿を見て、なぜ喜ぶのか、とても不思議なのです」


 頭上から降ってくる少女の声は、いつも通り、透き通っていた。


 「でも、分かったのです。あの子たちは、可哀そうではなかったのです」


 その言葉に、陽翔はゆっくりと顔をあげて、そこにいる少女を見る。


 「海に戻りたいと言っている子もいるのですが、あの場所にいることによって、餌に困らずに済むのです。人はあの子たちのことを知っているから、大切にしてくれているのです」


 「・・・それでも、人は嫌い?」


 「みんなが幸せなわけではないのです。人が興味を持つことで、命を落とす子たちも沢山いるのです。あの子たちは、無限ではないのです」


 少女はそこまで言うと、目を細めて笑う。


 「あの子たちに、会いに行ってあげてほしいのです」


 その笑顔に、陽翔は握っていた手を強く握ったのだが、気付けば少女の手は自分から放れていた。


 夕陽の方を見た少女の横顔を見ていると、気を失っていた友達が起きたのか、声が聞こえて来た。


 慌てて友達に駆け寄ると、まだ視点が合わない目の動きをしていた友達が、陽翔の姿を捉えた。


 「大丈夫か?」


 「ああ・・・。なんで、俺・・・」


 「あの子が」


 そう言って顔を動かすと、そこには、少女の姿は無かった。


 「え?」


 まさか海に落ちてしまったのかと、陽翔は急いで辺りを探してみるが、そもそも、落ちた音などはしなかった。


 何処へ行ったのかと考えているうちに、もう1人の友達も目を覚まし、3人は近くの病院へ行くことにした。


 特に何も無かったが、体温が下がってしまっていたため、しばらくはそこで身体を温め、それから家へと帰る。


 車の中では、あの荒れた海に落ちて助かったことを、運が良かった、とだけしか言えなかった。


 しかし共通していたのは、身体が浮く感覚があったこと。


 少女のことを話せば、この2人のことだから周りに話したりSNSに書いたりするだろうと、語るのは止めた。


 釣り竿などを貸した友達の親は、案の定、海に落としたことを知ると激怒したらしいが、海に落ちたことを話せば、無事だったことを確認されて、それからやはり怒られたらしい。


 何しろ、海が荒れそうになったらすぐに引きあげろと言われていたようだが、それをせずに、陽翔の忠告も聞かずに海に呑まれたものだから。


 それにしてもよく無事だったなと言われ、日頃の行いが良いからだと答えたら、また怒られたらしい。


 懲りない奴ではあるが、悪い奴ではない。


 就活で活動する学生も少なくなってきて、それよりも卒論に集中するようになった頃、陽翔は卒論の手直しをしていた。


 一旦は書き終えたのだが、担当の教授に見てもらったところ、時間があるなら手直しするようにと言われ、それ用の資料まで渡されてしまった。


 別にそこまで完璧に仕上げる心算なんてさらさらなかったというのに、陽翔からしてみれば無駄なことだった。


 卒論で良い評価を貰ったところでどうしようもないのに、時間があるというのは良いことだけではない。


 図書館で静かに作業をしていると、1つ席を空けた隣に、見覚えのある人が座った。


 以前よりも地味な格好をしているが、それでも化粧の濃さは変わっていない。


 「卒論、書き直しなんだ」


 「付け足してるだけだ。教授に押し付けられた」


 「私ね、教員免許取ったの。卒業したら、学校の先生ってわけ」


 「あ、そう」


 興味などないため適当に流し、教授から渡された資料を持って睨みつける。


 それを見ていた元彼女は小さく笑ったかと思うと、紙に何かを書いて陽翔の方にスッと差し出した。


 資料からその紙に目を向けると、そこには電話番号が書かれていた。


 「なんだこれ」


 「スマホ変えたの。新しい番号」


 新しくなったのなら、それこそスマホで送ってくればいいものを、なんでわざわざ紙に書いたのかと思っていた。


 「心機一転。大学時代のことなんて全部忘れて、一からやり直すの。あんたのことも忘れて、良い男見つけるんだから」


 「そうしろ。・・・ん?この前一緒にいた男は?」


 「ああ、あの人。声をかけられてご飯食べには行ったんだけど、歳いってる割には貯金なくて。煙草は吸うしお酒は飲むし、パチンコもやるんですって。信じられない。だから音信不通にしてやったの」


