第3話 友情
あの日君と出会ったことを 僕は後悔なんてしない
友情
勇気とは、起立して声に出すことである。
勇気とはまた、着席して耳を傾けることでもある。
ウィンストン・チャーチル
第三少【友情】
「だから、そういうこと。お前のことが好きなわけじゃないし、やり直そうとも思ってない」
「そんなこと言ってさ、本当は私のこと好きなんでしょ?」
「だから違うって。何回言えば分かるんだよ」
「陽翔ってば恥ずかしがってそういうことちゃんと言わない人だもん。絶対私のこと好きなのよ。私が好きな人出来たって言って別れたから、怒ってるんでしょ?私にも嫉妬してほしいんでしょ?」
「違うって・・・」
にっちもさっちもいかず、陽翔は頭を悩ませていた。
どうしてこうなってしまったのだろう。
水族館に来たのは良かったが、来てすぐにお腹が空いたと言われてしまい、生物たちを見るよりも先に、可哀そうにも成れの果てを口にすることとなった。
食後の休憩をしていると、いきなり写メを撮られてしまった。
「何すんだよ」
「何って、SNSに載せるの。彼氏と水族館来てまーすって!」
「止めろよ!」
彼氏でもなければデートでもないのに、彼女は勝手にアップしてしまい、そのせいですぐに色んな人から祝福メールが届いた。
ぶすっと不機嫌になって頬杖をついていると、彼女は昔のように、イルカショーを見たいと言ってきた。
勝手に1人で見に行って来いと言ったのだが、強引に引っ張られてしまい、結局は2人並んで見ることとなった。
可愛い可愛いと連呼して、スマホでイルカを撮っているようだが、華麗なジャンプを見せたイルカの飛沫によって、スマホが少し濡れてしまったらしい。
壊れてはいなかったようだが、彼女は濡れたと大騒ぎしていた。
ようやく館内を見て回るのかと思うと、少女を見つけた。
こんなところを見られたくはなかったのだが、彼女が海亀がいるとはしゃいで、少女の近くへと行ってしまった。
陽翔は少し放れたところから見ていたのだが、彼女が陽翔のもとに来て腕を掴んで行ったため、彼女を挟んで少女と並ぶ形となってしまった。
彼女はすぐに目移りをして別の水槽へと向かったのだが、そのとき、ふと後ろを見ながらクスクスと笑っていた。
「ねえ、見た?あの子」
「え?」
どうやら、あの少女のことを言っているらしい。
「ずっとああやって見てるのよ。何が楽しいのかしら。化粧もしてないし、なんか地味な子よね。もしかしてオタク!?」
そんなことを言いながら楽しそうに笑っている彼女に掴まれている腕を強く払うと、彼女は驚いたような顔をしていた。
確かに、彼女はどちらかというと美人な顔立ちはしているが、飛びぬけて綺麗というほどではない。
それに、スタイルは良いかもしれないが、はっきり言って中身は最悪だ。
水族館に来たいと言ったのは彼女なのに、歩きにくそうな高いピンヒールを履いてきているし、短いスカート、胸元が開いた服、どれもこれもが彼女自身を繕うためのもの。
化粧もばっちりしているが、それはきっと今日遅刻してきたことからも分かるように、時間をかけてきたのだろう。
香水もぷんぷん匂っているし、なぜ彼女が良いと思っていたのか、陽翔は自分に問いかけた。
しかし返事などなく、ただ呆れてため息が出た。
「なに?どうしたの?」
陽翔から放たれる空気が変わったことに気付いていないのか、彼女はまた腕をからめてこようとしたため、陽翔はその腕を叩いた。
「ねえ、陽翔・・・」
すっと彼女を見ると、今の陽翔の顔には感情がないのか、思わず彼女も伸ばした腕をひっこめた。
すぐに笑うと、彼女は安心したのか、また腕を伸ばしてきたため、言葉で拒否した。
「俺は好きだよ」
「え!?」
いきなり告白されたと思い、彼女は顔を赤らめる。
「ちょっと、こんなところで・・・」
「あの子を見てると、ドキドキもするし、でも安心するんだ」
「え?あの子?」
それは自分ではないことだけは分かったようだが、一体誰のことを言っているのかと、彼女は眉を潜ませる。
「だからごめん。もう会わないし、連絡も取らない。もちろん、友達としてなら会うけど」
「・・・!馬鹿にしないでよ!あんたなんか、こっちから願い下げなのよ!!」
