第2章「目覚めた場所は、君の隣で」1
目を覚ましたその場所は、思い出のままの診療所のベッドの上だった。
一瞬幼き頃の……あの、手放し難い幸福の頃の記憶と重なり、声より先に涙が出そうになった。だが、ここは確かに俺が出て行った後の故郷で、懐かしい気配の中にも時間の流れを感じさせる。昔から変わらない診療所の設備にも、確実に劣化の色合いが滲んでいた。
窓のカーテンから明るい陽射しが入り込んでいる。だが、俺の心を何よりも強い光で照らしたのは、目の前の美しい女性の姿だった。
「……っ」
驚きのあまり、小さく声が漏れてしまった。息を吞む、という程の衝撃が、今正に俺を襲っている。この美しい女性は、リグだ!
「……」
この村に帰って来るまでは、あんなにも心に誓った言葉が、いざ本人を前にすると口を開くことすら出来ないでいた。俺がそんな自分自身に発狂しそうになっている間にも、愛しいリグは目の前でとてもいじらしい表情を浮かべている。
「クレイ……目、覚めたんやね……っ」
俺からの返答がないせいで、リグはどうやら腕の調子が悪いとでも思ったようだ。本当に俺は、いつになったら学習するんだ。彼女には『思ったことを全て伝える』と、そう固く誓って帰って来ただろうに。さあ、今すぐ言うのだ。俺と結婚してくださいと。
駐屯軍の訓練を受けるようになってから指摘されたことだが、どうやら俺は何かを考えていると完全に無言になるらしい。その空気が皆は怖いとか言ってくるが、目の前のリグはそんなこと思ってもいないはずだ。幼き頃からのこの癖の前でも、彼女は天使のように笑っていたのだから。
そんな心優しいリグは、今だって心配そうにその愛らしい手を伸ばして、俺の腕を……あー、『そっち』なのか……
――っ!?
「あ……リグ、なのか……?」
「う、ん……」
思わず飛び出た声をなんとか俺は誤魔化した。何が『リグ、なのか……?』だ。わかっとるわそんなん。蜂蜜を垂らしたパンケーキのように甘さが漂うセミロングの茶髪に、宝石のように澄んだ青の瞳は大きく丸い。都会である中央ではあまり見かけなかったが、それでこそ価値があると言える純朴な眉。全てが天然であると同時に、至高の配分で飾られた彼女を見間違えるわけがない。
今日も彼女らしいダーク系の色合いのニットワンピースを着込んでいるが、それでも彼女の女性らしい体型を包んだそれには、俺の中の男の部分があまりにも感化されてしまって……
――そうだよな? 腕に触れられて……“コレ”はおかしい。まるで童貞を殺さんとする服装だな、けしからん……いや、違う! ちゃうねん!!
俺の心の中の声は、きっと表情にすら出ていないだろう。きっとリグにはバレていない。教官にもバレないポーカーフェイスの自信があるので、きっとこの醜態は見透かされてはいない。
――なんで、『そっち』を勝手に想像して、しかも勝手に勃つ? 今は感動の再会で、しかも触られたのは腕だ。何がそっちやねん? その『そっち』の腕はまだ治ってもいない、というか治る予定もなさそうな患部だ。決して敏感な部分なんかではない。だって腕だぞ!? 先っちょなんて剣だぞ!?
