番外編 2 イレーヌの場合

 イレーヌはペレーズ子爵家の一人娘になる。ペレーズ子爵家はオリオール侯爵の派閥に属するため、六歳の時に侯爵家の令嬢リーゼロッテの誕生日会に出席して以降、リーゼロッテの手下、もしくは子分、もしくは取り巻き令嬢という立ち位置を確保することになったのだった。


 ブザンヴァル王国には三人の王子が居て、第一王子、第二王子はそれぞれ妃を娶っているのだが、第三王子のオスカー・ダーフィットだけは妃も婚約者も居ない状況だった。第三王子は神が作りたもうたと言われるほどの美しい顔立ちだと噂されるけれど、軍部に所属する関係で、あまり社交界には顔を出さないのだった。


 この度、魔石の鉱山を狙って隣国ラテニアが侵略戦争を仕掛けてきた事もあり、前線に出て戦った王子は、敵軍から悪魔の王子と言われるほどの活躍をしたという。そんな王子を戦勝記念パーティーでまじまじと見ることになったリーゼロッテ侯爵令嬢は、

「あの人こそ私の王子様だわ!」

 と、取り巻きたちに宣言した。


「そうですわね!美しいリーゼロッテ様とオスカー様は絶対にお似合いだと思いますわ!」

「華やかなリーゼロッテ様の隣には、オスカー様くらい麗しい人でないと見劣りしてしまいますものね!」


 子分たちの言葉に気をよくしたリーゼロッテ嬢は即座に、

「お父様!私、オスカー・ダーフィト様と結婚いたしますわ!」

 と、父親に対しても宣言した。


「えええ?リーゼロッテ、何を言ったのかお父様にはよく聞こえなかったなぁ」


「何故聞こえませんの?私、きちんと宣言しましたわよね?私は、ブザンヴァル王国の第三王子であるオスカー・ダーフィト様と結婚したいって!ねえ!聞こえてます?」


「聞こえていない、全然聞こえていない、お父様には聞こえないなぁ」


 ブザンヴァル王国の第三王子は幼い時から鬼子とも言われるほどの鬼才で、その美しい容姿に騙されて身を滅ぼされた奴が何人も居るのだ。


 隣国との戦争に際しても、相手は田舎国と揶揄されていたとしても、一応は一つの国家である。その国家を相手取り、赤子の手を捻るようにして陥落させた御技は、『すごいっ!』の一言に尽きる。


 物凄い優秀な王子なのだが『悪魔の王子』と言われるだけあって恐ろしい面も兼ね備える。何しろ、気に入られればそれでいいが、嫌われれば滅びの道へまっしぐら。


 国王陛下から娘を嫁にやってくれと『王命』が下るのであれば、

「王命なので、すみません」

と、怒れる王子に宣言することが出来るのだが、王命じゃなかったら、無理、関わりたくないというのが、侯爵の本音でもあるのだ。


「リーゼロッテさん、お父様を困らせるのも大概になさいませ」


 困り果てた夫を救うために妻が現れたと思い、侯爵は顔を輝かせたのだが、


「女たるもの、相手を惚れさせてこそ一流なのですよ?お父様の力など頼らずに、リーゼロッテ、貴女の美貌と技量を頼りにオスカー殿下を落とすのです」


 妻の恐ろしい発言を聞いて、泡を噴いて倒れ込みそうになってしまった。

 何故けしかける?何故、大事な娘をけしかける?

 夫の方を振り返った侯爵夫人は、私に任せて!みたいな感じで笑みを浮かべた。

 そうじゃない、そうじゃないと思いながらも、次の言葉が口をついて出て来ない。


「お父様!お母様!私、頑張りますわ!」

「頑張りなさい!私の娘よ!」


 キャイキャイ弾んだ声で話している母と娘を見つめた侯爵は、こうなったら自分の発言など何の効力も発揮しないということを知っていた。

 そこで、娘の友人である一人の令嬢に、娘が無茶なことをやって王子の怒りを買わないようになんとかしろとお願い(命令)することになったのだ。



       ◇◇◇



「マッサージ教室ですか・・」


 リーゼロッテから『ぷりんと』なるものを受け取ったイレーヌは、その参加費用が高額すぎてめまいを起こしそうになってしまった。


 三日間で、淑女に必要なマッサージ技術と知識を授ける講習会と銘打っているけれど、いらない、いらない、今の自分にマッサージの技術も知識もいらないと、イレーヌは頭の中で悲鳴を上げていた。