 「煙草か酒くらいなら許してやれよ」


 「嫌よ」


 はっきりと拒否した元彼女は、煙草の臭いが好きではなく、酒に呑まれて警察沙汰になった男を知っているらしく、煙草も酒も絶対にやらない男が良いらしい。


 ならばギャンブルは良いのかと聞けば、そんなものそれ以前の問題だと言っていた。


 見た目が派手な割には、そういうところがある。


そして元彼女は来たばかりなのに、荷物をまとめて席を立った。


 「ごめんね」


 「は?」


 自分から謝る様な性格ではなかったはずだが、確かに聞こえた。


 何か悪い物でも食べたのだろうかと思っていると、陽翔の顔からそれを察したのか、元彼女は軽く陽翔の頭を叩いた。


 「友達として、会ってくれる気があるなら、連絡して。友達としても嫌なら、そのまま捨ててくれればいいから」


 「は?」


 「それから、あの水族館にいた子、あんたの片思いの相手だって聞いたわ」


 きっと友達が言ったのだろうと、陽翔は資料に目を向ける。


 「だから、謝っておいて。代わりに。あの子にはあの子の良いところがあるんでしょうから。私には分からないけどね」


 そう言って去って行った元彼女から渡された紙を、しばらく眺めていた。


 連絡することはなかったが、スマホに新しい番号だけ登録しておいて、紙自体は捨てた。


 それに、あの約束は守れない。


 なぜなら、少女には会えないからだ。








 姿が見えなくなった少女を探して、もちろん水族館に何度も通った。


 毎日毎日、開館から閉館までの時間、ずっとそこにいた。


 それ以前からも来ていたからなのか、飼育員とも顔見知りになってしまったが、少女のことは分からなかった。


 いつも少女が見ていた水槽の前でじっとしていても、少女が現れることは無かったし、少女のことを知っている人もいなかった。


 もう少女とは会えないかもしれないと思っても、少女と会える可能性があるのがあの水族館しかなかったため、その為なら何度だった足を運んだ。


 例えそこに少女がいないとしても、面影を思い出していた。


 「今日もいないか」


 水槽をじっと見ていると、少女と話をしていた海亀が近づいてきた。


 そして陽翔に顔を近づけると、何やら言いたそうに目を見つめてくる。


 それでも、陽翔には何を言っているのか、海亀が何を伝えたいのかが分からず困っていると、続いてエイもやってきた。


 一番大きな水槽にいるジンベエザメもこちらを見ているし、少女が可愛いといっていたグソクムシも、それから、名前も知らないような生物たちが一斉に、陽翔がいるガラスへと寄ってきたのだ。


 しばらくするとみな解散してしまったのだが、後ろを見ると、そこには自らは光っていないのに光っているクラゲがいた。


 「ウリちゃん」


 結局、少女が何処からきたのか、名前は何と言うのか、分からないままだった。


 少女と出会ったこの場所も、一緒に見た桜も、濡れた海も、ここに来る度に思いだして苦しくなる。


 それでも、やっと分かったこともある。


 「君は、居場所を探していたんだね」


 深い深い海の底で、じっと生きていた。


 見上げた水面は、とても綺麗で、何が輝いているのか分からなかった。


 次第に、生物ではない何かが近づいてきて、みんなを連れて行ってしまった。


 一度連れて行かれた子は戻って来なくて、それからその何かは、色んな場所に現れて、何処かへ消えて行く。


 静かだったのは、いつだっけ。


 生きることだけが目的のこの世界において、それ以外の目的を持った世界の生物は、敵であって恐怖であって未知だった。


 檻の中に入ることを嫌がるその生物たちは、他の生物を檻に入れることには抵抗がない。


 自分と同じ種の生物が無意味に殺されると罰を受けさせようとするのに、他の種の生物が無意味に殺されたとしても、罪にはならない。


 あの生物たちは、不思議な生態をしている。


 でも、一部のその生物たちは、何かを守る為に動いているらしい。


 これまでに、沢山の友達がいなくなった。


 その友達のためにも、ずっとここにいなければいけないのだと思う。








 「海科、来週海に行って調査することになった」


 「わかりました」


 陽翔は最初に内定をもらった会社に誠心誠意気持ちを伝え、急いで別の会社というか研究所に志願を出した。


 なんとか新卒には間に合って、海底を調べる研究をしている。


 その研究ではもちろん、深海生物の生態を調べるために餌や罠を仕掛けることもあるし、その生物が結果として死んでしまうこともある。


 陽翔はそういった生物をひとつひとつ供養して、許可を貰って研究所の裏手に埋葬している。


 その度、少女のことを思い出す。


 「よし」


 そしてまた、何かを守る為の探究を続けるのだ。








 またいつか、君に出会う為に。



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あの日君と出会ったことを  僕は後悔なんてしない maria159357 @maria159753

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