リグの暖かい手が俺の変異した腕に触れるという愚かな想像をした瞬間、俺の中の“男”が猛り狂い、ズボンの中が一気に戦場と化したのだが、俺も多少なりとも戦闘を経験した兵士である。耐え忍ぶ……そう、防衛戦の訓練だって行ってきたのだ。どんな局面であろうとも、戦場で冷静さを失えば死あるのみである。
「……綺麗になったな。ここは、エレアナ先生の診療所? 俺は、ちゃんと帰って来れたんだな……」
あくまで滲ませる感情は『再会による嬉しさ』を意識しながら、俺は人生最大の防衛戦を自分でも見事と思える程には完璧に隠し通した返答を行った。
「えっ!? えっ!?」
リグの目線が慌てたようにあっちこっちに向くので、膨らみを見せてきた下半身にいつか行き付くのではないかとこちらも気が気ではない。だが、俺の言葉は確かに効いている。その確信も、確かにあった。
状況が状況ではあるが、俺が伝えたい言葉はただ一つ。リグへの求婚の言葉だけだ。だが、いくら俺でもその言葉だけをぽいっと一つ投げ掛ければ済むとは思っていない。
これまでずっと胸に秘め続けてきた彼女への愛情を、ちゃんと言葉にして伝えてやらなければならないのだ。その間に、どうにかこの“状況”も打開したい。
「うん? どうした? リグだろ? 三年ぶり、か? 本当に、綺麗になったな。もう……その……誰かのものにはなったのか?」
自ら心を抉るような質問もしてみる。どうだ俺。萎えるだろう? さすがに人妻になっていたら手も足も、剣も出せないだろ。
「あんたこそ……クレイ、やんな? ほんまのほんまに、クレイやんな?」
あー、質問答えん。人妻ちゃうでこれ……
「ああ。もしかして、幼なじみの顔をもう忘れたってのか? まったくリグは、見た目は綺麗になっても、そうやってたまにうっかりしているところは変わらないな。可愛いよ」
いつまた『妄想の発作』が発動するかもわからないので、俺は現状を打破するために敢えて自分の手をリグの頭にやった。これでやましい想像はしないだろう。今はとにかく俺の思っていることを全て伝える。もちろん下半身の欲望については無しだが。
「っ……そんなん、村にいた時は言ったことないやん。なんなん!? 都の兵士様は……っ……都の麗しい令嬢様の婚約者様は、そんな言葉言い慣れてますってことなん!?」
違う! と反論しようと彼女の瞳を見たのがいけなかった。
「……そんなん、いきなり言われても……私……私……」
その愛らしい瞳に涙を湛えて、リグは一生懸命嗚咽を堪えているようだった。ああ、なんていじらしい良い女なのだろう。どうか、どうかこれからは、俺だけの為に泣いて欲しい。俺も、リグの為だけに感情を動かしていたい。
「リグ……よく聞いてくれ」
細く小さなリグの顎に手を添える。変異していない、ちゃんと人間らしい方の手を添えているというのに、そのあまりの儚さに思わず粉々にしてしまいたくなる。誰にも見えない存在にしてしまって、俺だけが楽しめるように閉じ込めてしまいたい。
「俺だって、言い慣れてないさ。だけど俺は、中央部でたくさんのことを教わった。それは剣術や学問もあるにはあるが、一番勉強になったのは……恋愛についてだった」
「そ、そりゃ……令嬢様との恋愛やもんね」
違う。俺が思っていることは、その女のことじゃない。
「最後まで黙って聞いてくれ。俺は、向こうで『相手と両想いになるには、自分の想いをちゃんと伝えないといけない』と教わった。だから俺は、今度こそちゃんと伝えて、“好きな相手”と結婚したいと思って、帰って来たんだ」
「……それって?」
驚きと期待で真ん丸になったリグの瞳を見る。だが、彼女はまだ信じない。期待に弾む心を隠しきれずにいるくせに、そのくせこの状況を否定出来る材料を必死に探してくるのだ。ああ、なんて可愛いのだろうか。
「ま、待って!? 令嬢さん……婚約者さんは? 中央で結婚したんちゃうの?」
顎に添えられた手が振り払われる。その声のトーンに余裕はない。それは俺だってそうだ。必死に表情の上では余裕を取り繕ってこそいるが、心とズボンの中では戦争真っ只中なのだ。だって、目の前に……夢にまでみた幼なじみが、やっとこの村に帰って来たのだから。
――くそ、なかなかおさまらん……
「アイツとは……もう、終わったよ」
「え?」
想像していたよりも淡々と、その言葉は響いてしまった。違う。これはあの女への未練からのトーンじゃない! 少し、まだ落ち着かなくて……
「リグには隠し事をしないと決めたから言う。俺のこの腕を見て、婚約者から破談を告げられた。『腕が任務で落とされたならともかく、バケモノのように変異している夫なんて、家の品位が下がる』からと真顔で言われたよ。もちろんご両親にもだ」
「そんな……酷い……」
隠し事をしないと言いながらしっかり隠している自分がこの上なく滑稽なのだが、そんな俺の状況なんて知らずにリグは両手で口を覆って絶句してくれてすらいた。その罪悪感から、俺の声も低くなってしまっている。
「……ありがとう。だが、俺にもあの反応は妥当だと思った。だけど、こうも思った。『もし、この腕を見てリグが……俺との結婚を了承してくれるというのなら、俺はどんなことをしてでも幸せにする。世界一大事にして、幸せな嫁にすると誓う』って」
「そ、それって……」
「うん。プロポーズのつもりだ。もちろん、もっとその……ロマンチックにして欲しいって言うなら、ちゃんとやり直す。だが、俺はリグの姿を見てしまった。もう、我慢出来ないんだ」
今が身動きのとれない状態で本当に良かった。跪いて求婚するなど、今の俺には出来そうもない体勢だったから。
「リグ……俺と結婚してくれ」
右腕も下半身も、頭だって熱いなか、俺は生まれて初めての『本気の』プロポーズを、初恋の女性へ行ったのだった。
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