「五人集まればアグライア様が私の為に(・・・・)特別に講習会を開催してくださると言っているの!皆様も今、流行のマッサージには興味がございますでしょう?」


「え・・ええ、確かに・・上流の貴婦人たちは皆、マッサージを経験されていますものね?」

「た・・た・・確かに・・と・・と・・とても興味がございますわ!」


 いつもは即座に追従する取り巻きたちも、躊躇する心が言葉に出てしまうほどの高額設定。誰がこんな値段の高い講習会に参加したがるのか・・ってお前か!と、リーゼロッテの朗らかな顔を見上げたイレーヌは、


「我が家は子爵家身分ゆえ、この金額ではお父様にまず確認しないとお返事出来そうにありません」


 と、言うと、

「私も」

「我が家もお金も関わる事ですし、まずはお父様に確認しないと」

 他の令嬢たちも追従するように言い出した。


 家に帰ったイレーヌは早速、父親に『ぷりんと』なるものを見せた上で、

「リーゼロッテ様が一緒に参加しようとお誘いを受けましたの」

 と告げてそっぽを向いた。


 イレーヌがそっぽを向いている間に、父が居る方向から、

「グハッ」

 とか、

「そんな馬鹿な・・」

 とか、

「私のへそくりを出すしか・・」

 などという言葉が漏れ聞こえて来たのだが、気を取り直すような父の咳払いが室内に響いたため、イレーヌは父に視線を戻した。


「お前は、侯爵から直接リーゼロッテ様の面倒を見るようにとお願い(命令)された経緯がある。リーゼロッテ様が行くというのなら、お前は行かなければならない」

「参加料がかなり高額なのですが、大丈夫でしょうか?」

「だ・・だ・・大丈夫」


 父は自分の胃を押さえながら強張った笑みを浮かべた。


「アグライア嬢のマッサージ技術は、国王陛下や王妃殿下だけでなく、宰相のノアラングレン殿までも夢中にさせているという。この金で、アグライア様の技術を買うと考えれば安いものだよ」


 三日でどれほどの技術が手に入れられるのか、イレーヌには全く検討がつかなかったのではあるが、


「我が家は子供はお前一人、どうしてもお前には婿入りしてくれる立派な男性を見つけて貰わなくちゃならない。そのための投資だと思えばこの値段くらい・・」


『ぷりんと』を握りしめる父の手が目にみえるほど大きく震えているのを見て、イレーヌの不安はどんどんと大きくなっていくのだった。


 ペレーズ家は南方に小さな領地を持つ土地持ちの子爵家であり、領地は牧畜が盛んで、春ともなればシロツメクサが白い絨毯のように牧草地に広がる。のんびりしているけれど借金もない、かといってお金がたくさん稼げるわけでもない領地から上がる税収と、父が王宮に仕え、官吏として働く給料で不自由なく暮らしている。


 婿入りする側としては、何の面白みもない、刺激もない家となるため、婿探しは難航しているのだ。


 十八歳となるイレーヌとしては、煌びやかに着飾って、毎日でも夜会に通って婿探しをしないといけない時期だというのに、リーゼロッテが第三王子に不敬を働かないか見守らなければならない使命がある為、婚活が一向に進まないジレンマに悩まされているのだ。


 ただでさえ特徴がないぼんやりとした顔のイレーヌは、派手で華やかなドレスで勝負を賭けないと壁の花で終わってしまうのだ。という訳で、婿探しをするためにも、次の夜会で着る派手で華やかなドレスを用意しなければならないというのに、その費用はマッサージ講習会で消えてしまったような感覚をイレーヌは覚えることになった。


「皆様!ようやっと講習会の日がやって来ましたわね!私!楽しみで!楽しみで!なかなか眠れませんでしたのよ!」


 講習会当日、リーゼロッテとその取り巻き四人は、マッサージやヘッドスパが行われる離宮に招かれることとなったのだが、確かに、国王陛下や王妃様が、マッサージの為に訪れるという離宮は素晴らしいものだった。


