第2章「目覚めた場所は、君の隣で」3
「……私で、ええの?」
普段の彼女……いや、記憶の中の彼女からは考えられないような、そんな小さな声だった。縋るようなその声に、俺は暴走しそうになる心と下半身をぐっと堪えて「もちろんだ」と答えた。なんという理性だろう。本音で言えば今すぐにでも抱き締めて、強引に自分のものにしてしまいたいというのに。
「リグ以外に、俺が結婚したい女性はいない。だが……」
この村に帰る道中、ずっと考えていたことが二つある。ひとつは『思っていることを全て彼女に伝える』ということで、もうひとつが『変異した腕の今後』だった。
中央部の進んだ医術でも、この腕の変異を治すことは出来なかった。そもそもの原因である魔道具から物理的に離れたことで、変異は触れた右腕部分だけで済んだのだが、果たしてこれが『人間らしい生活を送る』という点において『幸い』なのかどうかはわからなかった。
軍の中には負傷によって生活に不自由している者だっているが、俺のような状態になっている者は稀、というか初めてだと医者には言われた。『日常生活』を送る為に問題となる部分は『見た目』なので、深い火傷や毒によって醜く傷付けられた兵士への扱いと同じようなことをされた。
俺だってそれなりに覚悟をもって軍を志願したのだ。この有様に文句を言うつもりもない。だが、これから自分と家族になる者は違う。この見た目に対する好奇の目を、俺と共に耐えてくれなど、自己中心的にもほどがあった。
それでも、それでも俺はこうして、彼女にプロポーズを投げ掛けていた。自分がどんな状態であっても、想いは伝えないと後悔することを知っているから。受け入れられるかどうかは、彼女の自由なのだ。これで思いっきり振られるならば、きっぱり諦めもつくだろう。
だが、彼女の口から出た言葉は、拒絶ではなかった。
「嬉しい。私もずっと、クレイが……クレイだけが好きやった……やから! その腕どうするか考えよ!!」
想像以上に力強く、そして前向きな言葉だった。その言葉はまるで許しのように、俺の心に染み渡る。許しであり、癒しだった。どんな見た目であれ、この世に生存していて良いという許し。万人から貰う言葉なんかではなく、真に愛する人から貰える最高の許しで、癒しだ。
「……と、いうことは、プロポーズ……受けてくれるんだな?」
「もちろん!! すぐにでも結婚式したいくらい! やけど……」
「この腕は、もうなんともならない。俺はもう、開き直っているつもりだ。このままリグのご両親に頭を下げに行く覚悟がある。俺の親は、リグのご両親への挨拶の後の方が良いな」
中央でのゴタゴタは、もちろん俺の両親も知っている。元婚約者がご丁寧に両親を中央に呼び出し、泣きわめきながら婚約破棄を叩きつけたのだから。おまけに彼女の親からは『親子共々二度と中央の地を踏むな』とまで言われた。これにはさすがに頭に血が昇りかけたが、最後まで冷静に謝罪を続けた両親の手前どうにか堪えることが出来た。
さすがはこの村の訛りや身なりにまでケチをつけてきた女の親だ。中央で貰い手がいないためにわざわざ辺境の駐屯地をまわっているだけある。これは軍内での噂だったが、あの親子の様子ならあながち間違いでもなさそうだった。
そんな女が相手でも、最初にプロポーズのような言葉を告げてしまったのは間違いなく俺だったので、両親はいたく消沈して村に戻ったはずだった。俺は後片付け等もあるので、それからしばらくは中央に居ざるを得なかったのだが。
元から両親と特別仲が良いという家系でもなかったので、村に着いてからもまだ実家に顔を出してはいなかった。今更どう言って……どういう顔をして戻れば良いのか。
そのことからも、リグとの結婚という口実は、それなりに良いものだと思えた。
幼い頃から良く知る相手ならば、前回のような失敗は有り得ない。出身も経歴も変わらない。格差なんてものに悩むこともない。そう、“リグが”相手なら何も問題はないのだ。
――問題は、俺の方……だな……
変異した腕のことを、結局俺は両親に詳しく説明することはしなかった。見た目が著しく変化したこの腕は、『人間らしい見た目ではない』、『一生治らない』このふたつの問題を否応なしに突きつけてくる。包帯をぐるぐる巻きにして謝罪に赴いた際に、両親から最初に問われたことは『命は大丈夫なん?』という言葉だった。
その時俺は、両親の無償の愛に今更ながらに感謝した。帰り際の父の言葉、『都会か田舎、どっちが生きやすいか、じっくり考え』に俺は頷いただけだった。
「わかった! ちょっと相談なんやけど……その腕さ、『隠す』んじゃなくて、『オシャレ』にしてもええ?」
「は? オシャレって、何やねん?」
長らく封印していた訛りが口をついてしまったが、そんなことより……? オシャレ? この化け物のような腕を? どうやって?
