2.引鉄《ひきがね》の意味

「ああそうだ……」


神楽は少し腰を浮かせるとお尻の方に手を回してポケットから何かを取り出し佐藤の目の前にかざして見せた。


「これどうぞ、サバイバルキットの中に入ってたわ。博士って気が利くのね」

「……なんですかそれ?」

「日焼け止めよ。塗っておきなさい、炎天下で素肌晒してると悲惨な目に合うわよ」

「ああ、大丈夫ですよ。俺、肌は丈夫な方ですから」

「いいから、そんなこと言わないでお姉さんの言う事を聞きなさい」


悪戯っぽい笑みを浮かべると神楽は佐藤のサングラスをひょいっと外す。そして彼の姿を見てにやりと笑う。


「あら、素顔を始めて見たけど、意外と可愛い顔してたのね」

「可愛いって……」

「言葉通りよ」


神楽はサングラスのつるを畳んでひょいっとTシャツの首元くびもと部分に差し込むと右手に日焼け止めのボトルを持ち替えて中身を左掌にたっぷりと注ぎ込む。そして、ボトルをお尻のポケットに再びしまうと日焼け止めを両手に馴染ませながらニヤニヤを浮かべつつ佐藤の顔にたっぷりと塗り付けた。


「ちょ、ちょっと塗り過ぎじゃぁ……」


ちょっと不満そうな表情と口調の佐藤、まるでスライムの様になったその顔を見て神楽は思わず笑い転げ、その様子を見ながら佐藤は大きく溜息を一つ。しかし、その溜息は呆れから出てきた物では無くて、警察官僚の硬い表情を崩す事が無かった彼女の別な側面が垣間見えた安心感でもあった。


「ご、ごめんね。でも、たっぷり塗らないと赤道直下のカンカン照りを防げないと思うわ」

「そ……そんなもんですかねぇ」


涙目を擦りながら情けない表情の自分を見る神楽の姿は今まで見た事の無い柔らかな姿でそれが少し眩しく見えて佐藤の頬が何故かほんのり朱に染まる。


「あらどうしたの、熱でも有るの」


佐藤の頬が気になって神楽は彼の額に掌を当てる。


「熱者病にならないでね、あなたこそコックピットに入ってた方が良いんじゃないの」

「い、いえ、その、大丈夫ですから!!」


神楽の暖かな掌の感触に佐藤は激しく狼狽する。鈴木、田中、そしてワインダー博士との男所帯のガサツな同居生活の中で忘れ去っていた女性の暖かさが蘇ってくる。女性の掌が顔に当てられるなど這か昔の記憶で風邪で寝込んだ時の母親の掌以来記憶が無い。そんなだから彼は基本的に女性に対する耐性が無い、それを誤魔化しきれない事に恥ずかしさを覚えるのは男の嵯峨かも知れなかった。


「あ、か、神楽さん!!」


そして彼はいきなりあらぬ方向を指差した。それにつられて彼女は指差された方向に視線を向ける。


「まぁ、イルカかしら?」

「そ、そうかも知れませんね」


偶然にも佐藤が指差した方向には遠目で見ているからそれの正体が何であるかははっきりと認識することは出来ないが大型の海洋生物の背鰭せびれと思われるものが三本突き出しゆっくりと移動していた。


「この星は不思議な星ね」


その様子を見詰めながらポツリと呟いた神楽の言葉に佐藤は少し違和感を覚える。


「……不思議、ですか?」

「ええ」

「ど、どの辺がです?」

「少なくとも太陽系にの中にはこんなに豊かに大気が有って水が有って、そして何千、何万種の生き物が色んな関係性を持ってて微妙なバランスの上に成り立ってて……」


そこまで言って神楽はにっこりと微笑みながら佐藤に顔を向け再び口を開く。


「当たり前すぎて忘れちゃってるけど、水星にも金星にも火星にも、今、生き物は存在しないわ、命が有るのはこの地球だけ。どうすればこんな不思議な事が起こるのかしらね」

「微妙な、関係性ですか……」


小さな声でぼそりと呟きながら佐藤はゆっくりと座り込むと伸ばして少し開いた爪先に移すと再びぼそぼそと話し始めた。


「皆、どうしてますかね」

「……え、う、ん」

「無事ですかね」

「そうね……」


機体の上に立つ神楽を徐に見上げる佐藤は唇を震わせる。


「ブラックホール爆弾なんか使ったのは間違いだったんじゃないんでしょうか」

「あれは、あの時はそうするしかなかったわ」

「冷静に考えればもっと別の手が有ったんじゃ」

「考えつく前にやられてた。イヴは人間に容赦しない」

「だからって根こそぎ滅ぼしてしまう様な物を使うのはいくら何でも、核爆弾よりタチ悪いかも知れなかったんですよ、物質どころか空間も崩壊させる可能性が……」


急に早口で喋り出した佐藤の横に神楽がすうっと座り込む。


「それでもやらないといけなかった。そうでしょ……」

「でも」

「イヴのタチはブラックホール爆弾の非じゃないほど悪い、自分のエゴでしかない理想に向けて世界を作り直そうとした。少なくとも私はそんな世界で生きてはいたくない」

「しかし」

「自由な平和、それが理想だと思わない?」


体育座りをする神楽は膝の上に顔を乗せそのまま黙り込んだ。


「自由な平和……ですか。難しいんですよね、そう言うの」


誰に向かって呟いたのか分からない言い方の佐藤の言葉に神楽は何も言わずにうずくまる。凪に漂うWBSSⅣの機体はゆっくりと波間を漂う。ざわざわとした波の音は二人に語り掛けている様だったがその意味を理解することは出来なかった。


……その波の音に紛れて聞こえ始めた異音に気付き、二人はゆっくりと顔を上げる。それは、ローターが風を切る音だった。

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