百年ほど昔に、タラミナ大陸の文化に傾倒した富豪が建てた建物であり、ブルーの装飾用タイルとステンドグラスで装飾されていて、異国情緒溢れる作りになっている。


 敷地内を縦横無尽に流れる水路の一部は日当たりの良いサロンの中を流れており、貴婦人たちはこの川のせせらぎを聴きながら、特別なマッサージを受けているのかと、ぼんやりとそんなことを考えていると、

「皆様!こちらへお集まりください!」

と言って、学舎の教室のような場所へ連れて行かれることになったのだった。



       ◇◇◇



 アグライア先生による特別講習を三日間、受けることになったイレーヌは、講習後、先生と相談の上で、ある覚悟を決めることにした。


 アグライア先生との話し合いの結果、派手な魅力を持たない令嬢が、夜会で一発勝負に出るのは難しい。縁故関係での紹介があればまた別だけれど、令嬢の力のみでは難しすぎるという結論に至ったのだ。


「貴女にはすでに気になる方がいるのでしょう?だとしたら、その方を狙わないでどうするのです?」


 アグライア先生は菫色の瞳をひたと向けて、イレーヌの両手をガッチリと握りしめたのだ。

「貴女は真面目に講義を受けましたし、十分に技術も獲得されました。今の貴女なら絶対に!絶対に私の言うやり方で勝負に勝つことが出来ますわ!」

 アグライア先生の目は本気だった、その本気の眼差しを受けたイレーヌは、遂に決意したのだった。



「お嬢様〜、まさか、本当にやるおつもりですか?」

 王立図書館までついてきた専属侍女のララは、先ほどから顔を引き攣らせた状態でタライとヤカンを持っていた。


 まさかタライとヤカンを持った状態で図書館の中まで入ることは出来ないので、ララは、個人で借りられる読書室で待機ということになる。


「ララ、これは私の一世一代の勝負なの。私のために、ペレーズ子爵家のために、協力してくれるわよね?」

「ええ、ええ、イレーヌ様からお話を聞いた時には、どんないやらしい(・・・・・)ことが待っているのかとドキドキしましたけれど、今は大丈夫です!きちんとお手伝い出来ます!」


「破廉恥な想像はやめて欲しいわ」

「だから今はしていませんって」


 イレーヌは大きなため息を一つ吐き出すと、よしと、自分に気合を入れて図書館の中へと移動して行ったのだ。


 ブザンヴァル王国の王立図書館は、植物園に隣接している関係で、窓から差す木漏れ日が心地よいものとなっている。庭園を眺めるのには丁度良い、本棚の向こう側にある特等席に座るブリュノ・ノルドを見かけると、イレーヌは後ろから彼が読む本を覗き込んで、

「その経済書を読むのなら、他におすすめがございますわよ?」

と、声をかけたのだった。


 褐色の髪に優しげな面立ちのブリュノは財務部に勤めるエリートで、いつでも暇が出来れば経済学の書籍に目を通している。


 一人娘であるイレーヌは父や叔父から領地経営について学んでいるし、本人自身が興味を持っていることもあり、王宮図書館の経済学に関する書物については一通り目を通しているのだ。


「イレーヌ嬢か、最近、また図書館では新しい本を購入したのだろうか?」


 ラテニアとの戦争が終結してからも忙しい日々を送っていたブリュノは、しばらくの間、図書館には来れない日々を送っていた。それが最近になって、ようやく落ち着いてきたということで木曜日の午後に図書館に現れるようになったのだ。


「ライオネル・ストーン著作本が倉庫の中から発見されたようで、破れた本の装丁を新しいものに変えて、並べられているのです」

「ストーン教授のものかい?是非、読みたいな」

「その前に、ブリュノ様、私にお時間くださいませんか?」


 まず誘いに乗るかどうか、ブリュノのアンバーの瞳を見つめながらイレーヌは、

「侍女が個人読書室で紅茶を用意しているのです、なかなか珍しい紅茶が手に入ったのでブリュノ様にも幸福のお裾分けをしたいと思ったのですが」

と言ってにこりと笑う。


「幸福のお裾分けですか・・それじゃあ御相伴に預かろうかな」


 ブリュノ・ノルドは派手な美形ではないけれど、歴史ある伯爵家の次男であるし、財務部所属のエリートでもある。本来なら到底望めない、自分よりも何ランクも上の男性となるのだが、アグライア先生に背中を押された形で、