「私が編み物趣味にしてるん、クレイまだ覚えてる?」
「ああ、もちろん。今も続けてるのか」
「うん。それで、クレイにピッタリの……これからの季節のためにセーター編んだげる! それ着て一緒に挨拶行こ!」
「セーターって、今からだろ? 俺は今すぐにでも結婚したいぞ?」
「私だってそうやけど、きっと私の親はクレイのこれからの生活を一番に心配すると思うねん。その時にちゃんとクレイが“諦めからの気持ちじゃなくて、ちゃんと前向きに私と一緒に生きて行こうと思ってる”ってのを伝えたいねん!」
――前向き……か……
その時初めて、『前向きに生きていく』という意味に気付いた。
今までの俺は、後悔した過去を取り返すために、死んでも良い気持ちで縋りついていたのだろう。まるでその願いが叶えば、その後死んでも良いかのように。
そんな無責任な考えで、俺は求婚をしていたというのか。なんと愚かな、勢いだけの行為に、人生の先輩である親からすれば思うに違いなかった。危ない俺の先走りに、リグは愛情溢れる制止を掛けてくれたのだ。
「わかった。ありがとうリグ。ちなみにセーターは、どれくらいで出来る?」
それでも逸る気持ちを抑えて、俺は彼女に完成予定日を問う。さっきからずっと熱く見詰め合ったまま。美しい彼女の右手の薬指に、いつか自分が渡した指輪が輝いていて、また涙が出そうになる。右手なのがなんとも彼女らしい。仄かな黄色の光は、見る者を暖かい気持ちにさせる。
「ほんまは一月は欲しいけど、頑張って三週間で上げる! クレイにも、みんなにも……私が本気なん、ちゃんと見せたいから」
「口よりもまずは行動を、だな。なら俺は、それまでに体調を安定させるよ。中央から数日歩いただけでこの有様だ。体力だけでも元に戻せるようにする」
「なら、まずは一仕事頼める? もちろん『お医者さん』達の許可貰ってからやけど」
「ん? いったい何だ?」
なんだか酷く嫌な予感がして、俺はリグを不安を隠せない目で見てしまった。その視線に気付いた彼女は、少し顔を赤らめて小さく告げた。
「セーターのサイズ合わせるために、上半身測らせて」
どうやらこの診療所の頼れる『お医者さん』達は、俺達の間を邪魔しないようにそれぞれ寝室と診察室の扉に耳をそばだてていたようだ。治療に関してはやたら対立する夫婦のくせに、こういういらないところだけは似た者同士である。
完全に完璧なるタイミングで、しかも測定用のメジャーまで手にして現れたモリスは、それをリグの手に押し付けるようにして渡し、そして「体調は安定しているから、激しい運動以外は何をしても問題ないね」と意味ありげに笑い、同じタイミングで反対側から現れたエレアナもだらしなく笑いながら「あんまり興奮しちゃ駄目よー?」なんて言って、二人でさっさと外に出て行った。
――まさか、勃ってるのがバレたか? 少し前かがみの姿勢なのがマズかったか? いや、でも……一応怪我人がベッドから初めて立つんだから自然では……ああ、わからん! とにかくわかっていることは、モリスの野郎の顔がムカつくってことだ!
そして今、俺は上裸の状態でリグに採寸されている。
まさしく『夢』という言葉にピッタリの状況だった。
採寸のためにリグの手が肌を滑る。これはまさしく極上の夢心地。そんな幸せ真っ只中の上半身とは反対に、どくりと滾る地獄の責め苦を受けている下半身は、まさに天国と地獄。
だが、本当の地獄はその採寸が右腕に及んでからだった。
先程までは想像の、妄想による欲望だったものが、実際にリグの手に触れられるのだ。
採寸のために掠っただけのその指先が、まるで敏感な部分をそのまま掴まれたかのような強烈な快感を与えてくる。リグがテクニシャンとかそんなふざけた話じゃない! 彼女の手で右腕を触れられるだけでイキそうなのが、とにかく大問題なのだ!