彼女が少し大きな声を出したからか、周りにじろじろと見られてしまったが、まあ良いだろう。
陽翔は踵を返して少女のもとに向かうと、邪魔をしないように後ろに座っていた。
それにしても全然気付かないし、少女はあまりそこから動くこともないのだが、たまに見える横顔が嬉しかった。
その日は少女に話しかけることはしなかったが、翌日になって、陽翔が彼女に振られたのだと噂がたっていた。
その噂を流したのが誰か分かってはいるが、これ以上関わってもしょうがないため、陽翔は放っておいた。
振ったにしろ振られたにしろ、それで丸くおさまるならと思っていると、噂を聞いた友達が集まってきた。
「おい!聞いたぜ!」
「振られたんだって!?」
「いや、でもアタックしてたのはあいつだよな?どういうことだ?」
陽翔は事のいきさつを話すと、友達は納得してくれたようだ。
大学でずっと陽翔にちょっかいを出していたのは相手の方であって、陽翔には最近振られた本命の子までいることがバラされると、誰もが同情したようだ。
「それにしても、女って怖いな」
「振られた腹いせに嘘を言いふらすって、どんだけだよ。プライド高いな」
「そもそも、陽翔に別れようっていったくせに、なんでまた付き合おうって言ってきたんだ?」
「それがさ、好きになったのって、既婚者だったらしいぜ。それで、金持ってるからって近づいたんだけど、相手の奥さんにバレて関係を切ったって話だぜ」
噂でしかないため証拠などはないし、もう彼女のことなど興味はないため、そんな話はどうでも良い。
夏も近くなると陽翔は卒論もほぼ終わっていたため、毎日が暇だった。
そこで、短期のバイトでもしようかと思っていたのだが、内定をもらった会社に、くれぐれも入社するまでは他のバイトなどには手をつけないようにと言われてしまったため、悩んでいた。
本来、この夏ごろも卒論を書いている予定だったのだが、思いのほかはかどってしまった。
まだ終わっていない友達が「海に行こう」という連絡がきたため、それどころではないだろうということを伝えた。
その時、ふと思った。
陽翔はすぐに立ち上がり着替えると、自転車に乗って飛ばした。
着いた水族館の中を軽く走ると、そこにいる少女が目に留まる。
「こんにちは」
夏になったというのに、少女はカーディガンを羽織ったままで、それに暑そうにもしていなかった。
確かに館内は涼しくもあるが、それでも外に出れば暑いはずなのにとは思ったが、それよりも先に、伝えたいことがあった。
「海、行こう」
その単語が気に入ったのか、少女は一瞬にして目を輝かせる。
水族館が好きなのだから海も好きなのではと思い、どうせ振られているのだからと玉砕覚悟で突っ込んでいったところ、少女の反応を見る限り、上々だ。
「海とは、あの海ですか」
「うん、その海」
とても嬉しそうにしていたのだが、すぐに顔を曇らせてしまった。
どうしたのかと思って聞いてみると、少女は海は好きなのだが、やはり太陽の光が強いのが苦手なのだという。
それに、暑いとクラクラしてきてしまうため、外を歩いて海に行くというのが困難らしい。
「そっか・・・」
でも海には行きたいという少女の願いを叶えてあげたくて、陽翔は日傘を購入することにした。
それから大きめのツバがついた帽子。
どちらかをつけていれば、太陽の光は直接浴びなくて済むだろうと、少女に提案してみる。
ひんやりとするタオルに、凍らせた飲み物を持っていって、後は岩陰にでもいれば大丈夫なのではないかと言えば、少女はとても悩んでいたが、相当海が見たいらしく、承諾してくれた。
そして約束の日、2人は海に来ていた。
ここまで来るのも大変なことで車にしてもバスにしても密閉空間だと気分が悪くなってしまうという少女に、それならばと思いきってバイクを購入して、それで連れて行った。
バイクの免許を取っておいた良かったなんて、今になって思うとは。
ヘルメットにも窮屈な感じはあったが、なぜだか少女は楽しそうにしていた。
海に着くと帽子を被ってもらい、日陰日陰を選んで海辺に近づいて行くと、少女は靴を脱ぎ、足先でその冷たさを感じていた。
遊泳場だから泳げるとも言ったのだが、泳ぐのはいいと、ずっとぱしゃぱしゃと足だけを海に浸らせていた。