「ブリュノ様、実は私、マッサージの技術を習得致しましたの」

 エスコートしようと手を差し出すブリュノの肘に手を置きながら、

「最近、とてもお疲れに見えますもの。もし宜しければその強張った肩を揉みほぐして差し上げられますけれど?」

と、問いかける。


「ええ!あの、噂のマッサージですよね?」

「はい・・」


 ここまで到達したイレーヌは思わず恥ずかしくなって、顔を赤ながら俯いてしまった。その俯く姿をブリュノはなんて可憐で可愛らしいのだろうと思っているのを、イレーヌは知らない。


「私の侍女が温タオルを用意して待ってますの」

「温タオルってなんなんですか?」

「それはね」


 牛の皮を二重にした防水手袋を着用の上で、熱湯に通したタオルを絞ったもので、これを強張った首や、目に当ててマッサージを行えば、あっという間に身も心も解れてリラックス効果がもたらされることになる。


「やはり、お仕事が大変なのではないですか?最近休みが取れたと言って、こちらで本を読んでいる姿をお見かけしますが、とても疲れているように見えたのです」


 椅子に座ったまま、首と目元を温めた状態でイレーヌに首、肩、頭の付け根を揉み解してもらっていたブリュノは、

「仕方がないです、戦争の処理で忙しいのは何処の部署も同じこと。私ばかりが文句を言っている場合でもないですから」

と、答えながら、後の方で鼻を啜るような音が聞こえてくることに気がついた。


「イレーヌ嬢?」


 目元のタオルを外して後を振り返ると、イレーヌは、侍女が差し出した椅子に座り、そっと外に出ていく侍女を見送ると、

「これは、私の独り言だと思ってくださいませ」

と言って、ハンカチで自分の目元を拭いながらブリュノの顔を見上げた。


「私の叔父は私と同じ経済学が大好きで、私は叔父から経済について教えられたのです。その叔父は、計算が好きだからと言って毎日、毎日、夜遅くまで役所で働いて、ある日、突然、死んでしまったのです」


 イレーヌは俯いて自分の目元を拭うと、


「ブリュノ様が叔父様と同じ道を辿ると言いたい訳じゃないのです、ただ、とても心配なのです。我が家は子爵家、私は一人娘なので婿を取る必要があります。ブリュノ様があまりにもお疲れなら、我が家に婿入りしてもらって、悠々自適までは無理ですけど、今よりはのんびりとした生活を送られた方が良いのではないかと考えたこともあります」


 自分のハンカチで鼻をかみながら言葉を続けた。


「貴女様は名門伯爵家、私はしがない子爵家、家格の違いは明らかすぎて笑われるような話だということもわかっています。ですが、先生が絶対に試してみなさいとおっしゃってくださったので、私はただ諦めずに挑戦することに決めたのです。ブリュノ・ノルド様、私は貴方様をお慕いしております。貴方と結婚した暁には、今行ったように、貴方の凝り固まった肩や首、頭をお揉みいたします。我が家はしがない子爵家ですが、領地は南方にあり酪農が盛んです。春になればシロツメクサが一面に咲いてとても美しい場所です。私はその美しい光景を貴方と見たい」


 ハンカチを涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしながら、イレーヌは後悔しまくっていた。こんな風に女性から告白するだなんて、はしたないとか、淑女らしくないとか、そんな人だとは思わなかったとか言われるだろう。


 それでも、後悔したくなくて、ただ、黙って自分の思いを封印して一生を生きていくよりも、特別な技術を披露した後で、

「ブリュノ・ノルド様、我が子爵家に婿入りしてはくれませんか?」

 結婚を申し込んだのだ。


 その後の空気は地獄のようで、俯いたイレーヌはただただ、相手の返事を待つしかない状態に陥った。

 それでも、ブリュノはイレーヌの手を握りしめて、

「ごめんね」

 と言ったのだった。


 ごめんねですか・・ですよね・・やっぱりです・・アグライア先生!撃沈です!でもいいです!スッキリしました!心の傷が半端ないですけど、とりあえずは死んでいません!