普段の賑やかさなんてないリグの真剣な瞳に、自分の姿が映っている。最後に見た時よりも格段に女の気配を纏った彼女に、俺は確かにプロポーズを受け入れて貰えて……長い睫毛が青の瞳の上で揺れる。輝きを覆うその睫毛にまで色気を感じ取ってしまう。
これはもう、見てられない。なんという夢<悪夢>だ!
「……っ」
快感を少しでも逃がすために目を瞑ったせいで、余計になんだか興奮してしまって変な声が出てしまった。
――これは、刺激が強過ぎるっ!
目を見開くと、リグの瞳がこちらを見上げた。今はベッドに座らされた状態で、彼女は右腕の剣の部分――手首までの長さを確認するために俺の前に屈んでいた。その姿勢はそのままに、空のように澄んだ青の瞳が俺を真っ直ぐに、上目遣いに見るのだから、もうっ!
「大丈夫? どこか痛んだ?」
しかし俺の心の中の理性と欲望の大乱闘は、どうやら彼女には伝わっていないようだ。屈んでいる彼女の視線の先には、先程までピンと伸ばした腕が映っていたのだが、そこからわりかし近い位置にある男の象徴にはどうやら目がいかなかったようだ。セーフ。
だが、彼女の俺を見る目は全然セーフじゃない。その少し不安を宿した潤んだようにも見える青は、今の俺には毒である。猛毒も猛毒、いやこれでは媚薬の類の方が近いだろうか。とにかく、心臓にも下半身にとっても悪い。
「いや、大丈夫だ」
全然、まったくもって大丈夫ではない。だが、俺の鋼の表情筋は、そんな心の声を完全に封じている。
「さあ、一思いにやってくれ」
ぐっと奥歯を噛みしめながら言った俺に、リグは首を傾げながら採寸の作業に戻る。そして、それはつまり、彼女の手が俺の右腕に触れる行為の再開ということであり……
「……くっ!」
「……!?」
なんとも情けない声を発して真っ白になった俺に、驚いたリグの視線が答えを探すように上から下へと移動している様をまざまざと見せつけられて、困惑の色を濃くした声を漏らした。
「……クレイ……? も、もしかして……漏らした?」
ああ、漏らした。
正確には漏らしたのではなく『出た』のだと、その後俺は彼女に――初恋の女性に男性の身体の性的反応についてを説明する破目になった。
信じられない。本当に信じられない。俺の身体の不甲斐なさもさることながら、右腕の感覚の変化も信じられないものだった。
ベッドに座っているだけではわからなかったが、どうやら俺の腕はとにかく敏感になってしまっていた。
痛みや熱に敏感になるのは、一応怪我の患部なのだから理解出来る。だが、その鋭敏な感覚がほとんどダイレクトに性的感覚として股間に直通なのはいただけない。断じて。もちろん股間の感覚もしっかりと機能していた。
その説明を大人しく――というより真剣な表情を浮かべて聞いていたリグは、なんだか強い決意を感じさせる目をして「わかった。もう採寸は済んだから、次に私がその腕に直に触れるのは結婚してからやね」と言って頷いた。
彼女がちょけていたら鈍い俺は気付かなかったかもしれないが、その言葉を言った彼女は真剣に、むしろ優しい笑みすら浮かべて、そして――少し頬を赤らめて話していた。だから気付いた。
これは、初夜の話なのだと。
性感帯並の刺激だと包み隠さず伝えたからこそ、彼女はそれを受け入れて『夫婦の行為』だと考えてくれたらしい。
その事実が無性に嬉しかった。彼女は本当に、心から俺に寄り添ってくれている。それが、嬉しい。幸せなのだ。
そして彼女は、毎日家で編み物に励んだ。俺はその間、自分の身体の療養に集中した。もう起き上がれるのは確かだが、まだ一日動き回れる程体力が回復していなかった。筋肉も少し衰えを感じる。それを回復するために、睡眠をしっかりと取り、『お医者さん』達の指導を仰ぎながらリハビリに励んだ。
気持ちは早くも夫婦二人三脚だった。
リハビリの合間を縫うように、モリスの手によって治癒魔法も毎日行われた。時間も一時間程度の軽いものだが、その間は一切の意識がなくなる。彼曰く体調を落ち着かせるためには必要な工程らしい。
やれることは全てやろうと俺は考えているので、毎日同じ時間に訪れるモリスを休まず迎え、その時間はリグだけでなくエレアナも外出する時間と自然になっていた。
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