三章 「ふとした瞬間に」

 私は匠とあの電話をした日から、ずっと自分の中にいるこの感情は何だろうかと悩んでいた。

 私には彼氏がいて、匠は男友達で、ただそれだけなのに、もやもやがとれない。

 何かが、しっくりとこなかった。

 彼氏にも、匠の話は隠さず話しているし、別に彼氏も嫌がる様子はしていなかったと思う。

 私はどこかおかしくなったのだろうか。いや、異性間の友情は、やはりおかしなことなんだろうか?

 彼氏といると、すごく心が落ち着く。

 それは、間違いのないことだ。

 匠はいいやつで、一緒にいて楽しい。でも私が匠に対して特別な感情があるかと誰かに聞かれたら、『ない』と答えるだろう。

 それは、たぶん間違いないことだ。


 夏休みは、時間が合えば彼氏とデートをしていた。

 匠からメッセージがくれば、それにはすぐに返事を返していた。

 年上の彼氏がいて、夏休みを二人で遊ぶ。

 それを多くの人は『青春』と呼ぶかもしれない。

 確かに、心は穏やかだった。でも、心の底からドキドキした気持ちは湧き上がってきていない気がしないでもない。もちろん、彼氏といてドキドキはしている。

 それが心の底からあふれてきているものかと聞かれると、少しだけ自信がなかった。

 一方で、私は匠と夏休みの為会えない日が続いていると、何だかわからない違和感を感じるようになっていた。 

 夏休みまでは当たり前のように毎日顔を合わせていた。それが急に会えなくなった。ただ生活が長期休暇になった為に変わっただけだと、自分に言い聞かせる。だって、夏休みは今まで何度も迎えているわけで、夏休みに匠と会えないのは今に始まった事ではないのだから。

 でもあの電話が、いつもと違った匠あの声が、私の心をかき乱してくる。

 きっとこれは夏のある種の魔法に過ぎない。すぐにいつもの私に戻るはずだ。


 彼氏といつものようにデートをしている時、ふと今日は何日かなとそわそわした気持ちになった。

 いつもなら日にちなんてほとんど気にすることはない。

 理由は、すぐにわかった。今日は、八月二十五日なのだ。

 明日は、匠と会う約束をした日だ。

 そして、私はどうして今隣りにいる人が匠じゃないんだろうと思ってしまった。

 その瞬間から、匠への思いがどんどん心の中からあふれてきて、止まらなくなった。

 匠はいつもそばにいてくれた。

 匠が隣りにいる時、私はいつも笑顔だった。

 理由はうまく言葉にできないけど、匠にはこれから先もずっとそばにいてほしいなと思った。

 恋のベクトルは彼氏に向いているようで、いつも一緒にいたのは匠だった。

 匠は、私が嬉しい時も辛い時もそばにいてくれた。

 今思えば、匠の言葉や行動は、私を思う優しさがいつもあった。

 その思いに、急に胸がドキドキしてきた。

 自分でもどう抑えていいかわからないぐらい今激しく動いている。

 頭の中も、心の中も、匠と今まで過ごしてきたことばかりがどんどん浮かんでくる。

 匠は、どんな私も受け入れてくれていた。さらに、私を楽しい気分にさせてくれる。

 私が求めていたのは、心が穏やかになれる相手ではなく、そばで一緒に楽しい気持ちになれる相手だった。

 そして、やっと私は気づいた。

 私が本当に好きなのは、匠だ。

 彼氏がいたから、今までこの感情の正体に気づかなかった。

 いや、そんな言葉で、簡単にまとめていいことじゃない。

 私は、本当に馬鹿だ。

 どうしてこんな大切なことに今まで気づけなかったのだろう。


 彼氏に「話がある」と私は言った。

 本当は今すぐにでも匠の元に行って、この気持ちを伝えたい。

 でも、私が中途半端な気持ちで彼氏と付き合っていたのだから、終わりはしっかり納得してもらわないと先に進んではいけない気がした。

 彼氏は、私のたったそれだけの言葉で、「気づいちゃったんだね」と言った。

 いつも落ち着いている彼氏が、寂しそうな表情をしていた。

 そんな表情、初めて見た。

 きっと、彼氏は私がこの感情を心に秘めていたことを前から知っていたのだろう。

 私は本当に今まで彼氏の何を見てきたのだろうか。

 私は彼氏の気持ちを考えたり、寄り添ったりすることを全くしてこなかったとやっとわかった。

「うん。気づいたんだ。私、本当は匠が好きだった。今更だけどあなたにはたくさんの我慢をさせてごめん。そして、この気持ちに気づいてしまったから、このままあなたと今まで通り付き合うことはもうできない。わがままで無茶苦茶なのはわかってる。でも、本当にごめんなさい」 

「僕がその気持ち以上に、花凛を夢中にさせたかったな」

 彼氏はそれだけ言って、私の背中をそっと押してくれた。

「ごめん」 

 私は、そのまま振り返ることなく歩き出した。

  

 家で一人になってふと思った。

 今更どんな顔をして、匠に告白したらいいのだろうか。

 「告白」って何と言えばいいんだろうかと、そんな当たり前なこともわからくなっていた。

 こんな風になるなんて、自分でも驚いた。

 これが、本気で人を好きになるということだろうか。

 心の中は、『ドキドキ』と『不安』が入り混じっている。

 私は、匠と真っ直ぐに向き合うのが怖いのかもしれない。

 もし拒まれたら、きっと私は立ち直れないから。

 何も言わずに普段通りに接することもできるかもしれない。

 でも、それじゃあこの気持ちに気づいた意味がないから。

 匠からしたら、もしかしたら迷惑かもしれない。今更何を言っているのだと信じてもらえないかもしれない。

 私はたくさんたくさん考えた。

 そして、私はこの気持ちを匠に伝えようと決めた。

 もう、自分の気持ちに蓋をするのは嫌だから。

 

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