「イレーヌ、君から言わせてしまってごめんね。本来、このプロポーズは僕からやらなくてはいけないものなのに」


 ブリュノはイレーヌを優しく抱きしめながら、本当は無理してイレーヌに会うために図書館に通っていたとか、リーゼロッテ嬢のおかげでイレーヌの婚活が停止していて神に感謝したとか、もう少しで本当に仕事にひと段落つくから、そうしたらプロポーズをしようと思っていたとか、色々なことを散々言った後で、


「イレーヌ、僕と結婚してくれる?そして僕を婿入りさせてくれる?」

と、問いかけたのだった。



      ◇◇◇



「アグちゃん、どうしたの?何でそんなに落ち込んでいるの?」

「ダーフィトさん」


 離宮の講義室に一人残っていたアグライアは、仕事帰りにアグライアの職場を覗きに来たダーフィトの方を振り返ると、自分の顔を覆いながら項垂れた。


「辛いんです」

「何が辛いの?令嬢向けマッサージレッスンも好評なんでしょう?」


 高額すぎる令嬢向けマッサージレッスンは、一回目に受講したリーゼロッテ嬢とイレーヌ嬢が結婚することが決まった時点で、予約待ちが並ぶ事態に陥ったのだ。


 特にみんなを驚かせたのがイレーヌ・ペレーズ嬢で、婿としてゲットしたブリュノ・ノルドはエリート中のエリート。しかも、イレーヌ自身が、

「アグライア先生のお陰で!私は幸せを掴むことが出来ました!」

と言い出すものだから、

「アグライア先生の授業を受ければ婚活に失敗しない!」

と、勘違いした令嬢たちが講習会の申し込みをするために並び出すほどの盛況ぶり。


「イレーヌさんの場合は、高額授業料の元を取るために必死で頑張っているのは分かっていたから、ちょっとアドバイスしただけなんですよ」


 イレーヌには意中の男性が居たのだが、

「それ!お前に完全に気がある男だからーーー!」

と、話を聞いている間に、何度天に向かって叫びたかったか。


 あとひと押しでカップルが成立しそうな二人の背中を押しただけなのに、

「アグライア様は愛の伝道師ですね」

とか、

「恋のキューピッドですね!」

と言われるたびに、胃のあたりがキリキリ痛くなってくるのだ。


「それじゃあさ、下町の店舗の方はアグちゃんも住めるように改築した方がいいのかな?」

「はい?」

「いや、他人の幸せばっかり見るのが辛いならさ、とりあえず今、予約された分の講習会で終わりにして、下町での活動に力を入れればアグちゃんとしても良い気分転換になるんじゃないの?」

「え?私自身も引越しするって感じですか?」


 ホーエンベルグ公国から移動してきた後は、ダーフィトが所有するタウンハウスに住み暮らしていたアグライアだが、最近は社員さんへのマッサージ特訓なども実施している関係で、人の出入りが多く、落ち着かない日々を送っていたのだ。


「新しい環境で心機一転!アグちゃん下町に移動して、落ちているイケメンを拾うんだろ?」


「そうでした・・私は道端に落ちているイケメンを拾うんでした・・」


 生前に読んでいた、いつの間にやら異世界に転生しちゃったわ〜という物語の良くある展開で、前職活かして生活の基盤を作り上げたヒロインが、道端に落ちているイケメン(この世界では冒険者はいないので、戦争から帰ってきた退役軍人あたりかもしれない)を拾って世話をして、幸せになる、そんな物語が山盛りであったはず。


「そうですよ、私、道端に落ちているイケメンを拾って、幸せの階段を駆け上がらないと」

「幸せの階段がどんな階段か分からないけれど、滑って転んで階段を転がり落ちないように気をつけてね!」

「もう!ダーフィトさん!言葉が辛辣!私!絶対に転げ落ちませんから!」


 階段を転げ落ちるのは悪役令嬢に押されたヒロインと相場が決まっている。いや、悪役令嬢が主役だと、悪役令嬢がヒロインに押されて階段を転がり落ちるのか?


「いやいや!自分は転職系の物語に転生したはずなんで!階段は転がり落ちないです!」


 意味不明な断言をするアグライアの頭をヨシヨシと撫でる主人の姿を、扉の隙間から眺めていたウルスラは、

「いや!絶対にイケメンを拾わせないくせに!そこをあえて誘導して探させる鬼畜さが酷い!」

と、心の中で叫んでいたのだった。



                    〈 イレーヌの場合 完 〉

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