少女が海辺で遊んでいる間、陽翔はただその姿を眺めていた。
前前から思ってはいたが、少女の足はとても小さくて、所謂シンデレラサイズくらいだろうか。
そして毎日水族館にいるからなのか、それとも生まれつきなのか、白い肌が焼けてしまうのではないかと、密かに日焼け止めも買っていたのだが、少女は気にしていないようだ。
目の前で無邪気に遊んでいる少女を見ていると、少女がこちらに向かってきた。
靴を手に持ち素足で向かってくるのは良いが、火傷しそうなくらいに暑い砂の上を、必死になって駆けてくる。
「暑いでしょ。火傷しちゃうよ」
「まるで生きたまま焼かれる魚の気分です」
そんな言葉に笑いながらも、こういうこともあろうかと買ってきたサンダルを少女に見せる。
「サンダル。このままなら砂の上も暑くないし、海に入っても平気でしょ」
少女はそこに足を入れ、しばらく砂の上で歩きまわっていると、とても感動したようだ。
また海辺に向かうと、陽翔が言ったようにサンダルのまま海に入って行き、サンダルと足の間に入ってくる砂のことも気にせず、踊っていた。
人がだんだんと増えてきて、少女が何処かへ行ってしまわないように見ていたのだが、それよりも少女はカニを捕まえたり、海亀が産み落とした卵をじっと見ていた。
しゃがんでいたため、ロングスカートが濡れてしまっていたが、濡れても良いのだと言っていた。
よく小さい頃、こうして海でしゃがんで、服を濡らしてしまっていたのだと、両親から聞いたことがある。
「あ、雲が」
ふと、空の色が暗くなってきて、もしかしたら雨が降り出すかも知れないと、少女を呼んでそろそろ帰ろうと言うと、少女は寂しそうな顔をした。
そんな顔を見てしまうと、無理強いをしてまで帰ることなんて出来ず、少女が満足するまでいることにした。
とはいえ、雨が降る可能性は次第に高くなっているため、バイクで帰るとなるとさらに服が濡れてしまうのではと思っていた。
陽翔がそんな心配していることなんて露知らず、少女は笑っている。
そしてついに、雨が降り出してしまった。
「やべっ」
陽翔は着ていた服のフードを頭に被ると、少女のもとへ足を向けたのだが、その時、少女は海では無く、空を見ていた。
帽子が落ちないように押さえながら、足を止めてじっと空を見つめている。
そして何を思ったのか、今度は両手を広げてくるくると回り出したのだ。
押さえていたはずの帽子はそのまま落ちてしまい、少女は自分から雨を浴びるように回り続ける。
サーフィンをしていた男も、焼きそばを食べていた女も、これから泳ごうとしていた子供たちもみな避難しているというのに、少女だけが、未だそこに留まっている。
着替えがどうのこうのというよりも、少女が風邪を引いてしまったら大変だという気持ちが大きくて、少し見とれてしまっていた自分を責めながらも、少女の腕を掴んだ。
「帰ろう」
「どうしてですか?」
「雨降ってきたから」
「気持ち良いのです」
「風邪引くし。それに、着替えは持ってきてないでしょ?」
「風邪などひきません。もう少しだけこうしていたいのです」
「ダメだって!」
口調が、強くなってしまった。
イライラしていたわけではなくて、少女に何かあったら責任が取れないこととか、親御さんに見知らぬ男と海に行って雨に濡れたなどと思われてもとか、とにかく、第一に少女のことが心配だっただけ。
それだけなのだが、自分でも吃驚するくらいの怒声が発せられてしまって、思わず掴んでいた少女の腕を放した。
落ちている帽子は風で飛ばされてしまったが、そんなものどうでもいい。
初めて少女の前で見せた自分の情けない姿に、とはいっても、少女から見れば全部が情けないかもしれないが、陽翔は謝罪することも出来ずに少女を見ていた。
じっと見てくる少女から目を逸らせると、少女は俯いてしまった。
「ごめん・・・。でも、本当、風邪ひいたら大変だから、帰ろう」
やっとのことで振り絞った声は、か細く、か弱く、小さかった。
それでも聞こえた少女は、小さく頷いた。
バイクまで向かう前に、これ以上濡れないようにと合羽でも買おうかと店に入る。
もう充分濡れてしまっているが、そうはいってもびしょ濡れになることを分かっていて、このままというわけにもいかない。
少女の分だけ合羽を買うと、少女にそれを着るように伝える。
「今日は止みそうにないな」
「せっかく来たのにね」
そんな会話が店の中に広がっているが、右から左に流れて行く。
ぎこちない様子で合羽を着ると、バイクに乗るようにとヘルメットを渡す。
1人ではなかなかヘルメットを装着出来ないらしく、乗ってきたとき同様、陽翔が調節してつけた。
少女は後ろに乗ると、陽翔の腰にしがみつき、何か言っていた。
しかし、小さくてその声は聞こえなかった。
あの日以来、少女に会いに行っていなかった。
別に気まずいとかそういうことではない、というのは嘘なのだが、あれで完全に嫌われてしまっただろうかと悩んでいたのだ。
友達に呼ばれて大学に行くと、卒論のテーマが被ったから変わってくれと言われ、先にテーマを決めたのは自分なのだから嫌だと断った。
5年以上も地元でバイトをしていた友達は、最悪そこに就職すれば良いと思っていたようなのだが、そのことを話したら正社員としてしっかり教えて行くと言われ、今みっちり教わっているらしい。
その代わり、卒論を書く時間が無くなってしまい、すでに終わっている陽翔の卒論をそのまま貰おうとしていたとかで。
「手伝ってやるから。テーマは変えろ」
「ありがてぇ!!さんきゅ!」
「バイトって、何やってんだっけ」
「言ってなかったっけか?俺、ずっとパン屋でバイトしてんだ!」
「あー、だからか」
「何が?」
「なんか小麦粉の匂いすんなーと思って」
先程から匂っていた正体が分かったところで、友達は卒論テーマを適当に決め、それに関しての資料を手わけして探した。
というか、本格的な就活は止めてしまったらしく、それは本人の希望でもあるわけで、深くは追及しなかった。
とにかく少しでもあの日のことを忘れたくて、少女があの日の陽翔の事を少しでも忘れてくれるようにと願った。
ずるいとは思うが、今の自分の精神状態で会いに行くことなど出来ない。
「はあ・・・」
「陽翔!ちゃんと手を動かせ!」
「手伝ってもらってる奴が言うな」
「俺ピンチなんだよ!本当に!本気で!絶対絶命!!」
「はいはい」
陽が沈むまで一緒に資料集めをしていたが、しばらくは手伝ってくれるよう言われたため、それからほぼ毎日、大学に通うこととなった。
別に良いのだが、気まずくなったとはいえ、少女に会いたくないわけではない。
とはいっても友達を見捨てて良いということではなく、ある程度落ち着いたら会いに行こうと、そう決めた。
「あ。おい、陽翔」
「ん?」
帰り道、友達に呼ばれて何だろうと思い、その視線の先を追ってみると、そこにはあの彼女と知らない男が一緒にいた。
多分見たところ彼女より年上で、社会人だろうということは分かる。
彼女は陽翔に気付くと、なぜか勝ち誇ったような笑みを浮かべてきた。
「おい見たか!なんだあの顔!!」
「放っておけ」
「いや、なんか腹立つな!お前も言ってやれよ!!そもそも、お前は俺に振られたんだろ!くらい!!」
「・・・・・・」
目を細めて友達を見てから、陽翔はため息を吐いた。
「どうでもいいよ、そんなこと」
「良くねえから!!だからあの女のさばってんだよ!!」
「どうせあと少しで卒業なんだし、気にすることじゃねえって。構うから調子乗るんだよ、ああいう女は」
「あ、そうか。なるほど」
なぜかすぐ納得した友達と途中で分かれると、それまで手で押していた自転車に跨る。
春になってきたとはいえ、まだ寒さも残っているこの時間は、コンビニに立ち寄っておでんが食べたくなる。
肉まんしか無くてそれを買って食べていると、さきほどの友達からメールがあった。
「明日はデートになったから、手伝い無用・・・って。どんだけ勝手なんだよ」
手伝ってくれと言っておきながら、自分の予定を優先するなんて、と思ったものの、別に悪い奴ではないことは分かっているため、「わかった」とだけ返信をする。
肉まんを頬張りながら、明日のことを思い浮かべる。
それはまるでイメージトレーニングのようで、明日の自分の行動が綿密に計算されているのだが、きっと全部上手くいかない。
そうとは分かっていても、やっぱり会わずにはいられないのだ。
翌日、陽翔は朝早くから起きていた。
眠れなかったわけではないが、早く目が覚めてしまった。
こんな時間に開いているのはコンビニくらいだろうかと、陽翔はテレビをつけてみるが、ニュースばかり。
テレビをつけたまま顔を洗って歯を磨き、早速着替えて、それからただ時間が過ぎるのを待っていた。
「よし」
家を出て自転車を漕いで、向かった。
忘れてほしいなんて思ったが、嘘だ。
本当は、あの日のことだって、それ以外のことだって、全部覚えていてほしい。
自分が全部覚えているように、覚えていてほしかった。
チケットを買って中に入るとすぐ、少女のもとへ向かった。
だが、いつもと違ったのは、水槽を見つめている少女の顔が、どことなく寂しそうにしていたこと。
「どうしたの?」
声をかけると、少し驚いたような顔を見せたが、すぐに水槽を見る。
「死んでしまいました」
「え?何が?」
「エゾトミヨです」
「え、えぞ?」
とにかく、そのエゾトミヨ、という名前の魚が死んでしまったらしく、それで少女は落ち込んでいるのだそう。
よく気付いたな、という驚きと、水族館にいる魚が死んだからといってそこまで悲しいのかという感激とがあった。
しょんぼりしている少女を元気づけたのは陽翔ではなく、少女に近寄ってきた他の魚たちだった。
次々に魚たちが少女のもとへ来るため、ちょっとしたVIP扱いのようだ。
しばらくそのままでいると、少女が口を開いた。
「好きと言われて、嬉しくなかったわけではありません」
「え」
「でも私は、この子たちと同じなんです」
「同じって・・・」
少女は顔をあげて、そこから見える、まるで水面の下から見上げているような感覚になるその揺れと光を見ていた。
キラキラと反射する光は、外でみるそれとは異なる穏やかさがある。
陽翔はただ黙って少女の言葉を待つ。
「海の底でただそっとしておいてほしいのに、見たいとか、知りたいとか、そういう気持ちだけで海底から引きずり出されてしまう。それはとても、心を締めつけられることです」
光も届かないくらいの闇がある海の底には、まだ見たこともない生物たちがいて、まだ知らない生態がある。
「静かに生きていたいだけなのに」
「・・・・・・」
少女の気持ちが、分かった気がした。
そっとしておいてほしいというのは、本音なのだろう。
そして、陽翔の気持ちが嬉しくなかったわけではない、というのも。
静かに生きて来た生物たちにとって、もちろん少女にとっても、他の人たちの介入は余計なお世話でしかない。
人の命は尊けれども、人以外とて同じ心臓を持っている生命だ。
少女が毎日のようにここにいるのは、そんな生物たちを可哀そうに思っていることと、自分を理解してくれると思っているからなのだろう。
「だから、みんなウリちゃんのことが好きなんだね」
「みんな?」
「そう」
少女に笑いかけたあと、陽翔は水槽の中にいる生物たちを見る。
それにつられて少女も水槽に目をやれば、そこには先程少女に近づいてきた生物たちが、まだ近くで心配そうに見ている。
「みんなね」
少女は、青の空間に吸い込まれたように、集まってくるみんなを見て、微笑んだ。
ただ少女の隣にいることが、こんなに嬉しくて幸せで、こんなに難しいとは思ってもみなかった。
一緒にいることで辛く、苦しくなるかもしれないが、そうと分かっていても、少女の隣にいたいだけ。
「俺も、君に会いに来るよ。1人でいたいって言うなら、そうする。でも、何かあったら一番近くで守りたい」
言って少ししてから気付いたが、告白よりも恥ずかしいことを言ってしまったと、陽翔はハッと少女から顔を背ける。
なんとかさっきの言葉を流してもらおうと話をしていると、少女もそれに応えた。
陽翔がそろそろ帰ると言うと、珍しく少女に止められた。
「これを」
そう言って渡されたのは、あの本だ。
「預かっていてください」
「預かるって?」
「お願いします」
理由は分からないが、断る理由もなく、断ることも出来ず、陽翔はその本を受け取った。
そして家に持って帰ると、小さなテーブルの上に置いた。
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